懐かしの北陸本線
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琵琶湖線は食パン。475系は敦賀より東、直江津までの運用が多かったの? 湖西線から彦根までというのは覚えてるけどそれは気動車だった気がする >>668
これらの駅は工場などで動いてる工作機械から出るメロディと同じもので
おそらく同じ部品を使っているのだろう。
ttps://www.patlite.co.jp/product/detail0000000561.html
これなんかライトレールの警報音と同じだよな。
興味があるなら車に付けて走るか? >>682
普通の畳にカーペット敷いて座敷机と座椅子だよ d
せっかく嵩上げしてるなら、やまどりみたいに掘りごたつ式にすれば良かったのに。
膝曲げないから楽。 北陸本線は最後まで旧客。急行廃止、余剰になった475系や419系で置き換え。 急行と快速電車は共通運用だったからな
立山→富山〜糸魚川快速→また立山とか 2往復しかない白山がL特急で5往復もあった北越がL特急じゃなかったのは何でだろ? 583系きたぐにって北陸トンネル内は130km/h出さなかったの? >>573
この人のページ閉鎖されてる…
どこか移転していないのかな 419系の正面の行き先表示は使ったことがあるのですか。 君らは「ゆのくに」とか「しろがね」とか「こがね」とか知らんやろ >>695
湖西線経由立山、米原駅経由ゆのくにだったね >>695
知っとるわ。
「ゆのくに」「くずりゅう」「加賀」「兼六」「立山」…あの交直両用電車が百花繚乱の時代やった。
さすがに気動車時代のゆのくにやら、循環準急(やったかいな?)「こがね」はリアルタイムでは知らんけど。 >>699
ディーゼルカーのゆのくにが無くなってから電車のゆのくにも廃止になるまで4年くらいしかないんだが
物心ついたのがこの期間なんだろうな >>700
大阪万博の時は気動車のゆのくにに乗った覚えがある。
そのとき電車も走っていた。
気動車と言えば大社にはしばしばお世話になったわ。 >>701
すまん
横からだがちゃんと文章読んでいるか? 神戸在住時、小学3年に上がる春休みに新疋田の撮影名所に連れて行ってもらった時に
近江今津まで新快速で行き、塩津まで気動車で、塩津ー新疋田を旧型客車に乗った記憶がある
大阪駅では普通にEF81が見れてたので慣れてはいたが田舎のホームに赤の機関車が
入って来た時はなんだかワクワクした。
あの頃はやたら特急に魅力を感じてた時代だったんだが、それを機会にオンボロ客車の魅力が
理解できるようになる。
その年の夏には姫新線の佐用ー林野間で旧客を乗る機会があり更にファンに。
それ以来は特急よりも旧客の方に魅力を感じるようになっていた。
小学1年ぐらいまではオンボロ客車は嫌で嫌で仕方なかったのにw 新疋田には撮り鉄(当時はそんな用語は無かったが)向けか、
付近の国道沿いに珍しい弁当の販売所(サラヤとかいう屋号)があって
撮影日和になると盛業だった 165系で米原始発の金沢方面の普通列車があったのって何年何月まで?
その時代が鈍行列車的な旅情があったラストだと思う。 457系が米原まで来ていたのは2006年の10月20日までだけど金沢行が残っていたかどうかは知らん >>708
そりゃそうだよな。湘南色の記憶があったんで無意識に書いてしまった。
>>709
回答ありがとう。福井行も混在してた。いちばん長距離が金沢だった記憶がある 直流区間に生まれ、最も乗った急行型電車が165系だったから
米原から乗った際、すでに急行型に乗るのが珍しくなってた頃だったので
乗り込んだ車内がほぼ同じで懐かしく、そのまま脳内補正で
外板塗色まで湘南色で記憶されてしまったんだと思う。 どんまい。
でも『鈍行列車的な旅情があったラストだと思う』と言う所が大事だったわけだよね。 >>712
まあそれも人によって感じ方は違うだろうけどな
急行が廃止されて急行用電車が客車鈍行を駆逐した時点で鈍行列車的な旅情なんてなくなったと思う人もいるだろうし
俺は今でも敦賀、福井で乗り継いで特急使わない旅もいいと思うよ https://books.google.co.jp/books/about/%E6%99%82%E5%88%BB%E8%A1%A8%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88_1980%E5%B9%B410%E6%9C%88%E5%8F%B7.html?id=_w3UBgAAQBAJ&redir_esc=y p240 1980年昭和55年この頃迄が北陸本線はそれこそ急行立山快速電車、523列車米原発長岡行き普通列車など、Variationに富んでいたのは間違いないな
https://books.google.co.jp/books?id=SQ7UBgAAQBAJ&pg=PA262&hl=ja&source=gbs_toc_r&cad=2#v=onepage&q&f=false p262 1982昭和57年この改正で急行立山快速電車そして旧型客車列車の523列車米原発長岡行き普通列車廃止、1982年のこの改正で終わった様に思う
3年後2023年の北陸新幹線敦賀開業で、いわばトドメを刺される様な感じだが、38年前の1982年昭和57年11月以前の、北陸本線のダイヤというものはいわば、特急雷鳥が当時既にバンバン走る一方、料金不要の快速電車とかマニア向けに、旧型客車長距離普通列車もあったいわばJRでありえないものだったと思う今のJRにそんなものを期待しても無駄だが国鉄時代こんな時代あったことだけは、頭の片隅に入れておく方がいいかと思う 人によりけり、というよりは、趣味者各自の世代によるんだよね。 昭和31年柳ヶ瀬トンネル
京都に帰る際の緩行列車がトンネルで立ち往生した。
煤煙が車内に立ち込めて死ぬ思いだった >>716
旧線の時代ですか。
そりゃまた大変でしたね。
立ち往生の原因は、やっぱり機関車の不調か何かで勾配を登りきれなくなったとか…? >>717
原因は不明なれど、客車内が煙くて酷い目に遭いましたな。
トンネル外にバックして再出発した事は記憶に残ってます。 時刻表復刻版(1988年3月)を見て疑問点。
224M(福井発米原行き)、河毛と坂田に出発時刻が入っていて、
622D(木ノ本発米原行き)、河毛と坂田が通過になっているのは誤植なのでしょうか。 >>718
こういうのを覚えている世代ももう少ないよね。
汽車から降りて、ホームにある洗面台で顔を洗い、備え付けの真鍮のコップでうがいをしたり水を飲んだり…
私事では、朧げな記憶だけど、豪雪の金沢で震えながらホームを歩いた時、振り返ると蒸気機関車の真っ黒な煙が… >>720
米原駅のホームに有ったタイル張りの洗面所。
撤去されたが、朝列車が着いた時や真っ黒になった顔を洗っていた当時を物語る生き証人だったな 杉津駅が今もあったら特Aクラスの景勝地だったに違いない。 >>722
奇しくも『津』が共通するけど、郷津駅も…
と言いかけて思ったけど、あちらは景勝地と呼ぶにはちょっと険しいかな?
日本海の波打際だったし…。 旧線と言えば親不知〜直江津かな
地滑りで流されたとこ 水上勉の映画越後つついし親不知かな?
三國連太郎の鬼畜と言うのか悪役は大映TVドラマ赤いシリーズ赤い運命悪役で知っていたことは知っていたけどもこの越後つついし親不知そんなもんじゃない
SL牽引旧客が鬼畜によく似合っていた 大阪〜青森間の各停511列車・512列車
31時間かけて大阪〜青森間を走っていた 年配の方が多いですね
自分は昭和末期生まれで
それでも母方が北陸なんでよく長期休暇毎雷鳥やら乗りました
学校も京都山科なんで、グランドの横を山科大カーブが抜けるロケーション
いい時代でした
特急銀座だった北陸本線が恋しい
昼行特急は雷鳥白鳥あと信州に行く一往復だけのしなのやひだだけだったのがスーパー雷鳥、サンダーバードと移り変わり
新快速は丁度221系が新型として走り始めやがて223系が出たときもワクワクしたものです
深夜12時頃家から日本海、つるぎ、トワイライト、銀河、きたぐにが通り過ぎるのを眺めてました
在来線が縮小化していくのは仕方ないですが、今の鉄道ファンにとっては不遇の時代だなと感じます。 年配の方が多いですね
自分は昭和39年つまり富山電化生まれでそれでも母方が北陸富山県滑川市なんでよく大阪から直通乗り換えなしで行ける急行立山〜快速糸魚川行きに乗りました
自分の学校こそ北陸でなかったんですが高校の先輩に何故か金沢大学進学先輩や逆に北陸から関西の大学に進学した人に結構知り合いが多かった関係で、自分の個人的な帰省以外の時もよく乗りました
急行立山がそのまま富山から快速電車の糸魚川行きになったり或いはそれと別に敦賀ー福井ー金沢ー富山ー糸魚川間で、快速電車が結構頻繁に運転される一方で523列車米原発長岡行きであるだとか、522列車長岡発米原行きであるだとか、急行もあれば快速もあれば旧客もある、なんでもありおもしろい路線でした青春18きっぷ発売したその年厳密には青春18のびのびきっぷという名前でしたが1982年昭和57年つまり私が個人的にも18歳なったばかりのまさにその年青春18きっぷで北陸本線の快速電車だとか旧客にさよなら言えたのいい思い出です
18歳だった私も気がつけば還暦間近でコロナで緊急事態宣言に関わらずもはや肉体的にも自由に旅許されなくなったがもし北陸新幹線敦賀開業までにコロナがおさまって老婆心ながらもしも自由に、旅ができるようになる時が来るなら青春18きっぷ行けなくなる北陸本線に青春18きっぷ最期のお別れしよう思います このスレを偶々発見し懐かしくなり思わずレスしてしまいました。
新幹線延伸後はどうなってゆくのでしょうか。
寝台列車には記憶違いがありました。
トワイライトエクスプレスが昼頃、日本海が夕方頃大阪始発なので山科大カーブに差し掛かる頃はもっと早い時間でしたね。
そういえば、朝早く学校のグランドに来ると下りの日本海、昼休みには上りのトワイライトエクスプレスを毎日見ていた記憶が蘇りました。
きたぐにや銀河は始発がやはり深夜近くだったような。
さいわいきたぐにやトワイライトエクスプレスに乗車する機会に恵まれました。 このスレを偶々発見し懐かしくなり思わずレスしてしまいました。上野→長岡の1つ手前宮内→長岡発米原行き旧型客車522列車→糸魚川→快速→富山から立山2号→でも富山で降り快速電車敦賀行き→敦賀→気動車→近江今津と乗れた青春18きっぷでこのパターンで乗れたのは1982年春夏限定でしたが満喫しました
3セクの今ではもう絶対に不可能ですが
TWILIGHT EXPRESSとかきたぐにとかは何回かいや厳密には何回も乗りましたが1番印象に残っているのはラストラン
TWILIGHT EXPRESSを追いかけた事かな
2度とこんなこともうできなくなるんだ涙腺弱くなったせいか目頭が熱くなった そうですよ、悲しいですが
そういえば18きっぷで関西と北陸を鈍行で往復したこともありました。
新疋田で一度降りて撮影してみたかったのもありますが、北陸線を堪能できました。
食パン電車のタウントレイン。
交直流の入れ替わりで車内灯が一時消える、あんころ餅羽二重餅の売り子、鉄道唱歌の車内オルゴール 黒部周辺のチューリップの季節にチューリップ畑の後方を走る特急や
青海川、鯨波といった撮影名所ありましたね。
どれも先輩とは数ジェネレーション後の話ですが。
白鳥が汽車で大阪から上野まで乗れた時代というのが羨ましいです。 クロ681‐1001はもう解体されてしまったのかな
京都の鉄博に保存してくれたら嬉しい車両の一つだったわ
JR西日本初の新型特急そして長い間看板列車を務めた車両だから保存する価値はあると思ったんだけどな 復刻版時刻表1968年10月の北陸本線のところで
金沢〜富山に1往復(高岡駅付近ですれちがう)だけ電車運転の普通列車がありますが
どういう車両を使っていたのでしょう。 >>741
たぶん「くずりゅう」と共通運用の475系ではないかと。 それだと富山行った車両の方はその後1日休みだったなのかな 前日の急行で富山まで来て朝普通列車として金沢へ
朝普通列車として富山まで来て折返し急行列車として金沢方面へ
じゃないだろうか
この手の話は知ってる人が降臨しないと完結しないな 北陸新幹線敦賀延伸しても金沢まで並行在来線として残してほしいなぁ…敦賀までのサンダーとか見たくない サンダーバードあらため新幹線リレー号になるのかな。 七尾線乗り入れのサンダーバードも金沢止まりとなるのか?
大阪方面から敦賀と金沢で二回も乗換えを強いられるのはちょっと・・ 田村駅に寝台列車が停車していたとは
今となっては想像できない、、 今朝の新日本紀行(昭和56年湖北地方)で、
北陸本線木之本駅の北あたりを北上する5両編成のキハ58系急行が映ったけど、
なんの列車かわかる?
5両のうち4両目の窓が違うので、おそらくこれはキロ28っぽい。
これは、「大社」の金沢発の編成と同じなんだけど、敦賀以南のこのあたりは通らないし、
名古屋発編成は4両だったらしいので、よくわからない。
https://i.imgur.com/kSVSm3N.jpg
撮影地はおそらくこのあたり
https://goo.gl/maps/2nDpeBz3nDi4jxBh8 >>757
キロ28か?
何か運転台あるぽいし、しかも二段窓ぽいぞ? 張り上げだからキロ
塗り分けで比較すれば分かるけどキロって窓が少し高い
ユニットに改造された頃じゃね >>757
多分「大社」
S56なら、名古屋編成も5両化されていたと思う
キロ28を2000番台限定にして、キハの冷房電源を確保していた 401D「大社」 美濃太田所属の5両編成であってるみたい
金沢発が福井発に短縮されたとき(昭和53年)に、5両になったようだ
名古屋 ← <キハ58-キロ28'2000-<キハ58-キハ28'2000>-キハ58> → 大社
でいいのかな? 北陸に交流60Hz区間が孤立して残り続けないようにって、出来なかったものかねえ?
コストの問題で交流電化を進めるなら
50Hz側の新潟県内は本数の多い上越線、信越本線宮内−新潟、東新潟間以外を交流電化
少なくとも糸魚川以西は直流電化
上野方面へ行く列車を、糸魚川−直江津間だけのために交直流車両にしたくないなら
糸魚川−直江津は直流で、替わりに宇都宮−黒磯は交流、ダメ? 新幹線が東京〜新大阪しかなかったころ、北陸〜関東の需要はどのような経路だったのだろうか。 東京-[ひかり]-名古屋-[こがね/しろがね/兼六/しらさぎ]
東京-[こだま]-米原-[大阪から来る急行,特急]
上野⇔[直行する急行列車]
このうちもっとも使っていた経路は。 たまたま富山に用事があったんでついでに伏木のクハ418−1の様子を1年ぶりに見に行ったら姿が見えなかった。
まさか…?と思って調べてみたらどうやら去年の秋に解体されてしまったんだな
保存目的ではなかったとはいえ10年も留置していたのに結局最後は解体か… 粟津駅の地下道にある、東京方面上り、上野方面下りの表示が有ったな。
子供心に東京駅と上野駅は凄い距離が離れてるんだって思った。 >>740
まだ生き残ってるけど今年中に廃車の予定らしい
別に何か大きな功績がある車両というわけでもないし非鉄オタにも人気があるってわけでもないから普通に考えて保存なんてしないだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています