思い出の淡路交通電車
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かつて、淡路島にも電車が走っていた…
洲本と福良間を結び、昭和40年代に消えていった淡路交通の鉄道線について
語って下さい。 幼少の頃、祖父から聞いた話だか、どうやってあんな大きな鉄道をこさえたの?、と聞いたら「エジプトの奴隷が沢山来てなあ」と、教えてもらった。 >>8
素晴らしい充実した内容のサイトですね。
そういえば、廃止後の施設撤去や車輌解体シーンがたくさん載ってるサイトもありますね。
かなりショッキングな画像もありましたが… 此処って 昭和30年代前半までマメに車両改造したりして鉄道事業に意欲的だったのに、
何故その後 急変して昭和41年に廃止になったのですか?
S36の鋼体化が、新造車体から阪神中古車体になったのが、転換期? そうですよね。
垂直カルダン駆動を自社で独自に開発したり、
スマートな車体に更新したりと意欲的だったのに
急に廃止へ舵を切った経緯を知りたいですね。 >>12 2・3年前 淡路交通 だか 廃線跡でネット検索したら、淡路島(旧沿線)に
貨車のダルマが残っていたようなサイト写真見たよ。
勿論こういう情報は、意外とあっさり状況変化で潰される事が多いので現在は、定かでないが・・・
個人的には、南海譲受車で 加太から里帰り後再度 淡路に卵型正面5枚窓電車と共に島流しにされた
電化時導入のモハ1001→クハ101を日本最古の私鉄南海が引き取り(因縁もあったのに・・・)
残さなかったのは、南海の愚策だと思う。
それと、この規模の他線と線路を接しない鉄道にしては贅沢?に所有していたモニ501は、
何故にアレだけ、南海勢とプロパーガソ改電車オンリーの中で国鉄譲受なのか?多いに疑問。
そもそも国鉄配給電車の払い下げ事例自体珍しいが・・・だれか教えて!! >>12
以前2軸客車のダルマさんがあったようだが、
潰されたらしいね。 >>14-15
ご多分に漏れず、道路整備の進展とバスの大型化がリンクした結果でしょうな。
昭和30年代までは国道でも未舗装(砂利道)だったり県・市町村道なんかは
泥道や獣道レベルのも多かったので、走行路管理が容易な鉄道が有利だった。
しかし道路整備が進み、同時にバスの性能向上と大型化が図られたことから、
鉄道事業者は鉄道の設備更新とバス化を天秤にかけ、バス化を選ぶ事も多かった。
それと淡路の場合は、岩屋−福良ルートでの本四連絡コースが成長したことで
洲本までしか通じない鉄道を見限らせる要因になった、という流れだったかと。 淡路交通が電車を見切ったのは、確か縦貫線バスの増強に必死で
鉄道まで手が回らなくなったことが直接的な原因だったような…
大昔は本州−淡路・四国連絡は洲本港経由が主役だったが、
道路整備とバスの高性能化で岩屋ルートが大きく伸びた結果、
鉄道は取り残されていった形になってた。
で、社会も安定してきた昭和40年代には鉄道線の劣化が進み、
近代化への投資が迫られる状況となっていたので、それまでの
小手先での改善では済まなくなり、大きな設備投資を迫られた。
もちろんそんな余裕はなく、中途半端に鉄道を残すよりは
早いウチに見切りを付け、投資余力があるうちにバスを強化して
将来に備えよう、という結論に達した結果だったはずです。 輸送密度4000人台で早々と廃止・・・だったか
鉄ピクの近畿ローカル特集号に書いてあったな
鉄道への投資は二重投資になるし、島の交通ならバスだけでもまかなえると
今でも残ってたら、どんな車両が走ってただろう?
やっぱり、関西大手からの中古かな? 水間と同じく南海本線&高野線昇圧時 南海1201統一 但し潮風の影響で水間より持たない
その後の南海の車両供給が渋いから東急か京王ってところじゃない?
ひょっとして淡路交通は、本土のバス会社買収進出する位企業体力あるから(水間より資金力あるみたい?)から
自社プロパー新車一部導入してるかもね。 まあ、最大限の妄想をしたら、当時地方私鉄で流行ったような
18m車でクロスシート装備の急行車が2両×2編成くらい入って、
他は他社の18mクラスの中古導入だったんじゃないかねぇ。
関西私鉄は車両を使い潰す傾向があったし、特に1,067mm車は
出物が少ないから、関東から何か買ってたかもね。 もし残っていたら、
今走っているのは南海の丸ズーム、角ズームあたりかなあ。
T化されて養老線に入っちゃった志摩電気鉄道の電車なんかも
もし走っていたら似合いそうだね。 >>27 三重交通引継ぎの電車 俺も似合うと思うけど、近鉄が、しゃぶり尽くすだろうから手放さないよな。 >>14-15
越後交通の栃尾線あたりとイメージかぶるとこあるよな。
そう考えると、会社の意欲だけではどうにもならない
「時代の波」だったのではないかと思えなくもない。 昭和30年代は鉄道会社でも鉄道で儲けなくて
バスでウハウハいわしていた時代。
西鉄や名鉄なんかがその代表例
特に名鉄なんかは支線区間をどんどんバス転換していたくらい。
(元々旅客を運ぶためじゃなかったというのもあるが)
だから、バス会社である淡路交通は、バス専業として
運営したほうが効率がよかったんじゃないかな?
バスと鉄道が別会社であったら、今でも鉄道線は
生き残っている可能性がなくともない。と思っている。 >>30
ちょ〜っと時代考証にズレがあるかなぁ…
昭和30〜40年代は、大正から昭和初期の地方鉄道ブームで開業した
各路線において、地上施設・車両とも更新期を迎えていたのな。
それと同時に、バスの車体大型化や道路の改善が進んでいたのな。
で、鉄道線の更新を考えた際に、規格の低い路線では大型バスより
輸送力で劣ることも多々あり、鉄道線を更新するよりバス化した方が
全ての面でサービスアップになる事例も多かったのよ。
西鉄なんかはその最たる例で、軽便上がりの低規格線を廃止して
大型バスに転換することで「サービス改善」を大規模に図ろうとしたのよ。
淡路交通も似たような発想ですな。 初歩的な質問で失礼します。
此処の電車の色って 昭和35当時上半 クリーム 下半 マルーン
らしい(カラー写真を見て無いので)ですが、
廃止時(昭和41年)は、白黒記事でも明らかに下半が別色(明るい色)に
見えるのですが・・・退色ではないと思うのですが。
塗装変更時期とか、どなたか知りませんか? うわぁ〜素晴らしい模型!
鉄コレで出ないかな(笑) >>30
確かに単独経営だったら銚子電鉄のように生き残ったかもしれない。
また、大手不動産会社に買収されて生き残った紀州鉄道のような例も有る。 >>35 でも橋ができるまで、島内の有力(まさか唯一?)の交通事業者だったみたいから暴力団とか、ヤバイ集団に独占されないで善かったよな。
この会社 鉄道所有時代から戦時統合の産物で「交通」を名乗っていたけど、「鉄道」だったら今も社名に「鉄道」「・・・テツバス」みたいに社名わ残していたかもな。
それにしても、あれだけ鉄道運営意欲的でしかも、日本で戦後唯一の島の電車だったのに廃止後 電車を1両も保存する機運がなかったのは、
残念というより不可解だ。 今は裏千家の茶道が本業
ttp://www.tankosha.co.jp/cgi-bin/maglist.cgi >38
上手くボケたつもりかと思うけど、全然オモロないよ。 >>31
同じような事例としては、宮城の仙北鉄道が近いな。
>35
水間鉄道に譲渡された1010・1011以外は解体。
2008は最後まで解体されず宇山駅撤去後も暫く旧構内にポツンと保管していたが結局解体されたと思う。ただ、仲介業者を通じて海外へ渡った噂も聞きましたが確証はありません。 保存車が全くないというのが、本当に残念ですね。
某サイトで、廃止後に車両が次々と解体されてゆく画像を見て悲しくなりました。 >>40 新幹線や新鋭車両ではなく、こういう鉄道車両にこの歳で熱心に興味関心を持つとは、将来楽しみな奴だな。 廃止後、淡路交通鉄道部品セールなんてやったのかな?? 水間に行った2両は、転入当初は淡路交通カラーのまま貝塚〜水間を走ったんだね。 >>42 何故に2008が最後まで・・・残そうとしたのかな・・・垂直カルダン?
1010.1011が売れたから 自社初の鋼改車(オリジナルと云う意味で)1002の方が普通残し気持ちになりそうなんだけど・・・。
神鋼が色気ほのめかしていたの?
個人的は、南海からきた最後の卵 1005あたりが好い気がしたが・・・。 >>38-39
俺は昔、淡路交通とその淡交会・淡交社に関係があるのかと思ってたよ。 昔は牛引っ張った農家の人が、牛引き連れて乗っていたらしいぞ?
牛の乗車賃っていくらなんかな? 路盤が残ってれば復活も不可能じゃないね。
須磨ー淡路ー鳴門の列車 淡路市に遅れること10数年
とうとう旧洲本地区にもeoがやってきました
郊外より順次市街地へeo光、拡大予定
6月より第1区間予約開始中! 今月のRMライブラリー144号、145号は淡路交通?? >56
ガセネタご苦労。
次号は大阪市電になりました。
床下吊り下げのモーターにプロペラシャフトつなげた
直角カルダンもどきの駆動音を聞きたかった。
似たのが栃尾電鉄にもあったとかなかったとか? >>58
乗り越しカルダンとかって一部で呼んでたヤツだっけ。
厳密に言えばカルダンジョイント使わないからカルダン駆動じゃない、
というモノだっけ。まあ後の主流派となったWN駆動もそうだけどw
乗り越しカルダン自体は、他にも事例あったんじゃなかった?
ガソリンカーのエンジンをモーターに載せ替えるだけとかで。
淡路と栃尾と言えば、垂直カルダンですわな。これについては
ナローでカルダン駆動が採用できる、唯一の方法だったんだっけ。
結局は大成しなかったけどね。 乗り越しカルダンは名古屋市電だけで、また別のもの。
車体中央のモーターからシャフトを伸ばし、
両側の台車にある中央寄り1軸を越して外側の軸を駆動するから乗り越しカルダンと呼ばれてた。
淡路のは気動車のエンジン部分がモーターに変わったやつだから、言ってみれば車体装荷式の直角カルダン。
モーターを車体床下に設置して直角方向に車軸を駆動する電車、というのだったら今もある。最近の超低床路面電車の一部。
これとは別の方式で、モーターを縦向きに配置したのが垂直カルダン。
>>59氏のおっしゃるように、マイナーすぎて現存車はない。 実は、土佐電鉄に在籍している、もとシュトゥットガルト市電がこの方式。
走ることはないがなあ・・・。
世界に目を転ずれば、
イタリアの高速特急電車 ETR460、ETR470がこの方式。 クモヤ790もその方式じゃなかったっけ?
床下の大型誘導電動機から推進軸伸ばしてトルコン介して伝達するの。 >>62
ポイントは、そのトルコンを挟むというところを、上記各例と同じと考えるかどうかだろうなあ・・・。 無理に呼称する必要あるのか?
シャフトドライブ→シャフト駆動?
余談だが、垂直カルダン駆動 と クイル駆動 は別モノ?
あと 電気式気動車で 元相模(キハ1000) のちの、日立電鉄ハシゴ電車なんか は機構的には電気式気動車時代から吊りかけ駆動だったの?
>垂直カルダンとクイル駆動
は、別物です。
>電気式気動車
は、戦前製のものはすべてツリカケ駆動です。 垂直カルダン車の走行音や乗り心地はどんな感じだったんだろう…?! >>68 アース刷子交換やアマチュアのバーケンの手間は、どうだったのかな?
客室内フロアに点検蓋があったのかな?
軸部分のグリス潤滑で苦労しそう。 実物が残っていれば、↑氏の疑問もすぐに解決するのに。
やはり、車両保存は大切だよな。
全車両保存しろとは言わないが、垂直カルダン車くらいは残しておくべきだったと思う。
垂直カルダン車の図面くらいは淡路交通に残ってるんだろうな。 鉄道車輌の駆動装置なんていう重要部品を製作していたのだから
事業撤退後も神鋼社内に記録とか残っているんじゃないかと思う。 重要部品というが、現在駆動装置は撤退してしまった分野である上に
30年以上前にユーザーはいなくなってるし、
その後の鉄道車両に大きな影響を与えたとか、志を継ぐような技術が発展したわけでもない。
両社とも、「かつて手掛けました」という以外大した記録が残ってなくても不思議はない。
とはいえ、2008の、せめて台車まわりぐらい保存していてもよかっただろうね。
「淡路島にも鉄道があって、このような試みもなされました。」と誇ってもいいだろう。 やはり、全車解体は暴挙だったな。
廃止当時、社内で車両保存の話は出なかったんだろうか。 古い書類は捨てまくる事を推奨するこのご時世、残ってるとは思えないな。 1005が引き取り手なしで廃車は惜しい気がする。
1010,11も含めて琴電に行ってれば、90年代までは確実に生き残れただろうに、 気動車を電車に改造したり、垂直カルダンを自社開発したり、近代的な車体への載せ替えなど、鉄道の現場サイドは色々と意欲的だったのに突然の廃止決定…
といったところか? >>77
淡路交通って、客が減って廃止になったわけじゃないですからねえ・・・ >>75
その水間も数年で南海1201に総替えだからね >>76 琴電は、その頃(厳密にはその少し前)阪神から小型は沢山買っていたかな〜
仮に引き合いがあっても(1010.1011) は、南海一派で関わりのソコソコありそうな水間を優先していたのではないかな?
もし琴電が引き取っていたら(1010.1011+1002等α)も考えられたよな。 >80
廃止が長尾線昇圧で車輌をかき集めてた時期だったら、琴電入り有り得たかも?
その代わり、東濃の東芝電車があそこまで生きながらえなかっただろうけど。 >>81
というか、東濃車が入らなかっただろう。
昭和43年というと、コトデンは名鉄3700を譲り受ける寸前だね。
阪神に続き、車両統一志向になった頃だね(そしてオイルショックでその計画が破綻するわけだが)。 水間に移籍した2両も結局短命に終わったが、淡路島から大阪への輸送シーンを撮影した写真は残っているのだろうか? >>82 そんな中、玉野市電が行ったのは、車輌そのものが極めて上物でそして至近の対岸だから? 玉野のやつは、対岸のコトデンに移籍して永年活躍し、引退後は再び海を渡って里帰りして保存されたという、非常に幸運な車両だよな。 >>85 でもない。
一両は予備で殆ど走らずで稼働率の低い同車は琴電のお家芸で台車交換されまくり。
最終的には、貴重な運転チャンスに不遇に踏み切り無視進入のダンプに衝突し玉砕! 電化の際 近隣の南海・山陽・琴平参宮 各社の電気技術者を招いて指南を受けたみたいだけど、
複数社だと各社技術者間で見解・基準で揉めなかったのかな?
・・・もっともマダ戦後混乱期だから 何処もベッタリ面倒見切れなかったのでこういいうコトになったのだろうか?
他社の事だが、三岐鉄道は電化で何処かに技術指導をうけたのだろうか・・・
近鉄や三重交通あたりだと当時はマダ競合関係や関わりも薄そうな感じで難しそうなのだが・・・。 三岐の電化は小野田セメントの意向だったらしいから、
どっかそっち系のつてで応援・ご指導を頼んでるかもよ。
あくまで「…って事もあるかも」程度の想像だけど。
妄想ついでだけど、南海と山陽は、ともに私鉄63型が投入されたんだよな。
その辺で「共通言語」的なものはあったかも知れない。
三岐は小野田と繋がりが深かった東洋電機が主導的役割を果たしていたかと。
地方私鉄の電化で、電機メーカが丸抱えというパターンは結構あった。
東濃駄知の東芝製電車も電化工事を東芝が一括受注した結果だったかと。 当時は地方都市近郊に私鉄敷設ブームが起こってたから(ほとんど実現してないが)、
それを当て込んで電機メーカーが「電気鉄道まるごとセット」みたなパッケージ商売で
色々と売り込んでたみたいね。弘前電鉄(現弘南大鰐線)は三菱のデモ路線ですな。 昔、鉄道ジャーナルに連載の「車輌と共に・・・大井工場OB・・・」で日立電鉄から 元院電のモハ1を
引き取り復元した際のエピソードで 復元部品調達に淡路交通も調査対象に挙げられたみたいだけど
もしかして 当線のモ二501についていた螺旋連結器が役立ったの?(淡路はガラパゴスのため貨物は最後まで螺旋連結器使用) 車両を1両も保存せず、全部叩き潰したのは暴挙だな。 >>93 当時国鉄が、淡路交通がマダ持っているか(持っていたとしても該当車両の復元に使えるか?)あたったのだあって
淡路の電車の連結器が使われたのは?真相は定かではない。
1966年昭和41年廃止ですか。
それから9年後に淡路島に行った時駅の跡がありました 南海の木造車(特にクハ104)に是非乗ってみたかった。
想い続けていた当時(昭和50年代半ば)でも なんと福井には卵形の残骸が待合室に残っていたのだな。
模型造りに明け暮れ地方巡業を怠ったツケだな。
輸送密度5000人ぐらいの時に廃止されたんだっけ
今そのぐらいのレベルの路線ってどこだ? 自動閉塞の導入、車体更新、垂直カルダンの開発など、意欲的な面も見せ、利用者も決して少なくない…
そんな中での、突然の廃止決定だったんだな。
本当に残念だ。
もし今でも存続してたら、南海から来た角ズームあたりが走ってたんだろうな。 戦後仕方なくの電化で設備の老朽化も進んでいたのでしょう >>99
輸送密度5000人ぐらいで廃止かあ・・・
本当の理由を知りたいものだ。
線路跡がずっと放置されて残っていたが
明石海峡大橋開通前後の整備で綺麗に消えたので
廃止して買い上げてもらう想定の廃線だったのかと思わなくもない
公的にそういう事実は確認できないんだが 設備・線路が老朽化しており、これ以上投資して更新するより、維持費がかからないバス路線に転換したほうが有利と考えたのも理由の一つらしい。
あと、廃止前年に広田〜長田間で発生した土砂崩れでバス代行している間に乗客がバスに馴染んでしまって、再開後も電車に乗客が戻って来なかったのも一因みたいです。 昭和41年じゃ、時代遅れの鉄道は全部なくして車に切り替えていこうって時代だしなあ
路面電車と森林鉄道拓殖軌道を殲滅した思想だが、通常の地方鉄道にも無縁じゃない 乗客数などがある程度いた、あるいは上向きなのに廃止したところは
だいたい、設備更新費用への投資で諦めたところが多い。
名鉄の起線とか仙北鉄道とか。 この頃だと江ノ電ですらバス転換が検討された位だからな。
大量高速輸送機関非ずは鉄道に非ずという風潮だった。 今でも残っている痕跡は広田付近と掃守の橋台ぐらいかな? >>108
当時廃止になったところって最高速度40〜60kmとか、木造車が残っていたりとか、ぶっちゃけバス並みなインフラだったところが多い。
で、貨物がトラックに持っていかれたり、バスが頻発運転しだすとそっちのほうがいいと廃止。
まあ元々の並行道路が砂利道1車線とか山奥で獣道だけとかだったから鉄道が作られたケースも多かったのだが。 じゃあ北勢線とか内部線なんか近鉄じゃなかったら(ry >>113
逆に淡路交通が南海や阪神になっていたら鉄道線を残した気もする。
ズームカーやジェットカーの老人ホームになっていただろうけど。 >>111
十数年前までは路盤残った線路跡辿れる状態だったのに
明石海峡大橋絡みの整備で本当徹底的に破壊されたな… 廃線跡もほとんど消え、保存車もない…
どんどん忘れ去られてゆくな。 >>99 >>105
当時輸送密度5000人もあったのは大阪−深日港−洲本−福良−鳴門という需要があったから。
>>118
鉄道を外したから5000億で済んだが
鉄道対応にすると1兆かかった 戦時統合で淡路交通になったんだけれど、兵庫県内の交通一元化目的で、阪神、阪急、
山陽のどれかと一緒になったり、深日港経由の関係で南海と戦時統合されていたり、
戦後に南海とか阪神とかが本気で淡路島をリゾート開発する気だったら、違った歴史に
なっていただろうな。 >>120
もし阪急・阪神・山陽のどれかと一緒になってたら、神戸高速鉄道開通後は
阪急・阪神の一部の列車が「淡路島連絡」のサボを付けて明石まで直通してたかもしれない。 忘れがちだが明石海峡大橋開通前の阪神淡路連絡船は西宮や垂水からも出ていた よく淡路交通を「珍しい島の鉄道」と書いている文を見るがが本州や四国も島だし、鉄道発祥の地イギリスの鉄道も島の鉄道。
ありふれたものということを忘れていないか? 本州も四国九州北海道も、通常の行政で島として扱ってないだろうが。
頓知のつもりか。屁理屈をこね回しても面白くない。
グリーンランドを基準として、それより小さい陸は全て島
中学校の地理で習わなかったか
常識だぞ? >>120、>>121
神鉄は合併の妄想対象外なのか。神鉄が可哀想過ぎる。
せっかく妄想するなら、徳島の阿波鉄道と一緒に国有化された妄想をしたいな。戦後の昭和30年代ぐらいに、関門トンネルの経験を生かして、青函トンネルの練習として鳴門海峡トンネルと明石海峡トンネルが単線で掘られていたかもね。 国有化されていたら岩屋〜洲本と福良〜鳴門が開業していたのだろうか。 >>129 買収形気動車が増えて戦後それらが、土佐・有田・紀州あたりに流れている。
南海と阪神の卵の再就職先が減る。
電化されてクモハ42や51→113系(N40)→125系あたりの流れになっていただろう。
鳴門大橋通って徳島乗り入れしていたら165系→183系で急行・特急も走っていたか。 >>131 非電化で買収 紀勢本線だって電化はずっとあとなんだし暫く放置じゃね?
戦後買収なら車両、施設引継ぎなしの立退き土地収用
汐見橋駅の鳥瞰路線図もこの鉄道の存在を当時のまま記録した立派な痕跡だな。 ↑
ところが汐見橋駅のあの路線図、最近は劣化が進んで破れてる部分もあるよね。
淡路交通電車線や、今とは異なる和歌山駅付近の鉄道路線、野上電鉄などが描かれている大変貴重な逸品だと思うので、是非修復して頂きたいものだ。 すれ地承知の書き込みだけど、汐見橋駅の余ったスペースに
貴志川線に居た1201を持ってきて欲しかったなあ。
淡路でモハ1001(後に電装を外してクハ101)になった南海電化時の車は、
廃車後浜寺公園駅に置くとか・・・(まあ廃車当時の昭和36年は未だ 南海にも木造の卵電車が虫の息で残っていたから そんな機運生まれるはずもないのだが・・・) 昭和35年放映の日活映画[くたばれ愚連隊]は、当時淡路島でロケをおこなっており
その中で 淡路交通の電車の走行シーンが、カラーで大々的にでてくるぞ!
走る電車を線路沿いの道で追いかけたり、登場人物が踏切に立ちはだかり電車を停めたり・・・
(淡路交通が撮影協力したのは間違いないな・・・)
CS放送チャンネルネコにリクエストして是非観てみよう! >>105
設備老朽化により、代替による設備投資を迫られた結果、同じ運営のバス効率の方が良いと、
投資余力があるうちに鉄道線に見切りを付け、バスを強化で将来に備える結論だったはず。
バス専業として運営したほうが効率が良いと言う結論。 >>136
で、それについての会社側の評価と利用者側の評価はどうだったんでしょうか。
鉄道を残すべきだったと言う声は無かったのか、バス専業にして良かった、と言う評価だったのか 利用者側は電車だろうが、バスだろうが、路線が残ってれば騒がないだろ。
ただし、それらの利用者も20年後の予測は誰も出来ないだろうけど。
20年後に道路網の発達と自動車の激増で慢性的な交通渋滞に陥り、
バスの定時運行が出来ないなんて、淡路島では無いだろうけど。 >>138
さすがに20年後の予測はできないだろ。 >>89
ゆえに、よくも悪くも?
近鉄に取り込まれなかった部分があるな。 >>140
島で車輪のついた乗り物は電車以外には
馬車と自転車だけだったみたいだからなww 13日に地震が起きた時に、フジテレビが役場の職員に
電車動いてますか?と聞いたらしい >145
「40年以上走ってませんが何か?」と答えたら、アナウンサーはどう答えただろう? >>138 鉄道とバスでは、一般的に定期の割引率が大幅に違うでしょ?
(昭和36年廃止の尾道鉄道も廃止にあたりこの辺がネックになった。)
単純にインフラ更新(古い電車から最新型バスに変更)し日中高頻度運転に改めたとしても
それだけで沿線住民は納得したのだろうか?
鉄道代換え区間の定期の割引率は暫く特例で据え置くとか、何がしか便宜があつたのでは? 岩屋方面に路線を伸ばさなかった理由が知りたい。
どう考えてもソッチのほうが客が増えそうな気がするのだが。 >>145
それが、ウジテレビクオリティwwwwwwww 役場の職員は「汽車なら動いてますよ」と答えたらしい いやそれ見てたけど「淡路島には電車はありませんので」と返答していたぞ。
空撮で神戸の三宮あたり映してて、インタビューの相手は島の人だった、と。 >>147
長野県人だが、高校の同級生の定期券いろんな奴に見せてもらったが
長野電鉄や上田交通の鉄道通学定期は精々5割引位だったよ。
バスは4割引だったから特に「電車が割安」には感じなかった。
国鉄の鉄道定期だけ異常に安かったw
高校生で8割引位? 開業当時は島にまだ電気がなくて、
60人程の人夫が自転車式の発電機を漕いでいた。
「電車のノッチが上がるとペダル重くなってのう、特にシリーズ最終段は地獄だった」A氏の体験談である。 >>153 淡路鉄道(後の淡路交通)は、非電化蒸機で開業したのっ!
で戦後の燃料難で電化したのっ!
頼むから 無知な馬鹿はココに来ないで路車板で吠えてくれっ! >>156
戦後すぐなら意外に発電所の人夫集めも順調だったかもね?
「発電技士求む三食賄付屋内作業のみ」 今ならさしずめ「スポーツクラブ発電屋」ってとこだろ
会費はいらないがノルマのある特待生ってやつ フィットネスクラブ「パワーハウス・アイランドAwaji」
一般会員\8,000.-(月額支給上限)ww >>163
えっ?、住み込みタコ部屋のフィットネスですぜ旦那。
片道の旅費は持ちますが交通費は発生しませんぜww >>162
食費 \-3000
発電機使用量 \-4500
支給額 \500 円記号がバックスラッシュになってるな、どういう環境だろ。 自分には円記号で見えているので、あなたのPC環境の問題でしょう。 165=167だけど、
逆スラッシュが認められていないので円記号で代用しているようです
ちゃんと逆スラッシュで出る環境は高級だと思います
ちなみにうちはwin7です
\←これは円記号で出てるはず >>165
タコ部屋システムをよくご存じで・・ww 車両は回生制御回路を組み込んだ当時としては非常に高級な制御を行っていた。
「回生が掛るとな、60人全員でブレーキレバー握るんよ。今考えるともったいない動力だったな」B氏の懐述である。 垂直カルダンのモーターの電機子はモーターの一番下についていたとの情報が? 軸が上にあってギヤ付いてたんだから、そりゃ当然下側になるわな。 ついついマブチモーターを分解したときの淡い記憶が綯い交ぜになってたorz 残念ながら車両は1両も残ってないけど、
駅名看板とか、電車についてた洲本福良の円板なんかはどこかに保管してあるんだろうか? バスターミナルとして残っていた洲本駅跡は、一度訪ねておきたかった凄い後悔 >>181
旧バスターミナルの壁を歩道から見れば鉄道当時のホーム跡と思われるコンクリートが残ってる。 小資料館的な、多くなくても展示物のある施設って全くないんだっけ?
専門に集めてる人はいてそうだけど。個人博物館的になってしまうのかな 神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em 父親が福良出身で里帰りの時に乳児だった俺も乗ったらしいのだが、流石に記憶に無い。
せめて小学生位まで残ってればここにもっと書き込めたのに。 垂直カルダン車乗ってみたかったなあ〜
モーターのコンミ面の研磨とかどうやっていたのかね?
まさか車両床下に潜って?
それとも、その度にモーターを台車から取り外し?
垂直だと軸受けの給油とか(油やグリスが落ちてしまう)どうなっていたのだろうか? >>185
宝庫というほどたくさんあったか?
掃守と自凝島くらいしかないと思うが 洲本BTはまだ鉄道駅の雰囲気を残してたが、ローカルバス路線が衰退、
再開発されて高速バスBTができてだいぶんかわってしまった。
福良BTは前まで鉄道時代の駅舎が残ってたがなくなった。
鉄道とは関係ないが、途中の主要「バス駅」も味のある建物が
残ってたがこれもなくなったようだ。 「おのころ」は日本の神話好きの人なら読めるんじゃないか?
関西の神話
「土地がくぼんで琵琶湖ができたが、そのぶん盛り上がったのが淡路島」 「こんなんでましたけど!」の占い師が
ONOKOROのコマーシャルに出てたなw 当方30代前半だけど、
もう25年以上前に中山峠あたりに電車のレストランあったけど、
あれは淡路交通の廃車を転用してたのかな? 垂直カルダンやガソリン車の駆動流用の電車ってどんな音で走ったんだろう? 旧洲本バスターミナルのそばにあるガソリンスタンドの名前には
今でも「洲本駅前店」って入ってるんだよ 大学の鉄研の先輩が廃線跡踏破やってたっけな
で、当時に通勤で淡路交通線を使ってた人の話を聞けたらしい
その人曰く、全然印象にないってw
そりゃそうだ。
電車に興味ない人にとってはツリカケ車であろうがカルダン車であろうが
ただの電車に過ぎないわけで走行音なんて凡そ気にならない 【兵庫】「淡路鉄道」の歴史振り返る 廃線から半世紀、洲本市で写真展 [転載禁止](c)2ch.net
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1966年9月まで洲本―福良間の23・4キロを走った「淡路鉄道」の歴史をふり返る写真展「廃線から半世紀 懐かしの淡路鉄道展」が、
5日から洲本市本町の「ぎゃらりー&かふぇ ほっと」で始まる。
同市立淡路文化史料館など所蔵の写真約40点を展示し、列車の鉄輪が線路をたたく音が響いた時代をしのぶ。
10月18日まで。開店は土日のみ。
淡路鉄道は1922年(大正11年)に開業し、最初は蒸気機関車を走らせていた。
3年後に全線が開通し、戦前にはガソリンで走る車両を使い始めたが、戦中の燃料不足のため木炭ガスで走らせた。
戦後すぐ電化工事に着手し、大阪の南海電鉄や阪神電鉄から電車を買い、営業を続けた。
40年あまり島内の貴重な移動手段として親しまれたが、道路整備と自家用車の普及が進んだことから、
66年9月30日の運転を最後に、廃線を余儀なくされた。
廃線跡は自動車道路になり、淡路島に列車が走っていたことを知る若い世代は少ないという。
写真展を主催する、洲本市教育委員会の金田匡史さんは「鉄道があった時代を知る世代は、
今でも、かつて線路が敷かれた道路を『電車道』と呼ぶ。若い人も淡路島の鉄道史を知ってほしい」と話す。
大正から昭和にかけて島内を走っていた淡路鉄道の歴史を振り返る写真展=洲本市本町
http://www.sankei.com/images/news/150906/rgn1509060019-p1.jpg
淡路鉄道が所有していた車両
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150904/20150904-OYTNI50055-L.jpg
鉄橋を渡る電車(いずれも洲本市立淡路文化史料館提供)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20150904/20150904-OYTNI50056-L.jpg
産経ニュース 2015.9.6 07:07
http://www.sankei.com/region/news/150906/rgn1509060019-n1.html
読売新聞 2015年09月05日
http://www.yomiuri.co.jp/local/hyogo/news/20150904-OYTNT50255.html 仮に昭和41年に廃止されなくても存続は無理だったかな
恐らく阪神大震災がトドメになる… 妄想ついでに紀淡海峡線が開通していればそれに接続して活況を呈していたかもw 南海汐見橋駅の路線図が撤去、廃棄され、淡路交通電車の面影がまた消えた。 鉄ピクに載ってた人員削減の話が凄かった。辞めた社員さん、どこに就職したのだろう? >>203
野上鉄道とかに就職したらしい。
幸い、淡路交通と同型の車両が走ってたから。 「これが淡路かニースじゃないか」
なぜ淡路でなく野上の広告だったのだ? >>207
明石海峡大橋が昔からあったと思ってるんでしょ
和歌山から淡路島に渡るなんて発想がない >>209
ないからこそ>>206みたいな頓珍漢なレスをするんでしょうに >>206
淡路島にあるホテルの広告。
単に野上の車体広告に出したというだけだし、
車体でなければ広告出したのは野上だけじゃないぞ?
「これが淡路か〜」というのはキャッチコピーなわけで
ニースみたいにいいところだから
ぜひ遊びに(泊まりに)いらっしゃい、
という思いが込められてる。
常人だったら分かりそうなもんだが。
アスペルガーかな? 「これが淡路かニースじゃないか」をググる
→野上の車体広告が圧倒的に多し(あとバス停の広告かな)
これじゃ「なんで野上?」になっちゃう
アスベは言い過ぎ 言い過ぎとか以前に、なんでそれを淡路交通電車線のスレに書くかっちゅーことよ 淡路交通とアイランドホテルまる和(当時)は
資本も何もまったく無関係どうしの企業だし。 >>214
ネットだけ頼る世代の子ってそうなんだ… 今度淡路島に行くとき廃線跡とか見たいんだけど駅舎とか線路はもう全く残ってない感じ? 今月号のRJ誌にこの鉄道の記事が載ってて、史料の展示会が最近行われたとのことだけど、
淡路交通は関わってなさそうなのがなんか悲しいな。
会社に取材もしなかったし、淡路交通にとっては鉄道は黒歴史なのかな? >>219
スレの上のほうに載ってる
>>220
半世紀も前に配線にした路線に関する展示会に元の経営会社が関わる必要性なんてないでしょ
黒歴史って使いたいだけなん? 三河島事故、鶴見事故の関係者を今更、追い詰めるくらいの愚かな発想だよなw >>220 昭和41年って(廃止の年)今から50年前だよ。・・・
当時20才(恐らく若手だから記憶や知識も薄い)で働いていたヒトでも70歳・・・解るだろ!
>>203 本当に野上に転職したヒトなんて居るのか?
島の中のヒトが島外に職を求めるとか?あまり無い様な気がする。
まして淡路は会社としては、淡路は地方交通事業者では経営が良い方だし・・・
鉄道に拘りワザワザ島外で待遇もわるくなる野上に行く理由がなさそう。
阪神から来た600がガワが同じでもモーターや機器は入れ替り廃車になった南海から来たタマゴの流用だし
精々水間や南海に会社が斡旋とかじゃないの? >>220
廃止になったのが50年前だからねあれだ白黒アニメの宇宙少年ソランであるとか白黒アニメのオバケのQ太郎の頃なので何をいまさら言うかわからんでしょうw もし車両残して展示するならどこがいいかな。
洲本のイオンの隣の公園とか本町商店街とかかな 廃止時 再起した車輌自体は水間が買った2両だけだけど、
何気に上田丸子(上田)が車輌部品を沢山買い込んだみたいだけど、具体的にナニを買ったのかな?
上田のコトだから 昇圧時の青蛙大量投入まで 沢山活用、温存していた様な・・・ 今も走ってたら100%運転区間延長してたよね。
明石海峡大橋開通の時に1兆円掛かっても、時間がかかっても鉄道対応にしたんじゃないかな。
明石起点で鳴門終点の普通列車が走って明淡線とかそんな名前になってそう。
ただ明石海峡大橋は鉄道対応じゃないし鳴門大橋も今から鉄道対応にする気も無さそうだし
淡路島に鉄道が走ることはもう無いだろうな。
淡路市から南淡までの路面電車とかならあり得るけど。 >>203
ちなみに仙台市電の場合
廃止後、電車部の現業職員は行政職へ職種換、本庁勤務となった。
(非現業はもともと行政職だったので通常の人事異動で対応)
これ豆。 >>199
被害受けたのは淡路島でも北淡の方だけだから洲本から福良は被害受けないんだよなぁ… しかし新塗装になったときには、鉄道経営には、既にウワノ空。 鉄道部門が左前になり始めてたのに車両に対する投資はせっせと続けていたのね この線が今も続いていたらどうなっていたか、か…
まあ妄想の一つ二つして見たくなるのかもしれんね
南海系なら角ズームのお下がりを貰ってエース格にするのだろうか いっそのこと紀淡海峡線・鳴門海峡線とドッキングして福良から鉄道で鳴門および深日港へ >>236
投資と呼べるほどはつぎ込んでないでしょう 関西圏内だから中古車両の調達にあっては
他のローカル社よりも幾分有利かも ここが廃線になって水間が中古車を買いに来た
時期的に南海に出物がなかったかららしい
でも長く使わずに5年ほどで廃車解体
淡路スタイルの電車は消滅してしまった ガタイの割に重たかった
中小私鉄にとって重たい車両は一番の嫌われ者
じゃあなんで買ったのかという話しなんだが笑 この場をお借りして…
珍車モニ500、覚えている人いますか?
鋼体化以後の画像は比較的よく見かけるのですが、鋼体化以前の姿を何かの書籍で見たのですが、何だったか失念したので… >>249
鉄道ピクトリアル
私鉄車両めぐりに掲載されてました。 このスレができてから10年近くになるのに、いまだに、愛知県の明治村のSLで使われている淡路交通から贈られた螺旋連結器の美談の話がないね。
螺旋連結器の話も>>93あたりで少しだけしか出てないし、もっと語り継がれてもいい話だと思うけれどね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています