懐かしの南武線
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支線の101系・・・
とか南武線の昔を語るスレです。 >>71
スレちだが、世界初の量産FFはシトローエンじゃなかったか? まだモハ72型が走っていた頃、最高速度65kmの南武線を京浜東北線並みのスピードで
ぶっ飛ばす運転士に遭遇したことがあります。尻手では車掌が時間調整のためしばらくドアを
開けっ放しにしてしばらく停まっていたのにもかかわらず、川崎までの急カーブをこれも制限速度
いっぱいでぶっ飛ばし(超えていたかも)大変興奮した思い出があります。この運転士さん、何を
思ってこんなに飛ばしたんでしょうね。限界にでも挑戦していたんですかね。 自分の下がゴトゴトうるさいから、強ブレーキで削正してたんでしょう。 >>73 トイレだよ。
それか、不遇にも車扉操作を意味もなくチンタラする車掌(南武線のような管轄の狭い線区なら運転士仲間でもマーク)との遭遇。
組合相違による確執そんなところだな。 >>72
それも違うみたい、各メーカでそれは手叩きで作ったから量産じゃ無いとか
台数的に量産といえないとかケンケンガクガクのようです。
スズキオサムは譲らないらしいけどね。スレチスイマセン。 >>76
トラクシオンアバンは70万台以上造ったけどね 南武線と言えばとにかく遅いイメージ。今は快速が走ったり、普通もそこそこまともに走ってますが、
武蔵小杉ー武蔵溝ノ口間が地上だった頃、脇の道路を走る車に電車が抜かれていましたっけ。
確か駅間を50kmぐらいのスピードで走ってました。今は70km?ぐらいかな。 昔、登戸辺りでセメント撒き散らしながら走ってるのを見たな。 >>54
帽子をどのくらい潰せるかやってましたな。
73系の方向幕車は幕がずれて何行きだか分からなくなってるし。
でものんびりして良い時代でしたな。
南武線は津田山で死亡事故を起こしてますね。
昭和三十五年か六年でしたかね・・・ 昭和37年の三河島事故の直後ですね。第二の三河島事故と騒がれました。
事故現場そばにあった帝国臓器製薬の医薬品が救護活動に役に立ったとか。 南武線は幕車は方向幕使用
隣の鶴見線は幕車も前サボ枠設置で使用
この辺が、各職場の流儀(面子)だな。
運転関係の仕事をしていると移動のとき各職場の流儀(くだらんシキタリ)に翻弄されるのは苦痛だったな。 国鉄の時代は方向幕や方向板の整備は駅員の作業だったよね。民鉄のように乗務員が降りがけに
変えれば済むのに絶対にやらなかった。 >>83
自分がガキの頃沿線だった西武は、幕も板も駅員だったぞ? 南武線の一部の73形全金車の幕に
KAISO
回 送
があった、とか。 高圧送電線を兼ねた架線柱は減ったなあ。
残っていても、上を切られている。 >>83>>84>>85 西武東武は善くも悪くも国鉄的な業務慣習をしてきた会社だからな。
>>87 阪和線の阪和時代の物々しい頑丈そうな架線柱は? 子供のころパパがバスが好きで電車は嫌いだった。ある日曜日に「あとでバス乗せてあげるから」ということで
父親に連れられて立川から南武線に乗った。南口ユーザーだったのでいつも長くて狭い地下道を中央線ホームまで歩くのに
そのときは歩く距離も短かった。コゲ茶色の電車には見慣れていたので違和感もなく空席もなかったので
正面運転台後で「かぶりつき」。電車嫌いだったのに父親と2人だとなぜかいつもこの場所が「指定席」
だった。府中本町で下車して父の「用事」をすませた後,今度は別の電車に乗った。この電車も
コゲ茶色だが来る電車からはあふれんばかりの人波が押し寄せてきたのは覚えている。それに乗ってしばらく
すると左手からいつも見慣れた中央線が合流して国分寺で乗り換え,武蔵小金井からは
当時お気に入りだった関東バスに乗り途中乗り換え吉祥寺まで。
今思えば最初で最後の下河原線乗車。その後彼は地方に転勤したが,免許はあるのに車を持たず
本数稀少かつ空気輸送の路線バスを使って通勤していた。定期券の更新時期になるとバス会社の
営業所から電話がきたり,さらには職場まできて出張販売までしてくれたそうだ。たぶん付近の
学校に出張したついでだろうが・・・。 旧国末期の西ナハ区は親切だった。
構内撮影も快く許可してくたし、撮影から戻ると運用表の青焼や使い古しの「禁煙」「非常ドアコック」プレートまでくれた。 遮光幕終日全閉暗黒時代も南武線は助士側は開いてることが多かった。 どうして戦後南武鉄道に戻らなかったんだろう?
国鉄線でありつづける必要なんかないんだから >>95
そのころの私鉄って現大手のとこでさえ電気代滞納して送電減らされちゃったりなんかして
経営に不安があり信用されてなかったから青梅線もそうだが沿線利用者・有力者が嫌って反対したらしい。
>>101 口の訊き方だけじゃなくて
西武池袋(旧武蔵野)のハナシも知らんのか・・・・呆。
戦後南武線の規格改修時等 度々 小田急との相互車輌貸し出しがあった処を診ると、
現場サイドでは暫く(昭和30年代初めくらいまでは、)再度民鉄に戻れる?みたいな微妙な空気はあったかもな。 米軍が絡んでいるって言う話もある。今でも米タン輸送はあるし稲城には弾薬庫もあった。(今、米軍ゴルフ場?)
いざっていうとき私鉄なんかには任せられないというのがあったのかも。 昔、南武線にアナウンスの面白い車掌がいたらしいね。 今10時ですが次は久地〜って人な。
実は俺知らないんだがオールドファンの間では話題に出るw
昭和40年代くらいかな? >>106
居ましたよ。「次は武蔵小杉だよん」みたいな。
この電車は立川行きです。この電車は長い6両編成ですが前寄り2両は途中の稲城長沼で切り離しとなります。
南多摩、府中本町、分倍河原、谷保、矢川、西国立、立川方面ご利用の方は後寄り4両をご利用ください。 登戸にあった昭和エーテルの引込線の貨車入換に、C11かC12が来ていたな。
稲城長沼の貨物側線、津田山の粘土山引込線、久地のヒューム管工場側線…
ED16が牽く一般貨物列車、溝の口の貨物側線……遠い過去の素敵な記憶。
ところで浅野グループの買収私鉄各社はお互い接し相互に貨物輸送もおこなっていたのに
何故車両は、それぞれ独自性が強いの?
非電化の五日市や設立当初の別資本経緯とかは解るが、共通性が皆無だよな。
セメント輸送の中心となる導線部分を構成する南武が一番車両限界規格が低かったの解せない。
同じ買収でも飯田線を構成した豊川一派とは違うなあ〜。 >>117
豊川・鳳来寺・田口の3社は、実質的には豊川鉄道1社だったからでしょう。
浅野各社は、そもそも線路規格が異なるし、出資比率も異なるからだろうね。 ttp://umemado.blogspot.jp/2012/06/blog-post_07.html
小田急 向ヶ丘遊園駅と南武線連絡線 >>120 >>121
目立ちすぎると車掌区ではいじめられていたみたいだね。
で、若くして亡くなったとか。 >>124 当時なんか就労管理&職場規律が乱れだした時期なのにそういう事を云う老害に限って
正則作業をしろ!
作業内規を守れ!
職場規律を乱すな!
とか 抜かすんだよっ!組合役員の鎧着て(多少の問題起こしても)自分の地位はしっかりガードして!(査定・転配免除)
年代もずっと後だし会社も違うけど、俺もやられたよ。 先日、最後の中原所属実績のある秩父の元101が引退したらしいね。 登戸から武蔵小杉まで茶色い電車に乗った。
50年近く前の話しだけど。 JR東日本が行った男性客への乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=RJDXzoXs490&feature=channel&list=UL
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&feature=channel&list=UL 南武線は極端に男ばっかりだから女性専用車はないだろうな(笑) 初代南武線快速を葬り去った政党のビルがいよいよ解体 初期の南武線の101系は4両だったらしいね。その中に試作車もあった。 >>134
社民党(>>133の話の時は社会党)ではないか。
南武線自体あまり本数が無くて、ホームでやたら待たされた記憶あり。
茶色の電車の中にポールが建っていて、従妹と遊んでいたら車掌さん
に怒られたり、中ノ島の駅付近で手を振ると、たいがい運転手が手を
振り返してくれたりと、40年以上も前の思い出です。 鶴見臨港鉄道は、会社としては存続してるのな。
現在は、保有不動産の管理が主な事業のようだ。
戦後、鶴見線の払い下げを企図したが、かなわなかったとのこと。
ってか、買収国電スレって、無いんだね… 南武鉄道も系譜的には現存してた筈
こっちも不動産関係だったかな
あったあった「太平洋不動産」だって
ということは旧浅野セメント系に合わせて改名してるのか >>135
南武線での101系運用開始は1969年の快速運転開始からで中央快速用の付属編成の借用じゃなかったかな
だから3+3の6連で主に日中快速に使われてラッシュ時は普通にも使われたんじゃないかな
本格的な導入(73系の置換え)は1972年からで当初から6連だったと思う
あと試作車だけのオールM4連も日中の立川行に使われていた 浦和の水色も来てたよね
どう組み替えたか知らんけど 黄色以外の101系に誤乗防止ステッカーってあった?
国鉄末期〜JR化直後の黄緑・青緑103系には貼っていたと記憶。 南武線はかなり遅くまで原形ライトの101系が走ってたと思う 南武支線の話題はどちらかと言うと鶴見線でのくくりの方がいいのかな。
旧クロハが走っていたね。 旧一等室の奥行きの深い座席と肘かけと
天井の区分けの仕切りがそのまま残っていた車両。 路線別の板では鶴見線の括りになってるね
実際弁天橋営業所だし 国鉄に買収されずに南武鉄道のままだったら
ホエールズかオリオンズの親会社として
川崎駅の西口当たりに立派な球場建ててまだ川崎本拠のままだったな 青梅電気鉄道と合併して、関東電鉄になろうとしてたが、
国有化の話がもちあがって、お流れになったんだな >南武鉄道 >>147
応援歌は
♪栄えある歴史 関電ホエールズ♪
か
♪嵐を呼ぶんだ 我ら関電親衛隊♪
になるとこだったな
で、茨城の関東鉄道は北関東鉄道にでもなってたか え?
合併も何も、南武線とか青梅線とか、その辺全部浅野さんの経営だったんじゃないの? >>150
だから、浅野系4私鉄合併計画というのがあったんだよ。
その計画中に鶴臨が強制買収されたので、
残りの3社(南武、青梅、奥多摩)で合併する予定だったが、これらもあえなく買収されてしまった。 陸運統制の政策に恭順の意をあらわそうとしてたのかもな 関電グループが浅野財閥のバックアップのもとで
ドル箱南武線を中心に業績をあげ大手私鉄の一社に
川崎球場はプロ野球のほか都市対抗野球とプロレスの聖地に
同じグループの日本鋼管の製品を運び貨物も好調
行楽地は奥多摩や五日市もあり観光路線にも使える >>121
俺は南武線で車内オルゴールを聞いたのは1989年くらい
すなわち国鉄分割民営化後 仮に国有化されてなかったら、東急辺りになっていてもおかしくねぇけどなあ。 浅野系、西武と東急の争奪戦になっていたのでは?青梅、五日市線は西武だろ。 ・・・なんで、浅野系の私鉄でまとまっていたところを東急や西武が・・・っていう発想になるんだろうか。 国有化か大東急のどちらかだったろうて話
大東急解体時に元に戻るとも限らない いくら強盗慶太といっても、株式売ってくれなかったら買収できなかったわけであり。
実質的に救済合併だった小田急を除けば、池上電鉄から京王電軌に至るまで
大株主を口説き落とす(池上の川崎財閥、京王の穴水熊雄、玉川電鉄の千代田生命)とか
大株主が売りにだした(相鉄の昭和産業、箱根登山の日本電力)から買収できた。
浅野が自社の製品原材料輸送路線である南武・青梅・五日市を手放す理由はないだろう。
堤康次郎にしたって同じ。
まあ、武蔵野鉄道を巡っては、経営危機後、経営権を債権者代表として浅野から堤が奪ったのであるが。 逆に言えば、浅野系列の影響力を排除する手段としての国家買収だったとも考えられるわけだ。
昭和18年に五島慶太は内閣顧問に就任している(ちなみに運輸逓信大臣になるのが、翌昭和19年2月)。 >>157 カマトト?釣り針か?
・・・方々の私鉄スレで「旧型国電みたいなのが走っていた」とか・・・
書き込みオマエ ダ・ロ。
五島慶太といえども国策には逆えないダロ。
国電や蒸機の入線試験も行われたくらいだから小田急だってもう少し戦争が長引けば国に持って行かれたよ。 【不買運動】キリンビバレッジは男性を侮辱した女性専用車両広告を使う反社会的企業
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男性の人権を毀損したこの企業の製品・サービスに対して不買を心がけと情報拡散をしましょう! 浅野は本業に特化し、子会社たる鉄道会社の株式を東急、西武に譲渡する可能性は少なくないと思うが。
国有化されなかった場合だけど。
浅野が鉄道経営にどこまで真剣に取り組む気があったのか?ということだけど。
京成と新京成のような関係になっていたかもね >>165
小杉の立体交差で揉めたのの意趣返しとか言われたようだな
ソースは南武線物語 >168
本業に直結する路線で
戦後、各社を温存し返還運動まで行った状況で
それはないだろう。
戦後の五島はカネなかったし。 あまり、たられば話を続けるのもどうかと思うが。
実際には、返還実らなかったあと、南武と青梅のバス部門は
小田急と京王が買収する(つまり立川バスと奥多摩振興→西東京バス)んだが、
小田急が立川バスを欲した理由は、実際には先に川崎市に譲渡してしまった、溝の口近辺の路線バスが欲しかったのではないか?と邪推するところ。
奥多摩振興の京王による買収は、武蔵野乗合、立川と比較的近いエリアを小田急に次々攻略された京王の危機感の結果とも、思う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています