【国鉄】九州の廃止路線、駅を語るスレ【私鉄】
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>>233
流れたのか…
耶馬溪鉄道の鉄橋でさえアウトなら平成初期にもう朽ちてた宇島鉄道の廃車体なんか跡形もなさそうだな 勝田線の話題が多くて嬉しいです。
廃線跡を通りながらもし健在だったらとよく妄想します。
志免町は鉄道が無くて不便とよく聴くので…(勝田線が通ってた頃は西鉄バスが主流だったようですが)。
勝田線に関する写真や映像ってネットにあまり上がって無いんですよね、地元の史料館とかに遺ってないでしょうか… 勝田線の話題はよく出るが、筑肥廃止区間については誰も触れないなー
地下鉄の利便性もあるが、高架で15分ヘッドなんてどうかな?
天神通んないから意味ないかw
東唐津ネタはイラネかんな 高架もしくは部分地下にでもすれば、地下鉄並存でもやっていけたと思う>筑肥旧線
あれだけ家やビルが密集してんだし。天神方面は国鉄高宮〜平尾で西鉄乗換えできたし、今は博多の地位も上がってるし。
昭和58年の筑肥線電化改良前に国鉄がJRに代わっていたら博多ー姪浜の
旧線は存続してたかな?ただもしそうだったら唐津付近の改良も現在と
は違っていたかもしれない。 長与経由が残ってる不思議。
国鉄末期には島鉄が大村線ともども引き取る構想を示したことがある。
今となっては信じられないが、生き残りを賭けていたのだろう。
九州ではないが渡島砂原経由はよく残ってるな、と思ったら
勾配が緩いから貨物が通るのな。それも新幹線で雲行きが(ry 長崎新幹線(爆)が大村線並行ルート
太良経由の本線が並行在来線なんてな >>241
島鉄が生き残りを賭けて・・・
なんか、青森県下北半島の旧国鉄大畑線が下北交通に転換されたときに、
南部縦貫鉄道が大湊線とセットで引き受け表明したのに、よく似た話だね。
結局、大畑線も南部縦貫鉄道も消えた鉄路になってしまったのと同じ歴史
を歩まないことを祈りたい。 長与経由も全区間SUGOCA導入エリアなんだから廃止する気なんてないだろよ。
もともと長与以南は住宅密集地だし。
やるなら赤迫から長与までLRT化だなw 電化・非電化はあれど万が一災害等で新線がダメになっても長与経由で行けるように残せるものは残しておく
筑豊本線の原田→桂川も廃止が話題にならないのは鹿児島本線が万が一ダメになっても迂回が出来るように >>237>>238>>240
札沼線 桑園〜新琴似 が大化けしたのを見るにつけ、
ついそういう妄想をしてしまうね。 残念ですが
平成2桁になってからでも、京阪は京津線を昭和40年代の申し合わせで廃止させられました
地下鉄作って廃止って合意があったからどうしようもないよ 1988年昭和63年廃止の国鉄山野線で水俣の汚染魚が、
運ばれてその結果山野線沿線で水俣病発生でしたか? 美幸線とトップを競った添田線。
でも添田線みたいな路線は両端駅(香春や添田)でいくら切符が売れても
収入にならないからかわいそうだったな。 福岡の「大都市近郊区間」の悲劇ってか
わざとだったかもな 引込線、専用線が網羅されてる資料を知らないか?
○○駅起点、数mなんてやつを調べたいんだ。 >>248
京津線はほぼ完全にルートが被ってるから廃止やむなきだけど
筑肥線は全く途中経路が異なるからな。 >>253
とりあえず古い資料ならネコ別冊トワイラのシリーズの巻末に載っている >>254
あれが分断されたときまさか本当にって思った。
三セク化の序曲といえるかも 小学生の頃、甘木線は絶対に廃止になると思って、わざわざ乗りに行ったけど、廃止にならなかった
逆に、乗らなかった佐賀線の方が無くなってしまった
まあ、廃止にならなかったこと自体は喜ばしいことだけど 香月線新手駅
90年代まで、末期の乗降ホームから少し離れて貨物ホームが残ってた。
中間新手間の3線区間と、新手から中間駅の東に伸びる線もあって、往時の貨物取扱量の凄さを感じるものだった。 地図では香椎線の宇美駅前広場の線路にほぼ並行してる道路が
線路の跡だが、線路渡ってと思うが確証無し
土地勘が全く無いから今さらみたいな質問かもしれないけど、
国鉄時代に赤字ワースト1位を続けた添田線て、何が原因でここまで酷い状況だったの?
路線自体は短めだし、北海道のローカル線みたいに沿線人口が明らかに全く無い所を延々と通っていたわけでもなさそうだし。 >>262
筑豊の路線は基本的に石炭の為に敷かれたのであって人の為でない
よって人の流れと路線はあってない
添田線なんざわざわざ田川をショートカットしてたしね 添田線が先に彦山線として開通したが
その後たしかすぐに>>264の田川通るルートができて
たちまちメインルートから外れてローカル線化。
さらに追い討ちをかけるように採銅所あたりの勾配がきつい彦山線自体が
石炭輸送に不向きで、伊田線経由に取られた形で
寂れたローカル線のさらにその枝線のローカル線となったから 実際にはあった収益も日田彦山線の収入扱いだったから
データ上突出したと聞いている 添田線
北九州からそれほど離れた場所でもなく、
始発駅・終着駅とも他路線に接続していて(盲腸線ではない)、
距離も12キロほどと短めだったのに、
市街地を全く通らない、人や貨物の流れに全く合わないことで、トンでもない赤字路線になってしまったんだな
廃線前の写真をネットで見たけど、いつ建てられたのかも分からないような恐ろしく古い駅が荒れ放題で、凄まじい状況だった >>266
添田線みたいに両端が他線の収入になってしまい中間駅が無人駅だと
定期券収入はゼロ。車掌が売る切符の収入だけになってしまうんだよな。 昔、大きな駅のホームには鏡完備の洗面所があったよな?
あれってなんで?
スス落としのため? 一般的な常識では、蒸気機関車牽引列車の乗客の為に
大きな駅のホームには洗面所が設置されてた 宮脇先生の旅行記見てるとふと思うことがある。
乗ったことがある路線が廃止になる事と、既に廃止になって活字でしかその路線を楽しめない事、どちらが不幸せなのだろうと。
宮脇先生の作品に出てくる廃止路線のほとんどが未乗なので想像でしか楽しめない。これはまだ幸せなほうなのか... そういえば宮脇氏の最初の本の「時刻表2万キロ」に登場する路線のうち
いまでもJR路線として存在するのは鶴見線と気仙沼線(一応)くらいか?
彼は幸せな部類だとおもうよ。最初の「完乗」の瞬間は間藤だったから
あれこれ言っていたけどおれなんて自宅で「完乗達成」だから正直感動なんて
なかった。むしろ切ない思いだったな。 小3の頃くらいから、勝手に近場の鉄道路線乗り潰しを始めたてたが、
中学くらいになって、「2万キロ」が出版されて話題になって
なんでこんな老人がこんな本書いてるのか不思議だったw
当時はすでに乗り潰したばかりの路線ばかりだったよ・・・北部九州限定だけどね。
ずっと後に、氏の著作をほぼ読破した・・・・
>>273-274
それでも、失われたものをこういう形で遺してくれた宮脇氏には感謝だな。
滅びの美学といえばありきたりだが、失われつつあるものに対して、
こういった形で視点を向けて表現するという作業は、愛情が溢れていて
切なさという感想を持つのも当たり前かもしれんな。 氷見、越美北、鶴見、大村、三角、指宿枕崎、香椎、日田彦山、加古川、宇部、小野田、左沢、長崎(旧)、牟岐
JR現存ではこれだけあるね!
ただ、北海道は全滅してる。やはり寂しいな... 関東鉄道の元キハ30は九州の車両だったらしいが、何線走ってたんだろう? おれももう2万キロ時代の宮脇氏の年齢になってきたが
鉄道じゃないけど都営バスの青梅地区の「乗りつぶし」を
1日かけてやってみたが1日乗車券片手にあちこち乗って
盲腸路線の停留所では来たバスにそのまま乗ってもどったり
循環路線を最初から最後まで乗りとおしたり
朝出あった運転士に午後全然別の路線で再会したり
いろいろあったけどたいして関心の的にもならなかったみたいだ。
もし宮脇氏の時代だったら別なんだろうな。 宮原線、高千穂線、志布志線、大隅線、山野線、宮之城線、佐賀線
乗りたいな... >>262
添田線は2回乗ったけど、キハ20の単行に乗客は2〜3人。静かな昼下がりをカタコト走った記憶が鮮明。
あまりに気の毒で、2度目の時には当時まだ有人駅だった途中の大任で下車して、入場券を5枚買って途中下車印も記念にしっかり押してもらい、どちらも今も大切に持ってます。
>>273
今は無きその当時のローカル線たちに自分は全て乗ることが出来て、大切な思い出となってます。
でも、早くに廃止された幸袋線や世知原線には乗れなかったから、乗ってみたかったなーというのはきっと贅沢な思いなんでしょうね。 中学の頃、一筆書きで筑豊の路線を全て踏破しようとしたが、気力が続かずダメだった。
結局最短料金で可能だったのだろうか?
後藤寺線、漆生線、糸田線、添田線とか列車の本数少なかったからなあ。 今はなき筑肥線の室見川鉄橋を歩いたことがあった。
列車が通過した直後なので安心と思ったんだが、さすがに怖かった。 添田線跡ってほとんど車道で残ってるのかな。
地図で見ると 鹿児島交通
最後まで非総括制御だった100
寸詰まりの300 >>288
です。
大任駅は油須原線が合流してまた分岐してゆくジャンクション。
大任駅の前後を除いてほぼ完成していた油須原線の途切れた高架橋やトンネルを見に行ったりして過ごした。 >>281
その入場券は貴重ですね!!!羨ましすぎです、自分も買っとけば良かった
ちなみに自分が乗ったのは1984年の年末で、確か40系1両の車内に自分1人だけでした(笑)
そして同時期に乗った友達も1人だったとか(笑)
そんな添田線の廃線跡を12年前、車で辿りました… 勝田線は福岡市営地下鉄空港線が代替路線みたいになってるからな。
志免・宇美から福岡中心部へは福岡空港を経由して行く人も今では多い。 西鉄大川線が残っていたら甘木線くらいの需要があっただろう
国鉄佐賀線VS西鉄大川線どちらが勝っていたかにもよるが 去年亡くなった祖父が若い頃守実温泉の少し奥にすんでたので耶馬溪線使ってたそうだ。
思い出は乗り遅れても走って追いかけたら飛び乗れた事くらいのようだけど 国鉄筑肥線旧線(姪浜〜博多)が残ってたらななつぼしのルートに
おそらく組み込まれていただろう。 宮脇俊三さんは、筑豊炭鉱線の乗り潰しの折、バスやタクシーで終着駅へ先回りしたり近道したりしてますね。
まるきり鉄道が機能せず不便で役立たずを象徴している。 >>306
福島線あったぞ
福島のバス停が駅舎の再利用だろ もっと昔をたどれば、福島線は現西鉄甘木線と繋がる
長い軌道路線だった。
福島線は、西鉄花畑駅北側で大牟田線と平面交差していた。
その路線跡を忠実に辿るバスが西鉄バスの30番
でも花畑経由しない以外ほぼ同じ経路の31番の方が本数が圧倒的に多い 地元民しか利用しなかっただろうから
案内板は無かったんじゃないかな?
宮脇先生は迷ってたみたいだし 地元民すら知らない「尼崎」駅なんてのもあった時代だったな。
九州じゃなくてゴメン。
地元民すら知らない別府鉄道なんてのもあったが・・・
ウン,実はこれも九州じゃないんだよね。
さてはて
本題。
この当時,赤字ローカル線廃止といわれていても
「そんなことあるわけないじゃん」と思っていた。
でも少しずつそれが現実としていくさまを目の当たりにして
驚いたもんだ。
いちばん驚いたのは筑肥線の博多〜姪浜間の廃止。
赤字だからというわけじゃないが,政治の都合でせっかく
つながっているものでも切られるんだとあきれてしまった。
いまじゃこういうのは珍しくないのだけどね。 >>283
福岡大都市圏特例を使った最長片道ルートは、
昭和54年頃のダイヤでは、
金田駅で2時間待ちというのが最大の苦行だったが、
多くの人が実行していた模様。 >>313
九州にはそんなことするような変な人が多数いるのか >>313
博多発午前1時ごろの「ながさき」ではじめて
原田で一番の筑豊線の列車を待つのが最大の苦行だったはずだが。 >>313
起点の駅をどこにするか、どちら回りにするか、
いくつかのバリエーションがありましたからね。
その旅程は最高クラスの忍耐を要しますねw
でもだいたいは 香春〜添田〜豊前川崎〜下山田〜飯塚
を通過するために乗る列車の選択肢が数パターンしかありませんでしたから、
悩みどころは、変更しようの無いその区間を軸としたときの他所への影響、
という点で共通していたと思います。 ながさき の10系寝台は鳥栖以南、日豊には入らなかったの?
ながさき末期頃のかいもん、日南は20系だよね? 高千穂線は高森トンネルの出水事故がなければ、
熊本〜立野〜高森〜高千穂〜延岡の九州横断鉄道が完成してたのに残念だったな。
完成してたら今頃特急やらななつぼしも通ってたかもしれないのに。 高校生の時、山野線で栗野まで行き、肥薩線と日豊本線経由で西鹿児島まで行ったなあ…
めっちゃ時間かかったよw
今でもたまに乗ってる夢を見る >>295
西鉄大川線って結構スピード遅かったみたいだぞ。
鉄道ピクトリアルの西鉄特集号見たけど、速度なんてせいぜい時速20〜30km程度
チャリや原付にも追い越されるようなノロノロスピード。
観光路線としてはいけるかもしれないけど、ビジネス利用は見込めなさそう むしろ観光路線として生き残る方が厳しいかと
何か観光資源があるのかな その日、長崎を目指した救援列車
乗りものニュース 8月9日(土)9時8分配信
原爆投下直後、その街を目指した列車
1945(昭和20)年8月9日のお昼前、長崎の街を悲劇が襲いました。鉄道にも多大な被害が出て、現在のJR長崎本線は浦上駅、
長崎駅の駅舎が焼失、倒壊したほか、職員157人が死傷。路面電車の長崎電気軌道も壊滅的な被害を受け、車両16両が焼失。
120名の社員が亡くなっています。
ですがこの日、列車は動いていました。いえ、動かさねばという強い意志によって運転されていた、というべきでしょう。
負傷者を収容し周辺の病院へ運ぼうと、炎に包まれる長崎の爆心地を目指し、救援列車が運転されたのです。
原爆投下時、長崎駅から約10kmの長与駅に停車していた311列車が急遽、第1号の救援列車に仕立てられ、長崎の街へ急行します。
しかし、簡単に現地へ向かうことはできませんでした。火災が至るところで発生し、線路の損傷具合もわかりません。また
長崎原爆資料館の「被爆者救援列車展」資料によると、線路上には避難する人、倒れている人が大勢いたため、汽笛を鳴らし
ながら少しずつ走行したといいます。
そして救援列車は爆心地から1.4kmほど離れた、道ノ尾駅と浦上駅の中間にある照圓寺付近でこれ以上進むことが難しくなり、
そこで負傷者を収容することになりました。国立広島・長崎原爆死没者追悼平和記念館の証言資料では、負傷者を車両に収容した
その時の状況について、以下のように述べられています。
「線路から客車のデッキまでは高く(中略)被災者は全然力が残っておらず、ただ、つかまるだけで、上りきらないので、
私たちが抱き上げようとして驚きました。手、顔もやけどし、皮膚がはがれて垂れ下がっており、胸はやけどがむきだしで
中の赤い肉が見えていました(中略)そういう人たちばかりなのです。」
この救援列車は負傷者を収容したのち、原爆投下からまだ3時間経っていない13時50分頃に爆心地近くの道ノ尾駅を発車。15時頃、
海軍病院のあった諫早駅へ到着したとされています。
ホームで待っていた諫早の人たち
救援列車が到着した諫早駅の様子について、同じ証言資料では次のように述べられています。
「諫早の人たちは被災者を助けようとして皆ホームに出て待っていました。諫早について被災者を降ろそうとしましたが、
全然降りてきませんでした(中略)もう半分以上が列車で亡くなっていました。」
この日、状況が状況のため詳細が不明な点も多いのですが、救援列車は第1号の311列車を含めて4本運転され、およそ3,500人の
負傷者が海軍病院のあった諫早や大村へ運ばれたとされています。
2本目の救援列車で機関士として乗務した山中繁良さんは2012年、「負傷者ばかりの状況を見て、使命感で動いていた」と語り
ました。異常事態を知った鉄道員たち、そして諫早など近隣の人々の使命感によって、救援列車は走りました。
69年前の8月9日に救援列車がたどり着いた長崎市の照圓寺にある門柱には、その列車についての説明板が設置され、いまに歴史を
伝えています。 >>326
重宝かどうかは知らんが甘鉄やへいちくよりは客乗ってただろうな イラストレーターで収入が少ないからと30代後半で漫画家になろうとする、ひきこもりのバカ発見。
足立区に住んでいるそうだ
http://inumenken.blog.jp/archives/7002197.html >>326
そもそも、残らん。
当時の状況を知らんのか? >>330
あれは放置プレー酷すぎた
国鉄も赤字ローカル線には投資するはずもないし 王国クランベリーラーメン
王国クランべリーラーメン
王国クランべリーラーメン
駐車近代リカエらーめん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています