高崎線
>>186
その通りだよね。
温泉地を強調する意図がうかがえるけど地名より山名のほうがかっこいい。 今月で38歳のオレ、みんなの投稿読んでると懐かしいな。実家行って時刻表を
倉庫から出してこようかな。あと浦和の県立図書館にたくさん鉄道雑誌が保存されている。
暑いから涼みながら読むのが良いぞ。ちなみに189系のあさまが好きだった。 昼の高崎線でも“白山”“いなほ”“はくたか”は“とき”“あさま”よりワンランク上の特急に見えた。
トランプで言えば「キング」かなw
「クイーン」は“とき”“あさま”“佐渡”“よねやま”あと臨時の急客全部
「ジャック」は“ゆけむり”“信州”“草津”“あかぎ”かなw
ま、これはあくまで漏れの中でのランキングだけどさ。 おいマジで誰だよ死ぬとか糞だな湘南新宿ラインはいつも貧乏くじだ 15年位前まで岡部ってホームに花壇あったよな。あれ良かった。
今は神保原の七福神が良いな。深谷の駅舎もいいけどね。 もう20年以上の昔、大学の帰り
上野発最終(土曜日)、山登りの格好した連中が
かなりの人数乗ってたな。
今思えばあの電車は長岡行きだったのかな? >>193
そうでしょうね。
長岡には早朝に着きましたね。 白山の深谷停車、なぜだか意味不明、不可解。
深谷のホームから西日本の社員(車掌)が列車を出す光景はまさしく幻か白昼夢のようだった。 2321レと称する新潟行きは、なぜ新幹線開業まで残ったんだろうか。 >>194
微妙。。。越後湯沢行きかも
>>190
おれはやはり「とき」だったな
白山とかいなほとかは本数が少なく他線に行く特急だったな。
でも急行よねやまとか「あたりが出た」みたいで
であったときは妙な嬉しさがあったな 臨時だった頃の「白根」を見ると妙に幸せな気分になった小学生時代。
ヘッドマークのイラストの茶色い温泉を、肥だめだと思っていたのはここだけの話 新幹線ができる前は、普通を待っている間に特急が3本くらい通過していった。 東海道線沿線は「黄害」が酷かったそうだが高崎線はどうだったのだろう?
>>201
東海道は上りラッシュ明けに東京駅に入ってくる夜行列車が多かったろうからな。
平塚近辺は結構やられたろうな。
高崎線はほとんどが早朝から上りラッシュ前に上野に入ってくるから東海道ほどではないんじゃん?
経験上、皆さん起き出すのが大宮手前あたりだもんねw
体のメカニズムから言っても、朝飯食うと出たくなる訳だけど、高崎線の夜行だと
起き出す大宮あたりで朝飯食ってる人ってあんま見ないよねw
ま、これは夜行での場合。東海道ほどではないかも…と言うだけの話だけどね。
>>202
成る程、大宮駅構内線路の惨状はそういう事だったのか。
早朝の上り夜行の「製造現場」をもろに見た事があったな。 スレ違い質問だが、「ヨン・サン・トオ」以前の上野-大宮間の線路はどうなっていたの?
京浜東北線と共用? 超亀だが>>10に乗ったことあり。ただし目的地は高岡!
いつも出張(土日にメンテナンス)だったのでスーツ着てて短距離客と勘違いされて、一度乗車拒否された
翌朝一番の新幹線で向かったけど当然遅刻して顧客激怒!
そこの親会社の元社長、引退したどっかの党首だった人(当時は政権与党の超お偉いさま)
目の前でO宮駅に電話するも、らちあかず、なめとんのか!の話になり・・・
数日後田端の支社に行かされて、連絡書もらいました。
それから数ヵ月後、やっぱり同じような状況になって(年末だったので本当に物理的にも無理!の状況)
なんと大宮から桶川まで車掌室(ボンネットの反対側)に入れてもらいましたw
政治の強さ思い知った瞬間でした
昭和50年ごろ、神流川橋梁(だったかな)から見える河原に引込み線
があったのだが、なんだったんだろう。砂利取り線かな。
聞き込み線は、電化されていて何本もの線路があったのだが。
現地に行って写真でも撮ろうと思っているうちに無くなっていた。 >>208
それは知らないな。
神奈川でも烏川でも見たことがない。 >>209>>210
>>208です。レスありがとう。
その後、調べたら以下のような便利なサイトがあって
http://airphoto.jp/kanto/gumma.html
その中に、以下の空中写真が紹介されていた。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=36.20037500&lon=139.02756000&ac=10209&az=&v=2&sc=7
電化(架線)の状況はよくわからないが。
鉄道とは関係ないが、ツーリングなどで17号線の神流川橋を通ることが良くあり、
東詰(埼玉側)北側にあった造り酒屋の古風な雰囲気で好きだった。
いつの頃にか無くなってしまったが、この写真には写っていてちょっとうれしい。 古い神流川橋梁の頃だね。
あれは造り酒屋だったのか。
遊郭の跡かと思ってた。 下り列車の大宮発、自動放送が終わると
「この先、ポイント通過のため列車が大きく揺れます」
とアナウンスしてくれるようになった。
なぜか211では、停車駅の案内だけだ。 むかし籠原発の上り始発電車に乗ったときのこと
その電車は行田駅を通過してから急停車した。
そしてホームまで戻って車掌がドアを開けた。
駅員と運転士が何事か話をしていた。 おい大丈夫か?起きてるか?
今回だけみのがしてやるよw
車掌とは話合わせとけよ! 息子の高校入試の合格発表が気になって“停車駅通過”やっちまったのもなかった?
ニュースにもなった筈だ。 普通列車だけど165系だったから急行をやってると錯覚したからとか。 間合い運用の165、169系にサハシなんて入ってたら…ハアハア(≧∇≦)
>>218
多かったね。日中のぼりが2時間くらい停車しない時間帯があった。
新参駅には辛い風潮があった気がする。
もっとも開業直後の東北線の東鷲宮なんて下りは夕方数本,上りは朝数本停車するだけで
残りは全部通過していたけどね。 17日に行田から大宮を往復したいのですが丁度いい時間を教えていただきたいです
(現在の運行状況が分からないため) >>194
谷川岳目当てだと土合・土樽あたりで降りるかと。
もと高校山岳部で利用したので 高崎線をラップみたいな曲で綴った作品ありませんでした? 深谷に親戚があってGWなどはよく遊びにいったが
昼ごろの下りで赤羽で乗るとまず座れなかった思い出がある。
当時は電車少なかったのだろうね。
待ち時間がもったいないからと籠原行にのって
籠原まで迎えにきてもらったこともあったな。
ウロ覚えだが11時47分ごろだったかの急行をのがすと
13時すぎまで列車がなく間1本籠原止まりがあったかな。
もちろん53年10月改正以前のダイヤだけどね。 東北、高崎線の「お昼休み」は60.3まであったよね。 その時から、トイレに隠れる特急券キセルはいたよな、上尾市民! キセルとサツマノカミの区別がつかない人はかなりいますねえ >>234
俺は国鉄の経営が苦しいのを知っていたから
必ず前もって特急券や急行券を買って乗車した。
特急券、急行券がなければ改札を通してくれない場合が多かったけど。 31才で交通事故がもとで死んだ母親を思い出したw
昔、上野〜高崎間で母親は急行・特急飛び乗り派。そんでサハシやサシに直行するパターン。
サハシだとガキの俺はカウンターに背が届かないからカウンター下のカバン置きみたいな所で飲食する。
サハシやサシが満員の時は腹くくって車掌売りのグリーン車を張り込む。
一方、父親は正反対の性格で東武伊勢崎線の準急+両毛線だった。
そんなんで高崎まで行くのは父親と行くより母親と高崎線で行く方が楽しみだったw 115系の電動行先表示機が使われるようになったのって、いつ頃?
いつの間にか白い細長のサボが消えてた気がする。
>>241
1990年代前半であることは確かなんだが....
逆に新造時から準備工事はされてたのに長年サボが使われていたのは何故? >>241 >>242
1992年春のダイヤ改正から。
>>243
組合対策等では?
(最後まで駅での『サボ返し』業務は,
国労組合員の担当だった記憶あり) >>243
115系がサボ使用していた時代でも211系は登場時より方向幕使用していました
東海道線はかなり前から方向幕使用していたので、上野口普通列車のサボ使用は何か理由あったかもしれません
同じ頃の常磐線415系1500番台は方向幕自体は使用可能でしたが、基本番台との併結絡みで白幕状態でサボ使用でした
余談ですが、房総地区はサボすらなくダイヤ乱れたら乗り間違え続出でした
方向幕車も「千葉」としか表示しなく、総武本線か成田線と表示するようになったのは最近です
逆に銚子行は昔から経由表示ありましたが・・・
中央線の山スカもサボ無しで、前面の行先方向幕しか使ってなかったな
あくまで山スカだけで甲府より先の松本車はサボ使ってたけど 211の幕に
浦山口
とか入ってた気がするけど使った事あんの? サボといったら赤羽行きの青いサボとかガムテープで書き直されてるサボを思い出す >>246
山スカのサボは下地が何故か、アイボリー色でしたよね。 部屋を片していたら、新特急上尾停車の記念きっぷがデテキタ! 山スカといったらサハだけスカ色の115系が懐かしい。車内の禁煙区間が新宿〜大月のままだったりしてた。 白根の183系0番台って存在した?
他の上信越特急は全部、貫通扉のある車で運転実績があるんだけど、白根だけ見つからない >>256
グーグルイメージ検索でバリバリ出てくるぞw 昔、特急【とき】は、上野⇔新潟を、どの位の時間で走っていたのですか? >>257
1回でも自分で実際に検索してみてから書いてくれ
特急ときが廃止される日に、父親と見に行ったのは良い思い出。
このスレ覗いて思ったんだけど、昔の普通電車って、今の「こだま」的な扱い? こだまは特別料金徴収するんだから
普通電車とは違うんじゃないの? 宮原在住者なんだけれど。
昔、高崎線で朝、上野発高崎行きの普通列車でEF58で引ぱっていた列車を
中学時代好きで良く乗っていました。 2321列車な
時間に余裕があると、わざわざその列車を選んで乗ったわ 2321列車懐かしいね〜。
上野の高架ホームでは違和感ありまくりで、都会に現れた蜃気楼のようだった。
赤羽〜大宮の激走ぶりにはマジ萌えた。
熊谷でバカ停があって“はくたか”が追い抜いて行ったんじゃなかったかな…。
熊谷では東武のキハ2000と同時発車で湘南顔どうしの並走バトルが楽しめた。 >>1
今は大宮ー黒磯間共々「京浜東北線」化しちゃったようなもんだな…。
2321レみたいな存在どころか、近郊型電車も実質消えた。
「国電」的車両を忌避すれば、JRの策略に嵌ってグリーン料金か特急料金
払わざるを得なくなってる…。 いちおう「お手洗い」が付いているのだけが往時を偲べる点かと。 漏れの中では縦型の時刻表差し、AW-2の汽笛がついてる、便所がある、クロス
シートがある、列車番号の上2桁に時刻が冠されていない…、のうち1つあれば
一応は“列車”“近郊型”と見ているw
何年か前、久し振りに乗ったら、あっちこっちの駅で中線が撤去されて
追い越しできなくなってて慨嘆した。
この線を特急・急行が疾走した次代は遠い昔になったんだと思って…。 その時はやたら中線の撤去が目に付いた印象だったけど、見誤りか記憶違いかも知れない。
間違いだったとしたら誠に失礼…。 特急あさまに乗っている時、高崎線は一番退屈な区間だったな。 車窓っていう点ではそうも言えるが、信越線の特急の場合、高崎線内が
唯一特急らしさを発揮する区間だったと思える。ゴーサントーまでは
大宮(ごく一部は上野)―高崎間74.7(101.6)kmノンストップで、
一方、他の区間の停車駅間隔は20kmそこそこだったから。 平成7年の暮れに長野からその「あさま」に乗ったところ、雪でダイヤが乱れて
高崎には19分遅れで着いた。ところが高崎線に入ると今度は各停に雁行して
走らざるを得なくなったからますます遅れて、上野には40分の延着。
つまり雪が消えてから(高崎線区間)の遅延の方が大きくなった。
一応、「過密ダイヤ」の現実味を知らされた感じがした。
大宮以北の駅の殆どが退避線を持っていたけど
あれらの駅全てで通過待ちがあったのかな? >>279
今と違ってダイヤが寝たMax75km/hの貨物も今よりあったからなぁ…。
貨物取扱停車場もあったから構内ダイヤ上、手前の停車場の副本線で時間潰しさせるのに使うとか。
>>16>>48
3年前近くの書き込みへのレスだが、高崎線のアイスクリーム売りは自分も遭遇した。
小学生の頃高崎へ旅行に行った時、車内へ売り子の女性が来たので買って食べた。
帰りは上野まで開業したばかりの新幹線に乗った(これが主な目的だが)ので、
もしかしたらJR化直前まで存在したのではと思う。 >>281
女性の売り子だと承認業者鴨試練w
やっぱコイツは男じゃないとサマにならないべぇ?
アイスの箱を肩に担いで忍者みたいな軽快な身のこなし、どことなく悪事の
オーラが出ているみたいな?
なんかさぁ「生活がかかってる感」っていうのかなぁ?
ま、女性もやってやれないこともないと思うけどさぁw もし、何処かの駅に、1度も使われることのなかった待避設備、っていうのが存在するんだとしたら、
その希少性は永久に称えられるべきという気がする…。 >>277
そうとも言えるかも知れない。
子供の頃あさまの車内放送で覚えた停車駅は上野、大宮、高崎、横川、軽井沢、小諸、上田、戸倉、長野、黒姫、妙高高原、新井、高田、直江津だった。
後年に乗った時、熊谷や深谷や本庄に止まるとガッカリしたもの。 白山の深谷停車のほうがガックシきたなぁorz
日中、西日本の車掌が深谷のホームに立つ光景も今となっては懐かしい。 確かに、以前は「白山」て言えば、「あさま」にとっては「聖域」に当たる
駅も通過する場合があって、しかも食堂車付だったりしたから、「格調高い」と思ってた。
それだけに「何で…?」って感じだった。
まあ、基本的には、元の急行で、種別だけ特急にした(早い話がボッタクリ)
っていう列車が瑣末な駅に停まるってことだろう…。
高崎線に限らずだけど。
それにしても昔は、「とき」の一部が大宮も高崎も通過で、上野―水上間
ノンストップだったりした。今の特急なんてこの区間で何駅に停まるだろう…?
と思ったら、定期列車はないんだった…。