懐かしの北陸本線
昔は窓開けることが出来たからちょうど今くらいの時期の北陸線は籾殻を焼く匂いが風物詩だった
見渡す限りの田園風景も空を埋め尽さんばかりの赤とんぼも今は昭和の思い出だ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%99%B8%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
「杉津海岸から杉津駅までは一直線の石段があったらしいが
現在は草むらの中に埋もれているようである」
と書かれてあるのですが、この石段の現在の場所を分かる方は居られるでしょうか。 そういえば、接近放送に今のメロディー(かっこうとかアニーローリーとか)が使われ始めたのっていつ頃? シートの下に空き缶を置くと
カーブの度にコロコロと
あっちいったりこっちいったりしてたそうな
杉津〜山中間のトンネル鉄橋連続区間は
窓から顔出すと実にスリル満点だった >>12
越美北線用...かな?
あるいは小浜線乗り入れ用とか >>55
おいおい越美北線は8620だし小浜線はC58だろ 北陸線下りホームの行き先案内で
東京方面の文言なんてあまり見たくない
上野行き直通無くなるから仕方ないけれど >>49
>>50
城端線の快速が客レだったように思う
自分が乗ったのはオハユニ61の茶色で
車内に掲載してあるポスターが日本の特急で
くろしおがキハ82だった
でも当時はもう381系だったはず
車掌さんも放送前後にオルゴールを鳴らしてくれたよ 能登の廃止でボンネットの489系もいよいよ終焉か。
白山、しらさぎ、はくたか、雷鳥、北越、加越・・・・昭和がまた終わるな。 2014年になったら直江津〜金沢の話題もここでしておk? キングと言うのなら、立山の方が相応しい気がするがのう ゆのくにはクイーンが相応しい気がする。
湖西線開業時はゆのくには米原経由のまま残ったしね。
キングなら最新設備を優先的に使って当然だろうに
加賀、越後は。。。なんだろう? 北陸新幹線の南越トンネルは建設せず
北陸トンネルを流用し
在来線は大桐杉津新保経由路線を復活
だといいな >>69
教養無いので、よく分からんけど、こういう話し?
ttp://1945628.blog81.fc2.com/blog-entry-4.html
このサイトでは「男神」という記述がありますがw
見当違いな話しだったら、ゴメンなさい。
それはさておいても「立山」は当時の大エース特急たる「雷鳥」の補完列車にして、
編成もグリーン車2両+ビッフェという王道急行編成じゃなかったっけ?
更に急行では珍しかったヘッドマークを付けていたのも格好良かった。
何故か分からんけど、大型の物と小型の物があったね。 >>70
40年代までは大型で、50年代以降は小型じゃないのかな?>急行ヘッドマーク
付け加えるなら“ゆのくに”・“立山”系統と“くずりゅう”系統は別立てだったかも?
あくまで個人的な感想だが、“立山”・“ゆのくに”は大型でも小型でも違和感なかったけど、“くずりゅう”は大型だと「なん
か不恰好だな?」て感じてな。
キング 立山
クイーン ゆのくに
ジャック 兼六
スペードの10 くずりゅう
さてエースは?
北陸式ヘッドマークは、実用性もアピール度も兼ね備えていたと思う。 エースは特別(急行)雷鳥
ジョーカーは特別(急行)しらさぎ
チャンピオンは特別(急行)白鳥 >>74
自分的には遠路はるばる青森まで日本海縦貫線を走り抜ける“しらゆき”か、ちっさいイラスト入り円形ヘッドマークが
小粋wな“能登路”を推したいね>急行のジョーカー しらゆき といえばプリンセス(はーと ってカードにはないけどw
ジョーカーには こがね、しろがね を推したい。
こがね が色付きの方、しろがね は白黒の方。
どっちがどっち回りだったか忘れたけどw 「ゆのくに」 いい響きの名前だね。
まさに女王にふさわしい。
こういう旅情あふれるネーミングが復活してほしい。 昭和47年暮れ、小学2年だった俺、名古屋→高岡間しらさぎ2号乗車の思い出@
それまで、親父の実家の富山に行くときは、高山回りの、「ひだ」「のりくら」
しか乗った事が無かった俺は始めて乗る電車特急にわくわくしながら481ボンネッ
ト型の入線を待っていると、目の前に停車したのは青い583系!興奮しながら乗り
込み、2連、3連のトイレや洗面台、さまざまな仕掛けだらけの車内にまたまた
ビックリ。
昭和47年暮れ、小学2年だった俺、名古屋→高岡間しらさぎ2号乗車の思い出A
発車と同時に鉄道唱歌のチャイム、栄生付近に留置されている名鉄パノラマカー
稲沢機関区にたむろするEH10やEF60などの様々な、直流電機たち。
関ヶ原からの雪景色。米原構内でのEF58やDD50。
米原停車中の交直切り替えテストと北陸線へのスイッチバック。
そして、デッドセクション通過後、銀世界の田村駅構内に集うED70と、
EF70の赤い色が一段と際立って見えた。
昭和47年暮れ、小学2年だった俺、名古屋→高岡間しらさぎ2号乗車の思い出B
敦賀を出て当時、最長の北陸トンネル。
その間、初めて連れて行ってもらった食堂車で食べたハンバーグセット。
福井駅構内の京福電鉄の元、南海車。その間すれ違う様々な、特急を
初めとする交直電車、気動車、そして旧客鈍行。
小松停車直前に右側の田んぼの中から現れる尾小屋鉄道のヨレヨレのナロー
ゲージ。そして、そのまま泥だらけのバス車庫を通り抜け、小松駅手前の新小松
駅に停車中の軽便ディーゼルカーとボロボロの駅舎。
昭和47年暮れ、小学2年だった俺、名古屋→高岡間しらさぎ2号乗車の思い出C
そして、金沢で乗客の大半が下車し、車内は殆ど、貸切状態に。
しばらくして、金沢運転所に留置される本当に様々な列車群に大興奮。
食堂車の営業終了アナウンスの後、倶利伽羅トンネルを抜けると、
富山県に。田園(この日は雪原)を暫く進むと高岡着。
幼心に後ろ髪引かれる思いで下車。そこからは、加越能鉄道に乗り換え
おばあちゃん家へ・・・。
いまは、5年に1回位しか行く事も無くなってしまい、(しかも車で
行く事が大半)しかも、東海北陸道も開通し、行くたびに様変わりする
北陸路。
あの時代にギリギリセーフで少しだけ見せてもらえた自分は幸せな世代
なのかなぁ・・・。
「乗り遅れずに済んだ」という意味では明らかに幸せな世代だと思うよ。 富山駅の変貌ぶりがすごいな
何度も高山線で使った西三番ホームも、もうすぐ解体されそう
富山駅は物心ついた時から大きく変わらなかっただけに何か見てて辛くなった 手元にある昭和47年の時刻表によると米原発長岡行きの鈍行の場合。
米原1155分、敦賀1257分着1327分発、福井1440分、金沢1639分着1700分発
富山1819分着1831分発、糸魚川2008分、直江津2059分、長岡2320分となっている >>85
高校時代東金沢からそれに乗って帰宅していたな。
米原のオハ35やオハフ33が多かった。
いずれ全通したら米原〜敦賀が北陸本線になっちゃうのか。
いや、もう敦賀線でいいな。 ユーチューブで思い出の国鉄って題名で1978年の北陸本線の映像があったんだけど文字の特急HMやキハ55、EF70、優等仕業につく475、原形の485系車内、米原や金沢等の旧駅舎など出てきました。中にあった映像でトンネルを出るとすぐ前照灯を切ったり等今では考えられませんね。 貼っておきます。ttp://www.youtube.com/watch?v=esPzB0jgQOs人や車の姿も懐かしいですが出てくるもので代わらないのは485系の走行音くらい?? >>92
これは懐かしい
特急から鈍行客レ貨物などいろいろな列車が来て飽きませんでした 伊藤敏博が国鉄を辞めたのは自分の意思?それとも向こうから首を切られたの?
親父が昔「首を切られたと本人がラジオで語った」と言ってたんだが。 地方紙だったかな
デッドセクションで暗くなったらキスをする
って書いてあったんだよ
当時の彼女にそれをした事がある。 電車急行「立山」「ゆのくに」「くずりゅう」だって思い出になってしまったし。
北陸本線はついこの間まで国鉄型の宝庫というイメージがあったが(特に特急はもとよりいつの間にやら普通ですらJR型が大半を占める様になった金沢以西を見るとそう感じる)数年前の事ですら懐かしの部類に入りつつあるな >>102の続き
今や金沢以西の485系定期運用は一往復しか無いのか・・・いつの間にか特急は681&683系ばかりになってしまったとは。普通列車も521系ばかりという日がやがて来るんだろうなぁ。 北陸線でも直江津まで来ると
115系、485系、583系、413系、419系
この辺の国鉄型車両がいっぱい そう言えば朝の米原→富山といったような長距離運用がなくなりましたね。
客レがあったほどの昔ならそれでも大して長距離運用ってほどでもなかったのでしょうが 大阪から新潟・秋田・青森はもちろん上野も有った。
昔は郵便荷物輸送を基本に運用が組まれていたから。 それで能登線甲駅なんかに郵便車が放置されてたのですかね?
関係無いかな?
今では日本で2両しか残ってないらしいですが、能登中島に移されてますね。 富山から京阪神ミニで、越前、くずりゅう、比叡で大阪。
能登、ゆのくにで大阪。立山で乗り換えなしで大阪。
昭和56年頃のお話。 >>109
急行きるりゅうっていつまで走っていたの? 国道8号から杉津PAまで登る坂道は、確か今でも「県道杉津停車場線」 加賀温泉駅の新設は石川県の鉄道交通政策最大の失敗だといわれていますね。 富山と福井は国鉄並行型・都市間連絡型・割と高規格の私鉄を敷いたが、
石川は国鉄からの引き込み線型の低規格路線を多数敷いた。
地鉄線・加越線・温泉急行線・加南線で、
能登半島以外の北陸の観光地をかなり効率的に結ぶ並行私鉄。
大聖寺からは吉崎を経由して三国芦原線で福井に出られるんだっけ?
加賀藩が維新の時にもたもたしてなきゃありえたかなw
あまりに早い時期に京都に繋げてしまうと国に買い上げられ、
そのまま国鉄北陸本線になってしまう可能性があるけど。 北陸本線の並行私鉄線の話だと思う。
松金線とかあったけどな。野町〜新寺井の直通電車も一応。
高岡軌道線は富山〜高岡間の並行路線の西半分。 >>119
何についての話かと何を言いたかったのかは違うぜ 石川線の新西金沢以東の昔の地図を見ると、貨物線多い!
(西泉駅、白菊町駅はどっちかというと貨物駅)
国鉄東金沢駅にも電化された専用線が繋がっていて、
西金沢駅に負けていませんでした。 西泉には未だ唯一の貨物線の名残、食糧倉庫にレールが残ってますな。
西金沢もかつての車庫の名残の橋台がひっそりと。
野々市はかつての一大ターミナルの名残の農協倉庫とホーム、
そして弱小私鉄には似つかわしくないデッカイ変電所。
野町から白菊町の間はもう痕跡らしきものすら発見できない。
JRの西金沢もかなりの規模だったようだが、寂しいな… 諸賢に伺いたいのですが、金沢運転所に「オロハネ10」がいたことはありますか?
なにぶん子供だったもので、本当に見たのか、見たと思い込んだのかが微妙…。
ちなみにコロタン文庫で「北海道の急行大雪に連結されている」等の知識を得ていました。
非常にお気に入りの車両でした。 オロハネ10は「北陸」に隔日に連結されていた筈。金サワだったか東ヲクだったか
忘れたが。(北ヲクになったのだったが)
ナロハネ時代ロネのバースの頭の付近に通風口があった。 >>124
レスありがとうございます。個室寝台の合造車では出せない不思議な魅力がありますw
結局、軽量客車の寝台車には乗れずに終わりましたが…。
当時の北陸本線の普通列車、快速列車にはよく乗ったのですが、
軽量客車がいちばん好きでしたね。車内が明るく、かつ、柔らかい印象がありました。
急行形電車はやや冷たい印象、オハ35は何故か「乗降扉の形が怖い」という印象を持っていましたw
話が変わりますが、金沢駅の東口の全日空ホテルの場所に貨物ホームがあって、
それが撤去されていって、日通の支店の建物がぽつんと残っている…というのが、
個人的に金沢駅に関する一番古い記憶です。 >>125
あなた122じゃなくて123じゃないの?
あと、個室寝台の合造車って何よ? >>126
間違えました。
(失礼しました;;>>122)
個室寝台の合造車とは、北斗星などのオロハネ、
サンライズエクスプレスのサロハネとか、
現在の個室寝台の「ロネ」と「ハネ」の合造車(と言うのかな?)の事を言ったつもりでした。 >>128
「現在の個室寝台の合造車」は、現在にはない開放寝台の合造車であるオロハネ10と
『比較するための対象』として話に出しました。
だから、確かに現在の個室寝台の合造車に言及してはいますが、
全く「オロハネ10の話」ではないわけではありません。
例えば「ブルーバードU 2000GT」の話をしているときに、
単に「今の車には出せない魅力がある」とか「ケンメリよりも好みw」という表現をしただけで、
そもそもの話題である「ブルーバードU 2000GT」の事が念頭から排除されたり
記憶から消えたりして、話題が「今の車」または「ケンメリ」へと完全に移行するとは思えません。
よって、あえて>>125の一行目に補足するならば、
「開放寝台の合造車であるオロハネ10には、現在の個室寝台の合造車では出せない
魅力がある」という意味になります。
北陸路の個室寝台車は、トワイライトエクスプレスが現役、
北陸、日本海、夢空間が懐かしというのが大方の認識かと思うんですが、
戦前とか、進駐軍専用列車とか、さらに遡れるんでしょうかね…。
(とってつけたようにスレ違い回避;;) オロハネ10のロネはプルマンタイプのバースで、オロネ10やマイネ格下げのマロネ40開放室や
マロネ41と似た構造だった。
戦後だが601−602レ「北陸」が大阪−上野時代1等区分室、2等開放室の格下げが
上野−金沢間に連結されていた。ヲクの旧マイロネフ37と時々シナの旧マイネロフ37の
転換クロス部分を開放室に改造車→マロネフ38(後年米原経由の「能登」に連結)
個室ではなく長手寝台を線路に直角に取り付けた旧イネの2名と4名用区分室。4名室は仕切り
扉で2名用にも変更できたが、旧イネ部分には収納式洗面所が取り付けてあった。
戦争中期まであった501-502レ、601-602レのロネは全車開放室の凸屋根だったから、
さしずめマロネ37→マロネ29のTR71を履いた車だったかと----。大阪−直江津間の507−508レ?
が丸屋根のマロネロ37→マロネロ38.
戦後501-502レの大阪−富山回転車がマロネロ38からマロネ29になっていたが、これに
がTR71で、高岡から大阪迄乗車の時はよく揺れてくれた。
個室ロネは「トワイライト」以前の北陸本線には定期列車に連結は無かったのでは
無いか? >>131
トワイライトEXP.運転開始 1989年7月〜
日本海1、4号の個室ロネ連結 1998年12月〜 >>132
そうかオロネ25があつたな−忘れていて悪かった。
PC時代は各列車に風格というか雰囲気が違った感じがあったが、煙草の匂いと酒の匂い
が入り混じるのが、東海道本線や山陽本線の準急や急行よりも、北陸本線の方が強かった。
米原の蕎麦が素焼きに近い薄いうわぐすりだけの鉢の時代、食べ終わって家へ持って帰り、
蕎麦やうどんに使って旅の雰囲気が楽しめた。今庄で主機交換の間に立ち食い蕎麦を
掻きこんだり。
北陸本線の駅弁販売駅のお茶の土瓶を殆ど揃えていたが、地震で米原と金沢を残して
全滅。一番惜しかったのは薄茶色の「敦賀駅弁」の文字が浮き出していた土瓶。
私はお茶はプラスチック容器にティーバッグが入ってるのを
見たことがある程度ですが、個人的にそれと北陸本線に絡むのは
「松任のあんころ餅」。今でも時々、金沢駅で買いますが。
子供心にあのお茶は「異様に熱くて、警戒すべきもの」という印象を持っていましたw
冬の夜、ディーゼル急行「白馬」か「しらゆき」(「白馬・しらゆき」か)、
富山から金沢まで、母と二人で乗車。区間的に「松任のあんころ餅」ではないと
思うんですが、異様に熱いお茶と甘い餡の記憶があんころ餅と結びついています。
毎年、寒い季節に乗り鉄する機会に恵まれるたび、
この思い出を再現しようと努めているんですが…。まあ、仕方ないかな。 >>135
圓八のあんころがメジャーだが、あんころ餅は全国各地にある普通の和菓子なんだわ
過去に松任駅であんころの立売があったから、あんころ=圓八みたいになってるんじゃない >>135
確かにホームで売り子が回って来た「名物あんころ餅----」、普通列車しか停車しない
から、出張で福井の仕事の次が金沢の時しか買えなかったが。
米原思い出したが蕎麦の売り子で、オバQみたいな人相の低音のオッサンが、夏は生ビールを
売っていて、売り声が「生−1呼吸程の間隔−ビール」。超早口の兄さんが「サンドイッチにハムサラダ、
ハムサラダにサンドイッチ」---いずれも懐かしい。この人達は米原名物?らしくて
オッサンの蕎麦や生ビール、兄さんのサンドイッチが良く売れていた。
大阪の新朝日ビル地下に「今庄そば」があったけれど、今庄駅ホームで食べたのとは
全く違った味だった。 戦後の混乱時代に大阪→高岡の普通列車を見た記憶がある。何故富山迄延ばさない
のか?疑問だった。(見たのは京都駅)
今から思ったらオロ35が連結されて居たが、東海道本線の急行にスロ34W屋根などが
組み込まれていた時代に普通列車にオロ35とは豪勢だった。 福井に住んでた頃、夜通し片町で飲み歩いて、早朝から営業してる駅の今庄そばを食うのが楽しみだった
今もあるのかな? >>141
圧倒的にスハネ30が多かったね。一度だけオロネ10に乗ったけれど朝金沢に
着いたら新聞を呉れた。俺は何だかロネよりハネの方が眠れたので貧乏性
なのかな? >>46
今この編成新造するのと、普通に電車三輌とじゃどっちが掛るのかな?
客車は安いって言うじゃん、こういう編成で大井川化すべきだ 国鉄時代の小冊子に「数字で見た国鉄」があったが、1973年版が手許にある。
動力費=蒸気機関車>新幹線電車>(在来線)電車>気動車>デイゼル機関車>
電気機関車の順。
動力費の面から見たらEL+客車が一番安いが、ワンマン運転出来ないのと、
操車係りとか人件費が掛るから、PCを激減させているのだろう。
長距離優等列車などはELかDL牽引の客車列車にしてもペイするのだが----
オハ50系などPUSH-PULL運転を考慮に入れて建造したそうだが、城端線など
DE10とのコンビで実現出来ただろう。カプラー変更が必要かもだが、柴田式で
変芯バネを付けたら可能だったかと?
今庄そばは今でも大阪では曽根崎とか心斎橋でみかけるね 今庄のホームで機関車交換時間に掻きこむのが楽しみの一つだったが、
夏は蕎麦ではなくて「冷麦」の年があったのを記憶している。
でも熱い奴を2杯フーフー言って喰ってデッキに飛び乗りなんて本当に
若気の至りだった。
曽根崎のどの辺りかな?一度行ってみたいが。 >>137
北陸旅行の際、津幡で「あんころ」の立ち売りを見た昭和50年代前半。
「あんころー、あんころー」って言っていた。商売になったのかねえ。 臨時列車
「雷鳥51号」と「加賀」
どちらも14系客車だったと思う 何故かと聞かれると答えに窮するけど、50・3・10改正で、大阪〜北陸間の列車が
基本的に湖西線経由に変わったのがどうも気に食わなかったりする。
別に米原や長浜に格別縁がある身分じゃないのだが…。
1つは、北陸本線全区間を走行する列車が激減したのが残念に思えたってことかな。
特に「白鳥」なんて、昔新津―新発田間でわざわざ遠回りするようなルート変更
した経緯もあるから、変な話だけど「新潟には配慮すべきでも米原は軽視していいってことか」
なんて思ったりもした。