昔の北陸鉄道のこと
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古いツリカケ電車の話
なくなってしまった路線の話
なんでもどうぞ 本当に、野町の駅前へ市内線が乗り入れていたのか?
あんな狭くて急勾配?・急カーブの野町(三)交差点から
よく電車が入れたなと思うんだけど・・・ 軌道用の車両って、自重が軽いから意外なほど登坂能力があるらしい。
急カーブの通過も車両が小型なら問題は少ないし。
まあ、この「小型」ってのが災いして廃止になっちまったんだけどね@市内線 >>103
確かに…京都の七条大宮や九条高橋、塩小路高倉など
現存する跨線橋の坂って結構きついですものね >>105
66.7‰と言えば今は亡き京津線九条山付近が有名でしたが、
都電の車両もそうなると随分「能がいい」「よう駆ける」電車なんですね。勉強になりました 暴走脱線事故が発生したことがある、兼六坂はどれだけの勾配なんだろうか? 5%(=50パーミル)以上であれば
標識が付くはずなので
25〜40パーミル程度であろうと推測。
列車であればきつい勾配だが
単車なら何とか上がれるといった所か
一度GPSで計測してみよう。
北陸鉄道三大無策
一.金沢市電廃止
二.加南線廃止
三.石川線存続
市電を廃止しても交通渋滞緩和につながるどころか車の増加でむしろ激化
バスレーンの確保で結局公共交通機関のレーン占有は変わらず
加南線の廃止を見越して大聖寺動橋の線引きに働きかけを行わず共倒れを誘い
路線が無くなり加賀温泉からの直通になった事で加賀の地域経済そのものまで落ち込む結果に
廃止しなくても良い線を廃止し、真っ先に廃止すべき線を後生大事に残した結果が
石川の先の見えない都市交通の今である >>111
一
「レーン占有」は確かにそうなのだが
市内線電車はただ市内中心部を通過するだけではなく
「客の乗降」があることを忘れてはならない。
今の時代、道路の真ん中に安全地帯を置き
そこで電車の乗降をさせるのはある意味危険な行為である。
道路中央にあったレールを道路端に寄せるなどの対策をすれば
生き残る道はあったかも知れないが。
二
加賀温泉駅の新設と、国道8号が加南線の命脈を断ち切ったと言っても過言ではない。
当時の国鉄は、優等列車が大聖寺・動橋・粟津と千鳥停車する不便を
解消したかったのかもしれない。
国道8号も、鉄道との平面交差を避けたかったに違いない。
三
当時の北鉄は、鉄道線全線を一気に廃止しようと目論んだのである。
自治体の慰留により、浅野川線と石川総線だけが残された。
石川総線の悲劇は、当時より過疎運転状態だった能美線と金名線がくっついていたことである。
石川総線そのものを後生大事にしていたかどうかは疑問である。
でも今生き残っている石川線沿線はまだ田んぼ多いだろ。住宅化が進んで道路が混雑しだしたら
「やっぱり石川線を残しておくべきだった」とか言われるんだぜきっと。
伊予鉄森松線みたいに。 市街地は四十万のあたりまでは来た
北鉄にとって計算外だったのは金大移転と山側環状の完成で
市街地が松任鶴来方向ではなく田上涌波方向に広がってしまったことだろう
たぶん沿線にはこれ以上宅地は増えない
いま商圏の開発が盛んなのが
かつて金石線があった市西部地区というのも皮肉というか・・・
石川線、今でも客室乗務員は乗ってるの?
単なる話題作りの一発花火?!
外部の意見を封印して、自社が他社のパクリを採用
お客が増えるはずがない 連休に金名線の廃線敷き(手取キャニオンロード)をチャリで走ってみた
随分急なカーブが何箇所もあったけど、本当にあそこ走ってたのか?
釜清水のところは、明らかに違うってわかるけど・・・
正直、県や北鉄が「石川線も自転車道路で十分」って考えるのも
無理ないかな・・・と思っちゃったよ・・雨さえ降らなければ。 キリコの邪魔だとか言う理由で助成金もらって叩き壊された能登線は自転車道にさえなれなかった…合掌 >>118
晩年、白山下行きの電車に乗り合わせた時
釜清水を過ぎた辺りで電車が勾配を上れなくなり
やむなく電車を降りて下吉谷まで線路の上を歩いた事があるよ。
カーブはさほどでもないが、勾配はかなりきつかったと思う。
>>119
ここで言う「能登線」はのと鉄道の方?
それとも「北鉄能登線」のこと??
>>120
そう言えば北鉄にもありましたね。スレチ失礼。
分かってて聞くの?という気もしますが当然のと鉄道の方です。
>>121
だよね。
北鉄能登線は羽咋健民自転車道になってるし。
北鉄の方の「能登線」は、「健民自転車道」になってるね
「能美線」の方は、どうなってるのか知らないけど・・・
やっぱり、釜清水から先へ行かなきゃ意味ないか・・・
時間の関係で、釜清水までしか行けなかったんだ
あそこまでは、ママチャリで楽に走れたからね
急カーブは、「金名橋」の手前あたりにあったよ
>>123
元・手取中島停留所あたりだな。
最初に開通した金名線の終点(起点は白山下)である広瀬から
鶴来方面へ延長するためにああいう線形になったのであろう。
当時(今もだが)広瀬の集落から北の手取川左岸は何もない所で
現在県道が通っているような、直線での延長は考えなかったと思われる。
ともあれ逆S字カーブを描いて手取川右岸に渡る鉄橋ができた。
急カーブとは言っても小柄な車体がゆっくり通る分には何の問題もなかったはずである。
「白山下」「鶴来」「野町」
あの手書き(?)の行先板は渋かった。
金名線一度乗ってみたかったなぁ。。。 小松線の話ですが、鵜川遊泉寺にあった変電所は回転式整流機だった、駐在してた職員に断って写真撮りました。ピカピカに磨きこまれた明電舎製の整流機かっこ良かった。 >>125
「加賀一ノ宮」もあったぞ。
今思い返すと、よくあのような所に電車が走っていたものだと思う。
その昔手取峡谷方面に遠足に行った時、ものすごく深い谷底が見える橋を渡ると
突然踏切が現れてびっくりしたのを覚えている。
まさかこんなところを電車が通っているとは思っていなかったから。
>>126
「変流器」なのでわ?
鵜川遊泉寺の回転変流器は廃止後、明治村のN電用に転用された 今更だけど昔加賀温泉郷に走っていた鉄道線の跡地を調べていたら、
すごい所を走っていたと分かったとたん益々興味を持った。
機会があったらまた現地を訪れたいと思った。 >>129
どのあたりが「すごい所」だと思われましたか?
>129
15年くらい前に、バスで当該全路線制覇した。
山中のバス車庫には、まだ枕木柵が残っていた。
改札跡が残る那谷寺で降りる余裕がなかったのが惜しい事した。 >>131
おお、これは強者!
山中はすっかり様変わりしてしまいましたね。
那谷寺は今でもバス停留所として機能しているようです。
山代東口や片山津のターミナルにも足を運ばれたのでしょうか?
で、能美線の方は鶴来以外
もう跡形もなくなっちゃった?
いずれ、石川線も自転車道路になってしまうのか・・・??
いや、何でもない 路線跡って圃場(ほじょう)整備等で田んぼになってるから分からないようで実は分かるんだな。
Q:何で分かるの?
A:昔の航空写真がネットで見れるからどこを走っていたか分かるんだな。
Q:たとえば?
A:連絡線の宇和野・勅使間とか!
>>133
能美線は灯台笹・加賀岩内・徳久・五間堂・加賀福岡にモニュメントあり。
辰口温泉附近には「のみでん広場」があり、3761が静態保存されています(中にも入れます)
石川線は・・・旧金名線区間はそのほとんど全てが「手取キャニオンロード」という名の
自転車専用道路として開放されています。なお、近年まで残った鶴来−加賀一ノ宮間は
架線やレールがそのまま放置プレイ状態です。旧本鶴来駅附近でレールは分断されてしまい
現有車両が加賀一の宮方面に進入する事は不可能です。
>>132
行程メモがすぐ出てこないので何だが、こんなルートで制覇できたと思う。
粟津→山代→動橋→片山津→動橋→山代→山中→大聖寺
事前に入手した北鉄バス時刻表で綿密に行程を組立てて動いたんだが、
確か粟津駅前9時台出発だと、全ての乗り継ぎ待ち時間が30分以内という
高効率で回れたんだわ。
山代→片山津を乗換なしで抜ける路線に乗れたりして。
あと、>131修正
山中じゃなくて山代東口で、まだ枕木柵があった。
で、山中はターミナル前にあった「駅前薬局」「駅前駐車場」。 >>136
すごい!!
バスが定時に来る事が大前提ですが。
ルートは加南線の代替バスみたいな感じですね。
加南線沿線めぐりは鉄道廃線跡よりも
各地の廃ホテル跡が気になってしようがないっす。
しかし、今は加賀市内の路線バスはほとんどなくなっちゃったからなぁ・・・・ 能美線といえば、
最近何気なく読んでいた「がきデカ」で、何回かにわたって
当時現役だった能美線の駅が扉絵になってて吹いた >>139
加賀一の宮と岩本が出ていたのを覚えているよ
作者の山上氏が金沢在住だったからやね あまり能登線の話題は出ませんね。
一度だけ行ったことがあります。といっても羽咋の駅のホームからいろいろ車輌を撮っただけだけど。
キハ07タイプの気動車とか(のちに関東鉄道にいった)04タイプのとか。あとL型のDCもいたなあ。 >>141
北鉄唯一の非電化路線で
国鉄の乗り入れとかもあったのになあ。
鉄道敷設法の通り三井まで、あるいは輪島まで連絡していれば
また違った展開があったのかも知れないが。
>>142
最低でも富来まではほしかった。
でも、長いトンネルなしで敷設するとなると、三明が限界だったんだろうなあ・・・。
石川の私鉄でトンネルなんて
能美電の天狗山とか、尾小屋鉄道くらいしか例がない。
外浦地区は高い山はないが鉄道を通すには辛い場所だったのだろう。
三明までのルートでも掘割とか築堤を多用していたようだし。
ちょこっと脇道にそれて巌門へ行くルートとか考えなかったんだろうか。
ってか、あのあたりにそれだけのことができる
有力者いたかな・・・?? >>140
そうだったんですか
ご教示ありがとうございます
私が見て驚いたのは灯台笹でした >>145
外浦には益谷秀次に匹敵する人物はいなかったということか 能登半島は地盤がもろく、道路でさえも不向きなんだそうな
まして、多くの乗客が望めそうにない
鉄道の建設・維持・保守はとても無理だったんじゃないか? >>148
>多くの乗客が望めそうにない
今では鉄道があったことも信じられない惨憺たる有様だけど
昔はまだましだったのでは?
能登観光がブームだった時代もあったらしいし
珠洲道路も特急バスも能登有料も無くて、R249も未整備の頃とか 沿線案内図に
大聖寺から吉崎に至る路線を計画線として表示してた時期があった 我が国初のアルミカーと我が国初のオールステンレスカーが足跡を残した何気に凄い北陸鉄道! >>151
確か後位ドアより後ろだけ、ノーシルノーヘッダーになっている
変な車なんだよね。車体の種車も不祥といいます。
側面だけ見ると、小田急のHBとか、東武のデッカーみたいな印象です。
クハ1101の車体載せ換え年次(昭和30年代前半くらいだっけ?)あたりの
私鉄各線の鋼製車の廃車をつぶさに当たれば何か見えてくるかも。
個人的には事故復旧か何かの折に廃棄された、どこぞの私鉄の事故車の
旧車体を叩き直して、車体短縮のうえ再使用したのかもしれない、と思ってます。 小さい不鮮明な写真しかなかった頃は
「富士山麓かな…んでも後ろが余るな」とか思ったりしたけど
今回の写真で見るとやっぱり別人の印象で>クハ1101 >>153-154
意外に種車の車体をテンプラにして延長しただけとか、そういうオチなのかなあ・・。
そもそも種車の画像がなくて、よくわかっていないわけだけど。
西脇氏の書いてあるとおり、どこか別の会社からもらってきたとなれば
北陸鉄道の車両史上、国鉄か東海地方の私鉄ということになるだろうね。
富山港線あたりの買収国電なども疑ったけど、近似の車両も特になく・・・。 1101の正面がゲテモノ臭漂うのは窓寸法が全部違う点だな。
浅野川線のモハ3563はP誌の記事など見ても,除雪の際位にしか走らないということだったのが,昇圧前には良く走るようになった。
温泉電軌の生き残りという点でも,何としても乗ってみたい車両だった。
名古屋への出張の帰り,金沢まで無理やり寄り道して浅野川線に乗った。
運良く3563に乗れた。
朝ラッシュが一段落した後の内灘行。
びっくりしたのは天井灯。
国鉄の特急車両のようなアクリルカバー付の立派な蛍光灯だった。
重厚なニス塗りの車内と,特急列車のような照明のアンバランスが良かった。
>157
末期はちょくちょく出てきたね。
浅野川線は昭和30年代の小型車ばかり集まっていたけど、もっと大型の車両で運営したほうが良かった気がする。
今はそうなったが。 近代化(?)の際に車内放送用スピーカーと共に取り付けられたものか
あるいは元から蛍光灯だったのか
興味は尽きない。
>>158
例えば名鉄の中古を入れたりすると、断面が大きいので七ツ屋のガードがくぐれない
>>159
元は白熱灯で、1987年に石川線モハ3700の廃車発生品を流用した >>160
浅野川線昇圧直後
8800/8900系は七ツ屋をくぐれたの?
金沢駅高架化以降であれば状況は違うかもしれないけど。
>>161
JR高架化が1990年、昇圧が1996年だから問題なし >>162
じゃあ1990年から約6年は
名鉄から来た車両も七ツ屋の高架橋下を通れたのかも。
時既に遅いかもしれないが。
金沢駅高架化 1990/6/5
石川線7000系営業開始 1990/7/24
モハ3740・3770解体 1990/12ごろ
そういえば石川線に東急7000が入る直前くらいに、名鉄3700が北鉄へ譲渡されるというガセネタがピク誌に出たけど、あれは何だったんだろう。
投稿者は常連というか有名な人だったけど。 誰か昔の浅電金沢駅及び七ツ屋・金石線中橋駅の配線図分かる方教えて下さい。 >165
話が飛んだんじゃないかな?
名鉄3700は車体はまだ新しかったけど、足回りがぼろぼろ(というか北鉄3740・3770の元の足回りを利用) >>166
1960年代前半の金沢駅周辺
国鉄の配線は省略
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kousha-_-/clip2/img/1955.jpg >>168
ジオラマなど作る時の良い参考になります。
ありがとうございました。 30年ほど前の冬、加賀一の宮のYHに泊まって朝一の白山下行に乗った。電車は1両。
空いているかと思いきやスキー客で阿鼻叫喚。体を捻じ込むように辛うじて乗りこんだ。
白山下からスキー場への乗り継ぎバスも阿鼻叫喚で乗りこぼれた人多数。
車掌の話ではあの小さな電車に150人位乗っていたらしい。
折り返しの野町行はガラガラだった。 加賀八幡駅のつっかえ棒に噴いた。
今なら即建て替え命令が出るんだろうな。 >>168
白銀町−六枚町間の複線区間はなんのためにあったんだろう。
昔は六枚町で折り返してたとか?
個人のホームページでしょうか「地方私鉄1960年代の回想」と「壊想石川の鉄道」で昔の写真が紹介されています。
それ以外に紹介されてる写真等ありました教えて下さい。 >>176
なるほど。
昔は駅で単純に折り返してたのか。
浅野川線と繋がっていたということを考えると納得できる話だ。
で、ループができた後も複線は残されたと。
>>172
もとは白銀町で右折して金沢駅へ行くルートが複線だったが、1945年のループ化の際に単線になった。
白銀町〜六枚町が複線なのは金石線から市内線に乗り継ぐ乗客の利便を図るため、
六枚町から金沢駅へ行かずに白銀町方向へ折り返す臨時系統があったため。 市内線が浅野川線とつながっていたのには、海水を運ぶ事も関係していたのではなかたっけ?
石川線と市内線が野町でつながっていたのは市内線の上り線側でしょ?
市内線の車両が西金沢の工場へ行く時は一度折り返し地点まで行ってたって事なのかな?
それとも広小路あたりに渡り線があったとか。知りませんか? >>179
ttp://hwm3.wh.qit.ne.jp/natsukashi/QGK-natsukashi/syokin-sen/twi-syokin-sen/s-twilight.html
ttp://6.pro.tok2.com/~haasan55/kanazawasinai.htm
たしかに写真を見る限り、渡り線はなさそうだなあ・・・。 野町の画像を探していたら、見つけた。
クハ1151の画像なんてはじめてみたは・・・
ttp://blog.goo.ne.jp/kiza1/s/n0056/1 >>179
市内線と浅野川線がつながっていたのは塩水を運ぶだけでなく、
海水浴輸送で市内線車両を応援に出す時などにも使われた。
亘り線は野町4丁目の併用軌道部分にあった。
市内線の工場が本工場、西金沢が第二工場という位置づけだったので、
原則として市内線車両が西金沢へ来ることはなかったが、
鉄道線車両の大がかりな改造を伴うような工事は市内線の車庫で行われ、
能登線のキハ5251(←国鉄キハ07)も野町経由で回送したが、
行き(改造前)はまっすぐ行けるとしても帰り(改造後)は
野町駅前の乗車ホームがボギー車(市電の)1両分+αの長さしかなかったので、
4丁目の亘り線で転線し、そこから先は逆線を進行したのだと思う。 >>178
ふむふむ。
詳細な情報をありがとう。
やはり六枚町でも折り返していたんだな。
徒歩連絡とはいえ金石線との接続も考えられていたとは。
>182
金沢市内の道路を走行するキハ07か。冗談みたいな話だ。 甲種輸送みたいなもんだな。
軸重制限があっただろうし
トレーラー代わりの車両に引かれてしずしずと移動
みたいな。
昭和初期の段階で金沢電軌・温泉電軌・浅野川電鉄が合併して路線接続していれば話は変わったんだろうな。 >>186
そしたら、全路線、松金線みたいに昭和20年代に廃止
>>186
少なくとも温泉電軌には繋がらないだろう。
北陸本線と並行しない別路線でもあれば話は別だが。
>>188
温泉電軌と能美電がそれぞれ小松へ乗り入れる免許を申請して認可も下りたが、
期限内に工事に着手できずにお流れになった。
それとは別に松任から南下して辰口経由で小松に至る加賀電気鉄道というのが免許を申請したが、
認可が下りなかった。
これらが実現していたら白菊町〜山中の直通電車が走っていたかもしれないが、
現代まで生き残ることはできなかったと思う。 そして大聖寺から吉崎、東尋坊口、三国から京福に乗り入れて福井まで。 京福・北鉄で金沢〜福井連絡か。
西の北陸線普通無視政策を見ているとかなり善戦しそうな気がする。 妄想し続ければ
輪島まで国鉄を乗らずに行ける気がしてきた。
地鉄、加越能、北鉄、京福、福鉄直通、宇奈月温泉発武生行き 佐伯宗義が京都電燈と提携して北陸の私鉄を手中に収めていれば武生新どころか出町柳へも行けたかもw 倶利伽羅峠・牛ノ谷・杉津・中ノ庄・江若鉄道旧線も使って富山〜大阪まで、と妄想してみる。 戦争で負けず、モータリゼーションが起こらなくても各社異夢同床だから、
(金名なんか寧ろ対抗なるのでは?)難しいのでは?
寧ろ北陸新幹線開業後の北陸本線の3セクが、経営難で接続各社が死活の為止む無く出資強要させられるようになる事態とかの方が起こりそう。 第三セクターはどんな名前になるんだろう?
「ほくりく」はつかえないし
「ほくえつ」もすでにあるし
「かえつ」か「ほくしん」か、はたまた「にほんかい」か・・・
「いしのかわ」とか「とみのやま」だったらやだな。
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