昔の北陸鉄道のこと
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古いツリカケ電車の話
なくなってしまった路線の話
なんでもどうぞ >>139
加賀一の宮と岩本が出ていたのを覚えているよ
作者の山上氏が金沢在住だったからやね あまり能登線の話題は出ませんね。
一度だけ行ったことがあります。といっても羽咋の駅のホームからいろいろ車輌を撮っただけだけど。
キハ07タイプの気動車とか(のちに関東鉄道にいった)04タイプのとか。あとL型のDCもいたなあ。 >>141
北鉄唯一の非電化路線で
国鉄の乗り入れとかもあったのになあ。
鉄道敷設法の通り三井まで、あるいは輪島まで連絡していれば
また違った展開があったのかも知れないが。
>>142
最低でも富来まではほしかった。
でも、長いトンネルなしで敷設するとなると、三明が限界だったんだろうなあ・・・。
石川の私鉄でトンネルなんて
能美電の天狗山とか、尾小屋鉄道くらいしか例がない。
外浦地区は高い山はないが鉄道を通すには辛い場所だったのだろう。
三明までのルートでも掘割とか築堤を多用していたようだし。
ちょこっと脇道にそれて巌門へ行くルートとか考えなかったんだろうか。
ってか、あのあたりにそれだけのことができる
有力者いたかな・・・?? >>140
そうだったんですか
ご教示ありがとうございます
私が見て驚いたのは灯台笹でした >>145
外浦には益谷秀次に匹敵する人物はいなかったということか 能登半島は地盤がもろく、道路でさえも不向きなんだそうな
まして、多くの乗客が望めそうにない
鉄道の建設・維持・保守はとても無理だったんじゃないか? >>148
>多くの乗客が望めそうにない
今では鉄道があったことも信じられない惨憺たる有様だけど
昔はまだましだったのでは?
能登観光がブームだった時代もあったらしいし
珠洲道路も特急バスも能登有料も無くて、R249も未整備の頃とか 沿線案内図に
大聖寺から吉崎に至る路線を計画線として表示してた時期があった 我が国初のアルミカーと我が国初のオールステンレスカーが足跡を残した何気に凄い北陸鉄道! >>151
確か後位ドアより後ろだけ、ノーシルノーヘッダーになっている
変な車なんだよね。車体の種車も不祥といいます。
側面だけ見ると、小田急のHBとか、東武のデッカーみたいな印象です。
クハ1101の車体載せ換え年次(昭和30年代前半くらいだっけ?)あたりの
私鉄各線の鋼製車の廃車をつぶさに当たれば何か見えてくるかも。
個人的には事故復旧か何かの折に廃棄された、どこぞの私鉄の事故車の
旧車体を叩き直して、車体短縮のうえ再使用したのかもしれない、と思ってます。 小さい不鮮明な写真しかなかった頃は
「富士山麓かな…んでも後ろが余るな」とか思ったりしたけど
今回の写真で見るとやっぱり別人の印象で>クハ1101 >>153-154
意外に種車の車体をテンプラにして延長しただけとか、そういうオチなのかなあ・・。
そもそも種車の画像がなくて、よくわかっていないわけだけど。
西脇氏の書いてあるとおり、どこか別の会社からもらってきたとなれば
北陸鉄道の車両史上、国鉄か東海地方の私鉄ということになるだろうね。
富山港線あたりの買収国電なども疑ったけど、近似の車両も特になく・・・。 1101の正面がゲテモノ臭漂うのは窓寸法が全部違う点だな。
浅野川線のモハ3563はP誌の記事など見ても,除雪の際位にしか走らないということだったのが,昇圧前には良く走るようになった。
温泉電軌の生き残りという点でも,何としても乗ってみたい車両だった。
名古屋への出張の帰り,金沢まで無理やり寄り道して浅野川線に乗った。
運良く3563に乗れた。
朝ラッシュが一段落した後の内灘行。
びっくりしたのは天井灯。
国鉄の特急車両のようなアクリルカバー付の立派な蛍光灯だった。
重厚なニス塗りの車内と,特急列車のような照明のアンバランスが良かった。
>157
末期はちょくちょく出てきたね。
浅野川線は昭和30年代の小型車ばかり集まっていたけど、もっと大型の車両で運営したほうが良かった気がする。
今はそうなったが。 近代化(?)の際に車内放送用スピーカーと共に取り付けられたものか
あるいは元から蛍光灯だったのか
興味は尽きない。
>>158
例えば名鉄の中古を入れたりすると、断面が大きいので七ツ屋のガードがくぐれない
>>159
元は白熱灯で、1987年に石川線モハ3700の廃車発生品を流用した >>160
浅野川線昇圧直後
8800/8900系は七ツ屋をくぐれたの?
金沢駅高架化以降であれば状況は違うかもしれないけど。
>>161
JR高架化が1990年、昇圧が1996年だから問題なし >>162
じゃあ1990年から約6年は
名鉄から来た車両も七ツ屋の高架橋下を通れたのかも。
時既に遅いかもしれないが。
金沢駅高架化 1990/6/5
石川線7000系営業開始 1990/7/24
モハ3740・3770解体 1990/12ごろ
そういえば石川線に東急7000が入る直前くらいに、名鉄3700が北鉄へ譲渡されるというガセネタがピク誌に出たけど、あれは何だったんだろう。
投稿者は常連というか有名な人だったけど。 誰か昔の浅電金沢駅及び七ツ屋・金石線中橋駅の配線図分かる方教えて下さい。 >165
話が飛んだんじゃないかな?
名鉄3700は車体はまだ新しかったけど、足回りがぼろぼろ(というか北鉄3740・3770の元の足回りを利用) >>166
1960年代前半の金沢駅周辺
国鉄の配線は省略
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kousha-_-/clip2/img/1955.jpg >>168
ジオラマなど作る時の良い参考になります。
ありがとうございました。 30年ほど前の冬、加賀一の宮のYHに泊まって朝一の白山下行に乗った。電車は1両。
空いているかと思いきやスキー客で阿鼻叫喚。体を捻じ込むように辛うじて乗りこんだ。
白山下からスキー場への乗り継ぎバスも阿鼻叫喚で乗りこぼれた人多数。
車掌の話ではあの小さな電車に150人位乗っていたらしい。
折り返しの野町行はガラガラだった。 加賀八幡駅のつっかえ棒に噴いた。
今なら即建て替え命令が出るんだろうな。 >>168
白銀町−六枚町間の複線区間はなんのためにあったんだろう。
昔は六枚町で折り返してたとか?
個人のホームページでしょうか「地方私鉄1960年代の回想」と「壊想石川の鉄道」で昔の写真が紹介されています。
それ以外に紹介されてる写真等ありました教えて下さい。 >>176
なるほど。
昔は駅で単純に折り返してたのか。
浅野川線と繋がっていたということを考えると納得できる話だ。
で、ループができた後も複線は残されたと。
>>172
もとは白銀町で右折して金沢駅へ行くルートが複線だったが、1945年のループ化の際に単線になった。
白銀町〜六枚町が複線なのは金石線から市内線に乗り継ぐ乗客の利便を図るため、
六枚町から金沢駅へ行かずに白銀町方向へ折り返す臨時系統があったため。 市内線が浅野川線とつながっていたのには、海水を運ぶ事も関係していたのではなかたっけ?
石川線と市内線が野町でつながっていたのは市内線の上り線側でしょ?
市内線の車両が西金沢の工場へ行く時は一度折り返し地点まで行ってたって事なのかな?
それとも広小路あたりに渡り線があったとか。知りませんか? >>179
ttp://hwm3.wh.qit.ne.jp/natsukashi/QGK-natsukashi/syokin-sen/twi-syokin-sen/s-twilight.html
ttp://6.pro.tok2.com/~haasan55/kanazawasinai.htm
たしかに写真を見る限り、渡り線はなさそうだなあ・・・。 野町の画像を探していたら、見つけた。
クハ1151の画像なんてはじめてみたは・・・
ttp://blog.goo.ne.jp/kiza1/s/n0056/1 >>179
市内線と浅野川線がつながっていたのは塩水を運ぶだけでなく、
海水浴輸送で市内線車両を応援に出す時などにも使われた。
亘り線は野町4丁目の併用軌道部分にあった。
市内線の工場が本工場、西金沢が第二工場という位置づけだったので、
原則として市内線車両が西金沢へ来ることはなかったが、
鉄道線車両の大がかりな改造を伴うような工事は市内線の車庫で行われ、
能登線のキハ5251(←国鉄キハ07)も野町経由で回送したが、
行き(改造前)はまっすぐ行けるとしても帰り(改造後)は
野町駅前の乗車ホームがボギー車(市電の)1両分+αの長さしかなかったので、
4丁目の亘り線で転線し、そこから先は逆線を進行したのだと思う。 >>178
ふむふむ。
詳細な情報をありがとう。
やはり六枚町でも折り返していたんだな。
徒歩連絡とはいえ金石線との接続も考えられていたとは。
>182
金沢市内の道路を走行するキハ07か。冗談みたいな話だ。 甲種輸送みたいなもんだな。
軸重制限があっただろうし
トレーラー代わりの車両に引かれてしずしずと移動
みたいな。
昭和初期の段階で金沢電軌・温泉電軌・浅野川電鉄が合併して路線接続していれば話は変わったんだろうな。 >>186
そしたら、全路線、松金線みたいに昭和20年代に廃止
>>186
少なくとも温泉電軌には繋がらないだろう。
北陸本線と並行しない別路線でもあれば話は別だが。
>>188
温泉電軌と能美電がそれぞれ小松へ乗り入れる免許を申請して認可も下りたが、
期限内に工事に着手できずにお流れになった。
それとは別に松任から南下して辰口経由で小松に至る加賀電気鉄道というのが免許を申請したが、
認可が下りなかった。
これらが実現していたら白菊町〜山中の直通電車が走っていたかもしれないが、
現代まで生き残ることはできなかったと思う。 そして大聖寺から吉崎、東尋坊口、三国から京福に乗り入れて福井まで。 京福・北鉄で金沢〜福井連絡か。
西の北陸線普通無視政策を見ているとかなり善戦しそうな気がする。 妄想し続ければ
輪島まで国鉄を乗らずに行ける気がしてきた。
地鉄、加越能、北鉄、京福、福鉄直通、宇奈月温泉発武生行き 佐伯宗義が京都電燈と提携して北陸の私鉄を手中に収めていれば武生新どころか出町柳へも行けたかもw 倶利伽羅峠・牛ノ谷・杉津・中ノ庄・江若鉄道旧線も使って富山〜大阪まで、と妄想してみる。 戦争で負けず、モータリゼーションが起こらなくても各社異夢同床だから、
(金名なんか寧ろ対抗なるのでは?)難しいのでは?
寧ろ北陸新幹線開業後の北陸本線の3セクが、経営難で接続各社が死活の為止む無く出資強要させられるようになる事態とかの方が起こりそう。 第三セクターはどんな名前になるんだろう?
「ほくりく」はつかえないし
「ほくえつ」もすでにあるし
「かえつ」か「ほくしん」か、はたまた「にほんかい」か・・・
「いしのかわ」とか「とみのやま」だったらやだな。
もし戦前 金名鉄道が名古屋まで全通していたら北鉄を構成した各路線も概ね名鉄(そもそもこの名前自体どうなるか・・・)の一部になっていただろうか? 金名鉄道が全線開業するためには白山にトンネルほらなきゃいけないわけで・・・。 >>198
石川県内はのと鉄道に引き取らせる悪寒。 >>203
しかも引き取るだけで大事にしないで廃止する予感 >>201
名金線は全通したが
細切れにされた挙げ句
末端区間のみが残るという結果に。
金名線も多分そうなっただろう。
>201
金名鉄道は越美南線との接続で名古屋への直通を狙っていたので、全通すれば石川線ともども戦時国有化でバイパスとして強化されていたと思われる。
そうなれば越美南線自体の第三セクター化もなかっただろう。 「ゼロの焦点」テレ朝でやってる。 門前とか出るのかな >>207 近年時代考証に関して自動車は随分マシになったよな。
乗用車が、アメリカ車がメインだから可能な所為もあるが、・・・
(まあ ソレでも昭和32年の設定に仲谷美紀の自家用車に37年くらいのヒルマンミンクスとかあるが、)
市電は、セットとしては頑張っているとは思うが・・・小さすぎでは・・・。 >>206 飯田線みたいな存在?
>>207 レプリカの市電 いかんせんオヘソのヘッドライトが小さすぎた。外国の電車みたいだった。 あの市電横幅広いな
もう少しスリムにして欲しかった >209>210
いつもの上海オープンセットの市電に、北鉄らしい色を塗ったガワを付けたんじゃない?
それより、元近鉄特急が発車する「鶴来」に爆笑した。 小松電鉄が戦時統合に頑なに抗って合併を拒んだ理由って何?
単独でも十分経営できるくらいに利益を出してたのかな? >>212
浅野川電鉄と違って言うほど頑なではなかったような。
まあ戦争が激化しなければ鵜川遊泉寺以遠の延長も予定通り行われたであろうから
勢いはあったのであろう。
>>212
あまりに経営が酷くて北鉄側がいやがったんじゃなかったっけ? むかし小松線でハ二ベ岩窟院に行ったが「電車で来たんだけど入場料おまけしてくれるの」と聞いたら50円引きにしてくれた。
鵜川遊泉寺駅の発車時刻表だが発車時刻表より到着時刻表の方がやたら目立っていたと思う。 小松線懐かしいな、2列車運行の時、対向列車がノッチを進める度、車内灯が暗くなりかくんとスピードが落ちた、原始的な電気鉄道の仕組みを体感できた。客がいない駅は通過してたのは法令的にどうなんだろ?
能美と鶴来をつなぐ天狗橋の架け替えに伴う、
能美側の取り付け道路が完成。
旧能美線のトンネル跡が見やすくなっていました。 先週駆け回りで石川線に乗りました。いろいろと心残りがあるので近いうちに必ず再訪します。
昔は大きな路線網を誇った地方私鉄ってイイですね。 金名線を見て来ました。木造のホッパー施設、道路側に倒壊したりしないのだろうか?よく毎冬の積雪に耐え続けてるなと思います。
終点のサイクルステーションのトイレが綺麗で助かった。周辺に自販機の類が一つもないのは商売っ気が無さ過ぎ。銅像に献花されてるのには感心しました。
末期の小松線に親に連れられ乗った時、車掌さんがいやに
アットホームだったので子供ながらむず痒かった。
帰りの鵜川遊泉寺で寸でのところで乗り遅れ、無情に電車は走り去った。
次の電車で母がそれを車掌さんに話したところ「なら叫んでくれれば待ってたのに(笑)」と…
すれ違いもない時間帯だったので自由度があったのでしょう。
おかげで私は鵜川遊泉寺のヤバげな駅舎をくまなく探索できて満悦でした。
もう車両が入る事はないであろう側線に車両の姿を想像しつつ、また
駅の先の奇妙なカーブに不審感を抱きつつそれが最初で最後の小松線でした。
今は疑問も解決しました >>216
車掌さんが降車客の有無を完璧に把握してたし、
(廃線間際にオタが群がるまでは小松発の便は乗客全員にどこで降りるかを
聞いて回ってた。通勤通学の定期客は顔馴染みだからシカト
鵜川遊泉寺発の便はどっちみち車補を発行するので問題なし
往復切符は見た事がない、あったのかすら解らない)
降車客なしでホームが無人なら通過しても問題ないでしょう。
ただ、早着早発してしまう事はよくあったようで、
ですが、たった5kmちょいの短い路線では大したことなかったのでしょう。
ちょっと酷い場合は加賀八幡で時間調整してました。 小松線なつかしいな。
小学生の時、俺のいた町内の児童は冬期だけ電車通学してたわ。定期も買わされた。
沖〜打越の一区間だけw >>224
第一小校下ってそんなのがあったんだ
能美小からは、川の向こうをトコトコ電車が走るのを見えてたけどねえ 小学生の頃、廃線の話が出た頃になけなしの小遣いはたいて金沢から乗りに行ったな >小松線
加賀八幡の廃屋みたいな駅舎と、電車の揺れに合わせて行進する吊革が印象的だったのを覚えてる 昇圧前の浅野川旧型と地下前の浅野川京王に乗ったなぁ。
大井川時代のカラー写真を見ても
河南くたにはいい車両だな。 くたにとしらさぎは富山地鉄に引き取って欲しかった。 >229
600V車だし、もし昇圧改造して使っても名鉄から大量に買った時の
雑形一掃時にいっしょに廃車されていたと思うぞ。 富山地鉄か遠州、京福時代の福井支社くらいかな。
6000系のスペックは
高速運転に適さないから改造は必須だし
観光って意味でも大井川で合ってたと思うよ。
ただくたに廃車後もどこか引き取ってほしかったなぁ。 >231
「くたに」は大井川で昇圧改造されていれば、もっと後まで残ったかもなぁ。
北鉄としては最先端の電装系だったのが、昇圧改造を阻んだらしいから。 >>233
改造に関しては、シンプルな構造の方が実施しやすい。
既存回路をいじるにしても、機器載せ替えにしても、元がシンプルなら容易。
専用設計品や特殊機器を使用している場合、改造そのものができなかったり
別機器に載せ替えもスペースの関係で出来なかったりと、何かと厄介。
大手私鉄でも1,500V昇圧に際しては、600V専用車の改造なんかでは
既存機器類は全て捨てて、簡素な制御システムに載せ替えたりしてるしね。 >>229 幾ら北鉄の最優秀車でも富山地方鉄道は買わない。
プロパーでまとまった量数のロマンス車新造する力もあったし・・・
北陸の地方私鉄は、大体名鉄がらみだけど 近親憎悪というか地域ごとの競争意識みたいなのが強く
面子とかもあって本当は条件的に悪くなくても同等の立場のライバルのお下がりは嫌がるような・・・※
強いて考えられたとするなら福井鉄道あたり?ただし路面区間とか特殊性があるから大井川みたいな放置温存でなく魔改造必至だな。
※そこいくと 同じ中部地方でも太平洋岸の静岡県各社は、比較的(西武、小田急、東急等親会社の代理戦争で翻弄はされたが)仲良しなのは興味深いね。
また 同じ地方私鉄でも 大井川や弘南くらいソコソコ規模があってもあまりプロパー新車は購入せず積極的に中古購入する会社とか(逆に零細な津軽はプロパー車主体)
各社各様に政策に独自傾向があるのは興味深いな。 >235
確かに、言われる通り北陸の各社相互間での車輌譲渡の実例は極めて少ないですね。
北鉄の金沢市内線→福井鉄道の3輌以外に、思い浮かびませぬ。 >>235
地方鉄道からの譲渡だと、両数が揃わないなどの面もあるからね
その点大手からなら、一定両数が安定して譲渡を受けれる面もあるし、品質も安定しているからね
地方私鉄発注車の他地方私鉄への譲渡だと、電車だと事例は少ないね。
長電1100系と静鉄300型くらい? 三岐から琴電に行ってスペックダウンされたヤツ
(くたに号と違って動力車として再起したけど)とか
福島交通から栗原電鉄に行ったヤツとか。
静鉄300は自社長沼工場製だっけ? あそこからは他にも行ったような? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています