板谷峠の想い出
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4駅連続スイッチバックのあった奥羽本線板谷峠の想い出を語るスレです >>45
言えばよかったのに。
お茶目な運転士だったら、こう返してくれたかもよ。
「登れなかったら押してね!」
それはさておき、昔は気さくな国鉄マンが多くて楽しかった。
高校〜大学時代に乗り歩いていたけど、結構いろいろ話してくれたよ。 >>45
末期の頃の普通客レの場合、重連の理由は殆ど機関車回送の為。
重連にするかを決めるのは列車重量、特急「あけぼの」は勿論重連。
因みに貨レでもEF71単機の列車があった。 >>46
「おちゃめ」「気さく」・・・良いよね、そういうの。
鉄道を通して人間同士が触れ合っている感じがする。
今はナニかも無機質でツマンネ(´・ω・`) >>47
どうもです。客車2両くらいでなんで重連なのかと思ったら回送だったのですね。
>>46
その時は「本当はダメなんだぞ」と言って最後尾のドアを開けてくれました。
今じゃ考えられないけど。 >>31
DC急行はエンジンの負担が大きいから、夏場でもクーラー切ってたそうだね。 82系時代の「つばさ」と「やまばと」にはELが補機として牽引していたのに
電車化された「やまばと」は元より、キハ181系に置き換わった「つばさ」だってEL補機は不要となったんだよね? >>50
冷房は別エンジンだから関係ないでしょ。つかDC「おが」の冷房者はG車
だけだった。 キハ181系は生れながらのポンコツで補機は不可欠でした。 それでも最初の1年は自力登坂しましたが何か?
てか東北線内で120km/h出せたことの方が意味があったけど 181系には補機がついたけど58系には無かったような・・・
私の記憶違いか?
でなければ何故? >>55
181系も当初は補機なしで登坂してたが、181系の大パワーエンジンを冷却する方法は屋根を見れば判るとおり自然通風式の空冷。
当時の技術ではあそこまでしないと冷やせなかった程の大パワーエンジン。
が、自然通風式という事である程度のスピードが出ていないとエンジンが冷えない。
つまり平坦線での高速運転に向いている車両なのだが、これを国内有数の急勾配線区に投入してしまった。
エンジンに一番負荷がかかる時の出ているスピードは最高速度の三分の一程度。これでエンジンを冷やせといっても無理がある。。。
58系はまあ逆の特性と思っていただければ。 >>54
その自力登坂が二進も三進もいかなくなって補機連結なのでは。
奥羽線の看板特急が山登れなくて運転打切り…なんてのは商品として売れないよね。
あと中央西線でも似たような事態があったんだね。
ttp://tsc151bonnet.web.infoseek.co.jp/shinano03.htm
ttp://tsc151bonnet.web.infoseek.co.jp/shinano04.htm
>>57
冠着トンネルが鬼門だったと聞いたことありますね。
25‰片勾配+排気熱が原因だったようですけど。 60年改正から1006レ→1004レで廃止が平成5年でしたかな?
57年改正で撮影可能スジになった物の、短い期間しか撮影できませんでしたね。 昔大雪で大幅に遅れた1001レを山形で撮ったことがある 夏に米坂線の撮影に行ったとき、「おが1号」だったかキハ58の自力登板で出力を確保するためにクーラーを切って登った。窓を全開にするように案内があり、「皆さん、窓を開けて列車を励ましてください」と車内放送があった( ̄□ ̄;)!! ユーモアがあって良いな、そういう車内放送w
車掌の性格によるもんなんだろうね。 キハ58系の冷房エンジンは走行性能に関係ないから。
走行エンジンからクーラー動力取るようになったのはキハ185あたりから。 キハ58のクーラーはキハ28の発電エンジンから供給して貰う形でしたな。
しかしキハ28は自車を含めて3両までしか供給出来ず、
「おが」に全車分の冷房電源を供給出来る程のキハ28を連結すると峠を超えられないと・・・。
だからかどうか知らんが、G車を除いて全車非冷房車で運用されていたような記憶あり(キロは自車分の発電は可能)
>>62
急行は方面別の列車番号がすごく判りやすかったけど、
特急の列車番号は判りやすいような判りにくいような独特のつけ方でしたな。。 昭和36年(だったかな?)、秋田で国体があった時、お召し列車がここを通って
います。牽引機はEF166だったと聞いています。(重連だった可能性もありますね)
この時の写真はまだみたことがないのですが、どこかに出ていたでしょうか。ご
存知の方がいらっしゃたらご教示下さい。
ちなみに、この時の帰途には花輪線を通っており86が前後について運転されてい
ます。朝日新聞社の「世界の鉄道」にこの時の写真が出ています。 >69
プレスアイゼンバ−ンの『奥羽本線福島・米沢間概史』に記事と編成表のみ出てますね、EF16 6号機単機牽引で暖房車ホヌが連結された様です。
板谷峠でのお召しの写真は見掛けませんねぇ。 すみません、昭和35年の山形蔵王植樹祭の記事でした。
この時は復路も板谷峠を通ったそうです。
翌昭和36年もお召しが走ったかは書かれてないです。 >>69
昭和36年の秋田国体は新潟長岡経由、帰路はその通り花輪線〜花巻〜。
なので昭和35年の山形植樹祭と混同されているのでわ? >>72
69です。どうも私の方に混同があったようです。
ご指摘ありがとうございました。 実現しなかったけどEF71 or ED78の牽くお召し列車を板谷峠で見てみたかったな。
両機の重連だったら最高と妄想。 >68
赤岩、峠に郵便局があったら怖いよ。
大沢は小さい集落があるから不自然じゃない気がする。 大沢には小学校があった。簡易郵便局くらいあったような…。 それって大分昔の話でわ?
先日大沢行きましたが、小学校の跡地らしきものがありました。学校の類はありませんでした。 大沢の集落って何気に萱葺き屋根の民家が多くて素敵だね 最近板谷峠行った人いる?
もう紅葉終わったかな?峠駅周辺は終わってるだろうけど。 >>84
ありがとう、この連休で行って来ました。
本当に赤岩だけかろうじて紅葉残ってたと言う感じでした。
>>85
板谷峠は雪ありませんが、我妻富士は雪被ってましたよ。
夏場から秋口にかけては『つばさ』を撮る同業者に会う事は稀でしたが、
今回はかなり居ましたね、福島ナンバーばかりでしたが・・・ 今は亡き祖父母が、庭坂に住んでました。
親戚が山形にいたので、何回か鈍行で板谷峠を越えた
思い出があります。
当時は旧型客車で、編成も長かった記憶があります。
30数年前のクリスマスイブ、秋田の祖父が他界した。
翌日、両親と姉の4人で臨時のつばさ(だったと思う)の立ち席で秋田に向かった。
小さな洗面所の窓から必死で景色を眺めたものだった。
その後何度通ったろうか? 祖母の葬式のあとに、津軽で上野に向かった20数年前を最後に通っていない。 年が明けたというのに誰も書き込んでいない過疎スレw >>96
上野発9時4分の「つばさ51号」ですかな
あれは黒磯に12時前くらいに到着して数分停車するから駅弁をゆっくり買えたな。
秋田着が18時くらいだったっけ。9時間お疲れ様。 板谷は雪凄いのかな?
鉄道ファンに出てた記事、『忘れえぬ雪、板谷』を思い出した。
ラッセルしたED78は顔面雪塊状態で機関車なのかラッセル車なのか解らない程だったwww 昔、たぶん昭和50年前後
すでに山形まで電化されてた時代
東京に帰るとき、なぜかディーゼルの蔵王に乗った。
臨時だったのかもしれない
夏場で暖房車だった。
たぶん「やまばと」が取れなかったのかもしれない
初めて板谷駅に停車
たしか駅名の看板に海抜○○Mとか書いてあったような? 57.11までキハの「ざおう」って定期で残ってたよね。「いいで」と併結。昼間の「おが」もキハで残ってた。
東北線をキハ58がエライ勢いで走ってたの覚えてる。
あの頃のキハ58や28は冷房積んでなかったのも多かった。 >>101
「いいで」と併結している「ざおう」は季節運転だったはず。
郡山から福島までノンストップで爆走したのを覚えている。 >>100
>初めて板谷駅に停車 たしか駅名の看板に海抜○○Mとか書いてあったような?
板谷と峠駅には海抜○○Mと書いてあったよ、確か峠は600何十メートルだった気が・・・
赤岩、大沢は未確認です。
昭和57年から59年までよく板谷峠に撮影にいきました。
福島機関区を横目に見ながらわくわくしたものです。
もっとキチンと撮影しておくべきだったな。 >>105
自分も後悔してます、どなたか板谷峠(狭軌時代の)写真集とか出版されないかな?
1995年の夏だったかな。
郡山工場でEF71、ED78解体していました。
庭坂の大カーブであけぼの撮影したかったです。 まさか400系が福島機関区の地で解体?されることになるとはな… 自宅が米沢で女房の実家が福島市内だったから、正月は女房の実家で過ごし、年明けにEF71牽引の旧客で帰るんだよね。
1月の板谷峠は、意外かも知れないけど、たまにドカ雪が降るんだよ。
EF71ってのは、意外に粘着性能が悪くて、赤岩辺りまでは、砂撒いたり空転しながら登るんだけど、峠駅手前のカーブで空転すると、まずは登れなくなるんだよね。
機関士さんとの雑談で聞いたらEF16とかEF64とかの直流機より悪いそうな。論理的には全く考えられないけど。
で、峠の手前で空転すると、車掌さんが「男性の方で列車の後押しにご協力頂けます方は…」っていう放送が入る。
信じられないと思うけど、こっちも翌日仕事だし、旧客降りて、皆で押し上げる。
列車が数十メートルバックして、全開。男達が押す。列車は動き出すけど峠まで止まれないから、俺ら押し屋を峠駅で待つ。
雪の中の33.3‰は、人でも辛いから、息が上がりながら峠駅まで登る。
峠の力餅とトン汁をよく無料でもらったよ。もう書いても時効だろうし。
女房の両親も、もう天寿を全うしたから、福島へ行くのも、法事の時位だな。
こんな縁があって、鉄道ファンになったし、改軌前の福島機関区には良く見学に行っていたな。
…という様な話が、戦前辺りの軽便鉄道なら意外にあったかもね。 >>112
意外というより、板谷峠なんて冬の間はいつでも
ドカ雪ってイメージなんですけど、そうでもないんですか?
尻押しの話しって、たまに聞くけど、押しているときに列車が後退して、
ひき殺すなんて可能性とか無いのかなぁ・・・(´・ω・`) その話しホンマかいな?w
D級のナッパ単機牽引の間違いでわ? 蒸気時代に環金トンネルで立ち往生した列車が後退して赤岩で衝突脱線した
大事故があったな。 板谷駅の前に殉職碑があったけど詳細知ってる方いますか? >>112
軽便鉄道にEF71が入線したら地盤沈下で脱線転覆すると思われwww >>117
確認はしてないけど残ってないんじゃないのかなぁ…
数年前まで峠や大沢なんかに狭軌時代の線路が残ってたけど去年久しぶりに行ったら撤去されてた。
旧峠駅跡地は最上屋さん(力餅屋さん)がスゴイ庭園にしてたよ。
あんな馬鹿デカイ岩をどうやって持ち込んだのか知りたいものだ。 もしもキハ65が急行おがに投入されていれば板谷峠を時速20キロ程度でゆっくり登るなんてことは無かったのに
何故か東日本には投入されなかったが。
キハ65はキハ181とは違い床下に強制風冷型ラジエーターを積んでいるのでオーバーヒートは起こりにくいはず。 >>124
スイッチバック廃止、あけぼの・津軽・おがの経路変更から今年で20年…
>>125
一部の車両だけキハ65に代えてもそこまでスピードアップできるとは思えんがな
(キハ65の投入は冷房化が進行した山岳区間優先だったので東日本には入らず) >>125
20キロというのはキハ58の話し?
そんなに自転車みたいな速度だったのか。
もしかしてEF71辺りに牽引される客レの方が速かったりするんだろうか。
碓氷峠でも30キロくらいって聞いたことがある様な。 >>127
キハ58は変速機の関係で時速20km前後だとオーバーヒートを起こさずに登れたらしい
(キハ80系は速度を稼ぐため補機を連結、キハ181系は力技で登って例の故障)
EF71・ED78の客レだが特急・急行は勿論普通列車でも駅間では結構勢いがあった(50km/h前後?) 急行おがは455系にするべきだった。
全線架線下なのにDC列車って・・・。
急行ざおうは455系だったが。 485系でも大変だったらしい。
6M6Tでは登れず8M4Tでやっと登れるレベルだったのでユニットカットした場合EF71のお世話になったとか。 >>129
多分他線との運用の絡みがあるんでないの。東北の気動車運用は複雑だからね
それに高コストの交直流電車は少ない両数で回したかったんだろうな
ただ電車は無理でも、(EF71+)ED78牽引の12系PCでもよかったように思うけど >>133
冬場の臨時ざおうでよく見た編成だったな >12系
ED78・EF71末期のスキーシーズンにはSERがやって来たり結構カオスだった 赤岩、板谷、峠、大沢の住民はどこで選挙の投票してるのかな?
赤岩って住民居るのかな?山の上の集落は赤岩住民となるんかな? http://www.youtube.com/watch?v=4DOJqVLrZkw
485系でも喘ぎながら登ってるような
もしも近鉄21000系みたくオールMだったら100キロ以上で登れたのでは? >>137
つか、今の新幹線つばさでもそんなにスピード変わって無い気がする。 >>137
リンク先からたどっていったEF71のほうが速いような… 板谷峠は急カーブの連続で振り子でも100km/hは無理かと…
因みに485『つばさ』でも故障等でユニットカットすると板谷峠を登れないらしく釜に引っ張って貰ってた記事が某誌に出てた。 >>139
http://www.youtube.com/watch?v=ceVYixaeRKU
2両編成でEF71牽引とか3両編成でEF71重連牽引とか幾らなんでも無駄だろ
電車化しても良かったのでは?
715系や455系は確か庭坂まで乗り入れていたはず。 >>141
横手や秋田まで直通する普通列車があったからな…
(当時の山形以北はつばさ以外客車だらけ) DD14特雪の後押ししてるED78の写真みたけど凄いね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています