【キハ】相模線【砂利】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
連投スマヌ、これ、かなり当時のキハの感じが出てる。
欲を言えばもう少しピッチングが酷かったようなw
ttp://www.youtube.com/watch?v=enbyzdD51H8 >>189
でも基本的には上溝の町と言うか、駅周辺は変わっていないよね。
東側の三菱の寮の当たりは変わったけど・・・。 上溝が、参道みたいな地上階段の上に駅があったときの階段下にあった ヤマザキデイリーストア ってまだ在ります?
よく夏 電車乗り降りで、暑いとき立寄ったなー。 京王延伸で変わったのが橋本。昔の西口は何もなかった
橋本高校移転の話もあったみたい。
>>194
それは強く実感する。ドカーンと駅前ビル、マンション、ショッピングモール、
京王線も朝ラッシュ時は今や激しい座席争奪戦だし。
京王線の開通こそが、相模線(橋本口)にも様々な影響を与えた原因の1つとは思う。
朝ラッシュ時に運転見合わせ・間引き運転になると、(運転再開直後に)積み残し多数って…
相模線の国鉄時代には、まずありえないことだったかと。
>>192-193
確かに、駅以外は基本的には大きく変わっていないような。>上溝
高架化後の駅前(高架下)にマックが出来たけど閉店し、
NEWDAYSに変わったけどね。
昔からの駅前コンビニと言えば、スリーエフしか記憶がないなぁ。
不二家は弁当屋に変わったと思ったら、これまた閉店したけど。 電化と同時に構内踏切が廃止になったのは、下溝だったかな? >>196
【構内踏切があった駅の記憶】
南橋本・番田・相武台下・社家・倉見・北茅ヶ崎;電化時に構内踏切→階段化
原当麻;電化前に橋上駅舎化・駅を橋本寄りに移設
厚木(停留場);電化後ホーム移設(旧ホームは残存)
下溝は単線駅なので、構内踏切はもともとないはず。 >>197
寒川は電化以前の橋上駅舎化時(S62)に
踏み切り廃止だね。 入谷は昭和36年まで有人駅だったそうだが、いつごろまで駅舎が残ってたんだろうか。
電化後茅ヶ崎に残ってた2両は引き取り手を探してたが見つからず廃車されたの? わかりませんが、小学生時代、キハ17かキハ10に乗車しました。 >>200
八高線に転出、貸出あわせて14両、久留里線に転出2両、それに関鉄に10両くらい譲渡。
んで残りは、何か月か保留車で残ってたけど、そのこと? >>202
最後まで茅ヶ崎に残っていたのって、ステン904と30-42あたり? 橋本で、相模線の線路にだけバラストに油が付いているけど、ディーゼル時代の名残?
電車でも停車時間が長いから?ハマ線の方には付いていないんだよな。 先週末に真岡駅に保存されている元相模線キハ20213を見てきた。
表記類は一切無いが、まだ塗り直されたばかりのようで、外観はきれい。
客ドア下窓のガラスが割れていたので車内を覗いてみたら、座席回りに古いタイプの灰皿がまだ付いたままだった。 >>206
いすみ鉄道が喜んで引き取りそうな車両だな。 いすみには是非キハ30も引き取って頂きたいよ。
あとキハ58も、ってきりがないか…。 >>204 それは違う筈だよ。
昔吊りかけ電車が走る路線の終端駅では、ギアオイルのもれた跡が残るものだった。(吊りかけ式の構造上)
俺は昔、釣りかけ車が多数生息する路線で駅員をやっていたのだが、そういう跡は淘汰後いつの間にか消えてなくなってしまった。
(10年も時間じかんはかからなかったと思う)時は流れて俺は運転士になったのだが、その駅での留め置き留置の際 パンタ降下際パンタが1基降下せず車両と床下にあるパンタ降下電磁弁を操作する為
くし型ホームの端車から車両の停まる線路脇(退避スペースが続く)当該車両まで腰を丸め移動したのだがもう油汚れは何処にも見当たらなかった。
(そこは、屋内ホームでバラストではない駅です。
線路清掃の際 油で転倒しのうになったり靴底を汚しその靴で詰所にそのまま戻り床を汚し線先輩に叱られたものだ。) 俺も橋本見てきた。
ハマ線線路には、確かに油みたいなシミはなくて、相模線の方にだけあるんだよね。
何だべか? 列車通りと今の前面展望の映像を比べると面白いかも
原当麻や南橋本とか 昔と変わってない場所を発見すると嬉しいものだ 茅ヶ崎でキハ30も呼んだイベントがあったんですね。
行きたかった〜。 当選者のみ入場だったらしい。
今日は返却回送が見れるとか。
相模線って 路線が都心方向に向いてないからウマミがないんだろ。
身内にしても東武野田線みたいに、旅客流動が分散・途中で他線に流出してしまう。
今の相鉄は、都心乗り入れ願望が強いし・・・
組合も城南地区の私鉄にしては唯一強行労組だし、国鉄時代職員も含めて引き取りしなかった理由がなんとなく解る。 JR直前に国鉄が相模線相鉄返納のお願いに行った
らしいいね >>218
西武も国鉄職員は採らなかったみたい。
>>219
相鉄は
買収時の値段だったら引き取りましょう
と言ったんだよね?で決裂した、と。
赤字線なんだから、国鉄もその値段(言い値)で売っちゃえば良かったんだよ。 >>220
何にも知らねーで書くなよw
>>221
その通りです。
相鉄側の改良工事、設備投資等で割りに合わず交
渉決裂したそうだ。
>>221 西武や東急は民営化の際 国鉄から委託を受けていた連絡改札の業務一部引渡しを行うことで職員の引き取りには応じなかった。
逆に国鉄は湖西線建設のため廃止になった江若の職員の一部引き受けの応じた。
・・・そもそも国鉄民営化の際 国鉄職員の受け皿になった民鉄はあるのか? 国鉄ではなく沿線自治体などから話しが上がったのでは? JRに継承したキハ35系も外嵌めテールばかりだったかと。
束のキハ35系で内嵌めテールのままだったのは、知ってる限りだと久留里の30-501くらいだったかと そういう意味では関東鉄道に残るキハ35達も、ステップや標識燈掛け類が
軒並み撤去されていて、JNR時代とは相当顔つきが変わってしまってるよな。
まぁそれでも生き残ってるだけ幸せと思わなきゃいかんが・・・。 >>223
都営は比較的多く採ったらしい。
優秀な若い国鉄職員は、宮内庁や東京消防庁、警視庁などに入ってる。 懐かし板の「国鉄DCスレ」で相模線のキハ30の前面補強が話題になっているが、資料が無くてみんな困り果てているよ。 >>230
残していた閻魔帳から、フォローしたでぇ〜 茅ヶ崎の嫁の実家のまん前にターンテーブルが有って、塀を越えて子供と見に行った事があるよ、
電化前は朝からキハのディーゼルエンジンがガランゴロンと五月蠅かったなぁ。 エンジンは、やっぱり始発の前に始動するものなの?
一晩中エンジンはかけっぱなし、と言う話を聞いたから・・・。 蒸気じゃないから、止まってる時も有ったような気がするねえ
朝暖気してたような気もする、夏と冬でも違ったかも。何せ嫁の家だから
たまにしか泊まらないし凡そ20年前の記憶なので察して下されw 入谷と旧河原口には、駅舎のコンクリートの基礎が
長い間、残っていた。 相模線海老名ができる以前、北部の一部有人駅には
厚木、海老名経由相鉄線各駅着の準常備券があった。 南橋本のセメント側線で、「アント20」が、カバーを外され
白日のもとに晒されていたことがあった。
しかもエンジンを始動して今でも動き出さんとするところ。
所用があり、下車して観察することはできなかったが…
トワイライトゾーンで取り上げられる遥か以前のこと。 相模線の晩年の南橋本までになってしまった貨物列車は、早朝だったよな。
当時南橋本に借りていた部屋からたまに、早起きしたとき訊けたよ。
当時既にディーゼルカーこそなくなり小奇麗なステンレスの電車にとって代わっていたが、
南橋本や上溝は未だ所々「列車の駅」の面影が残っていたな。
南橋本への貨物が廃止になり 暫くは側線もセメント工場も残っていた。
やがて側線は夏草が伸び放題で隠れ秋口には枯れ草となり操業を止め寂れたセメント工場とともに侘しい光景が今でも目に浮かぶなあ〜。
>>242
南橋本の貨物の牽引機は、末期はDD51だったんだってね。
ついに見ずじまい... JR海老名は昔と変わっていないけど、小田急海老名の改札の中に吉野家とかが出来たのは
ムショ帰りだから知らなかったよ。 >>243
子供の頃、休日に親に連れられて相模線に乗った時は南橋本に貨物がいるかどうかが一番気になりましね〜
小学生だったんで、時間はわからなかったので、見れた時はかなり嬉しかったです
DDのファンのクルクル回ってる羽が妙に記憶に残っています。 >>242-243,246
何の気まぐれか、南橋本のセメント専用線にいたホキ1900&DD51も
偶然撮影してたなぁ
今の南橋本の姿からは、面影はほとんどないけど… 旧相模鉄道時代にも電化が検討され、
電車のクハに改造容易な客車も造られた。
キハ1000形は電気式「ディーゼルカー」では日本初ではなかったかと。 海老名駅ができた時は、まだ当時でいう「通票閉塞」だったが
この駅だけは信号機が腕木式ではなく電気式だった。 懐かしい話ではないが、相模線に新幹線駅が出来る話はもう消滅したのかな? >>251
地元での誘致活動を一本化して、
相模川の両岸からアクセスできる位置にしよう、となったはずですが、
J海さんは、当分は新駅は作らないと言っているとか報道されました。 >>252 残念ながら他所の(JR東日本)の一ローカル線の為に速達性を阻害する接続駅なんか作ってられっか!て云うのが本音でしょ。
リニア実現が無い限り難しいのでは?
昔の 雑誌 鉄道ファン連載の レールバスものがたりの キハ02の記述で 東急車輛落成まもないキハ02が
茅ヶ崎(機関区?)に数量留置されている写真が出ていたけど相模線で試運転したのかな? 久留里線キハ30-62・100、関東鉄道キハ3519・3520・3521
現存する(車籍を有する)キハ30・35系13両のうち、上記5両もの車両が相模線電化で余剰になったやつなんだな。 電車化して、出力重量比は倍以上になったのか…
相武台下からの、だらだら坂はキハでは苦しそうだったな… >>255
確か、相模線内の最高速度が電化で65kh/hから85km/hになったんだっけ?
電化から20年以上経っても、車両が変わらないせいであまり変化を感じていないけど、
駅施設はこの20年で大幅に変わってるんだよね
橋本、南橋本、上溝、番田、海老名、厚木、寒川、茅ヶ崎…
コンビニが駅構内にできても早期に潰れた、門沢橋もあったけど 門沢橋と言えば、駅の近くの線路沿いに仕出し弁当店か何かがあったよね? 相武台下って今でも(俺の記憶から約10年経過)駅前が、むかしの市販Nゲージ鉄道模型製品で作ったレイアウトような不自然で小奇麗なママなの? 電化されるときに重軌条化工事もやったよね。
それまでヘロヘロな線路だったのに急にきれいになってびっくりした記憶がある。 かなりの部分でロングレールになったよね。
既出かもだが、それ以前に昭和50年代に、東海道新幹線の
若返り工事で発生したらしい50Tレールを25mに切ったものが
用いられていた区間がある。
今はJ東で中古のレールの使い回しをすることも減ったと思うが
15年ほど前に、小海線で60kg/mレールを見たときにはびっくりした。
昔は簡易線と呼ばれてC56やDD16が使われていたくらいなのに。 >>260
中古レールの使い回しとかしていたんですか知りませんでした。 >>258
昔と変わってないよ。バス停が移動した位。
相武台下は、校内踏切の頃の方が使いやすかった。 キハ1061がタラコ色、所謂「首都圏色」で登場したときはホント「ぶったまげた」よ。
後年の色褪せたのと違ってオレンジ超輝いてたし…。 相模線のキハは似つかわない相模線色になって写欲が激減したのが、今思えば大後悔…。 当時小学生の自分は好意的に新塗装を見てたよ〜
ただ後、全面に斜めに形式を書いたのは嫌だったけど もとい
全面 ×
前面 ○
全面に斜め形式だとEF65 1118のイメージになってしまう なんかの跡地でしたよね。砂利採取の引き込み線かな。 以前は建物上の方の「小田急女子ハイツ」の文字を剥がしたあとが電車からはっきり見えたなぁ。
今は小田急ユーザーじゃないから判らないのだが、建物ももう無くなっちゃたの? 偽厚木に相模線が来てた頃って、駅は今の駅の北側の跨線橋を渡った所にあったの? >>271
相模鉄道の事?
厚木の改札を出ると、右側に歩道橋(跨線橋)があるんだけど、それを渡って、反対側に降りたら左に曲がった先
団地の横あたりにあったらしい。
今の相模線のホームとは離れていたらしいけど、通路でつながっていたのかな?当時から歩道橋があったのかな?
ホームは短かったみたい。 >>273
歩道橋ができたのはせいぜい30年ほど前のことで
その当時はすでに団地(海老名プラーザ)は完成していました。
相鉄客扱い設備の痕跡は宅地造成時に消えたようです。 >>268
なつかしい。建物はもうないの?
学生ハイツがあった頃には、海老名から厚木に向かい、厚木手前の左側には
テニスコートがあったんだよね? そうそう。
あのころはテニスコートがハイソの代名詞になってた時代 相鉄偽厚木が電留線化する前までは、今の車止めあたりに
木造建築のコンクリ基礎があった。
何の建物のものだったかは知らん。
歩道橋ができたあとの目撃談。 小田急の相模川橋梁のすぐ上流の橋は低い位置にあって、大水で沈みそうな橋だったんだよね。 >>278
通称もぐり橋。正式名称は「相模小橋」だったが誰も呼ばなかった。 キハ10 12・13・23・24・25・26・47・48・49・50・60・61・62
キハ20 209・210・281
これらが全部引退したかと思いきや、キハ20 56がやって来たのにはビックリ。
代替車は、美濃太田に1両だけあったキハ30を調達 そういえば両運なのに便所つきを見たような覚えがある。
珍しいとは思ったが、カメラを持っていなかった。 久留里線でキハ30が引退したら、西寒川駅跡に1両保存してほしい。 >>284
経費諸掛かりすべて君が負担すれば、実現するかも知れない 相模線のネタ番号っつうと、30-100と35-100の100番コンビ、30-506と35-531とそれに30-100を加えたラス番トリオ、あと30-30や、国鉄時代は30-1もおったかな 消防の時初めて乗ったDCが相模線のキハ35だった。
当時は立川に住んでいたが、乗り慣れた中央線の103系に
似た外観ながら、ガムテープで目張りされた貫通扉、
色褪せた塗装、ベコベコの床、スプリングがへたり、モケットが
破けたシート等に衝撃を受けた。もちろん外吊り扉やステップも
新鮮に感じたものだった。 相模線のその他キハ26428.429の他209も1時期いた。またキハ20
91もいた。キハ10 42はエアサスの試験台車の名残りで台車形状が
他のキハ10と違いジョイント音もボルトのゆるんだような音を出してた
キハ30 61は下溝の辺りで踏切で自動車と衝突、前がへこんだ無残な
姿で八王子で放置プレイの後 廃車になった。
>>289
キハ26が居たのは1974年頃でしたよね、今の海老名付近の踏み切りで428番の写真を撮りました。
今写真を見直すと配属は「盛セキ」と読めるようなので一ノ関の間借りだったのでしょうか?
いずれにしても相模線のキハ26運用について私は文献等で一切見た事が無く、ほんの僅かな期間だけ
の使用と思っていたので、書き込みがあったこと自体驚いています。 キハ26428 429は1974年頃だったと思います。茅ヶ崎駅に入線したのを見て
あわてて乗りに行き、寒川まで乗りました。209号は1976年頃何ヶ月かいたの
ですが乗らずじまいでした。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています