高崎線
>>154
深谷駅の急行停車の経緯については有名なのでここでは割愛しますが、
1966年10月、上下2本ずつの停車でスタートしたようです.
当初の時刻表が手許になく、
翌年1967年9月号(交通公社の時刻表復刻版)によれば
下り・10:24「奥利根2号・草津2号」& 18:04「第3信州」
上り・ 8:59 「第1信州」 & 14:56「奥利根2号・草津3号」
の陣容.
1967年7月の長野原線電化に伴う「草津」の電車化以外は、
大きな変更はなかったはずなので、おそらく1966年10月当初も
基本的にはこのパターンであったと記憶しています.
このうち、深谷停車の「信州」は上下とも熊谷停車・本庄通過.
上下6本ずつ停車(定期列車)と、数の上では勝っていた本庄駅も、
「あかぎ」など、準急からの格上げ組に限られていた時代でした.
さらに驚くことに、1967年10月から上り「第1信州」は熊谷通過となり、
高崎大宮間の停車駅は深谷のみに変更されています.
しかし、白紙大改正となった1968年10月からは、
深谷停車は上下3本ずつに増えたものの「信州」の停車は取りやめになり、
「あかぎ」「ゆけむり」「草津」系統に・・・・
長文にて失礼しました.
1978年10月改正で初めて熊谷に特急が停まったが、
下りは1号で、上りは何号でしたっけ? はるな
尾瀬
石打スキー
小出スキー
戸狩スキー
湯田中
はどうだったの?
夜行急行と臨時急行は
大宮,熊谷,高崎というのが普通だったね。(稀に本庄停車)
大宮,熊谷,深谷,本庄,高崎というのは昼の上越線経由の急行だった記憶。
ただし「よねやま」は深谷通過本庄停車。 「湯田中」は「信州」と併結運転だったよね。
「戸狩スキー」は「妙高」とだっけ?
夜行の「天の川」「鳥海」「能登」「越前」は熊谷通過だったような・・・ 「戸狩スキー」は単独だった気がする
天の川とか。。。、懐かしいね。
リバイバルしないかな。 急行「石打スキー」を当時のまんま近郊型電車でリバイバル運転しようか?
だれも乗らないぞwwww
・・・と書きたくなったけど,近頃のロングシートよりは当時の近郊型のほうが
まだマシか・・・。 EF58牽引の旧型客車
夜の上野行きは、大宮で5分遅れは当たり前
上野では「止まるまでお待ちください〜」
ガタン「うえの〜 うえの〜 終点です。」
車掌は 直江津車掌区だった。(1980年ごろ) 旧客を使った定期夜行急行ももちろん多かったが、
行楽シーズンの臨時は、14系や12系を使った急行も目立っていたね。
「軽井沢○○号」の50番台等はその代表で(季節列車−臨時より運転日が多い−
の急行「軽井沢」は高崎まで「ゆけむり」に併結の165系だったが)。
でもEL索引なんでスピードが出ず、本庄・深谷通過にしていても高崎線内
に限ると電車の各駅停車並みの時間がかかっていた(道路事情も悪かったので
「直通」「指定席」というだけでも価値があったんだろうね)。 くれくれですみません。
昭和30年代(少なくても35年以降)全線電化後にも1日1本だけ下りの長岡行きでSLがあったという話を聞いたのですが、
いつ頃まであったのでしょうか。
また、なんでそんな運用が残ってたんでしょうか? 路線にウンコぶちまくトイレに軽いカルチャーショックを覚えた子供時代 >>172
便器を覗いたら線路の砂利が見えて、更に他人のウンコとトイレットペーパが
あったのを思い出したw
新幹線が開通する以前の高崎駅と熊谷駅の写真、誰かUP願います。 思い出すのは熊谷駅の駅弁売り。
急行が停車するとおおきな声で「ベントーベントー」
窓を開けて「お弁当やさーーん」と叫ぶと
必死に走ってきた。
たいした停車時間でもないのに,不思議と買えた。
車掌さんが待っていてくれたのだろうな。 大宮駅のムサシ食堂の駅弁を全種類食ったことがあるが、
やっぱり印象に残るのは、むさし弁当と盆栽すしと鳥そぼろ弁当かな。
まだ川越線がディーゼルで川越線のホームに行くのに渡り廊下がいきなり
狭くなった頃の話だけど。 来週から「北陸」と489の「能登」がこっちの仲間入りなんだな… 俺が鉄ヲタになった30年前、高崎線には9種類の特急が走ってた。
それが、ついに全滅してしまった。
「とき」1982.11上越新幹線へ
「いなほ」1982.11羽越線へ
「はくたか」1982.11廃止、のちほくほく線へ
「白根」1985.3愛称消滅
「新雪」1987頃?消滅
「そよかぜ」1997.8消滅
「あさま」1997.10北陸新幹線へ
「白山」1997.10廃止
「北陸」2010.3廃止
急行にしても、これまであまりにも沢山の列車が失われてしまった。
「佐渡」「よねやま」「天の川」「鳥海」「ゆけむり」「伊香保」
「信州」「妙高」「志賀」「軽井沢」「越前」
生き残ってるのは「草津」「あかぎ」「能登」だけ。
はあ…。
>>178
草津は白根に改称して欲しいね、臨時で草津白根はあるけど、
山の名前の白根の方が地名の草津より特急らしいよね。 1883(明治16)年7月28日に日本鉄道熊谷駅で、
すしとパンの日本初の駅弁販売がされた説もあるらしい。
迂回路線として埼群軌道新線があればJR電車特定区間の範囲が。。。 >>39
禿亀だが同意
そんな漏れも該列車のヘビーユーザーw 昔の深谷駅前
東口側のみの駅で,まずミツワタクシーの営業所
駅前からの細い道をあるいていくとやがてキンカ堂
そして東武バスのターミナル(寄居,境町,本庄,熊谷方面等)
道の左側には
ふかやタクシーと深谷合同タクシーの営業所。
とりあえず眼につく食べ物屋はあ内田食堂と豊里食堂
おれが3歳くらいのときのおぼろげな記憶。 >>186
その通りだよね。
温泉地を強調する意図がうかがえるけど地名より山名のほうがかっこいい。 今月で38歳のオレ、みんなの投稿読んでると懐かしいな。実家行って時刻表を
倉庫から出してこようかな。あと浦和の県立図書館にたくさん鉄道雑誌が保存されている。
暑いから涼みながら読むのが良いぞ。ちなみに189系のあさまが好きだった。 昼の高崎線でも“白山”“いなほ”“はくたか”は“とき”“あさま”よりワンランク上の特急に見えた。
トランプで言えば「キング」かなw
「クイーン」は“とき”“あさま”“佐渡”“よねやま”あと臨時の急客全部
「ジャック」は“ゆけむり”“信州”“草津”“あかぎ”かなw
ま、これはあくまで漏れの中でのランキングだけどさ。 おいマジで誰だよ死ぬとか糞だな湘南新宿ラインはいつも貧乏くじだ 15年位前まで岡部ってホームに花壇あったよな。あれ良かった。
今は神保原の七福神が良いな。深谷の駅舎もいいけどね。 もう20年以上の昔、大学の帰り
上野発最終(土曜日)、山登りの格好した連中が
かなりの人数乗ってたな。
今思えばあの電車は長岡行きだったのかな? >>193
そうでしょうね。
長岡には早朝に着きましたね。 白山の深谷停車、なぜだか意味不明、不可解。
深谷のホームから西日本の社員(車掌)が列車を出す光景はまさしく幻か白昼夢のようだった。 2321レと称する新潟行きは、なぜ新幹線開業まで残ったんだろうか。 >>194
微妙。。。越後湯沢行きかも
>>190
おれはやはり「とき」だったな
白山とかいなほとかは本数が少なく他線に行く特急だったな。
でも急行よねやまとか「あたりが出た」みたいで
であったときは妙な嬉しさがあったな 臨時だった頃の「白根」を見ると妙に幸せな気分になった小学生時代。
ヘッドマークのイラストの茶色い温泉を、肥だめだと思っていたのはここだけの話 新幹線ができる前は、普通を待っている間に特急が3本くらい通過していった。 東海道線沿線は「黄害」が酷かったそうだが高崎線はどうだったのだろう?
>>201
東海道は上りラッシュ明けに東京駅に入ってくる夜行列車が多かったろうからな。
平塚近辺は結構やられたろうな。
高崎線はほとんどが早朝から上りラッシュ前に上野に入ってくるから東海道ほどではないんじゃん?
経験上、皆さん起き出すのが大宮手前あたりだもんねw
体のメカニズムから言っても、朝飯食うと出たくなる訳だけど、高崎線の夜行だと
起き出す大宮あたりで朝飯食ってる人ってあんま見ないよねw
ま、これは夜行での場合。東海道ほどではないかも…と言うだけの話だけどね。
>>202
成る程、大宮駅構内線路の惨状はそういう事だったのか。
早朝の上り夜行の「製造現場」をもろに見た事があったな。 スレ違い質問だが、「ヨン・サン・トオ」以前の上野-大宮間の線路はどうなっていたの?
京浜東北線と共用? 超亀だが>>10に乗ったことあり。ただし目的地は高岡!
いつも出張(土日にメンテナンス)だったのでスーツ着てて短距離客と勘違いされて、一度乗車拒否された
翌朝一番の新幹線で向かったけど当然遅刻して顧客激怒!
そこの親会社の元社長、引退したどっかの党首だった人(当時は政権与党の超お偉いさま)
目の前でO宮駅に電話するも、らちあかず、なめとんのか!の話になり・・・
数日後田端の支社に行かされて、連絡書もらいました。
それから数ヵ月後、やっぱり同じような状況になって(年末だったので本当に物理的にも無理!の状況)
なんと大宮から桶川まで車掌室(ボンネットの反対側)に入れてもらいましたw
政治の強さ思い知った瞬間でした
昭和50年ごろ、神流川橋梁(だったかな)から見える河原に引込み線
があったのだが、なんだったんだろう。砂利取り線かな。
聞き込み線は、電化されていて何本もの線路があったのだが。
現地に行って写真でも撮ろうと思っているうちに無くなっていた。 >>208
それは知らないな。
神奈川でも烏川でも見たことがない。 >>209>>210
>>208です。レスありがとう。
その後、調べたら以下のような便利なサイトがあって
http://airphoto.jp/kanto/gumma.html
その中に、以下の空中写真が紹介されていた。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=36.20037500&lon=139.02756000&ac=10209&az=&v=2&sc=7
電化(架線)の状況はよくわからないが。
鉄道とは関係ないが、ツーリングなどで17号線の神流川橋を通ることが良くあり、
東詰(埼玉側)北側にあった造り酒屋の古風な雰囲気で好きだった。
いつの頃にか無くなってしまったが、この写真には写っていてちょっとうれしい。 古い神流川橋梁の頃だね。
あれは造り酒屋だったのか。
遊郭の跡かと思ってた。 下り列車の大宮発、自動放送が終わると
「この先、ポイント通過のため列車が大きく揺れます」
とアナウンスしてくれるようになった。
なぜか211では、停車駅の案内だけだ。 むかし籠原発の上り始発電車に乗ったときのこと
その電車は行田駅を通過してから急停車した。
そしてホームまで戻って車掌がドアを開けた。
駅員と運転士が何事か話をしていた。 おい大丈夫か?起きてるか?
今回だけみのがしてやるよw
車掌とは話合わせとけよ! 息子の高校入試の合格発表が気になって“停車駅通過”やっちまったのもなかった?
ニュースにもなった筈だ。 普通列車だけど165系だったから急行をやってると錯覚したからとか。 間合い運用の165、169系にサハシなんて入ってたら…ハアハア(≧∇≦)
>>218
多かったね。日中のぼりが2時間くらい停車しない時間帯があった。
新参駅には辛い風潮があった気がする。
もっとも開業直後の東北線の東鷲宮なんて下りは夕方数本,上りは朝数本停車するだけで
残りは全部通過していたけどね。 17日に行田から大宮を往復したいのですが丁度いい時間を教えていただきたいです
(現在の運行状況が分からないため) >>194
谷川岳目当てだと土合・土樽あたりで降りるかと。
もと高校山岳部で利用したので 高崎線をラップみたいな曲で綴った作品ありませんでした? 深谷に親戚があってGWなどはよく遊びにいったが
昼ごろの下りで赤羽で乗るとまず座れなかった思い出がある。
当時は電車少なかったのだろうね。
待ち時間がもったいないからと籠原行にのって
籠原まで迎えにきてもらったこともあったな。
ウロ覚えだが11時47分ごろだったかの急行をのがすと
13時すぎまで列車がなく間1本籠原止まりがあったかな。
もちろん53年10月改正以前のダイヤだけどね。 東北、高崎線の「お昼休み」は60.3まであったよね。 その時から、トイレに隠れる特急券キセルはいたよな、上尾市民! キセルとサツマノカミの区別がつかない人はかなりいますねえ >>234
俺は国鉄の経営が苦しいのを知っていたから
必ず前もって特急券や急行券を買って乗車した。
特急券、急行券がなければ改札を通してくれない場合が多かったけど。 31才で交通事故がもとで死んだ母親を思い出したw
昔、上野〜高崎間で母親は急行・特急飛び乗り派。そんでサハシやサシに直行するパターン。
サハシだとガキの俺はカウンターに背が届かないからカウンター下のカバン置きみたいな所で飲食する。
サハシやサシが満員の時は腹くくって車掌売りのグリーン車を張り込む。
一方、父親は正反対の性格で東武伊勢崎線の準急+両毛線だった。
そんなんで高崎まで行くのは父親と行くより母親と高崎線で行く方が楽しみだったw 115系の電動行先表示機が使われるようになったのって、いつ頃?
いつの間にか白い細長のサボが消えてた気がする。
>>241
1990年代前半であることは確かなんだが....
逆に新造時から準備工事はされてたのに長年サボが使われていたのは何故? >>241 >>242
1992年春のダイヤ改正から。
>>243
組合対策等では?
(最後まで駅での『サボ返し』業務は,
国労組合員の担当だった記憶あり) >>243
115系がサボ使用していた時代でも211系は登場時より方向幕使用していました
東海道線はかなり前から方向幕使用していたので、上野口普通列車のサボ使用は何か理由あったかもしれません
同じ頃の常磐線415系1500番台は方向幕自体は使用可能でしたが、基本番台との併結絡みで白幕状態でサボ使用でした
余談ですが、房総地区はサボすらなくダイヤ乱れたら乗り間違え続出でした
方向幕車も「千葉」としか表示しなく、総武本線か成田線と表示するようになったのは最近です
逆に銚子行は昔から経由表示ありましたが・・・
中央線の山スカもサボ無しで、前面の行先方向幕しか使ってなかったな
あくまで山スカだけで甲府より先の松本車はサボ使ってたけど 211の幕に
浦山口
とか入ってた気がするけど使った事あんの? サボといったら赤羽行きの青いサボとかガムテープで書き直されてるサボを思い出す >>246
山スカのサボは下地が何故か、アイボリー色でしたよね。 部屋を片していたら、新特急上尾停車の記念きっぷがデテキタ! 山スカといったらサハだけスカ色の115系が懐かしい。車内の禁煙区間が新宿〜大月のままだったりしてた。 白根の183系0番台って存在した?
他の上信越特急は全部、貫通扉のある車で運転実績があるんだけど、白根だけ見つからない >>256
グーグルイメージ検索でバリバリ出てくるぞw 昔、特急【とき】は、上野⇔新潟を、どの位の時間で走っていたのですか?