高崎線
>>73
水上からの上野行きは新前橋と籠原で後ろに増結してたな 真冬、屋根にどか雪を積んでやって来る上り貨物列車。
ttp://www.nhk.or.jp/shiruraku/mon/index.html#a5
あの「上尾事件」がNHK教育TVに・・・・ 上越新幹線ができたとき、中電増発と合わせて
スピードupのダイヤ改訂をおこなったけど
朝上りの遅延が禿しくてすぐ?に再修正したような記憶が… そういえば鴻巣駅とか115系の写真がデザインされた「普通電車増発」みたいな旗がたくさんホームにぶら下がってたな。
新特急が止まる駅は185系の「新特急登場」だか「新特急停車」だかの旗が下がってたな。
昭和60年ごろか 鴻巣いえば中電大増発・新特急登場と前後して北鴻巣ができたよね ここリアに漏れんちの最寄駅だけど
北鴻巣できた頃は周り田んぼばかりだったよね 北鴻巣の開業式見に行った人この中にいない? 自分は
開業日生まれるちょうど2週間前でした
あとこれよりもっと前は鴻巣駅前にキンカ堂あったよね キンカ堂は今でいうどの辺りにあったのかな?
以前はキンカ堂・今も大型ショッピングモールや免許センターで賑わいをみせる鴻巣・どの時代も周辺
地域の中心を担ってるなぁ 今の北鴻巣駅南側の田んぼに、「こりと痛みにトクホン」の看板があったのだけよく覚えてる。
今どうなってるかはサッパリ分からんわ。
〜高崎線 懐かしの萌える沿線風景〜
・大宮〜宮原間の釣り堀
・北上尾駅前の「これでいいのか北上尾」
・北上尾、見えそうで見えない上尾高校の校庭とプール
・桶川〜北本のうっそうとしていた雑木林、不法投棄物付き
・北本の「解脱会」
・北本〜鴻巣間にあった富士空調の換気扇付き看板
・行田〜熊谷間の旅館・ホテルの看板
・熊谷〜籠原間の貨物ターミナル「士幌農協倉庫」
・三ケ尻の短絡線
・本庄付近で見えた巨大な漬物樽
・岡部の油槽所と関東分岐器社内にある制作中の分岐器
・岡部の高圧変電所
・新町駅前の醤油工場
・八高線北藤岡の短いプラットホーム
・倉賀野の烏川べりにある昭和電気鋳鋼工場
・高崎駅、たかべんのきしめん風うどん >>83
さいしんの斜め前にあるパチンコ屋が、昔キンカ堂があったところ。
キンカ堂の撤退が、鴻巣の中心市街地衰退の引き金を引いた気がする・・。
>>83
開業の日(昭和59.11.3)見に行ったな。今のマミーマートのあるところでミニ動物園とかやってた。
あと、記念切符買ったな。
ちなみに当時鴻巣に住んでたがその一年後ぐらいに北鴻巣に引っ越したけど
キンカ堂懐かしいな。昔よく行ってたな。行く途中にトロッコがある倉庫があってよく見てた。
(しまむらのあったところの近く)
>>85
換気扇つき看板といえば北本の解脱の近くに栗田換気扇の看板もあったな
>>87
ホームはないけど4番線というのか貨物の待避線だったら鴻巣と吹上に今もあるね。
鴻巣にも竹沢興産に吹上の石油タンクみたく引込み線があったらしくポイントと門が昭和50年代まで残ってた。 >・北本〜鴻巣間にあった富士空調の換気扇付き看板
>
>>88
>換気扇つき看板といえば北本の解脱の近くに栗田換気扇の看板もあったな
>
富士空調じゃなくて栗田換気扇(テラルクリタ)の間違いだったかな…
看板に付いた換気扇が意味もなくクルクル回ってるのが印象深かった。 うましる
単式ホーム
MAX
鉄橋
専売公社
キリンビール
操車場
観音像
沖電気
デハ
高崎 日本製粉の木造の工場
ttp://www.city.takasaki.gunma.jp/gaiyou/taka100/taka26.htm 桶川・北本間に圏央道が通りグリコの工場が出来たら、みなみ北本駅も出来て
栄えるかもね 高崎1番線
「あさま」がまだ発車してないうちに、倉賀野方面のカーブを曲がって姿を見せる「とき」
>>95
激萌え〜〜〜!!!
(*´Д`*)ハァハァ
>>86
北鴻巣ができて1年後には長崎屋も開店した 「大型店誕生!!」と新聞に載ったらしいがこの期待に
応え鴻巣駅前のキンカ堂をもバルサンする程の勢いだったらしい しかし長崎屋ができて結果的に中心
市街地が退化するとは開店当初誰も思ってなかっただろう かく言う漏れは今メガドンキ(元長崎屋)の
従業員 高崎線を疾走するブルドッグを,リアルで見てた方おりましたら話聞かせて下さい。 飼い主引っ張られて踏切を疾走させられてるブルドックなら見たことあるなぁ。 深谷まで快速の池袋行って、211系だけだったかな?
快 速 池 袋
─────
籠原−高崎 For IKEBUKURO
115系だったら、こんなサボだったんだろな
快速
池 袋 ⇔ 高 崎
籠原−高崎
>>101
115系の運用だったかな・
浦和通過
高 崎 ⇔ 池 袋
高 崎 籠 原 間 快 速
とかいうゴシャゴシャ記載されたサボを一度だけ見た記憶があるが、
ハッキリとしたことを覚えてない。 アーバンが熊谷以北各停になったのはいつからでしたっけ? >>105
ありがd
>>106
それで各停になったのですか? 下りのアーバンは深谷で緩急接続してたから、岡部・神保原・倉賀野ユーザーにとっても
悲惨というほどでもなかったと思う
もっとも次の岡部で、あさま通過待ちをする羽目になってたのが痛いところ
ただ空気輸送状態の各駅停車、深谷付近まで来れば流石に混雑の激しくない快速アーバン
あまり効率の良い状態じゃなかったのも事実だったと思う
そいや上りはどこで緩急接続してたんだろ、、、
JR東日本の会長は熊高OBなのだから電車特定区間を見直して欲しい!
競合路線がないから宮原から下りの高崎支社の運賃が高い! 埼玉県って縦の繋がりはあるけど、横の繋がりはあんまりないよね >>111
・上越新幹線をJR東日本から分割
・東上線東松山分岐熊谷経由妻沼線伊勢崎線乗り入れ
・都営三田線大宮西部方面延伸
・埼京線
・湘南新宿ライン
・山手線
・京浜東北線
・宇都宮線
・東京大宮電気鉄道
・南北線&埼玉高速鉄道&武州鉄道
・千代田線
・常磐線
・京成線
・つくばエクスプレス
・小田急線
・東横線
・京浜急行
・東海道新幹線 修正
・上越新幹線をJR東日本から分割
・東北新幹線
・ニューシャトルを熊谷まで延伸
・東上線東松山分岐熊谷経由妻沼線伊勢崎線乗り入れ
・都営三田線大宮西部方面延伸
・埼京線
・湘南新宿ライン
・山手線
・京浜東北線
・宇都宮線
・東京大宮電気鉄道
・南北線&埼玉高速鉄道&武州鉄道
・千代田線&小田急線
・常磐線
・京成線
・つくばエクスプレス
・東横線&日比谷線
・京浜急行
・東海道新幹線 115ゲット
スカ色のサハが入った編成とか好きだったな
1985年、スカ色3両編成の先頭に連結されたクモハ115-2を井野駅で見たときの感動は忘れられない。 >>112
実際は縦のつながりも無いよ。東京と地元の往復だけ。桶川の人が上尾になんて流動はないし。 あと、東北・高崎線の大宮分岐も、今となっては弊害が大きいな。
京浜東北が大宮止まりだとか、新幹線が出来るまで、上野大宮間の線路容量の関係で大宮より北の普通列車が増やせず、
その結果町の発展が遅れたとか。新幹線自体も、大宮分岐のせいで増発に限度があるし。 先に開業したのは高崎線なんだから、東北線がルート変更して譲るべき。
大宮の分岐が立体交差になったのは昭和30年代ですっけ… 東北線の分岐点は浦和・岩槻・熊谷も候補だった
距離的には岩槻がベストだったが当時は反対があり今の大宮の繁栄をみると
熊谷(妻沼)線は大田方面よりも東松山とつながっていれば そして東北線が大宮分岐になったことで出来たのが両毛線だね
当時の輸出の主力製品が絹だったことも有り早い時期から鉄道が必要だったというのもあるが 大宮と言えば盆栽ずし。食べ終わった容器が植木鉢になるんだったよな。
別にカップラーメンの容器でも、使おうとすれば使えるのだが。 岡部、のどかな駅だと思ったら以外に乗降客多いのね。 高崎線で一番少ないのは倉賀野か
上越・両毛線の駅よりも少なかったりしてる 165系急行は良かったなあ。
「前7両14号車から8号車水上行き急行ゆけむり号
後ろ7両7号車から1号車万座・鹿沢口行き急行草津号です」
そういえば本庄駅に隣接した遊園地みたいのはまだある? >>128
いまの特急「草津」は8-14号車で「水上」は1-7号車だよね。
編成が逆なんだな。
本庄の遊園地ってニチイ本庄店の遊戯コーナー? 衆院選、民主勝利後の最悪シナリオ
民主が国政第一党になる
↓
公明「外国人参政権などの党としての本懐で民主党と一致した」
民主、公明の連立政権成立
↓
国政での外国人参政権が成立
国政選挙で民主、公明、社民更なる躍進
↓
人権擁護法が与党の賛成多数により成立
行政、在日朝鮮人、中国人、宗教法人を批判すると罰せられる様になる
↓
国籍法の更なる緩和
日本国籍と生活保護資格だけ持つ、日本人の血が一滴も入ってない中国人が急増
↓
在日朝鮮系、中国人系の国会議員も出現
親中国の自民議員が民主に寝返る
自民党完全無力化、または解散消滅
↓
日本乗っ取り完了
「民主党の正体」 「ミコスマ」 「韓国は“なぜ”反日か?」で検索 >>129そう。今と逆だったんだよ。
親戚が中之条にいて昔は新前橋か渋川で行きも帰りも待たされたよ。
ニチイかどうか判らないや ニチイだね。
ビブレに変わった90年代になくなって、今はブララってパチンコ屋になってる。
ゲームコーナーが併設されてて、よく遊びに行ったよ。
>>123
当時は宇都宮線って名称自体無かったし。
君はここが何の板が忘れてないか? 宇都宮線なんて利用者以外言わないし
国営放送でも『東北線』は上野−宇都宮間 人身事故で止まってます・・・だから
>>132
ビブレでなく、SATYだった飢餓
ま、どちらもマイカルグループだがw >>134
>利用者以外言わない
じゃあ大半の人が言ってるんじゃね?w
準地元民だが今でも宇都宮線を「東北線」なんて言うのは鉄かヨソ者だけだし。 この前乗ったホームライナーが微妙にタバコ臭かったんですが
全線車内禁煙でかなり昔ですよね 日足トンネルでわたらせ渓谷鐵道とJR日光線・東武日光線がつながれば
埼群軌道新線と森林都市線もつながる?
利根川新橋ができたら赤岩渡しはなくなる?
自民党埼玉12区の候補が高崎線を東京までをマニフェストで公約してた
秋葉原まで行けば。。。 艦砲射撃を避けるために、東海道線の代わりに中仙道のルートを
明治時代に検討していたというあれですか。
そうなってたら全通は大幅に遅れてたでしょうね。
甲州街道ルートは考えなかったみたいにみえますね。 77年に客車普通に大宮から上野まで乗ったがあれは東北か高崎どちらから来たんだろう
急行にのっちまったかとドキドキしたのを覚えてる >>144
高崎線だろ
上野で「これ乗って大丈夫ですか」って駅員に繰り返し尋ねているのを見たことがあるな
すごく揺れる列車だった
75年くらいだったかな 桶川10時頃の上り列車だったかな。
来ると嬉しかったような記憶が。78年頃…
大宮駅下り12時台の普通が無くて1時間以上待たされた記憶がある。 小学生のときにブルドッグを高崎駅まで見に行ったことがあります。
秋田行きのいなほでしょ?ひたちと共用で、火を噴く特急とか言われていた。 土能線計画
土浦-鴻巣-飯能って行く路線が昔計画されていた
案外利用率低いだろ >>147
53・10改正以降ですかね?
東北本線もそうだけど、昼間に保守間合いを取ったんですね、たしか。
特急・急行関係も両線ぽっかり1時間空いてました。 >>149
土飯線じゃない?
似たようなルートで圏央道が建設中だから、需要はあるんじゃないかな
第二の武蔵野線 >>151
土飯線だっけ?
あれば高崎線や東北線や常磐線の横断列車だね
東日本主要3線をまたぐなんてよく考えればすごいな。
でも計画倒れだから悲しい うろ覚えですまぬが、熊谷を通過して深谷or本庄に停まった列車ってありましたか? 基本的に
大宮→高崎
大宮→深谷→高崎
大宮→熊谷→本庄→高崎
のパターンだったかと。
時間帯の関係もあり、下り白山が深谷停車だった。 >>154
深谷駅の急行停車の経緯については有名なのでここでは割愛しますが、
1966年10月、上下2本ずつの停車でスタートしたようです.
当初の時刻表が手許になく、
翌年1967年9月号(交通公社の時刻表復刻版)によれば
下り・10:24「奥利根2号・草津2号」& 18:04「第3信州」
上り・ 8:59 「第1信州」 & 14:56「奥利根2号・草津3号」
の陣容.
1967年7月の長野原線電化に伴う「草津」の電車化以外は、
大きな変更はなかったはずなので、おそらく1966年10月当初も
基本的にはこのパターンであったと記憶しています.
このうち、深谷停車の「信州」は上下とも熊谷停車・本庄通過.
上下6本ずつ停車(定期列車)と、数の上では勝っていた本庄駅も、
「あかぎ」など、準急からの格上げ組に限られていた時代でした.
さらに驚くことに、1967年10月から上り「第1信州」は熊谷通過となり、
高崎大宮間の停車駅は深谷のみに変更されています.
しかし、白紙大改正となった1968年10月からは、
深谷停車は上下3本ずつに増えたものの「信州」の停車は取りやめになり、
「あかぎ」「ゆけむり」「草津」系統に・・・・
長文にて失礼しました.
1978年10月改正で初めて熊谷に特急が停まったが、
下りは1号で、上りは何号でしたっけ? はるな
尾瀬
石打スキー
小出スキー
戸狩スキー
湯田中
はどうだったの?
夜行急行と臨時急行は
大宮,熊谷,高崎というのが普通だったね。(稀に本庄停車)
大宮,熊谷,深谷,本庄,高崎というのは昼の上越線経由の急行だった記憶。
ただし「よねやま」は深谷通過本庄停車。 「湯田中」は「信州」と併結運転だったよね。
「戸狩スキー」は「妙高」とだっけ?
夜行の「天の川」「鳥海」「能登」「越前」は熊谷通過だったような・・・ 「戸狩スキー」は単独だった気がする
天の川とか。。。、懐かしいね。
リバイバルしないかな。 急行「石打スキー」を当時のまんま近郊型電車でリバイバル運転しようか?
だれも乗らないぞwwww
・・・と書きたくなったけど,近頃のロングシートよりは当時の近郊型のほうが
まだマシか・・・。 EF58牽引の旧型客車
夜の上野行きは、大宮で5分遅れは当たり前
上野では「止まるまでお待ちください〜」
ガタン「うえの〜 うえの〜 終点です。」
車掌は 直江津車掌区だった。(1980年ごろ) 旧客を使った定期夜行急行ももちろん多かったが、
行楽シーズンの臨時は、14系や12系を使った急行も目立っていたね。
「軽井沢○○号」の50番台等はその代表で(季節列車−臨時より運転日が多い−
の急行「軽井沢」は高崎まで「ゆけむり」に併結の165系だったが)。
でもEL索引なんでスピードが出ず、本庄・深谷通過にしていても高崎線内
に限ると電車の各駅停車並みの時間がかかっていた(道路事情も悪かったので
「直通」「指定席」というだけでも価値があったんだろうね)。 くれくれですみません。
昭和30年代(少なくても35年以降)全線電化後にも1日1本だけ下りの長岡行きでSLがあったという話を聞いたのですが、
いつ頃まであったのでしょうか。
また、なんでそんな運用が残ってたんでしょうか? 路線にウンコぶちまくトイレに軽いカルチャーショックを覚えた子供時代 >>172
便器を覗いたら線路の砂利が見えて、更に他人のウンコとトイレットペーパが
あったのを思い出したw
新幹線が開通する以前の高崎駅と熊谷駅の写真、誰かUP願います。 思い出すのは熊谷駅の駅弁売り。
急行が停車するとおおきな声で「ベントーベントー」
窓を開けて「お弁当やさーーん」と叫ぶと
必死に走ってきた。
たいした停車時間でもないのに,不思議と買えた。
車掌さんが待っていてくれたのだろうな。 大宮駅のムサシ食堂の駅弁を全種類食ったことがあるが、
やっぱり印象に残るのは、むさし弁当と盆栽すしと鳥そぼろ弁当かな。
まだ川越線がディーゼルで川越線のホームに行くのに渡り廊下がいきなり
狭くなった頃の話だけど。