昔の北陸鉄道のこと
古いツリカケ電車の話
なくなってしまった路線の話
なんでもどうぞ 小松線には交換可能駅が1箇所あった。
終点鵜川遊泉寺は早くから無人になっていた。 石川総線が白山下まで行ってたころ、
夜、どっかの駅で2両編成の制御車を側線に押し込んで切り離し
残りの両運転台の電車1両で終点に行く運用があった。 温泉電軌
はさすがに知らないけど、石川総線や浅野川線に急行ってあったよね モハ3051ってWikipediaに記述があるんだけどどんな電車だったんだろう? くたに号はカルダン駆動だったがアルミボディのしらさぎ号は
つりかけで、モーターのトラップドアが多いのでそれを逃げるため
車端はロングシートだった。 あれだけあった路線がほぼ全滅とかすごいよな
隣の福井富山に比べて極端だよ石川は >>7
一時は鉄道から完全撤退の方針だったからね<北鉄 >>7
労使関係が半端なく悪かったらしい。
現存している路線も本当は廃止予定だったけど
都心部ゆえに存続を要望されたゆえ。あとバス輸送も厳しかった
ちなみに山中温泉あたりの路線もうまくいけば生かせたのにな・・・ >>10
でもどうだろう?
加賀温泉周辺の路線バスで、現在まともに走っているのは加賀温泉〜山中くらいしかないじゃん。
片山津とか普通の路線バスで行けなくなって、CANバスしか走っていなしし。 >>11
DC急行を大聖寺から山中に直通させる計画もあったらしいけどね
ただ路盤が貧弱すぎてダメだったみたい
そうこうしてるうちに名鉄グループに「入れさせられ(県の斡旋)」
国鉄が大聖寺と動橋に分かれてた加賀市内の特急停車駅を作見(加賀温泉)に統一して乗り換え客が激減
これが息の根を止めてる 戦時統合してなければ、意外と各線 此処の企業努力で目が届き生き残る線区が
多くなったんじゃないの?
特に存続の 浅野川線は、他路線の業績不振に揚げ足を取られず、今より繁栄していたかもね・・・ ただでさえ鉄道不毛県なのに新幹線が出来たら不毛どころか死滅しそうだ。 戦災を受けなかったことが、逆に市内線には足枷になったのかもなあ・・・。
原爆を落とされる前の広島と金沢は似ているようだ。
我が国初のアルミカー しらさぎ号
我が国初のオールステンレスカー 元東急7000形
どちらも、何気に車籍を残しているのだから 凄いよな。
昭和30年代後半から、近年の車両更新・金沢地下乗り入れ位まで
鉄道に対し積極姿勢がなかったのに・・・まあ結果論だが、
昔クラスに必ず一人位いた、勉強嫌いでやらないけど、
試験だけは、ずば抜けてできる不思議な奴みたいなものだな。 どうもありがとう。閉塞扱いのために赤+金帯の制帽の人が詰めてた。 クハ1101の車体延長鋼体化改造に使われた「どこかの車両」がわかりません>< >>20
あれ、本当にどこから持ってきたんだろう?
ガソリンカー系かね?? >>20
68年のピク西脇氏の記事でも不明になってる 北陸鉄道の車両って転属のたびに改番しているようですが
付番に法則のようなものがあったのでしょうか? 亡き爺様の形見に終戦直後のものと思われる「全国旅行案内図」なる冊子が
ある。石川県内の私鉄は皆北鉄に戦時統合されたと思っていたが、浅野川線
だけは「浅野川電鐡」と記されている。戦時統合を免れて頑張っていたんだね。
>>24
合併拒否をしていたが、当時の社長を逮捕したあとに、
1945年10月、あえなく北鉄に吸収されました。
小松線も北陸鉄道成立後に買収されている。
1945年7月のこと。 >>26
浅電の社長が逮捕されていたのですね。参考になりました。
ありがとうございます。・・・やはり歴史はサスペンスです。 >>27
まあ、別件逮捕して、その間に北陸鉄道に合併させた・・・ってことらしい。 尾小屋鉄道が、独立を保てたのは、三岐鉄道と同じく鉱物資源のお陰?
後年 名鉄系になっても合併しなかったのは、北鉄的にはこれ以上荷物を
背負い込みたくなかったから? >>29
尾小屋が独立していたのはその通り。
系列が同じになったからって、必ずしも合併するものでもないだろう。
バス路線の競合を解消する(常総筑波+鹿島参宮=関東鉄道)とか、
資本力の強化(五王自動車+高尾自動車+奥多摩振興=西東京バス)など
何かしらの理由があるのならばともかく。
むしろ労働条件などが異なるなどの理由で別々の会社として存続させることもが多い。
性格には鉱物資源というか鉱山会社の系列下にあったからといったほうが語弊が少ない。
ttp://ba1141.hp.infoseek.co.jp/24isikawa3.html
昔は富山地鉄みたいな連絡の仕方してたんだね
白菊町駅って川を渡った向こう側だったの?
中途半端な場所....
此処って電化路線主体(能登線以外の事)の癖に 国鉄キサハ04やホハ12000
買い込んで電化線区入れたり、能登線用に三岐から買ったデーゼルカー浅野川線でトレーラー代用
で使ったり面白い事してたよな。
労使対立だけでなく旧所属会社間での雇用条件相違とか、引きずり各線区職員間でも
対立が、あったの?(増車・新車導入公平化とか・・・)
温泉電軌の集電装置「Yゲル」は本当は何と呼ぶのだろう。 >>32
白菊町駅は、現在の白菊ハイツの辺りだったのよ
もし犀川を渡っていれば、現在でも存続できた可能性は高いと言えるね
野町駅の場合、市内線が乗り入れしていたので、乗換駅として需要があったとも言える 路面電車と郊外各線が直通していたらどうなっていただろう?
却って、もっと早い時期にバス化かな?? 同じ北陸三県でも石川は行政が極端に鉄道に冷淡だったのかね
これだけ福井や富山と差が出るなんて 地鉄と京福は統合された時点でそれなりにネットワークとして存在していたけど
石川は温泉電軌と金沢電軌以外がバラバラに存在しすぎてた
結果、戦後金沢への集中が進むと国鉄の培養線だった線は軒並み廃れてった感じ 北陸は、完全に離れた能登 や 業績良好で合併拒否の浅野川を、本来主旨目的
が無くなった戦後になっても強引に合併したわりに、行政は酷いよな。
地鉄は、本来 お上(省)と対立していた事業者なのに、統合時中心企業になれ
県営鉄道までせしめたのと対象てきだな・・・。
京福・福井の統合は、何故起こらなかったの?
本来、地域で路線規格の異なる京福が、京都と福井支社で別れ
福井支社(越前・永平寺・三国芦原・☆丸岡)が、
福武・鯖浦・南越と合併すべきだと思うのだが・・・
組織的に大きく、四方を京都電灯系に囲まれ埋没した☆旧丸岡の
状態を鑑みて、福井を構成した三社は意図的に京都電灯系との合併を避けたの? 北鉄スレなのに京福・福鉄に飛んでいってしまうのも減点対象だね>>40 >>41 >>42 皮肉だけで、知識も教養も無い奴に用はない!
スレを硬直させるだけだ。
そういう低レベルの煽りや嫌味、批判は車路板でやってくれ!
此処は、大人の板です! 荒らしに構う>>43
あなたも荒らしですよ
俺もかorz
あと路車板ね。 前にもどっかに書いたが、
折り返しは最終となる電車で白山下まで逝った。
兄ちゃん車掌氏に「泊まるところがあると思ってここまで来たの?」
と聞かれたから乗り潰しの来意を告げると、着券箱から
好きなだけ持って行きな、と言われてもらった
使用済み乗車券の束は今ではプチお宝。 >>43
大人の話がしたいなら、ちゃんとスレタイに沿ったほうこうに戻すのが大人ってもんじゃないか?
学級会みたいな煽り返しがやりたいなら鉄道模型板で遊んでこいや >>40
交通調整の核になる企業は一県一業者と決まっている訳ではない。
福井は嶺南と嶺北で分けて統合した結果が福井と京福。
京福の前身の京都電燈は嶺南も配電地域だったが、交通事業の殆んどは嶺北。
石川の場合は単に統合の核になる会社が一社と決まっていたか、有力が二社無かったからかもしれない。
例えば兵庫県では播磨は神姫バス、但馬は全但バス、淡路は淡路交通、摂津は神戸市、阪急、阪神バスで交通調整されている。 福井って、実は単純じゃないんよ。
京福電鉄は鉄道部門だけで、バスは別に福井県乗合自動車が設立されていた。
戦後、福井県乗合は一部路線を統合前の京福や大野交通などもとの事業者に返還、
それらを京福が系列化して1960年代に統合している。
福井鉄道のほう、敦賀乗合や三方交通など嶺南の事業者を1950年代に吸収している。
戦時統合とは言うけど、実際には寄せ集めではなくて、
資本系列別の統合(茨城交通と日立電鉄)だったり、大きい会社への実質吸収(高松琴平)という例も多いからね。
石川県の場合は、金沢電軌が周辺に手を伸ばしていたのが大きかったんだろう。
他の県のことを考えると、能登地区と加南地区と別れていてもおかしくは無かったけど。 >>23
富山地鉄みたいのモーター出力による分類もあったし
クロス車、ロング車。加南線と石川線、浅野川線でも番号を変えていたはず。
統一的な規則となると、よく分からん。 0100〜1999が直接制御。
2000〜が路面電車
3000〜が間接制御ってかんじはするけどね。 中学生の頃まで金沢市内の路面電車が走っていました。
泉野町に住んでいたので寺町終点から電車に乗っていた事を思い出します。
それで、疑問なんですけど、片町方面から寺町行きと野町行きが、野町広小路
で分岐していましたが、ポイントの切り替えはどうしていたのでしょうか?
香林坊は真中に円柱形の建物があって中に人がいたようですが...
武蔵ヶ辻とか兼六園下とか橋場町などはどうしていたのでしょう?
今は関東在住の者の遠い過去の思い出です。 >>49
>>50
ご回答ありがとうございます。
石川総線が3700番台だったり、浅野川線が3500番台を多くつけていたりと
一見何らかの法則がありそうでいて、規則性は余り見つからないという
何とも不思議な番号体系ですよね。
最近の8800・8900型や7700型なんかも、この体系を引きずった付番のような
気がします。 金沢市電は全廃から42年も経ってるからなぁ(総延長は富山の一番長い時よりも長かったかも…)。末期は2200系(福鉄福井新駅に保存?らしい)が走ってたの?あと市電路線図を持ってる人がいたらいいなぁ。 金沢って大規模空襲なかったんだっけ?
空襲のあった富山は復興で道を広げられたのが自動車社会になっても路面電車が生き残れた理由と聞いた覚えがある
真偽は分からんけど >55
受けてない。
大火もない。
原爆が落とされる前の広島と金沢は似ているらしい。 現在の野町駅(北鉄自称「ジャンルションターミナル」)の一世代前の
昭和の頃の野町駅には「快速電車運転」の看板が出ていたが、「快速」
という列車種別ってかつてあったの? >>58
快速はありませんでした。
過去の優等列車は急行と準急(昭和57年から平成7年までAとBあり)の2つだけです。 >>59-60
やっぱりねえ。北鉄にそんな甲斐性あるはずないと思っていた。
それにしても詐欺っぽい看板だったなあ。
当時の関西の国鉄駅に揚げてあった「新快速」の宣伝看板のパクリみたい
だったし、旅行者が見たら、あれは列車種別「快速」のことだと思うよ。
PS
「ジャンルションターミナル」は「ジャンクションターミナル」のタイプ
ミスでした。お詫びして訂正します。 まさか野町(もとい,白菊町)―鶴来急行ってあったがけ? >>62
1975年頃の話だが、通勤時間帯に1〜2本程度の急行が運転されていたように記憶している。
停車駅は西泉、新西金沢、野々市工大前、額住宅前、鶴来以遠各駅だったと思う。
また野町駅の時刻表には白山登山シーズンに早朝1本だけ運転される臨時急行も記載されていた。
停車駅は何と、新西金沢、額住宅前、鶴来以遠各駅という超速達便だった。
当時発売されていた北鉄時刻表にも記載されていたが、数年前ちょっとした手違いで捨ててしまった。
手元に残してあれば貴重な史料になっていたこと間違いなしで、後悔している。 >>63に補足します
石川線の急行は昭和55年の能美線廃止時点で新寺井発野町行きの上り1本のみ設定。
停車駅は新寺井、本寺井、湯谷石子、徳久(この間各駅)鶴来、額住宅前、野々市工大前、新西金沢、西泉、野町。
能美線廃止後は道法寺、四十万、乙丸が追加されていたが57年の改正で準急に格下げ。
登山シーズンの急行は野町5時44分発で時刻表には「不定期急行」と書かれ、
停車駅は>>63のとおりで鶴来以遠は金名線の下り始発として通年運行でした。 他スレの栗電の話で思い出しましたが
小松線、私が行った時には電車が終点に着いて、乗客(3人だった)が
降りると、電車は一旦奥に引き上げ、そこで乗務員が休憩していた
のが懐かしい。 JTB時刻表9月号巻頭グラフに加賀一の宮駅が載っていた… >>66
路車板のスレでの現地レポみると
石川線まるごと此方のカテゴリ逝きも
遠くは無い悪寒 かりに北陸線と平行競合できるような路線があって各線区を束ねていたらここまで衰退はしなかっただろう。
それでも金名・片山津あたりは存続があやしいが。 なまじっか、金沢の町が昔から大きいのが仇だったな。
中心地に近づこうにも、建物が密集しすぎていて鉄道線が鉄道線のまま乗り入れることなんて
不可能だった。
もと城下町系の都市では、どこでも多かれ少なかれ抱えている問題だけど。
まあ、松金線と浅野川線が市内線と直通していればもうちょっと違う展開もあったかもしれないけど
その場合は昭和42年にもろとも廃線だったろうなあ・・・・。 金名線廃止の原因とされる手取川の岩盤風化は、
運行休止日の朝の点検でやばい状況だとわかって即休止みたいな記述があるけど、
それまで誰も気づかなかったの?
12月の運行開始前の時間帯といったら、外はまだ暗いけど、
どうやって岩の状況を確かめたんだろ? 某社OBだけどパンフ送ってきても絶対行かない。
北鉄の旅行って種類が多すぎるからお客が分散して催行中止ばかり…
絞って募集すればいいのに、お客の心をつかんでいない。昔からそうや!何にも変わっていない。
(ヨ)の佃煮 大畑商店
(ヨ)の煮豆ポリ詰 大畑商店
の吊り革もってるよ。
懐かし卓スレ発見
小学生のころ、内灘、金石、鶴来の親戚んちに何回か行った。
その後、俺自身は、東京に出て東急線沿線だったから
オレンジとクリームのツートンカラーからステンレス車になった
のは何とも不思議な気持ちでした。
学生時代の東横線と井の頭線にタイムスリップ >>45
ええ話しじゃのう。
国鉄分割以前くらいまでは、国鉄も私鉄ものんびりしてた。
鉄道マニアではなく鉄道ファンと呼ばれていたよね。
サボ盗む様なやつもいたかも知れんが見かける事も無かったし。 鉄道線1億の赤字だそうな
もうすぐ鉄道線が無くなるかもなあ 準急や急行を廃止したのが裏目に出たようだな。
乗降ゼロに等しい駅にチマチマ停まってりゃ嫌気も差すわ。 昔 日本初のアルミカーを導入した。
日本で初のカルダン車の他社譲渡。
今 日本初のオールステンレスカーを中古車としてだが、導入。
しらさぎ や くたに が導入された当時は、みんな
よもや こんな時代が訪れると思わなかっただろうな。 >>83
当時は労働争議頻発で、会社が10年後持っているって思った奴がいなかっただろう。 >>81
石川線準急・浅野川線急行は、30分ヘッドを維持するための
消極的選択でもあったんだけどな… なつかしい写真をスキャンしてみた
ttp://fx.104ban.com/up/src/up23080.jpg >>84
労使紛争だけでなく、労々紛争や使々紛争もあったよね? >>75
北鉄航空のツアーは、金沢駅西口出発が7:30以降にしてくれたら、
始発のバスで間に合うのだけど。
鉄道懐かし板か。
本当に懐かしくなる。
>>73
子供の頃は、そうだったね。
>>71
金沢は空襲の被害を受けなかったからね。
路面電車はあったみたいだけど。
>>65
小松線はいつの頃だろう?
>>63 >>64
昔は急行があったね。
準急Aも準急Bも押野と野々市を通過。
準急Aは馬替を通過でなかった?
登山シーズンは混雑していたらしいね。
釣り掛け車しか居なかった時代の石川線は、日中の全列車が準急でしたな。
30分毎の等時隔運行を実現するための施策で、通過駅に関してはAとBで
振り分けを行うことで、西泉・押野・野々市以外の各駅は必ず60分毎に乗車でき、
主要駅(というか大半の駅)は約30分毎の乗車チャンスがあったのな。
それが、東急7000系投入で走行性能がアップし、一方を各停化したとしても
30分の等時隔運行が可能ということで日中の各停運行が復活することとなり、
その後「出来うる限りの乗車機会拡大」ということで全列車を各停化して、
運行間隔を24〜28分という不等間隔としてしまい、利用客を逃がしたという流れ。 昨年の話ですが北陸旅行行った際羽咋から巌門まで北鉄能登バスで移動。
走行する車窓から(県道か国道かは失念)歩道とは別に一段下がったところ、
付かず離れずといった距離感でサイクリングロードがずっと続いていた区間が
あったんだけどもあれは旧能登線の跡なのでしょうか?
場所は羽咋の市街地抜けて何とか神社(地元では大きそうな神社)を過ぎたあたりの
丘陵地帯。三明の停留所よりは手前です。 >>91
そうです。能登線の後は、基本的にサイクリング道です。
神社は能登一ノ宮駅のところですね >>92
やっぱりそうでしたか!有難うございました。
現役時代を知らないのですが存在は知っていたのでいかにも・・・
という感じだったので質問させていただきました。
あまり関係無いですが松本清張の「ゼロの焦点」にはよく北鉄沿線が登場しますな。 能登一ノ宮に加賀一の宮
石川県内の一ノ宮を二つとも沿線に擁しながら
両方とも廃止、か。
どっちも縁結びの神様なのに見放された感が強いな。 >>94
日本国の神社の中の神社
出雲大社へいく鉄道すら廃止になる時代だからなあ。
福井の永平寺線も似たようなものだ。
戦前によく作られた参宮鉄道の類ですね。
神都線や琴急、琴参、大仏鉄道もその仲間でしょうか。
現役ではことでんとか、近江ガチャコンの多賀大社線とか。 その昔、人の移動は参詣か湯治ぐらいしかなかったから
石川線や能登線、加南線の存在価値もあったのだと思う。
都市間連絡や、支線でも行った先になにかがある鉄道でないと
この先生きのこることは難しいのではないか。
>>97
石川線や能美線は貨物輸送がメインだったんじゃ? メインじゃないが、遊園地も忘れないでね。
粟ケ崎遊園はさすがに知らないんだが、
手取川遊園にはガキの頃、何度か行った記憶がある。 >>98
石川線は鶴来ー神社前(後の加賀一の宮)を金名鉄道から買収したので
参宮鉄道と言えなくもない。
能美線はここでは語られていない(見間違いか?)
>>99
手取遊園は、開園後の設備投資を怠った悪例として知られている。
設備投資がなければ飽きられるのも早いという典型である。
粟ケ崎遊園は平澤嘉太郎の肝いりで開業後も様々な設備投資を行ったので長続きした。
戦争がなければ生き残っていたかもしれない。
本当に、野町の駅前へ市内線が乗り入れていたのか?
あんな狭くて急勾配?・急カーブの野町(三)交差点から
よく電車が入れたなと思うんだけど・・・ 軌道用の車両って、自重が軽いから意外なほど登坂能力があるらしい。
急カーブの通過も車両が小型なら問題は少ないし。
まあ、この「小型」ってのが災いして廃止になっちまったんだけどね@市内線 >>103
確かに…京都の七条大宮や九条高橋、塩小路高倉など
現存する跨線橋の坂って結構きついですものね >>105
66.7‰と言えば今は亡き京津線九条山付近が有名でしたが、
都電の車両もそうなると随分「能がいい」「よう駆ける」電車なんですね。勉強になりました 暴走脱線事故が発生したことがある、兼六坂はどれだけの勾配なんだろうか? 5%(=50パーミル)以上であれば
標識が付くはずなので
25〜40パーミル程度であろうと推測。
列車であればきつい勾配だが
単車なら何とか上がれるといった所か
一度GPSで計測してみよう。
北陸鉄道三大無策
一.金沢市電廃止
二.加南線廃止
三.石川線存続
市電を廃止しても交通渋滞緩和につながるどころか車の増加でむしろ激化
バスレーンの確保で結局公共交通機関のレーン占有は変わらず
加南線の廃止を見越して大聖寺動橋の線引きに働きかけを行わず共倒れを誘い
路線が無くなり加賀温泉からの直通になった事で加賀の地域経済そのものまで落ち込む結果に
廃止しなくても良い線を廃止し、真っ先に廃止すべき線を後生大事に残した結果が
石川の先の見えない都市交通の今である >>111
一
「レーン占有」は確かにそうなのだが
市内線電車はただ市内中心部を通過するだけではなく
「客の乗降」があることを忘れてはならない。
今の時代、道路の真ん中に安全地帯を置き
そこで電車の乗降をさせるのはある意味危険な行為である。
道路中央にあったレールを道路端に寄せるなどの対策をすれば
生き残る道はあったかも知れないが。
二
加賀温泉駅の新設と、国道8号が加南線の命脈を断ち切ったと言っても過言ではない。
当時の国鉄は、優等列車が大聖寺・動橋・粟津と千鳥停車する不便を
解消したかったのかもしれない。
国道8号も、鉄道との平面交差を避けたかったに違いない。
三
当時の北鉄は、鉄道線全線を一気に廃止しようと目論んだのである。
自治体の慰留により、浅野川線と石川総線だけが残された。
石川総線の悲劇は、当時より過疎運転状態だった能美線と金名線がくっついていたことである。
石川総線そのものを後生大事にしていたかどうかは疑問である。
でも今生き残っている石川線沿線はまだ田んぼ多いだろ。住宅化が進んで道路が混雑しだしたら
「やっぱり石川線を残しておくべきだった」とか言われるんだぜきっと。
伊予鉄森松線みたいに。 市街地は四十万のあたりまでは来た
北鉄にとって計算外だったのは金大移転と山側環状の完成で
市街地が松任鶴来方向ではなく田上涌波方向に広がってしまったことだろう
たぶん沿線にはこれ以上宅地は増えない
いま商圏の開発が盛んなのが
かつて金石線があった市西部地区というのも皮肉というか・・・
石川線、今でも客室乗務員は乗ってるの?
単なる話題作りの一発花火?!
外部の意見を封印して、自社が他社のパクリを採用
お客が増えるはずがない 連休に金名線の廃線敷き(手取キャニオンロード)をチャリで走ってみた
随分急なカーブが何箇所もあったけど、本当にあそこ走ってたのか?
釜清水のところは、明らかに違うってわかるけど・・・
正直、県や北鉄が「石川線も自転車道路で十分」って考えるのも
無理ないかな・・・と思っちゃったよ・・雨さえ降らなければ。 キリコの邪魔だとか言う理由で助成金もらって叩き壊された能登線は自転車道にさえなれなかった…合掌 >>118
晩年、白山下行きの電車に乗り合わせた時
釜清水を過ぎた辺りで電車が勾配を上れなくなり
やむなく電車を降りて下吉谷まで線路の上を歩いた事があるよ。
カーブはさほどでもないが、勾配はかなりきつかったと思う。
>>119
ここで言う「能登線」はのと鉄道の方?
それとも「北鉄能登線」のこと??
>>120
そう言えば北鉄にもありましたね。スレチ失礼。
分かってて聞くの?という気もしますが当然のと鉄道の方です。
>>121
だよね。
北鉄能登線は羽咋健民自転車道になってるし。
北鉄の方の「能登線」は、「健民自転車道」になってるね
「能美線」の方は、どうなってるのか知らないけど・・・
やっぱり、釜清水から先へ行かなきゃ意味ないか・・・
時間の関係で、釜清水までしか行けなかったんだ
あそこまでは、ママチャリで楽に走れたからね
急カーブは、「金名橋」の手前あたりにあったよ
>>123
元・手取中島停留所あたりだな。
最初に開通した金名線の終点(起点は白山下)である広瀬から
鶴来方面へ延長するためにああいう線形になったのであろう。
当時(今もだが)広瀬の集落から北の手取川左岸は何もない所で
現在県道が通っているような、直線での延長は考えなかったと思われる。
ともあれ逆S字カーブを描いて手取川右岸に渡る鉄橋ができた。
急カーブとは言っても小柄な車体がゆっくり通る分には何の問題もなかったはずである。
「白山下」「鶴来」「野町」
あの手書き(?)の行先板は渋かった。
金名線一度乗ってみたかったなぁ。。。 小松線の話ですが、鵜川遊泉寺にあった変電所は回転式整流機だった、駐在してた職員に断って写真撮りました。ピカピカに磨きこまれた明電舎製の整流機かっこ良かった。 >>125
「加賀一ノ宮」もあったぞ。
今思い返すと、よくあのような所に電車が走っていたものだと思う。
その昔手取峡谷方面に遠足に行った時、ものすごく深い谷底が見える橋を渡ると
突然踏切が現れてびっくりしたのを覚えている。
まさかこんなところを電車が通っているとは思っていなかったから。
>>126
「変流器」なのでわ?
鵜川遊泉寺の回転変流器は廃止後、明治村のN電用に転用された 今更だけど昔加賀温泉郷に走っていた鉄道線の跡地を調べていたら、
すごい所を走っていたと分かったとたん益々興味を持った。
機会があったらまた現地を訪れたいと思った。 >>129
どのあたりが「すごい所」だと思われましたか?
>129
15年くらい前に、バスで当該全路線制覇した。
山中のバス車庫には、まだ枕木柵が残っていた。
改札跡が残る那谷寺で降りる余裕がなかったのが惜しい事した。 >>131
おお、これは強者!
山中はすっかり様変わりしてしまいましたね。
那谷寺は今でもバス停留所として機能しているようです。
山代東口や片山津のターミナルにも足を運ばれたのでしょうか?
で、能美線の方は鶴来以外
もう跡形もなくなっちゃった?
いずれ、石川線も自転車道路になってしまうのか・・・??
いや、何でもない 路線跡って圃場(ほじょう)整備等で田んぼになってるから分からないようで実は分かるんだな。
Q:何で分かるの?
A:昔の航空写真がネットで見れるからどこを走っていたか分かるんだな。
Q:たとえば?
A:連絡線の宇和野・勅使間とか!
>>133
能美線は灯台笹・加賀岩内・徳久・五間堂・加賀福岡にモニュメントあり。
辰口温泉附近には「のみでん広場」があり、3761が静態保存されています(中にも入れます)
石川線は・・・旧金名線区間はそのほとんど全てが「手取キャニオンロード」という名の
自転車専用道路として開放されています。なお、近年まで残った鶴来−加賀一ノ宮間は
架線やレールがそのまま放置プレイ状態です。旧本鶴来駅附近でレールは分断されてしまい
現有車両が加賀一の宮方面に進入する事は不可能です。
>>132
行程メモがすぐ出てこないので何だが、こんなルートで制覇できたと思う。
粟津→山代→動橋→片山津→動橋→山代→山中→大聖寺
事前に入手した北鉄バス時刻表で綿密に行程を組立てて動いたんだが、
確か粟津駅前9時台出発だと、全ての乗り継ぎ待ち時間が30分以内という
高効率で回れたんだわ。
山代→片山津を乗換なしで抜ける路線に乗れたりして。
あと、>131修正
山中じゃなくて山代東口で、まだ枕木柵があった。
で、山中はターミナル前にあった「駅前薬局」「駅前駐車場」。 >>136
すごい!!
バスが定時に来る事が大前提ですが。
ルートは加南線の代替バスみたいな感じですね。
加南線沿線めぐりは鉄道廃線跡よりも
各地の廃ホテル跡が気になってしようがないっす。
しかし、今は加賀市内の路線バスはほとんどなくなっちゃったからなぁ・・・・ 能美線といえば、
最近何気なく読んでいた「がきデカ」で、何回かにわたって
当時現役だった能美線の駅が扉絵になってて吹いた >>139
加賀一の宮と岩本が出ていたのを覚えているよ
作者の山上氏が金沢在住だったからやね あまり能登線の話題は出ませんね。
一度だけ行ったことがあります。といっても羽咋の駅のホームからいろいろ車輌を撮っただけだけど。
キハ07タイプの気動車とか(のちに関東鉄道にいった)04タイプのとか。あとL型のDCもいたなあ。 >>141
北鉄唯一の非電化路線で
国鉄の乗り入れとかもあったのになあ。
鉄道敷設法の通り三井まで、あるいは輪島まで連絡していれば
また違った展開があったのかも知れないが。
>>142
最低でも富来まではほしかった。
でも、長いトンネルなしで敷設するとなると、三明が限界だったんだろうなあ・・・。
石川の私鉄でトンネルなんて
能美電の天狗山とか、尾小屋鉄道くらいしか例がない。
外浦地区は高い山はないが鉄道を通すには辛い場所だったのだろう。
三明までのルートでも掘割とか築堤を多用していたようだし。
ちょこっと脇道にそれて巌門へ行くルートとか考えなかったんだろうか。
ってか、あのあたりにそれだけのことができる
有力者いたかな・・・?? >>140
そうだったんですか
ご教示ありがとうございます
私が見て驚いたのは灯台笹でした >>145
外浦には益谷秀次に匹敵する人物はいなかったということか 能登半島は地盤がもろく、道路でさえも不向きなんだそうな
まして、多くの乗客が望めそうにない
鉄道の建設・維持・保守はとても無理だったんじゃないか? >>148
>多くの乗客が望めそうにない
今では鉄道があったことも信じられない惨憺たる有様だけど
昔はまだましだったのでは?
能登観光がブームだった時代もあったらしいし
珠洲道路も特急バスも能登有料も無くて、R249も未整備の頃とか 沿線案内図に
大聖寺から吉崎に至る路線を計画線として表示してた時期があった 我が国初のアルミカーと我が国初のオールステンレスカーが足跡を残した何気に凄い北陸鉄道! >>151
確か後位ドアより後ろだけ、ノーシルノーヘッダーになっている
変な車なんだよね。車体の種車も不祥といいます。
側面だけ見ると、小田急のHBとか、東武のデッカーみたいな印象です。
クハ1101の車体載せ換え年次(昭和30年代前半くらいだっけ?)あたりの
私鉄各線の鋼製車の廃車をつぶさに当たれば何か見えてくるかも。
個人的には事故復旧か何かの折に廃棄された、どこぞの私鉄の事故車の
旧車体を叩き直して、車体短縮のうえ再使用したのかもしれない、と思ってます。 小さい不鮮明な写真しかなかった頃は
「富士山麓かな…んでも後ろが余るな」とか思ったりしたけど
今回の写真で見るとやっぱり別人の印象で>クハ1101 >>153-154
意外に種車の車体をテンプラにして延長しただけとか、そういうオチなのかなあ・・。
そもそも種車の画像がなくて、よくわかっていないわけだけど。
西脇氏の書いてあるとおり、どこか別の会社からもらってきたとなれば
北陸鉄道の車両史上、国鉄か東海地方の私鉄ということになるだろうね。
富山港線あたりの買収国電なども疑ったけど、近似の車両も特になく・・・。 1101の正面がゲテモノ臭漂うのは窓寸法が全部違う点だな。
浅野川線のモハ3563はP誌の記事など見ても,除雪の際位にしか走らないということだったのが,昇圧前には良く走るようになった。
温泉電軌の生き残りという点でも,何としても乗ってみたい車両だった。
名古屋への出張の帰り,金沢まで無理やり寄り道して浅野川線に乗った。
運良く3563に乗れた。
朝ラッシュが一段落した後の内灘行。
びっくりしたのは天井灯。
国鉄の特急車両のようなアクリルカバー付の立派な蛍光灯だった。
重厚なニス塗りの車内と,特急列車のような照明のアンバランスが良かった。
>157
末期はちょくちょく出てきたね。
浅野川線は昭和30年代の小型車ばかり集まっていたけど、もっと大型の車両で運営したほうが良かった気がする。
今はそうなったが。 近代化(?)の際に車内放送用スピーカーと共に取り付けられたものか
あるいは元から蛍光灯だったのか
興味は尽きない。
>>158
例えば名鉄の中古を入れたりすると、断面が大きいので七ツ屋のガードがくぐれない
>>159
元は白熱灯で、1987年に石川線モハ3700の廃車発生品を流用した >>160
浅野川線昇圧直後
8800/8900系は七ツ屋をくぐれたの?
金沢駅高架化以降であれば状況は違うかもしれないけど。
>>161
JR高架化が1990年、昇圧が1996年だから問題なし >>162
じゃあ1990年から約6年は
名鉄から来た車両も七ツ屋の高架橋下を通れたのかも。
時既に遅いかもしれないが。
金沢駅高架化 1990/6/5
石川線7000系営業開始 1990/7/24
モハ3740・3770解体 1990/12ごろ
そういえば石川線に東急7000が入る直前くらいに、名鉄3700が北鉄へ譲渡されるというガセネタがピク誌に出たけど、あれは何だったんだろう。
投稿者は常連というか有名な人だったけど。 誰か昔の浅電金沢駅及び七ツ屋・金石線中橋駅の配線図分かる方教えて下さい。 >165
話が飛んだんじゃないかな?
名鉄3700は車体はまだ新しかったけど、足回りがぼろぼろ(というか北鉄3740・3770の元の足回りを利用) >>166
1960年代前半の金沢駅周辺
国鉄の配線は省略
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kousha-_-/clip2/img/1955.jpg >>168
ジオラマなど作る時の良い参考になります。
ありがとうございました。 30年ほど前の冬、加賀一の宮のYHに泊まって朝一の白山下行に乗った。電車は1両。
空いているかと思いきやスキー客で阿鼻叫喚。体を捻じ込むように辛うじて乗りこんだ。
白山下からスキー場への乗り継ぎバスも阿鼻叫喚で乗りこぼれた人多数。
車掌の話ではあの小さな電車に150人位乗っていたらしい。
折り返しの野町行はガラガラだった。 加賀八幡駅のつっかえ棒に噴いた。
今なら即建て替え命令が出るんだろうな。 >>168
白銀町−六枚町間の複線区間はなんのためにあったんだろう。
昔は六枚町で折り返してたとか?
個人のホームページでしょうか「地方私鉄1960年代の回想」と「壊想石川の鉄道」で昔の写真が紹介されています。
それ以外に紹介されてる写真等ありました教えて下さい。 >>176
なるほど。
昔は駅で単純に折り返してたのか。
浅野川線と繋がっていたということを考えると納得できる話だ。
で、ループができた後も複線は残されたと。
>>172
もとは白銀町で右折して金沢駅へ行くルートが複線だったが、1945年のループ化の際に単線になった。
白銀町〜六枚町が複線なのは金石線から市内線に乗り継ぐ乗客の利便を図るため、
六枚町から金沢駅へ行かずに白銀町方向へ折り返す臨時系統があったため。 市内線が浅野川線とつながっていたのには、海水を運ぶ事も関係していたのではなかたっけ?
石川線と市内線が野町でつながっていたのは市内線の上り線側でしょ?
市内線の車両が西金沢の工場へ行く時は一度折り返し地点まで行ってたって事なのかな?
それとも広小路あたりに渡り線があったとか。知りませんか? >>179
ttp://hwm3.wh.qit.ne.jp/natsukashi/QGK-natsukashi/syokin-sen/twi-syokin-sen/s-twilight.html
ttp://6.pro.tok2.com/~haasan55/kanazawasinai.htm
たしかに写真を見る限り、渡り線はなさそうだなあ・・・。 野町の画像を探していたら、見つけた。
クハ1151の画像なんてはじめてみたは・・・
ttp://blog.goo.ne.jp/kiza1/s/n0056/1 >>179
市内線と浅野川線がつながっていたのは塩水を運ぶだけでなく、
海水浴輸送で市内線車両を応援に出す時などにも使われた。
亘り線は野町4丁目の併用軌道部分にあった。
市内線の工場が本工場、西金沢が第二工場という位置づけだったので、
原則として市内線車両が西金沢へ来ることはなかったが、
鉄道線車両の大がかりな改造を伴うような工事は市内線の車庫で行われ、
能登線のキハ5251(←国鉄キハ07)も野町経由で回送したが、
行き(改造前)はまっすぐ行けるとしても帰り(改造後)は
野町駅前の乗車ホームがボギー車(市電の)1両分+αの長さしかなかったので、
4丁目の亘り線で転線し、そこから先は逆線を進行したのだと思う。 >>178
ふむふむ。
詳細な情報をありがとう。
やはり六枚町でも折り返していたんだな。
徒歩連絡とはいえ金石線との接続も考えられていたとは。
>182
金沢市内の道路を走行するキハ07か。冗談みたいな話だ。 甲種輸送みたいなもんだな。
軸重制限があっただろうし
トレーラー代わりの車両に引かれてしずしずと移動
みたいな。
昭和初期の段階で金沢電軌・温泉電軌・浅野川電鉄が合併して路線接続していれば話は変わったんだろうな。 >>186
そしたら、全路線、松金線みたいに昭和20年代に廃止
>>186
少なくとも温泉電軌には繋がらないだろう。
北陸本線と並行しない別路線でもあれば話は別だが。
>>188
温泉電軌と能美電がそれぞれ小松へ乗り入れる免許を申請して認可も下りたが、
期限内に工事に着手できずにお流れになった。
それとは別に松任から南下して辰口経由で小松に至る加賀電気鉄道というのが免許を申請したが、
認可が下りなかった。
これらが実現していたら白菊町〜山中の直通電車が走っていたかもしれないが、
現代まで生き残ることはできなかったと思う。 そして大聖寺から吉崎、東尋坊口、三国から京福に乗り入れて福井まで。 京福・北鉄で金沢〜福井連絡か。
西の北陸線普通無視政策を見ているとかなり善戦しそうな気がする。 妄想し続ければ
輪島まで国鉄を乗らずに行ける気がしてきた。
地鉄、加越能、北鉄、京福、福鉄直通、宇奈月温泉発武生行き 佐伯宗義が京都電燈と提携して北陸の私鉄を手中に収めていれば武生新どころか出町柳へも行けたかもw 倶利伽羅峠・牛ノ谷・杉津・中ノ庄・江若鉄道旧線も使って富山〜大阪まで、と妄想してみる。 戦争で負けず、モータリゼーションが起こらなくても各社異夢同床だから、
(金名なんか寧ろ対抗なるのでは?)難しいのでは?
寧ろ北陸新幹線開業後の北陸本線の3セクが、経営難で接続各社が死活の為止む無く出資強要させられるようになる事態とかの方が起こりそう。 第三セクターはどんな名前になるんだろう?
「ほくりく」はつかえないし
「ほくえつ」もすでにあるし
「かえつ」か「ほくしん」か、はたまた「にほんかい」か・・・
「いしのかわ」とか「とみのやま」だったらやだな。
もし戦前 金名鉄道が名古屋まで全通していたら北鉄を構成した各路線も概ね名鉄(そもそもこの名前自体どうなるか・・・)の一部になっていただろうか? 金名鉄道が全線開業するためには白山にトンネルほらなきゃいけないわけで・・・。 >>198
石川県内はのと鉄道に引き取らせる悪寒。 >>203
しかも引き取るだけで大事にしないで廃止する予感 >>201
名金線は全通したが
細切れにされた挙げ句
末端区間のみが残るという結果に。
金名線も多分そうなっただろう。
>201
金名鉄道は越美南線との接続で名古屋への直通を狙っていたので、全通すれば石川線ともども戦時国有化でバイパスとして強化されていたと思われる。
そうなれば越美南線自体の第三セクター化もなかっただろう。 「ゼロの焦点」テレ朝でやってる。 門前とか出るのかな >>207 近年時代考証に関して自動車は随分マシになったよな。
乗用車が、アメリカ車がメインだから可能な所為もあるが、・・・
(まあ ソレでも昭和32年の設定に仲谷美紀の自家用車に37年くらいのヒルマンミンクスとかあるが、)
市電は、セットとしては頑張っているとは思うが・・・小さすぎでは・・・。 >>206 飯田線みたいな存在?
>>207 レプリカの市電 いかんせんオヘソのヘッドライトが小さすぎた。外国の電車みたいだった。 あの市電横幅広いな
もう少しスリムにして欲しかった >209>210
いつもの上海オープンセットの市電に、北鉄らしい色を塗ったガワを付けたんじゃない?
それより、元近鉄特急が発車する「鶴来」に爆笑した。 小松電鉄が戦時統合に頑なに抗って合併を拒んだ理由って何?
単独でも十分経営できるくらいに利益を出してたのかな? >>212
浅野川電鉄と違って言うほど頑なではなかったような。
まあ戦争が激化しなければ鵜川遊泉寺以遠の延長も予定通り行われたであろうから
勢いはあったのであろう。
>>212
あまりに経営が酷くて北鉄側がいやがったんじゃなかったっけ? むかし小松線でハ二ベ岩窟院に行ったが「電車で来たんだけど入場料おまけしてくれるの」と聞いたら50円引きにしてくれた。
鵜川遊泉寺駅の発車時刻表だが発車時刻表より到着時刻表の方がやたら目立っていたと思う。 小松線懐かしいな、2列車運行の時、対向列車がノッチを進める度、車内灯が暗くなりかくんとスピードが落ちた、原始的な電気鉄道の仕組みを体感できた。客がいない駅は通過してたのは法令的にどうなんだろ?
能美と鶴来をつなぐ天狗橋の架け替えに伴う、
能美側の取り付け道路が完成。
旧能美線のトンネル跡が見やすくなっていました。 先週駆け回りで石川線に乗りました。いろいろと心残りがあるので近いうちに必ず再訪します。
昔は大きな路線網を誇った地方私鉄ってイイですね。 金名線を見て来ました。木造のホッパー施設、道路側に倒壊したりしないのだろうか?よく毎冬の積雪に耐え続けてるなと思います。
終点のサイクルステーションのトイレが綺麗で助かった。周辺に自販機の類が一つもないのは商売っ気が無さ過ぎ。銅像に献花されてるのには感心しました。
末期の小松線に親に連れられ乗った時、車掌さんがいやに
アットホームだったので子供ながらむず痒かった。
帰りの鵜川遊泉寺で寸でのところで乗り遅れ、無情に電車は走り去った。
次の電車で母がそれを車掌さんに話したところ「なら叫んでくれれば待ってたのに(笑)」と…
すれ違いもない時間帯だったので自由度があったのでしょう。
おかげで私は鵜川遊泉寺のヤバげな駅舎をくまなく探索できて満悦でした。
もう車両が入る事はないであろう側線に車両の姿を想像しつつ、また
駅の先の奇妙なカーブに不審感を抱きつつそれが最初で最後の小松線でした。
今は疑問も解決しました >>216
車掌さんが降車客の有無を完璧に把握してたし、
(廃線間際にオタが群がるまでは小松発の便は乗客全員にどこで降りるかを
聞いて回ってた。通勤通学の定期客は顔馴染みだからシカト
鵜川遊泉寺発の便はどっちみち車補を発行するので問題なし
往復切符は見た事がない、あったのかすら解らない)
降車客なしでホームが無人なら通過しても問題ないでしょう。
ただ、早着早発してしまう事はよくあったようで、
ですが、たった5kmちょいの短い路線では大したことなかったのでしょう。
ちょっと酷い場合は加賀八幡で時間調整してました。 小松線なつかしいな。
小学生の時、俺のいた町内の児童は冬期だけ電車通学してたわ。定期も買わされた。
沖〜打越の一区間だけw >>224
第一小校下ってそんなのがあったんだ
能美小からは、川の向こうをトコトコ電車が走るのを見えてたけどねえ 小学生の頃、廃線の話が出た頃になけなしの小遣いはたいて金沢から乗りに行ったな >小松線
加賀八幡の廃屋みたいな駅舎と、電車の揺れに合わせて行進する吊革が印象的だったのを覚えてる 昇圧前の浅野川旧型と地下前の浅野川京王に乗ったなぁ。
大井川時代のカラー写真を見ても
河南くたにはいい車両だな。 くたにとしらさぎは富山地鉄に引き取って欲しかった。 >229
600V車だし、もし昇圧改造して使っても名鉄から大量に買った時の
雑形一掃時にいっしょに廃車されていたと思うぞ。 富山地鉄か遠州、京福時代の福井支社くらいかな。
6000系のスペックは
高速運転に適さないから改造は必須だし
観光って意味でも大井川で合ってたと思うよ。
ただくたに廃車後もどこか引き取ってほしかったなぁ。 >231
「くたに」は大井川で昇圧改造されていれば、もっと後まで残ったかもなぁ。
北鉄としては最先端の電装系だったのが、昇圧改造を阻んだらしいから。 >>233
改造に関しては、シンプルな構造の方が実施しやすい。
既存回路をいじるにしても、機器載せ替えにしても、元がシンプルなら容易。
専用設計品や特殊機器を使用している場合、改造そのものができなかったり
別機器に載せ替えもスペースの関係で出来なかったりと、何かと厄介。
大手私鉄でも1,500V昇圧に際しては、600V専用車の改造なんかでは
既存機器類は全て捨てて、簡素な制御システムに載せ替えたりしてるしね。 >>229 幾ら北鉄の最優秀車でも富山地方鉄道は買わない。
プロパーでまとまった量数のロマンス車新造する力もあったし・・・
北陸の地方私鉄は、大体名鉄がらみだけど 近親憎悪というか地域ごとの競争意識みたいなのが強く
面子とかもあって本当は条件的に悪くなくても同等の立場のライバルのお下がりは嫌がるような・・・※
強いて考えられたとするなら福井鉄道あたり?ただし路面区間とか特殊性があるから大井川みたいな放置温存でなく魔改造必至だな。
※そこいくと 同じ中部地方でも太平洋岸の静岡県各社は、比較的(西武、小田急、東急等親会社の代理戦争で翻弄はされたが)仲良しなのは興味深いね。
また 同じ地方私鉄でも 大井川や弘南くらいソコソコ規模があってもあまりプロパー新車は購入せず積極的に中古購入する会社とか(逆に零細な津軽はプロパー車主体)
各社各様に政策に独自傾向があるのは興味深いな。 >235
確かに、言われる通り北陸の各社相互間での車輌譲渡の実例は極めて少ないですね。
北鉄の金沢市内線→福井鉄道の3輌以外に、思い浮かびませぬ。 >>235
地方鉄道からの譲渡だと、両数が揃わないなどの面もあるからね
その点大手からなら、一定両数が安定して譲渡を受けれる面もあるし、品質も安定しているからね
地方私鉄発注車の他地方私鉄への譲渡だと、電車だと事例は少ないね。
長電1100系と静鉄300型くらい? 三岐から琴電に行ってスペックダウンされたヤツ
(くたに号と違って動力車として再起したけど)とか
福島交通から栗原電鉄に行ったヤツとか。
静鉄300は自社長沼工場製だっけ? あそこからは他にも行ったような? あと静鉄からは100が日立と熊電に、350がいってた。長沼工場製。
伊豆箱根からは大井川に1000が2両行った。西武所沢製。
余談だが'94年ごろ見たら、妻の縦樋が錆びて途中から無くなってた。
その後、悲運の引退までの間に直したか知らんが… スレ脱させて申し訳ないが、 伊予鉄や もう既に過去の出来事だが、長電が、大多数の大手私鉄中古車購入以外に
1編成だが新車を手当てしたのは、いじらしいよな。(心意気を感じる)
比較的規模の大きかった北鉄が最優秀車だが、そのままでは他線に転用が利かない 6000、6100を、
切った張ったとかで弄らず潔く他社に売却したのはこの電車に対する特別な愛着があったからかもしれないな。
北鉄は労使紛争がなければもっとやりようがあった気がするな。
>>240
大井川は意気込みはあるんだが、それを生かせる金と人が欠けていたね。
まだあれならSLに特化して、普通の列車は適当な大手の出物にしておいて欲しかった。 >>241
長電は朝ラッシュの通学輸送が冬季にパンクしてたので窮余の策だけどね。
観光客への配慮で閑散時の座席定員を確保できる19m2扉の1100系を作ってみたが、
ラッシュ時は乗降遅延が激しく(通学生は途中駅での乗降が多い)、特に積雪期には
通勤客との輻輳で混乱が増し、単線区間への遅延波及が大問題になってたので、
抜本的な解決策として20m4扉車の導入と、最混雑列車に同形式の4連を充てることで
乗降遅延を無くそうとしたのな。これが0系OSカーの導入理由。だから増備車は無かった。
長野市内連続立体化(地下化)の際には在来車の置き換えを新造車で賄うつもりで、
20m3扉・特急車との共通設計(窓割りはクロスシート配置に配慮・高出力モーター)を
意識した10系OSカーを製造したが、在来車の大半を置き換えるには財力が追い付かず、
東急5000系の導入に走ったという流れですな。
北鉄でも、昭和50年代に金沢市が企画してた野町−金沢駅間の地下鉄新設構想が
実現していれば、色々と動きがあったんだろうけどね… >>243
金沢は空襲食らって1から作り直していたらまた話が変わったかもね。
浅野川電鉄の合併も破談していただろうし、都市再建で白菊町〜金沢に鉄道線を作ったり、道路拡張で市内線の規格が向上していたかもしれない。 そういえば、戦前の広島の街を見ると、
なんとなく金沢に似ているんだよね・・・。
狭い道に電車が走っていて。
もし市内線がもっとも高規格で郊外線と直通していたら、
金沢は郊外線が4路線あったから、だいぶ違っていただろうなあ。
雪の問題は考える必要があろうが。
>>245
能登線の車両すら金沢市内線経由で都心の工場に入れて検査していたのだから、路線を専用軌道化したり、道路幅を拡張して全路線の車体限界を拡大していたら利便性は向上していただろう。 >>246
都心って兼六園下の市内線車庫のことですか?
市内線車両の整備関係は西金の工場まで回送するって聞いたことあるんですが、
能登線車両は都心の工場なんですか?勉強になりました。 そう言えば、昔金沢市内線で脱線横転事故があって死者が出た事があるとか。
それで単車は一斉に使用停止になったと聞きました。 >>249
工場は市内線廃止までは市内線車庫に併設されていた(本社も) >>250
乗客の減少だけでなくそれも廃止に向かっていった原因でもあるのでは?あと撤去費用の件も。
その撤去費用を市に出してもらったのに何年か前に聞いた話、六枚町交差点付近には今でも線路が埋ってるとか?
乗客よりも既に自動車ユーザーの声が圧倒的に上回ってたんだろう
末期の軌道を見たらもはやガタガタ、よく脱線もせずに運行してたなというレベル。
(そりゃ軽微な事故は数多あったとは思うが、図書館で
新聞のバックナンバーでも見れば少しは分かるかな)
県も市も、そして国も道路整備一辺倒にシフトしてた時代だから。
モータリゼーションの勢いが余りにも激し過ぎて
ゴチャゴチャ言ってられるような時代ではなかったのは分からなくもない。
ただ、北鉄能登線はせめて能登一の宮までは残して欲しかったな
年末年始のみ運行という形でもね、廃止の翌年からあそこは地獄と化した。 >>253
鉄道雑誌ですらもう終わりじゃね?的な雰囲気であふれていたからな。
まあ北鉄は空襲で作りなおす機会がなかったのと労働争議がひどくてインフラ投資するどころじゃなかったというのが問題だな。 >>250
こと、北陸鉄道の場合は、労働争議が全てにおいて悪い方向に向かわせたと思う。
そして、その後に入った株主名鉄の意向。
最初から金沢市内線を潰して、自社の岐阜市内線に車両を転用するとか考えていそう。 >>255 名鉄は方々で地方私鉄の親会社として君臨している割に車輌供給に関してはシブチンだったよな。
福井が名鉄の路面電車の新車試用したのや、廃止後 譲り受けたのは異例中の異例だな。
連結子会社の豊橋鉄道市内線が、新目の車を何一つ貰えなかったのは意外だった。
北鉄の労使紛争ってナニですか?
合併前のココの会社の就労条件格差是正で揉めたとか(組合対組合も含めて)
今でも関東鉄道は同じPRU加盟っでも常総と鹿島がそれぞれ別組織で加盟してるし・・・
やはり多数の組合だとまとめにくいのかな? >>256
合併前の会社によって出世・給与・勤務シフトなど待遇に格差があるのか、組合の主導権を誰が握るのか、どの政党を推すのか、どの議員と親しいか、地元商工会などとの関係その他もろもろで揉める。
もちろん待遇が悪いと全社上げて紛争が起きる。 囲い込みを狙って地鉄と琴電に大盤振る舞いした揚句振られたと思ったら、
グループの北鉄には車齢50年のポンコツを寄越したりなぁ…
もっとも当時は名鉄本体ですらその世代の電車が第一線で走っていたけどなw >>258 だから名古屋地方鉄道!
西武や東急の向こうをはっても・・・旧東ヨーロッパを支配したソ連みたいなものだな。
パノラマカーはさしずめ宇宙開発(スプートニク)。 ここはケバルト話に明け暮れるのかないのか?老人会か? >>260
どうせなら対空戦車ゲパルドの方がいいね。 >>259
いや、宇宙開発に匹敵するのは、全日空だろ。 某メーカーが地鉄に新車を入れたのにはあっと驚いたが、
ドアを運転室に寄せて作らないんだな、と思っていた。
久々に訪れたら、不粋なヒーターカバー(と運賃箱)に幻滅。 白山下駅から中継して、さらに中宮あたりまで
延びてたとされるナロー軌道の文献を探してるのですが、
旅客鉄道ではないだけに各地の図書館を巡ってもなかなかヒットできません。
所々に残る橋台跡なんかはネットでも稀に見られるのですが…
今後も粘り強く文献を漁り、現地探索もして全貌をとは思うものの、
何だか限界ぽい、己の無茶により自動車免許が_ト ̄|〇 某メーカーって今や倒壊の子会社の?あそこは単端ガソリン車以来
地方私鉄への売り込みに熱心だからね。近年は富士重工が撤退した
3セク向けDCに参入したし。 今月のピクトリアルに鵜川遊泉寺〜加賀佐野の延長計画の記事が載っている >>259-261
スプートニクやケバルト話や対空戦車ゲパルドとはどういう意味ねんて? >>267 >>263-265
新穂高ロープウェーは2階建てになったのに対して、阿蘇山のロープウェーは
戦前の昭和初期製造だったような。
その古いロープウェーに確か日本車輌と書かれていた。
富士重工はヘリコプター以外に鉄道車両も製造していたのですか? >>270 スプートニクは旧ソ連が、社会主義(全庶民貧乏主義)の威信を賭け
世界で始めて最初に打ち上げた(経済、文化的に圧倒的に優位なアメリカを出し抜いて)有人ロケット
要するに 喰うものも欲しい物どころか本当に必要なモノを調達するべき資金まで犠牲してまで対外的面子に拘る様子
(名鉄に例えると傍系企業どころ自社線区に遥かに高齢の旧型車輌を抱えていたのに系列外の他社の囲いこむ為優良な中古車輌を供給したり、本線系統に
派手で贅沢な車輌を導入する様の揶揄)
>>271 笑われるぞ。(造っていた 三セクレールバス 東武の電車 国鉄気動車 等) >>271
富士重工は、名門中島飛行機をルーツにする会社だからな
スバルブランドで展開している自動車部門と、H-IIAロケットなどを製造する航空宇宙部門がメインの企業だよ
過去には、バスの車体架装や鉄道の車両製造なども行っていたけどね
車体架装はUDやいすゞがメインだったので、日野車や三菱車が多い石川県だと見る機会は少ないよね >>273
むかしは、石川県の国鉄バスは日デがメインの中部自動車局管内だったこともあって
富士重工ボデーのバスがわんさか在籍していたんだがなあ・・・。
まあ、今でもちょっとは在籍しているか。
北陸鉄道グループも中古車でなんのかんのと増えているし。 北村だか呉羽は、北陸の車体メーカーじゃなかったけ?
で、シャーシーの ふそう は、名古屋(中部地方)も縄張りの三菱。 >>275
呉羽は三菱系のバス車体メーカー
日野車体は日野系(トヨタ系)の車体メーカー
日野車体はトラック車体専業のトランテックスと、バス車体専業のJ-Busに分割されたけどね
J-Busは日野といすゞとの合弁企業なので、いすゞ車のバス車体も架装している
UD車のバス車体架装は西日本車体がメインだったが、清算されちゃったからな〜 お前ら、日野車体の前身のひとつである金産を忘れんな。
北鉄バス言うたら金産のふそうR4だろうが。 >>275
北村は新潟、呉羽は富山
北村は大型バスのボディつくるのやめて20年以上経つよ。
呉羽は今は三菱ふそうバス製造 >>272 >>273
レスありがとう。
C57だったかが三菱重工製だったような。
富士重工の売上げの多くは自動車だけど、昔は車両も製造していたのですね。
現在はB787の中央翼や小型機の主翼も製造だね。
戦時中の中島飛行機の地図には、Tokyo以外にOtaと書かれていた。
能美市に落下したF-15のタンクは旧川西航空機製だね。 >>276
いすゞは株主がGMからトヨタに移ったからね。
富士重工も株主が同様になって、MR2の後継者を生産するみたい。
>>277
バスには疎いのですが、R4はR2のバス版ですか? 鶴来駅にて野町行きの電車内で発車を待つ時、
野町方から着いた電車が中鶴来方へ引き上げて行くのを見る度に、
まだあの先まで運行してるかのような錯覚に陥る。
うまい具合に姿が見えなくなるんだよね、
速度的にも現役当時とほとんど変わらない。 1年前は中鶴来近く?のうどん屋近くの踏切は残っていた。 >>273
今週NHKで放送していたロケットの番組の最後に、三菱重工、富士重工、IHI
と書かれていたような。 >>283
現在H-UAロケットの発射と製造を請け負っているのは、三菱重工だよ
ただ三菱重工だけではロケット製造はできないので、富士重工やIHIなどが分担製造しているのだよ
フェアリングカバーなんて、中小企業が製造しているのは有名な話だな >>284
レスありがとう。
MRJは三菱重工以外に、トヨタがMRJの会社に出資している関係で、
現在はトヨタが株主になっている富士重工も製造している?
エンジンはP&Wを採用するけど。
(GEと同様にP&WもIHIが関わっているのかもしれないが)
ロケットはよく分からないけど、フェアリングカバーという言葉は調べて分かりました。 >>285
MRJの場合、富士重のトヨタ資本に関係なく分担製造を請け負っているよ
日本航空機製造が製造したYS11も、国内の航空機メーカーが分担製造していたからね
航空宇宙部門を持っている会社1社では、ロケットも飛行機も製造できないからね
さすがにHondaJetクラスになれば、1社でも製造できないこともないけどね
さすがにこれ以上はスレチだな >>266
少し前の書き込みを読み返しました。
白山市の図書館になくて、金沢市立や石川県立図書館にもなかったという
ことですか?
>>277
日野車体ならわかるけど、金産は知らないなあ。 >>288
金産自工と帝国自工が1975年合併して日野車体工業になったのよ
現トランテックス本社工場が、旧金産自工の金沢工場だったのよ
金産自工の創業地は金沢氏北安江で、創業当時は中島飛行機の下請けをしていたのよ >>290
創業当時は中島飛行機の下請けをしていた
とは知らなかった。
石川製作所もあったのに、金沢はよく空襲を受けずに済んだね。
B29は戦闘機の工場を全滅させたみたいなので。 第十師団?の姫路にあった川西航空機の工場も昭和20年の6月か7月に
空襲を受けて、日本の戦闘機の工場は全滅となった。
その時に降伏していれば、広島、長崎はなかったのに。
路面電車としてはハイレベルな2300が登場してわずか6年で廃線。
随分と鷹揚な資金の使い方だなあ。 >>293 寄り合い所帯で前身企業時代の待遇等労務面で揉めた位なのだから、
営業係数の良い線区には去就や将来性に関係なく新車を手当てしろ!とか
揉めたんじゃないかな? 確か統合の核になった会社が市内線を走らせてた会社だったから、
一番優遇されてたんじゃないかな? 路面電車が中心になって統合するとバスが成長した時に必ず揉める。
西鉄もそうだったし、公営交通でも労組内・事業部内で紛争が起きた。 俺は、廃止直前の夏、加賀一の宮行ってきた。
3761・加南線6010系 >>297
2009年夏、加賀一の宮に行ってきた。
加賀温泉から堅田まで、雷鳥に乗った。 1989年5月、加賀一の宮に行って来た。
野々市の松金線跡に近い友人宅に泊まって、
朝の普通に野々市から乗った。 >>304 此処は懐かし板!!
無駄な呟き書き込みしないで こどもは、路車版にお戻りっ! 北鉄や福井、えちぜんは、地鉄みたいに北陸本線の惨セク移行後の鉄道会社に
出資(上納金を取られないの?)・・・?
それとも のと鉄道二の前は、御免こうむると・・・頑なに拒否? 松金線の資料ってほとんど残ってないんですね。
行政関係を当たってみても、例のR8三日市付近の単行の写真しか出てこない。
郷土史家が秘蔵の写真とか持っておられないんですかねえ メジャーと思われる廃線本3種と、ネットを検索したが、
バアさんの実家の最寄り駅だったという宇和野駅の写真が全く見つからん
車庫があった山代駅と、「鉄道廃線跡を歩くZ」に取り壊される前の山代東口駅は
見たけどどの向きに線路が伸びて、どこが改築後の部分なのかわからなかった・・・
宇和野駅や、山代東口駅の駅舎・構内が載ってる出版物って何かありますか? 追加
どの当たりに線路があったかを知りたい時は、国土地理院の航空写真を見ればいい。
年代別になってるのはいいが、昔のは白黒写真なのではっきりはしていない物もある。 >>310,311
すでにそのブログや某大学鉄研OBの画像掲示板も見たけど、見付からないから
出版物に頼ろうとしているのを理解してもらいたい・・・
あと航空写真は白くボケてる
婆さんに聞いて山代駅の駅舎の色は大体わかった >>312
詳しいようなので教えて欲しいことがあります。
粟津線の那谷・東栄谷間の場所は廃線跡を歩くの本に写真入りで掲載されていますが、
主要地方道11号線のすぐ横の農道になっているが、実際の廃線跡はそれよりまだ奥にある築堤のような、
少し高くなったところではないかと思うんですがわかりませんか? 加南線のしらさぎ、子供のころ乗った覚えがある@今50歳
額住宅前に小田急ロマンスカー張りの特急列車が止まっていて、
俺を白山下を超えてその先の山の奥まで誘ってくれる夢をよく見る。
もうすぐ死ぬのかな? 在横浜 (゜∇゜)
35年前くらいにいた
オタ席がベンチシートのバス知らんか? 規制解除確認、dion軍は地獄だ……ほぼROM専だからいいけど
>>313
ごめんなさい、全然詳しくないです
ウチの祖母の頭の体操もかねて聞き出した情報書いときます
山代駅は本人の表現を借りるなら
「レンガ色の屋根に、ネズミ色の壁」
「山代から河南行きに乗ると、3線ホームの真ん中に到着するが、
大聖寺行きは構内踏切をわたって乗り換えていたので、山中行きホームの
ドアしかおそらく開いていない」
「白っぽく黄色みの薄いクリーム色と、茶色とも紫色ともつかない色の塗り分けで、
結構ブツブツ(気泡)が出てる汚い塗装(本人の記憶違い?それとも旧塗装?)」
「車庫が焼けたというのはバアさんから聞いたことがある(戦時中は本人幼少のためあまり記憶なし)」
色などは特に個人の主観が影響するので、多少変色していてもやはりカラー写真が見たい… >>322
石川線(旧金名線)小学生の電車遠足で有ったよね。
最後尾の3両目がホームに掛らず、ホームの無い所でドアが開いてたwww
今じゃ信じれん話だね! まったく関係ないが、最近デビューしたアイドルグループの名前を見て
あの能登線(北鉄の)終着駅を思い出してしまった。
そんなやつはいないだろうな。 去年北陸鉄道の某駅で「白山下駅まではどれに乗ればいい?」と駅員に聞いてる人がいた スレチすまんが
恋路の宿泊施設で「珠洲から佐渡行きのフェリーに乗りたいのでここから珠洲までの行き方を教えてくれ」
って爺さんがいたぞ(昭和60年頃、能登線よりもずっと前に廃止)
奥能登に30年ぶりに旅行しに来たって言ってたが なんで『くたに』や『しらさぎ』を売ったんだ!と利用者は駅員とかに詰め寄ったらしい。 「くたに」のヘッドマークは陶器でできていたってホント? くたに号は制御電動車のほうはツリカケのトラップドアを逃げるため
運転室直後はロングシートになっていたな >>338
どうも。
じゃあ大井川に行くまえに取り外して、どこかに保管してあるんですかね… >336
ツリカケは「しらさぎ」ですね。
「くたに」はカルダンで、それが大井川入りの際にガンになって、
自走できる状態での復活ができなかった。 くたにしらさぎクラスの注目される車両があった訳でなし
元々マニアが寄りつく路線でも無かったし
沿線人口も少ないから体験談も出てこない<北鉄能登線 バスケット付きのキハが海岸線をどんぶらこー
久我美子主演の「ゼロの焦点」に映像ありー 最後まで残った車両の多くは当時の関東鉄道へ譲渡されたよね。 映画といえば「非行少女」に出てくる浅野川線。
大野川にかかる機具橋を渡るモハ3550かなんか 能美線の天狗山トンネルの写真見た時はおどろいた
低屋根化改造した身延線の立場は・・・ 列車の中で全裸に、高岡の男が金沢で逮捕
JRの列車の中で全裸になっていた疑いで高岡市の男が石川県警に逮捕されました。
男は写真をツイッターに掲載していました。
公然わいせつの疑いで逮捕されたのは、高岡市本丸町の自称・飲食店経営、駒井将俊容疑者(22)です。
金沢東警察署の調べによりますと駒井容疑者は、JR金沢駅のホームに停車中の普通列車のなかで服を
脱いで全裸になっていた疑いです。
駒井容疑者はこの様子を今年6月から9月にかけ撮影して自らのツイッターに9月上旬から中旬に
かけて掲載していました。
これを見た人がJRに連絡し、JRが警察に相談したということで、警察は公然わいせつの疑いで
19日逮捕しました。 調べに対して駒井容疑者は「脱いだことは間違いない。当時のことは
はっきり覚えていない。」と話しているということです。 金石線とかにはZパンタがあったって?
1枚シューはリンクで水平を保つヤツ。
こんにちのPT110系パンタみたいなのだ。 小松線に乗ったら、電車はみんな金石線から来たヤツになってた。
パンタまでは気づかなかった。 >>351
小松線に行く頃には普通?の菱形パンタになってましたよ 教京サーバ無戸籍交際薬剤消毒ローション帝国上層部24時間パトロール義務東京上野飲み会マックさむらいニューヨーク森林火災プライバシーチェック問題にんにくヤーフォープロデューサー確定申告ラーメン
教京サーバ無戸籍交際薬剤消毒ローション帝国上層部24時間パトロール義務東京上野飲み会マックさむらいニューヨーク森林火災にんにくラーメン
教京サーバ無戸籍交際薬剤消毒ローション帝国上昇部24時間パトロール義務東京上野飲み会マックさむらいニューヨーク森林火災にんにくラーメン
すたみな対外mlbハリウッド流出福岡内部爆発駐車近代人気低迷不振清鉄工業車関電池韓柔銀行那須鵞鳥浜松幕張ググール無断決裁広告料ドンキ成分寒孫フィルムラーメン
ユーロ再販大規模問題WHO光金アナ雪エネルギー池内牛猫公園秘密バラマキインドギニアグリー決裁ソーシャル公園★みすしる★沖縄不動産読売ニッカン奮闘鬼記者サービスシャットダウンメディア規制中国ストア自動車 柴垣の海水浴場は営業していないみたいですね
国鉄から乗り入れ列車はいつ頃の話? 担当記者主席辛味噌チャーハン
紅茶キャスターチャーハン
辛味噌yo-fo-泡吹チャーハン
獣羊なメッセージ
ETFアングル賃金逆オイル値付けタンバリンインサイド天ぷら丼タイピング >>357
見かけは新型っぽいようだったけど機構自体は簡素で
御世辞にも乗り心地の良いものではなかったとのこと。
軌道の整備が悪いことが拍車をかけていた。 >>358
昭和25-30頃だったかと、最初は金沢からナハフ2100台?1両を羽咋で北鉄のSLが
入れ替えで転線、全部国鉄客車編成はC58がオハ61系を牽引。 >>318
まだ生きてるかい?
一日数往復の小松駅と赤井?を走ったバスのことですか? 親父が金石生まれで尾山台高校まで電車で通学したと言っていたな。
どんなルートだったんだろうか。 かないわと読めなくもないけどね
北鉄の難読駅名はやはり動橋と灯台笹 >>364
中橋から六枚町まで歩いて市電じゃないの? 蚊爪もあるよ
ただパソコンやスマホでは普通に変換できるみたいだね >>360
廃止直前に撮影に行ったが、ボディも手入れがあまりできてなくて良い印象ではなかったな
小松線は名うてのミニ路線で小松を出ればそうこうしてるうちにあっという間に終点に着いてしまうものだから
乗り鉄を愉しむにしても物足りなく、つくづくツイてない路線だと思った。 昭和40年代に大規模に路線の整理をした時になぜ合わせて廃止されなかったのか、
金名線共々不思議だ >>372 地元との調整 職員(内燃免許のみ有資格者)の去就とか >>250
事故を起こしてしまったのは309号車だね。
起きたのは1965(昭和40)年6月24日の15:45頃。
3系統の小立野発野町駅前行きの運用の最中だった。
事故が起きた場所は尻垂坂(現・兼六坂。兼六園下〜出羽町間)の頂上。
当時の鉄ピクか鉄ファンだったか忘れたが、「309=三重苦」とか書かれてたな・・・。 会社の公式頁で紹介されている「くたに」の撮影場所が鶴来
全般検査で来た時に撮影されたのだろうけど、貴重な画像でしかもカラー
ttp://www.hokutetsu.co.jp/archives/14585 >>375 右側の尾灯が無いのは何故?(国鉄線内回送の都合上取り敢えず 加南線に戻す為見切り出場試運転?) たぶん何かの拍子で割ってしまったけど、予備品の在庫が山代車庫にしかなかったのだと思う。 くたにみたいなデラックスな車が登場するなんて、
いまから思えば奇跡だったのね ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーンロンロンローーン
https://www.youtube.com/watch?v=uWLnfkOLmfk京都京野菜ぼったくり取引価格
ダイエットニュース (アリババダイエット40代偽装結婚プロ級世代(ヤフージャパンタイ資金洗浄(40代ブラックバラエティ道路公団談合)
違法改造大好き在日中国人報道中国車リコール発言台湾反日飛行機会社
ヤフーネットダイエットコーヒーニュースタウンワークサービス不足まいちゃりマイカー窃盗犯
安売ドラマ魔界村ビールぼったくり販売員適正価格
適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (★民主党鳩山政権TPP問題★★
トランプジョーカー切り(放送大学消防庁コストカットアイドルマスターアップ株式会社テレビビジネス森友学園パチンコ必勝法オークション販売時代)
NHK中国人用トランプ大統領テレビニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京槍杉ギャンブル依存症顧問職員)
ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシアは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」(在日中国人3月決算)
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 >>378 大聖寺からの国鉄キハ58乗入れよりも、線内優等列車の方を選択したわけだろ。
20m車両乗入れに向けての施設改造の問題があったのかもしれないが、DC急行乗入れが実現していたら、富山からの富山地鉄乗入れ編成も併せた多層建て急行となっていたのかも? 能登線では柴垣まで乗り入れしてたから、田舎にしたらある意味画期的 >>378
まあ、何というか財源があったのでね
本気で体質改善しようとしてたのならせめて富山地鉄並みに新車を投入してないとおかしいわけだが
その後は足回り流用のしらさぎを入れただけだもんね >>382
キハ58乗り入れは、十数箇所の曲線改良が必要なため無理だったらしい。
くたに号としらさぎ号は、加南線の規格に合わせて手作り感覚で仕上げられた田舎のロマンスカー。乗客にとって、それはそれでとても幸せな事だったと思う。 >>332
少し古いスレへの返信ですが、くたに号のプレートは本物の九谷焼で作られていたとの事。
但し、プレートの全部なのか、「くたに」の文字部分だけだったのか…。
推測するに、全て陶器製だと走行時の振動で割れる事が考えられます。それと、北鉄のホームページで当時のくたに号の画像が鮮明に見られ、プレートは上下の縁取り部分が銀、「くたに」の文字が金色になっています。
(余談ですが、鉄コレでもこの箇所は誤りですね。)
昭和37年の鉄道ファン誌でも、「金色の九谷焼で…」の記載があり、それらを総括して考えると、やはり文字部分だけが金色の九谷焼だったのかと思われます。
大鐡へ譲渡され、「あかいし」に改称された際、プレートも作り変えられたわけですが、そうなると、オリジナルの九谷焼文字のプレートはどうなったのかと、新たな疑問も湧きますね。
何にしても、大鐡さんは蒸機以外ももう少し大切にしてほしいなと思います。 >>375
えっ、えっ、え〜‼
あれ、鶴来駅構内だったんですね。 山中駅だとばかり勝手に思っていました。
言われてみれば背景の山とか、構内配線とかが違っていますよね…。
旧型車と連結されていて、これまた勝手に、多客時の豪華3両編成だと思ってしまいました。 くたに号、増結して3連で走行しているのは初めて見た
手元の鉄道コレクションのくたに号でやってみたいところ
もっとも、適当な併結相手は手持ちの模型に今のところないが >>389
鉄コレの12m級小型電車を北鉄カラーにリペイントするとそれっぽいかも。 「喜劇 爬虫類」で、昭和42年頃の山中駅と、クハ1603+モハ3301と思しき編成が見られますよ。モハ3301は旧塗装っぽい。
予告編も巻末に収録されています。そこには山中駅に停車中のしらさぎ号らしき車両もチラリとだけど写ってます。 (昔の北陸鉄道)線路がおぜェ〜〜んにゃわ…。
くたに号言うたんか、新し電車が走るようになってェ、車内で山中節流しとったンにゃけど、あこのへんどは駅と駅の間が短いさけ、唄い出しのハァ〜〜の間に次の駅に着いてもたンや。
(よく、こんな話を聞きました。加賀弁がちょっとあやしいかもしれませんが、その方が雰囲気が出ると思って、拙いけど書いてみました。ワタシは石川県人ではないのでご容赦を…。) >>333
1800型、いろいろに改造されまくってあちこちで使われて、スレチかもしれないけれど、まぁ天寿を全うした方では…。
どなたか、山代の駅跡にラーメン屋さんとなって残っていた、1813の事を憶えている方います? >>366
少し古いレスですみませんが、能美線の末信牛島。平仮名で「すえのぶうしじま」って書いてあるのを見た時、地名に思えなかった。
末信・牛島だとわかったのはずいぶんと後だった。 加南線の河南駅と宇和野駅の事を憶えている方います?
河南は独特の構内配線になっていて、山中線の上下ホームに挟まれる形で山代方面行きのホームがあり、山中線から上り下りのどちらからでも直接乗り降りができた。
最近になって書籍やネット上で画像が公開される事が多くなったけれど、一方の宇和野はまずお目にかかる事がない。
昭和37年の連絡線廃線まではクロッシングがあって、新粟津方面行きと新動橋方面行きが枝分かれしていたんですがね。
なんかその後はただの停留所になってしまったと思ったのですが…。 三岐鉄道から能登線に嫁いだ)キハ5162(旧三岐キハ7)を、三岐側の破格好条件 格安で購入
したけど何故 三岐は何故其処までしてこの車を再起処分したがったの(廃車解体せず)?
エンジンもマイナーだし、戦中酷使再生車で状態の然程好くない(愛着も、あまりあるとは思えな
い素性もよく判らないクルマだったのに) 読み難いなw
エンジンは後継機種が無かっただけで時代の瞬間最大風速ではメジャーだぞw
セメント輸送で裕福な時期だから、同時代の他社の出物よりも状態が良かったんじゃないかね。
三岐キハ4は昭和50年まで予備車として残ったというではないか。 一番邪魔だったのはトラブル続きだった馬鹿労組と匙投げた阿呆経営陣。 全盛期で石川県内に約150キロの総延長。
今…何キロだっけ?
寂しい…寂しすぎる。 今は、第一世代オールステンレス車の寄り合い所帯 日本初のアルミカー発祥の北陸鉄道
里帰りした しらさぎ号 の心中は如何に・・・
やがてメトロの03が大挙してやってきて アルミ勢の反撃?なるか >>401
少しは旧型車の動態保存とかに色気を出してほしいなぁ…。夢のまた夢だろうけど。
第一に旧型車が絶滅しているし…。 現有路線の保存で精一杯なのに、旧型車の保存に使う金なんぞ無いw メトロ03の顔は、Hゴム厚顔の北鉄スタイルに一脈通じている感じがするので井の頭線より馴染み
そう。・・・メトロ03神戸電鉄でも似合いそうだが・・・ >>405
Hゴム厚顔ね…。本当に。
魑魅魍魎が百鬼夜行。これが昔の北陸鉄道(笑) 金沢駅裏に泊まったが、金石線等全く雰囲気ないなw
神社が駅に隣接している様だが、区画整理されてるだろうし。 >>407
中橋〜長田町間の道路ぐらいしか、当時の痕跡を残すものはないですね。
それも予備知識がないと、鉄道の跡地という事に気づかないぐらい。
長田町から金石までは、金石往還に完全に取り込まれてしまっていますね。 >>407
余談。
同じ北鉄廃止路線の加南線の方は、大聖寺のアパホテルができて以来、アパホテルに泊まれば駅からの痕跡を俯瞰できるようになったので、ちょっと面白いですよ。(当然、当たった部屋にもよりますが。) モハ3700が元モ700形だったのが変わりすぎている。 >>410
北鉄の魅力は不細工の魅力。
それも東急・京王の転入で解消したけど…。 >>410 寒冷地だから正面窓Hゴムが普及したのだと思うけど、じゃあなぜ故 一時の北鉄は前面
貫通化に固執したのかな? その中で 「くたに」「しらさぎ」は対象外だったし。 ここで語ってよいのかわかりませんが
福井で走った元モ700形はどうだったのですか >>413 700だか710?720だか忘れたけど、金沢市内線から福井の路面区間専用運行?用に
北鉄プロパー車と同伴で琴参から北鉄に嫁いで福井に行ったのも居たよな。 >>412
くたに、しらさぎは増結を想定していなかったからでは?
加南線はドル箱路線だったけど、それでも2両以上の編成はなかったし。 あまり話題にならないし、宣伝もないからここに書くよ。
今やっている、加賀市山中温泉、道の駅やまなかの、しらさぎ号車内での写真展、加南線に思い出のある方、専らトシヨ…ゲホン、年配者だと思うけど必見ですよ。
とにかく懐かしい。加賀市周辺の人、特にだと思う。 >>412
寒冷地は乗務員室への隙間風防止のため貫通扉を埋める方向に行きがちなんだが
(弘南や新潟交通、富山地鉄など)不思議だね 名鉄から買った中古車は貫通幌の受け皿を無理矢理付足したから
元々整ってない顔が一層ブサに・・・ >>418
元名鉄じゃなくても、自社製モハ1500→モハ3710の3711なんか、正面窓の高さがぜ〜んぶ合ってなかった。
とにかく、北鉄の魅力はブサにあり。
なんだろう、喩えて言うなら、容姿も性格も酷い女性ってわけじゃなくて、なんか垢抜けない愛嬌ある田舎娘…かなぁ? モハ3700と名鉄に残ったモ702〜704が同形だと言われてもにわかに信じがたい
(と思ったら>>410ですでに指摘されていた モハ5000→モハ3750、こちらも自社製だけど、ポール時代と晩年とで同一車輌とは思えない。
悲しいなぁ…クロスシート装備のロマンスカーだったのに、加南線から石川総線に移ってロングシート化され、貫通扉が取り付けられ、Hゴム化され、晩年は特徴的だった側面窓さえ面影を留めず…
今、大聖寺に保存されている3751の昔の姿を知っている人も、もう少ないだろうなぁ…。
あれで「加南線を走っていた」と思われてもなぁ…。 >>309
すっごく遅いレスだけど失礼。
山代東口は比較的画像が残っている。廃線後もバスターミナルとして駅舎が残され、比較的近年まで残っていたからね。
郷土出版社の写真集だと思ったけど、現役当時の構内の画像がある。
あの歪な正面窓配置のモハ1813が写っているから、割と晩年だと思う。
宇和野は正直言って絶望的。鉄ピク誌の北鉄特集に、構内の画像があるくらいかな…。
駅舎は特になく、河南と似た程度の駅務の建物がホームの端にあったはず。
>>416の加南線写真展で、粟津線の写真がいくつかあって、殆どが初めて見るものだった! 白山下行きの午後の始発に乗った時、運転席横に地震計みたいな機械が置かれてたそれといくつかの駅に着く毎に夕刊の束まちを暫くして手取川の橋梁が原因で休止から廃線になった。 ボヤき…
道の駅やまなかのしらさぎ、動態保存で復活…なんて、ずぇっ……………………………………………………………たいにありえないだろうなぁ〜…。
あったら北鉄さん、ちょっとは魅力度アップなんだけどなぁ〜…。 >>424
ついでに、くたに号の現代版も。
東急のヤツの小改造でいいから、そのくらいの気概を期待したいんだけどなぁ〜…。
塗色をオリジナルの北鉄カラーにリペイントして、車内も部分的にクロスシート(転換式でなくて良い)にしてさ…
浅野川線の日中用なんかに充当して…
「模型じゃないんだから、そう簡単にはいかない!」と言われるかもしれないけどさ。 今さらだけど
石川線に東急7000が入ったのが90年だし
以降はサイズ的にくたにも入れたんじゃないか?
すでに大井川で予備車扱いだったし >>427
くたに号は研修か何かで石川総線に入った時、車端部がホームに接触したと聞く。
車体長も同じ18メートル級、車幅もほぼ同じなのに何故だろね。
歴史にたらればはないけれど、もしくたに号が北鉄に戻っていたら、扱いが違っただろうかね…。 >>424
金名線の加賀一の宮とか白山下あたりでいいから、保存鉄道やってくないかね >>428
くたに石川線運転は60年代前半の話で
東急車導入は90年、その際にホーム改修しただろうから。
電装品関連の下回りも
JRか西武・南海あたりで中古品買えたと思う >>430
確かにね。
あの頃の石川総線と、90年代以降の石川線とは別物だろうからね。
>>429 本当にね…。 >>427
本当に、くたに号は悲運だった。
youtubeの「迷列車で行こう」でも言われていたけど、大鉄では「いらない子扱い」。
塗色も北鉄時代と少しずつずれていったし、正面のプレートが九谷焼でなくなったのは仕方ないとしても、通風孔が埋められたり、客扱いドアの下部の窓も埋められてしまい、オリジナルの良さを半減させていた。
しらさぎ号の方は幸福にも里帰り。側面の社紋も北鉄の物に復元され…でも、原型の美しさを損なう、増設された正面ライトが6011の方はそのままで、不細工な事この上ない。
この点だけはしらさぎ号の方もちょっとなぁ…。 誰か加賀市内の分校にあったモハ3005(元金石線、小松線)の車体の消息を知っている人、教えて下さいませ。 かっての路線網が衰退 勢いが無いもの・・・ 地鉄以外は、長野 も えちぜん(旧京福福井)も生き残ることに必死。 >>436
もう「乗って残そう」の呼びかけだけでは無理だよね。
金沢では、浅野川線と石川線が繋がるのが長年の悲願だけど、そのための都市計画も二転三転しているみたいだし、地下鉄で繋げる案があったせいか、北鉄金沢駅の地下空間はだだっ広いまま。なんか迷走を感じさせる。 金石の沖辺りで原油でも出てくりゃ可能性あるかもしれんがなw アテンダントさんが乗っていたのって、たった3年間ほど? >>139
『がきデカ』の扉絵で、加賀一の宮が描かれていた事があった。
まだ側線が撤去される前の頃。
そういえば『がきデカ』の第1回って、担任の先生が出席を取るのだが、名前が「熱海くん、伊東くん、別府くん、道後くん、城崎くん、湯布院くん…」
そして先生の「北陸ならー」の掛け声で、
「ずばり 山代温泉!」と全員で唱和していたな。 夏やねぇ〜
新西金沢の、例の制限15キロの急カーブ、スプリンクラーの放水が楽しいわ。
前はあんなんなかったけどな…(気づかんかっただけ?)
あれって、いつ頃からやるようになったん? ネコパブリッシングのライブラリーシリーズで、北鉄能美線が出たね。
以下、金名線編に続くらしいから楽しみだな。
北鉄全線やってくれないかなぁ… いやいや、純粋にさ、北鉄にスポットを当てた書籍って、これまでなかったでしょ。
あっても限られていてさ。
もっとも、今回の能美線も、画像だけを見ると既出の物が結構あるけどね。 >>443
おお、マジかい。久々に買いの内容だな。
いつもライブラリー常備してた書店の入ったデパート閉店しちゃったから
取り寄せなきゃいけないのが億劫だな。 加南線の温泉、売春で有名な温泉ばかり
残ってたらやばい雰囲気だったろうなw >>447
別に加南線が売春列車になるわけではなかろうに。
団体旅行で温泉旅館、宴会の後コンパニオンを呼んで…というのがあの時代のオヤジ達ではあったけれど。
加南線は普通に長閑な、それでいて他の北鉄線とは違った華があったよ。
ロマンスカーのくたに/しらさぎの存在が大きかったからかな。 加南線はコンパニオン乗っけたお座敷列車乗り入れて続きは旅館でにしたら儲かったろうなw >>449
現在まで残っていたら、或いは湧いた発想かもしれないな…w
北陸本線からの急行気動車乗り入れが叶っていたら…だね。 DMMがもっと早く生まれて北鉄を買収したら廃線せずに済んだ >>451
それも果たしてどうだったかなぁ…
採算性の見込めない物に対して、イマドキの資本家がみすみす貧乏くじを引く事は考えられないでしょ。 >>452
北陸鉄道はもうかる路線放置したから廃止になった。
DMMなら積極経営で今でも黒字になってる 金沢市内線 マジックミラー車両で兼六園バックに撮影
加南線 コンパニオンと合体
能登線 お座敷列車で100人一斉撮影
金石線 金石港をヌーディストビーチに
松金線石川総線 白山下で青姦
これで黒字w あの、撮られたり青カンもやらなきゃいけないんでしょうか・・・・・ >>460
HENTAItrainとして海外客も殺到するだろう 数十年来の悲願、浅野川線と石川線の直通計画が先だろ…w
あの殺風景な、北鉄金沢駅のだだっ広い空間…悲しくなる。
計画は少しずつ具体化しているようだけど…やっぱりLRT?
やっと北鉄も文明開化ってか? 能美線って残しといた方がよかったんじゃないのか?
鉄道路線の売上考えると今の路線だけでは難しいんじゃないかと >>463
できればね。
北陸本線が縦だとしたら、鶴来へ横に繋げる交通ネットワークとして。
距離もそれなりにあるから、同じ「横へ」でも小松線のような盲腸線でもないし。
ただ、線路規格の低さはどうにかしないと、どのみち厳しかったろうなぁ。 >>463-464
バスのネットワークすら維持できない地方に
鉄道は無理だろう
盲腸線でなかった地方私鉄といえば他に
夕張鉄道、筑波鉄道、富山地鉄笹津線、加越能鉄道加越線、北陸鉄道加南線、京福電鉄福井支社(永平寺線・丸岡線)
あたりが思いつくけど大体がバス路線もない状態になってるな
ところでせっかくのRMライブラリーの話題がないぞ
寺田裕一氏の著書は末期の乗車録ばっかりで資料性が無いと悪評が多かったが
(事実そんなのが多かった)最近の著書は国立公文書館の運輸省文書の引用や
先輩の趣味人から写真を回してもらったりして
それなりに読める資料になってると思う >>465
でも寺田氏はピクトリアルの2016年6・7月号を読んでいなかったようだ 「鉄道車両色見本帳 地方私鉄編」に、加南線を走る旧塗装/ポール時代の5000型の画像があって驚いた。
あまり古い時代の正確なカラー画像は期待できないと思っていたから、思わぬ掘り出し物だったな。 北陸新幹線の敦賀開業に伴い、IR化された金沢〜西金沢間に
北陸鉄道が乗り入れれば内灘と鶴来が繋がるという。 >>469
まぁ地下区間掘るぐらいならその方が安上がりだしな
需要があるかどうかは知らん
つーか、IRには北鉄から線路使用料せしめる以外にメリットあるのか? >>469
てか、その区間は北陸本線でしょ。
それはさておくも、JRの規格に北鉄の車両が適応できるのか(元京王/東急なら大丈夫か…)
…って、ちょっと待った! 直流1500、交流2万、直流600の3電圧に対応させるのをどうするのよ?! >>471
あ…ごめん。「IR」は、北陸新幹線敦賀延伸の暁に、って事ね。
それにしても、北鉄が電車をやめてDLに切り替える(古くは玉野市営、最近では栗電方式)でもしない限り難しいのではないかなぁ…? >>471
ユーロスターは第三軌条直流750V、直流1,500V、直流3,000V、交流25,000V50Hz対応だ!
きっと何とかなるよw >>473
おー、その手があったか!
車両価格の問題はあるだろうが、北鉄さんの英断を期待したいな…w >>469
LRT方式で市電を復活させ、北鉄金沢と野町を結ぶ案が具体化しているとも聞いたがね。 >>465
ほんと、路線名を見ると、正に死屍累々だなぁ… >>476
市街化待ちきれなかった筑波、笹津、夕張と旅客動線に合わない他の路線って感じ ハコ鉄あさちゃん&いしたん、可愛い。
作者の方、過去の北鉄各線でシリーズ化してほしい…。
「かなちゃん」は金石線、加南線のどっちになるだろう…? >>482
とれいん増刊 レイル1980夏号にそこそこ載ってますよ。 【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
@高添・沼田(東京都葛飾区青砥6−26−6)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
老義父は息子の嫁の痴態をオカズに自慰行為をし毎晩狂ったように射精をしている/息子の嫁をいつもいやらしい目で見ているエロ老義父なのであった
A井口・千明(東京都葛飾区青砥6−23−16)
※犯罪首謀者高添・沼田の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
B宇野壽倫(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
異臭を流し込んでくるなどの嫌がらせを何度も繰り返ししつこく行ってくる嫌がらせ犯罪者である
C色川高志(東京都葛飾区青砥6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111
D清水(東京都葛飾区青砥6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
E高橋(東京都葛飾区青砥6−23−23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
F長木義明(東京都葛飾区青砥6−23−20) 松金線てのは松本と金沢を結ぶという壮大な計画があったが
資金難で頓挫した路線でしたねー。 >>486 >>487
金沢ー名古屋の「金名線」と、びみょーにゴッチャになってませんか? >>486
松任です
なので目的地まで開通しました >>488
ああよかった。並行宇宙にさ迷いこんだかと思っていたw 北鉄金沢駅、どうなるのだろう…?
相変わらず、だだっ広い地下空間が広がっているのもイメージ良くないし。
考えてみれば、あそこも結構紆余曲折を経ているよねー。駅の構造やら、線路の配置やら。
地上駅時代の、粟ヶ崎海岸まで海水浴客を乗せていた頃の風景が懐かしいな。 YouTubeで、昔の浅野川線?、金石線、金沢市内線、加南線が見られますね。
ついでに、と言ったら失礼かもしれないけど、新小松を出て尾小屋方面に向かうカーブで撮ったと思われる尾小屋鉄道とか、丸岡線が健在の頃の京福電鉄・東古市駅らしき映像も!
これは必見ですよ。 スレの伸びが止まっているから、ここらで一つ…
東京メトロ03系が運用に入るのはいつ? >>493
てか、スレタイが「昔の…」だからネタ切れか? >>497
まあな
かなりイメージ変わってるからな バス路線板の北鉄スレで爆破予告カキコキターーーー!!
【石川】北陸鉄道グループ専用スレ 2【車両購優先】
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/bus/1564314997/64
石川県警に通報する!! >>497
これでも当時の面影を遺してる部類に入ってると思います >>501
今日の「魔改造」を見慣れてしまうとそう思えなくはないけど、北鉄お得意の前面窓Hゴム化で印象は変わっていたよね。 今の北鉄は、とりあえずは昔の北鉄とは別物のように立派になったよね。
重軌条化とPC枕木化、架線のシンプルカテナリー化とコンクリート柱化、お下がりとはいえ新性能化された車両etc…
ヘロヘロの線路と木の枕木、トロリー線に木柱、百鬼夜行の旧型車…の時代を思い出すと、利用者にとっては快適になったけど、ちょっと画一的でつまらなくなった。 東京メトロ03系が運用に入るの、いつなの?
お下がりとはいえ、昔の北鉄からは想像もつかない近代的車両だからなぁ。
…まさか魔改造しないよね(しようがないか…) JR九州の「DENCHA」方式で、浅野川線から北陸本線を経由して石川線に直通乗り入れできないものかなぁ… >>134
すっげ〜遅レスで恐縮なんだけど、加南線の「連絡線」宇和野〜勅使間、路線後が圃場整備でわからなくなっているようで、実は昔の航空写真でわかる…と書かれているのだが…
国土地理院のだと昭和26年の物で、拡大すると不鮮明で、線路の位置はギリギリわかるとしても、途中の森区駅などは位置の特定が難しい。
昭和38年のそれになると、かなり鮮明になっていて、連絡線は宇和野から新粟津方面が廃止されて日が浅いためか、宇和野構内のシザーズクロスの配線が残っているのがわかるのと、栄谷あたりまでの線路跡も見てとれる。
連絡線がよくわかるおススメは、むしろ昭和38年版かな。 石川線や浅野川線にも、加南線のくたに/しらさぎのような観光電車が入っていたら、例えば石川(総)線の加賀一の宮から先とか、能美線の新寺井〜鶴来間なんかも、もう少し命脈を保っていたのではないかと思った。
石川線には3740型がクロスシート車として歓迎されたようだけど、所詮は元名鉄のお古だったし…。
加南線にしても、先のロマンスカーは殆どが大聖寺〜山中での運用で、それに比べて見劣りした新動橋〜山代(河南)間にも、単行のロマンスカーでも入っていたら少しは違ったのではないかと妄想しきり。 >>510
白菊町をご存知とは…w
粟ヶ崎海岸駅もご存知か? >>509
親会社名鉄の3780系が翼下私鉄標準型として量産、ばら撒枯れていたら?
足回りは各社の旧社で、名鉄工場で艤装する >>510
現在の野町駅って、金沢市電があった時代は今よりもずっと接続が良かったんでしょ?
降りてすぐ市電の乗り場があり(石川総線と線路も繋がっていたはず)、そこから金沢の市街地や国鉄金沢駅に行けたわけで。
今もバスが接続しているけど、野町駅がなんか「陸の孤島」っぽくなっている感じがしてね… >>513
市内線は駅を出て駅前広場を渡った先に乗り場があったから
今のバス乗り換えの方が接続は良いよ >>514
それはわかっているんだけど…
地元在住じゃないから、実際の便利不便を肌で知らない事を断った上でだが、
確かに、雨風に晒されずに乗り換えができるって事で、『今の方が接続が良い』と言えるのだろう。
だが、何か違う。上手く言えないのだが…
北陸鉄道の鉄道路線が延べ150キロ以上あった時代の、単なる懐古趣味だけかもしれないけどね…。 何も知らんで
> 金沢市電があった時代は今よりもずっと接続が良かったんでしょ?
なんてよく書けたな >>516
即レスどうも &他所者の言葉が気に障ったのなら本当にすみません。
まぁ、>>515で言った通り、単なるジジイの懐古趣味と思って見逃してほしい。 北陸中日新聞発行の『よみがえる記憶 北陸の鉄路』、ここの住人ならもう買ったよね?
とにかく素晴らしい本だから、絶対に外せないよ! >>519
ラッピングトレインとか、そういうのはあまりやらないのかな? >>519
北鉄オレンジのラインが入ったようだね。 そうね、東急から7000が来てついに北鉄にもカルダン車時代の幕開けと喜んだ時から30年経過したのね 名鉄3700が来るのではないかと噂されてからはや40年? >>524
『北日本』は2つの意味が有る
1)北海道・東北
2)富山・石川付近 >>530
そんな噂は初めて聞いた
3700といえば足回りは相当の骨董品で買うにはためらいも無くはないところだがー
買うのはボディだけとか? たしかに琴電はゲージの関係もあるが車体だけだったな
豊橋がのちにHLを買ったが走行系は大丈夫だったのだろうか >>530
3800系じゃないの?
富山地鉄や大井川に引き取られたながれで。 北鉄もそうだけど、私鉄各社、かつては高速バスが稼ぎ頭だったことがあるんだよな
それがここ15年くらい縮小の一途
高速バスの過去の栄光今更言っても仕方ないけど 統合は戦時中無理やり押し付けられたので
戦後になって分離独立しようとする動きはなかったのかな
たとえば浅野川電鉄なんか当時から採算性があって被合併各社の中でも頭一つ抜き出た存在感だったでしょ じゃあ聞くけど戦時統合で成立した私鉄で戦後分離独立した例ってあった?
大東急、京阪神急行、近畿日本、、、つまり一本立ちできる地盤を持つ大手しか為し得ないと思うのだが >>548
三重鐵道(⇒三重電気鉄道⇒近鉄)⇒四日市鉄道
北勢電氣鐵道(⇒三重電気鉄道⇒近鉄)⇒三岐鉄道
伊賀鐵道(⇒近鉄)⇒伊賀鉄道
揖斐川電氣(イビデン)養老鐵道(⇒近鉄)⇒養老鉄道
山東軽便鐵道(⇒近鉄⇒南海)⇒和歌山鐵道 話がかみ合わなくて草
十を聞いて一を知るやつが紛れ込んでくるとこうなる 小松線もかつては結構頻繁な車両の入れ替えをしていたようだが、
どうやって北陸本線と直交していた小松線とやり取りしていたのか気になっていたが北陸中日の写真を見て大いに納得した。
いちいち強引に仮線を敷いて国鉄小松駅の側線と繋いでトロリ線も張らずに当時在籍していた電車に無理やり電線繋いで牽引ロープで引きずり込んだとあり驚いた。
確かに小松線の小松駅の側線には真横の市営駐車場へと向かうまるで脱線転轍機さながらの謎の分岐があり
(確か台車ひとつだけポツンと置かれていたような気がする)ずっと謎だったが氷解した。
石川線の東急7000導入の際も貨車のやり取りが無くなりとっくにJRとは切れていた貨物線路跡の空き地に仮線を敷いて引きずり込んだというから、
今ならトレーラー輸送&クレーン車搬入が当たり前だろう時代とは隔世の感がある。
東急車導入の頃には既に中学生だったはずだが、まだ各種の鉄道雑誌には巡り逢えておらず事前情報もなく後日に新聞で知るという有り様で悔しかったなぁ…
石川線が次に中古車を総入れ替えするときには是非その強引なやり方を再現してもらいたい、幸いまだ貨物取扱い所跡の空き地は残っている。 >>519-522
もう15年以上前かなぁ、県や沿線自治体が極めて珍しく石川線の救済に動き出した頃に、謎のキャラクターのラッピングが登場し、
女性アテンダントが乗務していた時期があったが数年で契約期間が終わったのかキャラクターも女性アテンダントも数年で消えた。
途中駅から乗ればアテンダントからは昔ながらのペラいパンチ式の車内補充券が買えて、どうやって貰ったかは覚えていないが自宅を燃やすまでは持っていた。
今でも初詣輸送の数日間だけはアテンダントというか車内補充券売りが乗務しているから入手するチャンスはある。
今は朝ラッシュ時のみの補充券売りが乗務しているかは確かめた事がないから知らないのだが、以前は石川線、浅野川線ともに
平日の朝ラッシュの最混雑時にのみ補充券売りが乗務していたので今でもそれが続いてるなら平日の朝ラッシュ時のみちゃんすはあるだろう。
今の電車は旧型車のような乗務員室内に発車通知のチンチンボタンが無いはずなので厳密な意味での車掌業務は行っていないと思う。 我が国初のアルミカーがしらさぎ号だったというのは石川県の鉄なら当たり前に聞く謳い文句だが、全国的には山陽電車とか国鉄72系とか営団だとか、見事にバランバランなんだよね。
オールアルミでないとか合金だとか試作だとか様々な要因で認識が分かれているのだろうけど一般の認識で最も多数派なのは山陽なんだよね、金属に疎い俺には何が違うのかは分からないが。 >>552
>>553
そのしらさぎ号の加南線当時はチンチンボタンが付いていた。
ずいぶんと立派なロマンスカーが、シングルの架線に貧弱な線路、路面電車みたいに発車合図の「チンチン」を鳴らして…と、なんともアンバランスな雰囲気だったよ。 >>551
「石川線の東急7000導入の際も貨車のやり取りが無くなりとっくにJRとは切れていた貨物線路跡の空き地に仮線を敷いて引きずり込んだ」
→新西金沢でしょうか?
それにしても、あそこも激変しましたね。 更に不正乗車が爆増して乗客は増えてるのに減収減益に拍車がかかるな。
JR金沢支社もICカード対応の検札端末用意してゲリラ検札やりまくってくれよ、駅員置くより人員コストは安いだろ?
結果を見たら頭痛が痛くなるくらいに驚くだろうよ。 地下化される前の浅野川線にいた北鉄オリジナル車の多くが車体裾の切欠きが極端に大きくて目を引いた
デザイン的にこだわりがあったのだろうか 上手く言えないけど、昔はホームが低くて、車体側面のドア部分はずっと下まで伸びていた(バリアフリーなんて言葉すらない時代だ)から、それ以外の部分がより上にあり、「切り欠き」って表現したんじゃないの? 旧井の頭線
引退でアイボリーに塗り替えたときにスノープラウ外してやったらよかったのに
降雪シーズン関係ない時期の引退だったんだし 今なおいわゆる勝手踏切が多数存在している浅野川線においては、排障器の役割は単に雪をどかすだけというものではないよ。
人であれ自転車であれクマーであれ進路を塞ぐ異物は弾き飛ばせるものなら巻き込まずに弾き飛ばしたいもんね。 問題はどうやってクマが浅野川線の踏切にたどり着くかだろうけど 今年、金沢市内のわりと近くまで来ていた事はあったな。
内灘町にだってクマーは現れているし、絶対に無いとは言えない。
平地でも小学生は通学時に熊鈴鳴らしてる子は多い。 >565
とりあえずは金名線あたりで市街地には近づける >>563
去年だか一昨年だか、加賀温泉駅の脇のショッピングモール(アビオシティ加賀)にもクマーが出て、騒ぎになったよね。
今更だけど、加賀温泉駅は旧作見駅。
特急停車駅が大聖寺と動橋の頃は、各駅停車しか停まらない駅だった。
もうあれから53年も経つんだな… 加賀温泉駅前も行く度様子が変わってるな
北鉄バスしか走ってないからスレチだが 廃止された兼六園下のモータープールには木製の電柱があるけど、「大樋線」の
表記はまだ残っているのかな?
おそらく市内電車の架線柱として使われていたものだと思うが・・・ 廃止後半世紀以上たっているが遺ってるのなら奇跡じゃね? 8月に入ったけど、石川線はどうなるんだろう?
存続か廃止(バス転換)、または香林坊もしくは北陸本線乗り入れの結論が出る頃だと聞いている。鉄道を廃止してバスに転換する方が現在の赤字額を上回るから、そのまま存続の公算が強いようだけど…。 存続決まったようですね。
いろいろと課題は大きいだろうけど、まずは良かったかも。 DMVで香林坊、金沢駅前まで乗り入れるってのはないかな 今日と明日の北陸鉄道80周年の廃線跡ツアーの話題がないね >>577
あったの? 知らなかった!
今検索してみたけど…時既に遅しか。
でももう、当時を知る人しかわかりにくいかもしれないね…。
加南線の河南駅跡とその近くなんて、つい少し前まで雰囲気が残っていたけど、高規格道路が横切るようになって様相が一変したし。 加南線自体廃線50年以上を経て跡、面影がある場所も減ったろうしな 北陸鉄道能登線の廃線跡は、ほとんどが自転車道になっているけれど、地震でどうなったか心配だね 昔の、ってもここ20年以内だけど
きっぷの発売や買い方についてメール質問したら
○○様とかもなく、差出人部分の社名テンプレなんかもなく
ぼそっと系のタメグチで短い本文だけだった
これ過去にもどっかに書いたけど
今でも忘れられない
メール、保存しておけばよかった >>581
>>582
その朴訥さがいい、って言ったら贔屓の引き倒しかなぁ
如何にも田舎の小私鉄らしくて… 北陸新幹線延伸で小松から金沢までわずか11分ですよ
えらい時代になったもんだ >>584
その必要があるかどうかは別として…だろうがね >>584
まだ金名線や小松線が残っていた昭和57年頃の夏休みに小松から金沢まで国鉄を敢えて使わずに北鉄とバスを乗り継いで行ったことがある
鵜川遊泉寺からどうやって金名線に辿り着いたのか覚えてないのが痛恨事
乗車ノートをつけておけば良かった
金名線は末期的でダイヤ上では朝夕しか走ってなかったがその日に幸運にも臨時便に偶然に乗れた
元名鉄700だった
加賀一の宮でものすごく待たされた
結局一日仕事にはなったが乗り鉄趣味としては満足できた >>586
国鉄を使わずに ではないが、能美線の現役時に新寺井から鶴来経由、石川総線で野町へ行き、金沢に向かった事ならある
能美線は確か元加南線のモハ3750型だった
カーブではえらく線路が軋んでいた
…今思い出すと能美線に乗れて良かったと思う
やはり朝夕しか走っていなかったと思ったし、新寺井も無人駅、途中の本寺井なんかも交換設備が撤去されていたから、合理化に必死だった頃だね