【キハ55】日光型総合スレッド【157系】
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日光形電車の方は
準急・急行用から特急用になっためずらしい車輛であるね。
お召し電車にもなったしね。
日光には乗ってないけど、あまぎには乗ったぞ。
HOで5輛編成作ったw
キハ55の日光はの時代は物心つく前なんだな、残念ながら。 185系を157系みたいな国鉄特急色に塗ってみたい(笑) 157系から165系にかわったらそりゃ東武DRCに負けるよな。 それでも国鉄晩年まで急行日光って残ってましたよね。
後年の栗橋での乗り入れという実質的な合従連衡には驚きました… >>2
準急・急行用から特急用になったのはあとは名鉄キハ8000くらいかな? キハ55系の赤帯は日光神橋に由来する、ということだそうだ。
『横須賀線電車の色は三浦半島の青い海と白い砂浜』みたいなものかw >>9
157系の時点で既に負けてる
1700系と157系でも設備面では1700系の方が上
国鉄は後手に回ってた
東武とは事情が違うんだから仕方ない >>14
公共企業として全国一律のサービス水準を提供する当時の国鉄が、自社のことだけ
考えればよい民鉄と競えるわけがない。
157系は準急としては例外的な高水準だったが、それでも準急形としてのくびきからは
逃れることはできなかった。
それは長いこと通勤型に空気バネを履かせなかった事にも通じているな。 >>16
だから東武とは事情が違うんだから仕方ないと書いたわけだが その辺のガイドラインというか、国鉄の色気(儲けようとする意志を中途に持つ気持ちが理解できない。
少なくとも、後年 値上げ・スト・怠慢な対応見ると昔はマシだったという事かな。)
157系長野電鉄が買うつもりだったようだけど、買っていたらどうなっていたかな?
色は、変えないで済んだかな?
それにしても、絶対的に車輌数不足だな。(湘南形の地方転出後に発生した
103系高運もどきの頭付けられる車が出現していたかな?) ひびきの方が稼げるから特急用にまわしてしまった>157系
>>18
あまぎ終了後に買うと?
外板腐食しまくりだから車体更新必須だったんで
色どころか車体形状も変わってたかもね
少なくとも側窓固定化と外板張替えはしてたろう 実物を見たこと無いんだけど157系のスタイルは大好きだな。
晩年はぼろぼろで走っていたみたいだけど見てみたかったぁ。 お召し電車のアレは鉄博行くのか?
鉄博の101系の前に置いてあるDT23+MT46って157系から持ってきたんだっけ。 クロ157と現御料車は旧大井工場で保存する計画です。 非電化時代の「日光」ってずっとモノクラスだったのかな?
キロ25は連結されなかったのかな? >>20
それだと金かかるから買うのやめたのかもしれんw >>24
宇都宮にキロやキロハの配置は無かったし、日光線に1エンジン車だとダイヤ維持できなかったんじゃないかな? 乗り心地の悪いDT19履いて、二等車連結なしの試作車・増加試作車編成でも
東武が激しい危機感を抱くほどだったんだから、
2時間レベルでの上野−日光走破がいかに凄かったかがうかがわれる。
キハ55系と80系300番台で、準急のヒエラルキーにこだわった「三等はトイレはあれど洗面所なし」仕様が、
153系での急行形水準完全セット装備を促したのは否めんな。 クロ157の運転台は、正味どれ位先頭車として走行したのだろうか・・・
定期検査の時・定期入場時構内走行位は、普通に活用しているのかな?
定期検査の際 必要性を鑑みて運転台の機能検査は、部品入手難から手入れが簡略化されていそうな気もするが、皇室・国賓使用専用車輌だから そんな非礼許されない気もするし興味深い!!もしかして最近長期冬眠は、コレが理由? 最初は先頭車として活躍したが1ユニットだと故障などの場合困るので中間に入れて2ユニットとされた。 >>32
踏切事故の用心も有った
>>22
クモハ157のカットボディは交博で保存予定だった。 >>33
置く場所がなかったというのか?
クハ167‐1のレプリカカットモデルは、1970年代後半に設置されたから、設置の時期が157系引退と一致しそうだが。
何らかの理由で、保存計画がなくなってかわりにクハ167‐1のレプリカカットモデルを置いたと推測。
ピクトリアル2004年10月号157系特集より。
昭和35年7月にクロが新製され第一ユニットと連結し必ず最後部3号車だった。
昭和37年6月にお召運転中か分からないが電気系統故障で第二ユニットとも組む事になった。
昭和41年6月から3両編成に戻ったがクロを最後部だと方向転換する手間が有ったので、
年月日は分からないが再び5両編成に戻った。 >>26>>29
成る程、日光線の連続25‰勾配という過酷な条件では1エンジンの2等車を連結
する余裕も無かったのですね。
しかしながらこの時代で表定70km/hはスゴい。
国鉄最後の新製蒸機計画(C63)がブッ飛んだのはやはりキハ55の成功が原因? 日光線の登坂だと10系気動車の快速は蒸気機関車牽引列車より遅くなったからな。
東北線内は平坦だったし停車駅も少なかったからかなり飛ばせたようだが。
上野−宇都宮間だけだったらキハ55「日光」は表定80km/hぐらい行ってたんと違うか? >>36
>国鉄最後の新製蒸機計画(C63)がブッ飛んだのはやはりキハ55の成功が原因?
全く関連なし。
ディーゼル機関車が成功したからだよ。 157系、残されていないのは残念だが、それでも伝説として語り継がれているなぁ。
歌手で言ったらザ・ピーナッツのようなものかな?
活動期間もザ・ピーナッツとほぼ一致している(引退は157系が1980年と遅かったが)しね。 >>40
それじゃあザ・ピーナッツのふたり故人みたいじゃないか >>40
貴賓車がまだ残ってますぜ
と言いたいところだが『日光型』である157系は台車と主電動機しか残ってないもんなorz >>40-41
157系がザ・ピーナッツだったら151・161・181系はザ・ドリフターズだなw人気度で言えば。
153系はハナ肇とクレージーキャッツか?
この3グループ、事務所が一緒だったのね…(渡辺プロダクション)。 日光型キハ55系と言うと思い浮かぶのは日本初の気動車急行【ひかり】ですね。
今の特急【ソニック】を豊肥線経由熊本まで延長したような列車ですが、単線区間で
万一タブレットを取りそこなった時には走行中そのまま指導式閉塞に切替える為、
門鉄幹部が添乗していたと言う恐ろしい伝説を持つ列車です。
実際は、事故らしい事故は有りませんでしたが。
まあ「万一タブレット落としたら・・・判ってるよな」と圧力をかけてたのでしょうけど。
当然特急【かもめ】より遥かに早かった。 >>45
確か表定速度が70kmを超えていたんだっけ。
後年のキハ65を組み込んだ急行が「ひかり」と同じ区間を走っても
全然及ばなくて雑誌で叩かれていた様な記憶が・・・・
運転本数とか諸条件が違うから同列には論じられないだろうけど。 >>46
ジャーナルの急行【火の山】乗車記ですね。
【ひかり】の場合はダイヤも色々手を入れて工夫していたみたいですね。
運行本数も当時の方が少なかったですし。
当時は直通列車中心のダイヤだった所へ、その後熊本市近郊や大分市近郊の
区間列車が追加されて、並行ダイヤに近くなったのが効いていると思われます。
特急【有明】とか電車特急にもかかわらずトロトロ走ってるくらいです。
それに山岳線だから冷房化による重量増加の影響もあるのかも?
たしかに55系は1エンジンも登場し広い地域で活躍したね。 末期は超ロングシートに改造されて
筑肥線で通勤輸送に供用された元二等車… >>24
>>26
日光にキロ25って入ってなかったのか?(宇都宮にも尾久にも)
入ってたと思った…。
でも157系で旧2等(新1等)が入ったけどね。 >>51
準急【日光】はキハ55のみの4両編成が所定となっていますね。
ちなみに急行【ひかり】は基本編成は【日光】と同じくキハ55のみ4両に山岳線以外は
キハ26の2両編成を増結した6両編成となっていてキロハやキロの連結は準急格下げ
後になります。 >>47
そうそう、良く覚えておいでですね。
私は55系を実物で見た機会は無いのですが、筑肥線の写真なんかで良く目にしますね。
鉄ピクの55系特集を古本屋で見つけて買おうかどうか迷ったばかりでした。
日光形とはいえ九州ネタなのでsage >>53
日光形でもキハ55はほぼ全国走っていたから別にいいよ。
それに引き換え157系は栃木(新潟)から大阪までしか走っていない…。
そういや蟻で新替えだまの157系セット出るらしい。 >>54
同一形式で北海道から四国・九州まで走破した希少な形式だからねえ。
極寒地仕様が無い事と、電化区間の進展を考えるとキハ40より凄いかもしれない。
北海道の増毛駅で見かけた時は感動モノだった。夏だけど。 キハ66・67系に置換えられたキハ55系の急行「日田・はんだ」だが、置換え後も
頻発するキハ66・67系のトラブルのせいでキハ55系の代走が多かった。
早朝に直方を出区すると夜遅くまで帰ってこない運用で、しかも山岳線だから通常なら
少々不調でも送り出せるローカル運用と違って安全策を取らざるを得なかった。
尚、「はんだ」は直方では編成が逆転しているので、直方区の目の前でストップしても
取り込む事ができない。
70年代後半は頻繁に、キハ55系末期の80年代もまれに入っていたので、もしかしたら
キハ55系最後の優等列車は「日田」かもしれない。
ちなみに「日田・はんだ」運用は「日田→はんだ→はんだ→日田」の順。 島鉄キハ2600・キハ5500が仲間に入れて欲しそうにしている。
優等列車と言う事なら急行出島の最後に付き合ったあとも自社線内の有料急行に使い
続けられた訳だが。
特にキハ2600は冷房車な事もあってJR九州キハ125・0番台(今月から0番台を区別した方が良い)モドキが入線して余剰になるまで急行運用が続いてました。 >>59
島鉄の有料急行って何時まであったんだっけ? >>56
1978年にキハ55「はんだ」見かけたな。
しかも初期車の木枠窓車だった。当時でも相当ボロかったな >>59
島鉄のは赤ひげ付きのしか知らなかったけど何処かのサイトで
国鉄の準急塗装に似たのが写っていてびっくり。
赤帯が3本線になっていたのがご愛敬。 >>63
最初は準急色の国鉄のと連結させるために準急もどき色だった
ピクトリアルに出てたぞ
キハ55特集だったか、アーカイブスだったか忘れたけど >62
初期のバス窓タイプに木枠窓車があった
外見の違いとして窓枠部分が赤く塗られていた 四国では盆とか年末年始の多客期の急行に長いことキハ55やキハ26が使われていたな。昭和60年まで使われたかな? >>66
いよ51号だっけ?オハ61系の急行。
流石にあれよりはキハ55系の方が急行には適切だと思う。
九州の臨時気動車急行は直方持ちがデフォだったから、キハ55系は自由席車に
良く使ってた。特に出島系統。
指定席は流石にキハ58系だが、800番台が入る事が多かったな。
色が違うので目立って良かったらしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています