懐かしの北陸本線
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昭和31年柳ヶ瀬トンネル
京都に帰る際の緩行列車がトンネルで立ち往生した。
煤煙が車内に立ち込めて死ぬ思いだった >>716
旧線の時代ですか。
そりゃまた大変でしたね。
立ち往生の原因は、やっぱり機関車の不調か何かで勾配を登りきれなくなったとか…? >>717
原因は不明なれど、客車内が煙くて酷い目に遭いましたな。
トンネル外にバックして再出発した事は記憶に残ってます。 時刻表復刻版(1988年3月)を見て疑問点。
224M(福井発米原行き)、河毛と坂田に出発時刻が入っていて、
622D(木ノ本発米原行き)、河毛と坂田が通過になっているのは誤植なのでしょうか。 >>718
こういうのを覚えている世代ももう少ないよね。
汽車から降りて、ホームにある洗面台で顔を洗い、備え付けの真鍮のコップでうがいをしたり水を飲んだり…
私事では、朧げな記憶だけど、豪雪の金沢で震えながらホームを歩いた時、振り返ると蒸気機関車の真っ黒な煙が… >>720
米原駅のホームに有ったタイル張りの洗面所。
撤去されたが、朝列車が着いた時や真っ黒になった顔を洗っていた当時を物語る生き証人だったな 杉津駅が今もあったら特Aクラスの景勝地だったに違いない。 >>722
奇しくも『津』が共通するけど、郷津駅も…
と言いかけて思ったけど、あちらは景勝地と呼ぶにはちょっと険しいかな?
日本海の波打際だったし…。 旧線と言えば親不知〜直江津かな
地滑りで流されたとこ 水上勉の映画越後つついし親不知かな?
三國連太郎の鬼畜と言うのか悪役は大映TVドラマ赤いシリーズ赤い運命悪役で知っていたことは知っていたけどもこの越後つついし親不知そんなもんじゃない
SL牽引旧客が鬼畜によく似合っていた 大阪〜青森間の各停511列車・512列車
31時間かけて大阪〜青森間を走っていた 年配の方が多いですね
自分は昭和末期生まれで
それでも母方が北陸なんでよく長期休暇毎雷鳥やら乗りました
学校も京都山科なんで、グランドの横を山科大カーブが抜けるロケーション
いい時代でした
特急銀座だった北陸本線が恋しい
昼行特急は雷鳥白鳥あと信州に行く一往復だけのしなのやひだだけだったのがスーパー雷鳥、サンダーバードと移り変わり
新快速は丁度221系が新型として走り始めやがて223系が出たときもワクワクしたものです
深夜12時頃家から日本海、つるぎ、トワイライト、銀河、きたぐにが通り過ぎるのを眺めてました
在来線が縮小化していくのは仕方ないですが、今の鉄道ファンにとっては不遇の時代だなと感じます。 年配の方が多いですね
自分は昭和39年つまり富山電化生まれでそれでも母方が北陸富山県滑川市なんでよく大阪から直通乗り換えなしで行ける急行立山〜快速糸魚川行きに乗りました
自分の学校こそ北陸でなかったんですが高校の先輩に何故か金沢大学進学先輩や逆に北陸から関西の大学に進学した人に結構知り合いが多かった関係で、自分の個人的な帰省以外の時もよく乗りました
急行立山がそのまま富山から快速電車の糸魚川行きになったり或いはそれと別に敦賀ー福井ー金沢ー富山ー糸魚川間で、快速電車が結構頻繁に運転される一方で523列車米原発長岡行きであるだとか、522列車長岡発米原行きであるだとか、急行もあれば快速もあれば旧客もある、なんでもありおもしろい路線でした青春18きっぷ発売したその年厳密には青春18のびのびきっぷという名前でしたが1982年昭和57年つまり私が個人的にも18歳なったばかりのまさにその年青春18きっぷで北陸本線の快速電車だとか旧客にさよなら言えたのいい思い出です
18歳だった私も気がつけば還暦間近でコロナで緊急事態宣言に関わらずもはや肉体的にも自由に旅許されなくなったがもし北陸新幹線敦賀開業までにコロナがおさまって老婆心ながらもしも自由に、旅ができるようになる時が来るなら青春18きっぷ行けなくなる北陸本線に青春18きっぷ最期のお別れしよう思います このスレを偶々発見し懐かしくなり思わずレスしてしまいました。
新幹線延伸後はどうなってゆくのでしょうか。
寝台列車には記憶違いがありました。
トワイライトエクスプレスが昼頃、日本海が夕方頃大阪始発なので山科大カーブに差し掛かる頃はもっと早い時間でしたね。
そういえば、朝早く学校のグランドに来ると下りの日本海、昼休みには上りのトワイライトエクスプレスを毎日見ていた記憶が蘇りました。
きたぐにや銀河は始発がやはり深夜近くだったような。
さいわいきたぐにやトワイライトエクスプレスに乗車する機会に恵まれました。 このスレを偶々発見し懐かしくなり思わずレスしてしまいました。上野→長岡の1つ手前宮内→長岡発米原行き旧型客車522列車→糸魚川→快速→富山から立山2号→でも富山で降り快速電車敦賀行き→敦賀→気動車→近江今津と乗れた青春18きっぷでこのパターンで乗れたのは1982年春夏限定でしたが満喫しました
3セクの今ではもう絶対に不可能ですが
TWILIGHT EXPRESSとかきたぐにとかは何回かいや厳密には何回も乗りましたが1番印象に残っているのはラストラン
TWILIGHT EXPRESSを追いかけた事かな
2度とこんなこともうできなくなるんだ涙腺弱くなったせいか目頭が熱くなった そうですよ、悲しいですが
そういえば18きっぷで関西と北陸を鈍行で往復したこともありました。
新疋田で一度降りて撮影してみたかったのもありますが、北陸線を堪能できました。
食パン電車のタウントレイン。
交直流の入れ替わりで車内灯が一時消える、あんころ餅羽二重餅の売り子、鉄道唱歌の車内オルゴール 黒部周辺のチューリップの季節にチューリップ畑の後方を走る特急や
青海川、鯨波といった撮影名所ありましたね。
どれも先輩とは数ジェネレーション後の話ですが。
白鳥が汽車で大阪から上野まで乗れた時代というのが羨ましいです。 クロ681‐1001はもう解体されてしまったのかな
京都の鉄博に保存してくれたら嬉しい車両の一つだったわ
JR西日本初の新型特急そして長い間看板列車を務めた車両だから保存する価値はあると思ったんだけどな 復刻版時刻表1968年10月の北陸本線のところで
金沢〜富山に1往復(高岡駅付近ですれちがう)だけ電車運転の普通列車がありますが
どういう車両を使っていたのでしょう。 >>741
たぶん「くずりゅう」と共通運用の475系ではないかと。 それだと富山行った車両の方はその後1日休みだったなのかな 前日の急行で富山まで来て朝普通列車として金沢へ
朝普通列車として富山まで来て折返し急行列車として金沢方面へ
じゃないだろうか
この手の話は知ってる人が降臨しないと完結しないな 北陸新幹線敦賀延伸しても金沢まで並行在来線として残してほしいなぁ…敦賀までのサンダーとか見たくない サンダーバードあらため新幹線リレー号になるのかな。 七尾線乗り入れのサンダーバードも金沢止まりとなるのか?
大阪方面から敦賀と金沢で二回も乗換えを強いられるのはちょっと・・ 田村駅に寝台列車が停車していたとは
今となっては想像できない、、 今朝の新日本紀行(昭和56年湖北地方)で、
北陸本線木之本駅の北あたりを北上する5両編成のキハ58系急行が映ったけど、
なんの列車かわかる?
5両のうち4両目の窓が違うので、おそらくこれはキロ28っぽい。
これは、「大社」の金沢発の編成と同じなんだけど、敦賀以南のこのあたりは通らないし、
名古屋発編成は4両だったらしいので、よくわからない。
https://i.imgur.com/kSVSm3N.jpg
撮影地はおそらくこのあたり
https://goo.gl/maps/2nDpeBz3nDi4jxBh8 >>757
キロ28か?
何か運転台あるぽいし、しかも二段窓ぽいぞ? 張り上げだからキロ
塗り分けで比較すれば分かるけどキロって窓が少し高い
ユニットに改造された頃じゃね >>757
多分「大社」
S56なら、名古屋編成も5両化されていたと思う
キロ28を2000番台限定にして、キハの冷房電源を確保していた 401D「大社」 美濃太田所属の5両編成であってるみたい
金沢発が福井発に短縮されたとき(昭和53年)に、5両になったようだ
名古屋 ← <キハ58-キロ28'2000-<キハ58-キハ28'2000>-キハ58> → 大社
でいいのかな? 北陸に交流60Hz区間が孤立して残り続けないようにって、出来なかったものかねえ?
コストの問題で交流電化を進めるなら
50Hz側の新潟県内は本数の多い上越線、信越本線宮内−新潟、東新潟間以外を交流電化
少なくとも糸魚川以西は直流電化
上野方面へ行く列車を、糸魚川−直江津間だけのために交直流車両にしたくないなら
糸魚川−直江津は直流で、替わりに宇都宮−黒磯は交流、ダメ? 新幹線が東京〜新大阪しかなかったころ、北陸〜関東の需要はどのような経路だったのだろうか。 東京-[ひかり]-名古屋-[こがね/しろがね/兼六/しらさぎ]
東京-[こだま]-米原-[大阪から来る急行,特急]
上野⇔[直行する急行列車]
このうちもっとも使っていた経路は。 たまたま富山に用事があったんでついでに伏木のクハ418−1の様子を1年ぶりに見に行ったら姿が見えなかった。
まさか…?と思って調べてみたらどうやら去年の秋に解体されてしまったんだな
保存目的ではなかったとはいえ10年も留置していたのに結局最後は解体か… 粟津駅の地下道にある、東京方面上り、上野方面下りの表示が有ったな。
子供心に東京駅と上野駅は凄い距離が離れてるんだって思った。 >>740
まだ生き残ってるけど今年中に廃車の予定らしい
別に何か大きな功績がある車両というわけでもないし非鉄オタにも人気があるってわけでもないから普通に考えて保存なんてしないだろう 金フイ419系は、米原〜福井間での運用はわかるが、
なぜ、遠く離れた富山〜直江津間に閉じ込めた運用があったんだろうか? >>773
どこの小駅にもそういうスケールの表示板が当たり前のようにあったな >>778
419系は乗降に時間がかかるので、利用客の少ない区間に閉じ込めて、413系を利用客の多い区間で使用する為だよ
ついでに6両編成にすると車掌2名乗務なるのも嫌ったのだよ 湖西線作る時に113系の一部を交流対応の423系にしておけば
敦賀まで直流にする必要がなかったと思う。 >>780
送り込みとかラッシュ対応で6両での運行も1日に何回かあったと思うがあの時は車掌2名乗ってたのか 連結面通り抜けできないから?
でも、都市部の通勤形で、通り抜け不可の連結編成では車掌1名だし、何か違う理由かな? >>748
特急「つるが」になったりして
ってか、特急自体無くしそう
新快速の増発で十分じゃないの? >>784
車掌2名乗務は当時の乗務規定なので、今は変わっているかもね
会社でも乗務規定は違うしね >>439
もうかなり経つけど未だにシャトルサービスは導入されないね…
スジ引けないわけじゃないと思うんだが、
バスにやられっぱなしになってるね >>781
北陸線も田村から交流電化だったんだし、相方?の湖西線も西大津から交流電化で良かったのにね
421系寒冷地仕様や湖西線直通『新快速』もブルー帯に変えてエメラルドグリーン帯でも巻いた475系(後継は417系関西版)とか いまだからだろうけど、元の私鉄は近江今津までの盲腸線だったし
湖西線は関西-北陸の短絡線にしたかっただけだから、その需要のない直通に
お高い交直流電車いれないでしょ
敦賀行きたければ特急使え、各停なら北陸本線使えって話
敦賀まで直流にしたのはおかしな分割でおかしな境界を効率よく運用したかっただけで電車関係ないでしょ 湖西線開通当時から、当時の北陸本線沿線とは違って京都や大阪のベッドタウンにしていく構想も進んでたからじゃない?
それで、京都・大阪直通のためには直流の方が望ましい、と。
時代が大分下って、長浜とか虎姫高月木ノ本あたりもだんだんと通勤需要出てきたところで、琵琶湖環状線構想との合わせ技で直流化したというところでは?
(交流時代にも、米原-近江今津の419系「琵琶湖環状線」列車は存在したけど) ないない
湖西線に、特急が走るようになったのは50.3だろ
もうL特急の時代なんだけど。それで乗れないのは貧乏だったからだろ >>793
汽車の時代にディーゼル特急「白鳥」
まだまだ一般的な鉄道利用者は蒸機の煙に巻かれていた
駅のホームにある洗面台で顔を洗い、設置してあるアルマイトのコップで口をすすいだり水を飲んだり…
「白鳥」キハ82は雛にも稀な列車だった >>793
ゆのくにや立山ばっかり乗せられて、雷鳥は数回しか乗った覚えがない。
今から思えば、それで良かったんだが。 >>755
ホームが2両分しかなく電化区間なのに小浜線型キハ58が1日5本ずつしか停まらなかったな
敦賀駅の切欠き5番ホームと合わせて萌え要素だった >>794
そうでもないぞ
当該が上流階級という誇張表現を用いたからちょっとアレになってるがニュアンスは解る
国鉄最末期まで特急は「特別なのりもの」感はまだ残ってたし。 湖西線の話がよく出るけど、北陸本線の歴史は改良(旧線→新線切り替え)の歴史と言えような。湖西線も言わばバイパスルートと言ったらちょっと違うかな?
誰か…というか、年齢的には「どなたか」と敬意を持って尋ねるべきだと思ったから、以下、北陸トンネル開通以前の杉津ルートや、刀根ルートの、後の柳ヶ瀬線時代の事を覚えている人、おられますか? 「新疋田」が何故「新」がついているのかを知らない人も大多数だろうな 石川県内や富山県内の思い出はあまり語られないか
「美川 県一の町」とか >>805
あれね…北陸道で看板を目にする度に苦笑する…w
あと「レディー・カガ」とか…
止めるヒトはいなかったのだろうか? あの類の看板は建てるのを進めたオッサン連中の「いいセンスしてるだろ」的な顔が浮かぶが、
いかにせん痛い 急行の今庄停車
金沢方向からやって来て今庄で折り返し (修正)
金沢方向からやって来て今庄で折り返しの普通列車 筒石は残ったが、郷津は消えた
需要の差があったのかな 駅跡のまわりには家がないが
人が住まなくなったのか
もともと列車交換の駅だったのか
筒石には集落があるから ちなみに北陸本線は敦賀から福井へ向かうのが下りで、逆が上りです >>806
北陸鉄道の蚊爪(かがつめ)駅もユニークだね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています