【昭和50年代】国鉄特急の絵付きマーク【末期】
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俺は特に鉄というわけじゃないけど、子供の頃買ってもらった国鉄特急の本は
まだ大切に持ってる。確かに今の特急の方が、デザインも洗練されてるし、
かっこよくも思う。
しかし、それでも旧国鉄特急に魅入られ、今も愛着があるのは、あの旅情を誘い、芸術性も
込められていた絵付きマークに他ならないからだ。当時は国鉄もグッズをいっぱい
出したりしたというけど、物心付く頃のガキの俺にはそんなの知る由もなかった。
その頃こんなグッズかあったとか、また写真撮りに行ったとか、消えた時には
哀しくなったとか何でもいい。
ただ、マークについて存分に語ってみてくれ。
※ブルトレのヘッドマークやテールサインなどもおk 華やかさでいえば「ひばり」がガチ。
東北特急の主役を張るに相応しい華やかさだった。 国鉄時代の絵入りマークで一番短命は何かな。
あまぎ、いしかり、金星あたり? ≫4
まつかぜ
1年7カ月間だけ絵入りマークだった
さざなみ あさかぜ 明星 やまびこ しおさい そよかぜ 新雪
↑神がかり的な表現性 >>2
俺も白鳥が好きだった。
雷鳥もよかったなぁ。583系のは横に細長くて
苦労のあとが偲ばれたし。
彗星もシンプルで好きだった。 絵入りマークが出たばかりの頃、博多ではそれを見るのが難しかったですね
「かもめ」を除けばその多くがボンネット型で字だけのマークでした
ブルートレインにもヘッドマークはありませんでしたから
テールマークに絵が入るようになって一気に華やかな感じになったものです
列車からああいったマークが消えたのは残念なことです 貫通、非貫通の電車特急はゴウサントオからだが、ボンネット、ディーゼル、客車のテールはいつからだっけ?
S57年に電車化された「やくも」はキハ181にはないよな? >>1です。意外にレスがあってほっとしてます。
しかし、>>6のような意見もあるんですね。
自分が特に好きなのは
「はつかり」…グラデーションや構図が神がかり的
「ゆうづる」「あかつき」…紅の表現が絶妙。
他に、構図が凝ってる「白山」や逆さ富士の「かいじ」とかもいいですね。
あれらを描いていたデザイナーって誰なんだろう? >>14
ブルトレは昭和54年7月から一斉に。
ボンネット・気動車全列車は昭和60年3月から。
但し管理局判断からか「とき」181系は昭和54年初頭。
「白山」「はくたか」ボンネットはブルトレとほぼ同時。
「雷鳥」が昭和57年11月から。「北越」も同時だったかな?
気動車で先行したのは80系「ひだ」が昭和55年夏前からだけ。
但し北海道の183系は昭和55年運転開始当初よりイラスト入り。
おっしゃる通り「やくも」気動車時代はない。
>>13
「有明」が当初583系以外ボンネットばかりだったしね。
ただ「にちりん」は何往復か非ボンネット確定編成が当初からあった。
また「みどり」のイラストマークは博多では「かもめ」と向かい合っていて肥前山口以遠でないとまともに見れなかったね。
九州はJR化後ボンネットも真っ赤に塗り替えた後も不思議と文字マークがあった。
首都圏でボンネットが多く、同様に当初あまりイラスト入りが見られなかったのが「あいづ」だった。
>>17
ないね。
仙台の9連は1号車がボンネット確定で
9号車もほとんどボンネットだったので、秋田担当になるまでは絵入りマークは数日に一回しか見れなかったなぁ。 >>16
それでみどりの非ボンネットの写真が
ネット上でほとんどないのか >>7
大きなりんごが表わされているものでしたね。 昔の「はくたか」
国鉄特急色に、スカイブルーがよく映えた
あとは「やまびこ」
目には見えないものをよく表現できたもんだ >>15
ほぼ全部、あるいは、完全に全部、黒岩保美氏。 >>23
ずっと女だと思ってたんだが、いまぐぐって初めて真実を知った。
>>23
thx。初めて知ったけど、そんな才ある人が描いていたのか。
道理で芸術性が感じられるわけだ。 「やまびこ」のイラストやヤバい。「みちのく」と並んだ日にゃ特に。
・・・というレスが東北特急だか上野駅関連のスレにあった。 急行「安芸」のヘッドマークも良いですね
九州島内を走る急行列車に掲げられていたイラスト・マークも最高です
「ゆのか」「ひかり」「フェニックス」・・・
あと四国の「しおかぜ」「南風」などは最初の絵入りマークのほうが良かった感じもします
2代目(?)のマークよりは初代のほうが好きですね
とくに「しおかぜ」のマークがお気に入りでした >>23-25
黒岩氏が絵入りデザインを手掛けたのは機関車に付ける
丸型のHMまで。つまり出雲、瀬戸、つるぎ位までだ。
昭和52年には国鉄を定年退職されてるしな。
それ以降の物は黒岩氏のイメージを踏襲している物もあるが、
基本的には全部別の人デザインだよ。
昭和53年に絵入りマークが導入された時は
数が大杉で複数の人が担当してると思う。 今のJRのヘッドマークってだいたいこんな感じ?
北:無駄に英語
東:デザイン変えずにLED化
海:小さくて見づらい
西:ビッグXとかDCの文字HMとかむしろ退化
四:アンパンマン
九:HMなんていらない車両デザイン >>29
西はサイドへのエンブレム化じゃないか?
ヘッドマークで言うと、アーバン区間内でのイベント絡みのヘッドマークがひところ多かったようなw>西 昭和50年からブルトレのヘッドマークが東海道ブルトレ以外廃止され、急行ヘッドマークも合理化で減少気味だった。
その上国鉄運賃・料金の大幅値上げが実施されたのに累積赤字が解消の見通しが立たない泥沼状態から、
国鉄の人気回復のために絵入りマークを企画・実施した背景はあったね。
もう1つはブルトレブームだった当時、ファン層を昼行特急に拡げようと。
しかし当時の国鉄は、そんなことするくらいなら運賃を値下げしてくれと感じた。
それからイラストマークは文字が読みにくくなったし、ローマ字を無くしたため
外国人にとってどんなものか?と思った。 >>31
あの頃、ローマ字を必要とする外国人なんてそんないなかったけどな。
俺は78年の絵幕登場時に小学2年で、もともと時刻表ヲタなガキだったのが、
絵幕のバリエーションに魅せられて、一気に実車ヲタになった。
>ファン層を昼行特急に拡げようと
↑これに見事に釣られたクチだけど、今はとても感謝してるよ。
絵幕登場時、小学6年生。
初めて大形時刻表を買ったのが、この年の11月号だったな。
当時は写真撮影をする、
「チビッコカメラマン」が急増した時期でもあり、
フジ、サクラといったフィルム会社が「国鉄商法」に便乗して、
ブルトレのテ−ルマ−クのシ−ル、PFさくらの写真が入ったミニ箱ティッシュなど、
オマケが豊富だった記憶があるよ。
当時を知っている人なら記憶にあると思うが、
東京駅の12.13番ホ−ムやら、上野駅の地平ホ−ムに
列車が到着する時に流れていた構内放送・・
「まもなく、13番線に西鹿児島からの特急はやぶさ号が到着いたします。
チビッコカメラマンはホ−ムの白線にさがって下さい!」
先日の富士ぶさのような殺伐とした雰囲気ではなく、
みんなが純粋に鉄道を楽しんでいた気がする。 >>33
フジカラーに富士
サクラカラーにさくら、
うまい便乗だな。
コダックは流石にないかw ブルートレインの中でも特に富士が持ち上げられていたのは、実際にそういう背景があったからだったらしい。 >>35
確かこの頃に、テレビで富士の列車追跡が放送されたんだよね。
ブルトレの起源はあさかぜだけど、人気は富士・はやぶさだったような・・
昭和53年当時、ブルトレは絵幕にならないのか???だったな。 そういえば、ボンネットの有明とかもめのイラストマークは1985年の臨時が初めてだったな。
鳥海は臨時化後にマークを準備したものの非ボンネットばかりが実際には使われた。
実際に運転された時期には使われず、後年の撮影会イベントで作られたのは新雪とひばりか。
以前ぐぐった時に見た事があるが、ボンネットサイズの応急紙マークが上野にあったらしい。
ボンネットサイズの「みちのく」文字マークが書体も忠実にボンネット用で作られてたな。 少年チャンピオン連載「ドカベン」のテレビマンガの中で
対戦相手である東東京代表ブルートレイン学園の選手が
「隼」投手、「桜」選手「金星」選手など全員がブルートレインの名前で
応援団がヘッドマークを掲げて「かっせっかっせっはやぶさ」などと
応援してんのが印象的だったね。 >>37
ひばりと新雪の絵入りボンネットは初めて知った。
せっかくだから、やまびこ やまばと あいづ あずさ のも作ってほしいw
>>32
> あの頃、ローマ字を必要とする外国人なんてそんないなかったけどな。
戦後特急が復活して昭和33年にこだまがデビューした頃は、
外国人客が特急の主要客だったんだけどな。
特に新幹線開通前にロザが多く連結されていたのは
外国人団体客を受け入れる為でもあるからだよ。 >>35-36
富士は最長距離列車のステータスがあったせいもあるだろう。編成はあさかぜ・はやぶさも
変わり映えなかったので、24時間以上走るロマンとしても。
富士の列車追跡放送はTBSの「日曜特バン」
但し昭和55年に宮崎打ち切りで最長距離列車を返上してから、地味になったような。
ちなみに今は瀕死のレールウエーライターが出してた「ブルートレイン全ガイド」
での追跡は、当時の取り巻きが「富士は九州内ではローカル特急だから」の意見が
多かったため、列車追跡はあさかぜだった。 >>6
禿げ同だね。
昭和30〜40年代のヘッドマーク・テールマークの洗練されたデザインとどうしても比較するから、
粗製濫造、造形美の欠片も感じられず、国鉄も落ちたなぁと言う印象。
粗製濫造と造形美の欠如は当時の国鉄製造車両の質にも共通だったし。
ちょうどブルトレブームの始まりの頃で子供に媚びているような感じだったしね。
この1〜2年後に戦後国鉄のダイヤ改正で、
初めて1日当たりの列車の走行キロが減ると言う現象が起こったからより一層退潮感がした。 >>40
いつの話をしてんだよw
絵幕が登場した昭和53年頃は、L特急が25種類に増えて、自由席絶賛増席中の時代だよ。
国鉄は、食堂車を外し、指定席を自由席に変えて、
中流意識の強い日本人をなるべく優等列車に詰め込む方向に向かったの。
ちなみに昭和53年頃の訪日外国人数は、やっと100万人程度。
ローマ字を主に読み書き「しない」韓国人・台湾人らを含めての数字な。
一方、日本に住み日本語を主に読み書きする者は1億1千万人以上。
つーか、そういう背景を見るまでもなく、あの頃東京以外で外国人なんてめったに見なかった。
埼玉に住んでたけどな。
>>16
>>27
その前年1978年に廃止された安芸が絵入りマーク化時点以降生き残ってたら、どういうデザインに
なってただろう?
やっぱり急行時代にSLに掲げたヘッドマークのデザインのアレンジになってたかな? >>44
当時は広島カ−プの黄金期だから、こいのぼりがデザインされたかも・・・
無難なトコでは
宮島の鳥居と紅葉かな・・・
呉線って連想するもんが無い。 >>45
鳥居をデザインすると多分に蒸機時代のHMアレンジと化す罠 昭和50年8月だったが岡山ー宮崎間で581系による臨時の全車座席指定の「夕月」が
運転されたが入線してきた時に目に入った絵入りマークには一瞬自分の目を疑った。
イメージ的には図柄は後の「金星」、配色は「明星」のようなもの。
運転時間帯的に撮影出来なかったが無理してでも撮っておくべきだったな。
漏れが鉄に目覚めたのは東北新幹線開業後なので、S53以降の国鉄の絵入りマークにこそ風格と愛着を感じるな。
今の北とか九とか、ローマ字だけの味も素っ気もないのは、写真すら撮る気にならない。
その点、海は国鉄風のデザイン、字体を維持していて好感が持てる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています