だいこん・ダルマストーブ「三菱大夕張鉄道」
石炭産業の衰退による経営合理化の一環として、
昭和62年7月21日に廃止された、
三菱大夕張鉄道を語るスレです。
>>65
廃止の1年前の話。しかもその時は廃止になることは決まってなかった。
乗車した列車は貸切状態だったよ。 >>60
模型の話でスマンが、1969年の青梅鉄道公園のジオラマに1/80のダイコンがいた記憶がある。
因みに屋外には食堂車(スシ38)が営業中であった。
私が大夕張に訪れた1972年、清水沢駅前でタブー(ちょっとだけよの曲)が商店街のBGMにかかっていた。
当時鹿島は斜陽化していたが、南部は活気があった頃… C56タイプテンダの96。4は歴史村SL館、3は個人所有。どちらも見学出来ないなんて 関係ないけど、R452上大夕張地区ってGoogleストリートビュー圏内なのね ttp://www.47news.jp/blog/OUT_NAME/%E5%B1%B1%E5%BD%B1%E9%9D%99%E5%AD%90-%E5%B1%B1%E5%BD%B1%E9%9D%99%E5%AD%90.html
先月22日の話か
話は違うけど、高橋商店とか岳たかはしとか、
ひょっとして大夕張にあった高橋電器店ゆかりの方々ですか?
張張のご主人が池田屋食堂の2代目で、岳たかはしが甥っ子ですしね。 驚いた。保存会のDVDを買いに行ったが、マッチ箱の客車に乗り女学校に
通った話など、色々とお話を聞いた。回復されたのだろうか〜 >>76
沈みます。ダムの高さの差がこれだけあります。
大夕張ダム堤高 : 67.5m
シューパロダム堤高:110.6m
また、Googleストリートビューで、座標が若干北にズレてますが、
43.064772,142.103391
これのやや南側が旭沢なのですが、
現道路橋上から旭沢橋梁と新道の橋(栄橋?)との高低差がわかります。 >>77
ありがとうございます。過去の写真に結構登場する鉄道名所だけに残念です S61年3月に行きました。
客は我々一行だけだった気がします。
片道は路線バスに乗らないといけないダイヤでしたね。
バスの中でつっぱり風の地元の高校生に話しかけられて
どきどきした記憶が。
わたしも最後に行ったのが86/03ですから、79さんと同じ時期です。
朝一往復、午後から夕方に二往復、計三往復でした。
三軸ボギー客車、達磨ストーブで本当に地元の人がスルメを焼いていた(信じられなかったです)。
今思うと、夢のようでした。
旧鹿島小にある各種記念碑は移設するともしないとも言われているけど、さてどっちでしょ >>80
昭和47年11月の改正から混合朝1往復+夕2往復+貨物というダイヤは基本的に
変化は無かったと思う。
>>81
鹿島地区は基本的に廃線跡から山側は水没しないので、そのままでは。
昔、行った時、
夕鉄バスと、美鉄バスがすれ違う時、手で、挨拶してたな。 遠幌をなぜか読めずにずっと「とおほろ」って覚えていたっけなあ。 ○→ちとせちょう
×→せんねんちょう、ちとせまち
ってのもありがちっすね ○→ちとせまち
×→ちとせちょう せんねんちょう
が正解
↓
http://www.asahi-net.or.jp/~bx5m-iid/oyubari/titosenite.JPG >>86
おー・・・Googleとかの住所検索だと「ちとせちょう」なんですよね。
じゃどっちも合ってますね。 駅名は、あくまでも「ちとせまち」
ちなみに「沼ノ沢」「鹿ノ谷」が正解で「沼の沢」「鹿の谷」は誤り。 ○明石町駅→(あかしちょうえき)
×明石町駅→(あかしまちえき)
最近では上下2冊や56ページなど、従来より項数が増えているが、
RMの「三菱鉱業大夕張鉄道」、もう少し図版や客車・貨車の写真が欲しかった。 ↑ 北海道は「夕張」や「美唄」などの他にも、簡易軌道や森林鉄道等題材は豊富。
書き手が居ないのか〜? 鹿島小の所が半封鎖状態とか言ってるのは気になりますねぇ 5のテンダは9600オリジナルではなく、9600の原型となった9500/9580タイプ
のもの 1987年の廃線から既に23年ですか〜。夕張は破綻、南部・鹿島にも往時の繁栄
を偲ばせるものは少なくなりましたね。 うそつきは泥棒の始まり−。昔、小学校の先生から言われた言葉を思い出した裁判だった。
19日に開かれた民主党の小林千代美衆院議員陣営への北海道教職員組合
(北教組(ほつきようそ))違法献金事件の初公判。教職員の政治活動とカネをめぐる疑惑を
解明する場として期待されたが、明らかになったのは、子供たちに「うそはいけない」
と教えるべき教師像からはほど遠い“聖職者集団”の実態だった。
↑北教組は必要なんか?ただの先生が先生といわれるための最後の砦?
そういえば大夕張は私鉄総連でなく、炭労加盟だったな。 本日の読売夕刊11面、梯久美子の廃線紀行、
夕張岳線ですな。 >>106
渡らないまでも氷結湖面を横断し、各橋を念入りに下から観察した人もいる 高さの恐怖感は旭沢の方が強いな。道路が無いときは歩み板の上を住民が
歩いたのだろうが、凍結した冬はさらに怖い。 「蒸気機関車」誌でのけむりかキセルかの撮影記だったかに厳冬のどこかの橋のたもとにあった保線小屋で
過ごしたのがあったよね。大夕張ではなく芦別かどっかだったようだけど。
橋を渡るあたりに記述はちょっとぞくぞくした。 写真で見ると、昔の竜田沢とか五十鈴沢とか高そう。
昔の沢や函渕があった頃を考えると、つくづく大夕張ってとんでもない所にあったんだなって思う。
ttp://www2f.biglobe.ne.jp/~mst_iida/yamasi01.htm >>109
三菱上芦別ですね。この鉄橋もダム湖の上に架かってました。
廃線後の爆破の様子が道新の写真データベースにあります。
http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0090260602
>>110
大夕張の客車は貫通路に幌が無く、鉄橋通過の時は本当に怖かった。 客車の扉も開閉自由だった。鉄橋通過時に手すりにぶら下がり、度胸試し
をしたとか〜 今年は夕張応援号は無しか〜
汽車フェスタは9月26日との事。 >>106
一昨年、ダム建設の関係者が対岸から渡ってくる人を目撃した
恐怖感では旭沢の方が大きいと思う。 〜住民、1000億円争奪戦〜
炭鉱夫はもともと危険な職業であるため給料が高かった。
一般市民の2倍から3倍だったとされる。そして、彼らは明日死ぬかもしれないという意識もあって、「宵越しの金は持たない」という傾向が強かった。つまり貯金など全くしない浪費家ぞろいだった。
その後、技術革新などにより危険度が減少しても炭鉱労働組合は給料の減額を受け入れなかった。
そして気がつけば日本の石炭は世界一高くなっていた。
夕張の末期のころ、夕張炭の値段はオーストリア炭の10倍ほどになっていたと記憶している。この高値の原点は条件の悪い坑道などもあるが大半は人件費である。
国は国策として、この高い石炭を電力会社(北海道電力)や各地の製鉄会社に買い取らせていた。
しかし、こんなことは続かない。
国と製鉄会社は夕張炭の買い取り量を次第に減らすことで合意した。
当然、炭鉱会社の経営は苦しくなった。
炭鉱の労働組合はこれを認めなかった。彼らは当時の社会党の国会議員と共に、国策として高い夕張の石炭を企業に買い取らせるべきだと運動した。高い石炭を使用したら製品である鉄も高くなって
しまい国際競争に勝てないと指摘されると、高い値段の鉄を国策として自動車会社などに引き受けさせるべきだと主張した。
資本主義、国際競争、その他を全く考慮していない共産主義者の主張である。
ちなみに先日も北海道新聞で、夕張の破綻に付いて、当時の社会党系の活動家の人が、国策として石炭の買取を続けていれば夕張の破綻はなかったと主張していた。未だに判っていないようである。
当時の政府は幸いにも自民党であり、こんな馬鹿な主張は通らなかった。夕張の石炭を高値で買い続けるのは、炭鉱夫に浪費させるためでしかなかったのだから。
そして、炭鉱会社は破産した。
この時、よくある話になった。破産した会社は従業員に退職金を払えなかったのだ。
ここで、労働組合と社会党がまたとんでもない主張をした。
破産した炭鉱会社の炭鉱労働者の退職金を国が払うべきだというものであった。
また、無茶苦茶な話であるが、なんとこれが通ってしまったのである。
当時の炭鉱労働組合は社会党系でも最有力の組合であり、国会議員も抱えていた。
恐ろしい話であるが、夕張市は破産した炭鉱会社が所有していた社員住宅や病院を、資金を退職金に当てるという約束で高値で買い取ったのである。
実はこれが、夕張市の破綻の第1歩であった。
老朽化した施設を高値で買い取りそれの維持コストまで支払うことになったのである。
夕張市はその後も「国の金」に頼って市の維持を図った。
実を言うと夕張地区の賃金は高い。
現在はそうでもないが、昔はすごかった。
これは、高額な炭鉱労働者に引きずられたためである。
従って、市職員の給与も高額だった。炭鉱が無くなって、市の財政が悪化しても、市職員の給料は下がらなかった。
もっと問題だったのは炭鉱夫の再就職である。
彼らは高額の賃金に慣れていた。更に炭鉱夫としての知識と技能しかなかった。
閉山後、札幌や苫小牧に移住したもと炭鉱マンが再就職斡旋で提示された給料を見ると3分の一から5分の一になったそうである。
夕張市は、市自ら無理な観光事業を展開し、元炭鉱マンが納得するような給料を出していたという。
破綻したのは当然の結果である。
夕張に住む親戚から聞いているが、
夕張の山と市は炭鉱労働組合に食い尽くされたというのが事実である。
>>116
解説ありがとう
そういう経緯があったのですか
今の社会にも当てはまりそうですね 食い尽くしたのは北炭だろ。三菱にはそんな事は無かった 北炭は何事に対してもだらしなかった。
その点、三菱は経済合理性に徹し、鉄道も古いものを使い切った。
夏になると、大夕張鉄道で行われたドリフのコントの撮影を思い出す ♪やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、
やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、やんやんやんやん
>>123
ドリフに加え、クレージーキャッツも出ていた。 保存会で出しているDVDは大夕張のほか、夕鉄などの映像も入っており貴重ですね。 旭沢橋梁、見てきたよ。
すっごい存在感で大迫力だった。 おたずねいたしますが、オハ1とオハ2は。
ほぼ、同じものでよろしいでしょうか?
ご教示いただけると、幸です。 昭和27年2月、国鉄よりオハフ8857の払下を受け、北海陸運工業に於て車体を新製、オハ1として昭和28年3月入線使用。
昭和29年2月、国鉄よりホハ2401の払下を受け、オハ1と同様北海陸運工業に於て車体を新製、オハ2として同年8月入線、使用を開始せり。
オハ1 製造年 明治39年3月 鉄道作業局新橋工場製
オハ2 製造年 明治37年 天野工場製
形式 オハ1 半銅製2軸ボギ−客車
自重 28.1屯
定員 104名
最大寸法 長サ 20.248mm
高サ 3.886
巾 2.700
種車は別ですが、車体についてはほぼ新製。同形と考えても良いと思います。 >>133
133様、どうも、ありがとうございます。
なるほど、ほど同形でしたか、参考になりました。 オハ1と2では車体は同じでも床下の向きが逆みたい。 ナハ1〜5は3.4は同形だけど、他は全く別物だね。 なんでスハニは1ではなく、いきなり6なのでしょう。 ニセコやトマムなど、今ではカタカナの駅名も少なくないがシューパロ湖駅の
開業時は、周巴露湖などの漢字を当てはめるなど、悩んだという。 >>137
形式を超越した続番?昔の丸の内線とかを思い出すなあ。 >>137
同系の美唄鉄道からの転入だが、美唄の付番がナハ、スハニ、オハと形式を
超越した連番だった。 >>140
大夕張のナハも3・4は同形だが、他は単なる連番だった。 26日の汽車フェスタにライブスチームが走るらしい。 >>122
谷啓さんも逝ったのね。黙祷
コントの内容は、クレイジーキャツのSLをドリフの車が追いかけるという
内容だった。確か機関車は2。 大夕張は復刻版が出たけど、本物ならどの程度の値がつくのか? 汽車フェス、今年も三菱(美唄鉄道)バス走るのだろうか。 専用鉄道時代の乗車券=勘合証の実物は残っていないのだろうか? >>156
真谷地や角田専用線のものは見たことがある。 資料の記載ではこの程度↓
もともと石炭輸送のための専用鉄道であったが、他の地区とを結ぶ道路がないため鉄道の旅客便乗が許されていた。
但し当時は施設も悪く危険が多かったので乗車券(乗車勘合証と称す)の裏面には人命を保証しない旨注記され、表面様式は白色無地に横線が1本、行先により赤色・青色に区別されていた。
>>158
戦中大夕張では中国人労務者を使役していたが、戦後治安維持のため米軍
が進駐した。その際に災いを残しそうなものは全て処分したいいう〜 大夕張ダムができる前の三弦橋。農地の面影があるようなないような。
ttp://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2010/08/post_42.html