オマエラが見てきたカオスな列車編成
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故障代走・臨時増結などの結果、
塗色や使用車両がエラいことになってたのを目撃してたら語ってくれ。 >>347
一般企業の慰安旅行だったはず。
スハフは荷物置き場と化し、ほぼ全員食堂車に集まって宴会状態だったとか。
80年代初期の奥羽本線にて、ED75+青茶混合の旧型客車+国鉄急行色+タラコ色DCの混合列車を見た。
編成全部入るように広角レンズで撮ったが、ネガ紛失…。 >>349
雑誌で見た限り、2度可能性あるよ。
はじめは、ヨの待遇改善でヨ8000新製回送。
次は、車掌車省略で、一斉疎開回送。 >>351
多分後者だ。FE58って、、、、orz
うつだm高速貨物にぐもらレ手雇用。 上の方にもあったが、国鉄末期の千葉113系
TcMMTc4連 阪和+スカ+スカ+阪和 編成は衝撃だった。
後に一時期、湘南+スカ+スカ+湘南 編成と先頭車の差換えをやって
阪和+スカ+スカ+湘南 と 湘南+スカ+スカ+阪和 編成になった時には、さらに衝撃w
併結8連になった時は、無駄に狂喜乱舞してたな
昭和52年の夏、リアル消防時代、初めての九州旅行で見た編成
ED75+ED73+ED75+ヨ8000×20両位+ヨ5000
初めて見る赤い機関車と相まって、かなりな衝撃を受けましたよ。 >>353
関西線電化時も色変えが間に合わず、関西+湘南*2+スカ*2+関西 とか。
中には、MM’の1号、2号 TC’の301号なんてのもいましたし。
つい最近まで日根野に混色編成がいて、4塗色8連運用もあったです。
ヨ8000は54年頃まで新製してたから、出場回送ですね。
>>346
シは2両分で計算すると聞いた記憶がある
それを元にすると8両だからOKじゃない? >>346
スシ24も湖西線で似たような編成を組んだ事がある。 >>353 354
内房線で阪和色113に乗った学生時代
「禁煙 天王寺〜和歌山」「指をつめないように」のステッカー
1987年くらいかな? 「珍ドコ列車」の編成。
1999.6.10
↑倉敷
EF58 150[梅]
10 マイテ49 2[本ミハ](展望車)↑
9 スハフ12 702[広コリ](レトロ風客車:明治風)↑
8 オハ14 254[広ヒロ](リゾート客車)
7 オハ12 247[広コリ](急行用客車)
6 スシ24 3[本ミハ](食堂車:非営業)
5 オハ14 701[広ヒロ](ホリデーパル用サロンカー)
4 オハネ25 203[広セキ](特急用寝台車)
3 スハフ14 25[広ヒロ](特急用客車)↓
2 オハ12 701[広コリ](レトロ風客車:欧風)
1 オハフ13 701[広コリ](レトロ風客車:展望車風)↓
↓岩国
★EF61 210[広](広島→西条)
※全車指定ですが、号車指定の定員制として発売されています(但し、1、5、6号車は定員外)。
また、指定制ですが、指定席料金はかかりませんでした。実際の指定券には、
[急行券・指定席券]として発券され、料金は「¥*** 内訳:急行料金¥0 指定席¥0」
と印字されていました。 カオスと言うか、
こんな編成はイヤだ。真夏の悪夢編。
急行[平戸]の通常編成はキハ65を2両のキハ58で挟んだ3連が基本で、もちろん
全車冷房付きだったのだが予備車不足か、マレにキハ55込みの3連になる事があった。
キハ58の代走なら良いが、キハ65の代走に入られると悲惨。
しかも、最も暑い旧盆頃に入られる事が多かった。
推測だが佐賀経由急行の増結か、臨急に引き抜かれてたんじゃ無かろうかと思う。 1985年頃だと思うが、武蔵野線には3色、4色、5色の混合編成が多数いた。
6連のうち前後のクハ以外は全部違う色というのが多かったが、さすが6色は
なかったな。モハユニットも別色というのが結構多かった。
ただ、さすがに恥ずかしいと思っていたのか転属後2週間くらいで、どんどんオレンジに
塗り替えられていた。 ヤマケイの写真集のおかげで
南武線と横浜線は混色がデフォなのだと思っていた まだ紀勢本線が非電化だった頃、和歌山−新宮の普通列車はキハ35系が主力として使用されていた頃があった。
関西本線電化で大量に余ったキハ35系を転用した訳だが、和歌山−新宮を通す長距離運用があったりして、
ロングシートのキハ35系で長時間乗車という当時では“破格”の扱いに、
“怖いもの見たさ”で乗ってみたかった記憶がある。
今でこそ、列車としての長距離列車はなくなっても、
乗り継ぐ列車の全てがロングシートというケースが増えてそんなことも珍しくなくなったが、
当時は“ロングシート編成が長時間走る”ということで十分インパクトのある編成だった。 >>365
批判ですぎて、キハ45を一両だけ混ぜるっ、とかしてたんだよ。 >>363
当時6連の武蔵野線だと、電動車2ユニットとT(Tc)2両の
4種混合までしかなかったはずだが。 客車末期の和田岬線で、ピンチヒッターだったのかどうか知らないが、兵庫寄りの一両がボックスシートの編成に乗ったことがある。確かオハフ33だったと思うんだけど。 >>364
少なくとも一時期のハマ線は混色がデフォだった >>368
確か、通常の和田岬線予備車はスハフ42だったな。 >>360>>361
1989年か。
バブルに咲いたあだ花の一つだな。 F誌に出てたが165系×3+クモヤ143+381系×3のミステリー列車?
みたいなのがあったなすw いつ頃か覚えてないけどやまぐち号客車2両が九州を走った事があったはず
ED76+オハフ13+スハフ12(?)
なんて編成だったと思う >>354
今でも京キトの113でこんな編成が。
[カフェオレ-湘南-湘南-カフェオレ]+[湘南-カフェオレ-カフェオレ-湘南]
どうも検査期限の関係らしいけど、ちょっとねw
昼下がりですいてる時だと編成中の乗車率が偏ってるww 昔の客車列車もいろいろな車が繋がっていたな。
急行型ブルーのスハ43やナハ10に混じって茶色のオハ35にオハ61なんかも混じっていたり…。
播但線や下関方の山陰線では、超ロングシートのオハ41なんかもあったりして! 昔小田急で見られた2200系列による
2+2+2+2+2の編成
互いに非貫通(貫通幌がついていない)で、ブツ10などと呼ばれていた
今小田急で見られる異系列による6+4の10連も
他所からみれば相当カオスな編成に見えるだろうな 数年前の話だが、飯田線で119系が脱線転覆した。
この時の浜松工場までの移送編成がカオスで…
EF58+14系2両+1191両…見たときは驚いた >>379
言葉不足で…119系が1両って事。
さすがに1000両は無い そういやあ客レ廃止直後の播但線は普通に混色編成が存在したな カオスほどではありませんが、青函トンネル開通日の朝、函館からの183系回送列車が
北斗2本?げた14両編成でした
それが、かつての北斗1号のスジで運転されてきて、ああ本当にトンネルが開通したんだなぁと
いう思いを抱きましたね
ほぼ同じ時間帯を走る北斗星1号を見たのは、次の日の朝でした
時代は遡りますが、14系客車が北海道に来たとき、改造工事の関係で座席車が先に登場して
夜行急行群の座席車が14系、寝台車が旧客だったこともありましたね
確か、ひと冬くらいの期間でしたが、非常に不思議な編成でした 国鉄末期の常磐快速103系
緩行線クハにステッカーはったのとか
転入してきた非冷房M車ユニットの塗装変更せず使用とか
充分カオスだ
平成5年の冬に見たキハ183系スーパーとかち
キハ183-900
キハ182-2550
キハ182-2550
キサロハ182-550
キハ183-3550
スーパーとかち用の車両はキサロハだけ 1981.7.25 9001列車 特急「つばめ」(リバイバル団体列車)編成表
↑大阪
EF58 61[東]
1 スハフ14 13
2 オハ14 176
3 オハ14 136
4 オハ14 24
5 オハ14 165
6 オハフ15 47
7 スハフ14 39
8 オシ14 12
9 オハ14 137
10 オハ14 22
11 オハ14 133
12 オハ14 129
13 スハフ14 52
↓東京
※客車は[南シナ]
イベントで復活運転したリバイバル「つばめ」の編成です。全車客車の座席車で食堂車が連結された珍しいケース。
東京10時丁度に出発して、途中待ち合わせもなく、定期列車の時刻変更をしてまで
登場当時の運転時間を踏襲した異例の列車でしたね。
今では考えられないイベント列車で、当時のマスコミにも大きく報道されました。
自分は東京駅で一晩徹夜して(200人くらい徹夜していた)、このチケットを確保した記憶があります。 上り最後尾スハフ14 13乗車組です。
学習院学生のつばめガールの巡回が懐かしい。
食堂車は発車から常に満員であきらめ、
ヤクルトタフマン飲んで過ごした。
大阪から東京まで沿線はファン、職員、沿線住民
でずーっと人、人、人。 >>387-388
このイベント列車を題材にして西村京太郎が小説書いたんだよな。 >>390
ブルトレ用のものを借りたのだ。
今じゃ考えられない話だが。
583に485系を増結したシュプール号が好きだった。
ま、運動音痴の俺にはスキーなんて縁が無いけどさ。 そういえば、東京駅で徹夜で並んでいた時に、夜中に「ヤクルト」の差し入れがありました。
ヤクルトが協賛でもしていたのでしょうか?
私は大阪行きに乗りましたが、やはり食堂車のあまりの混雑に断念したクチです。
それにしても、ピカピカのゴハチのロイヤルエンジンが、13両の客車を牽いて東海道を疾走したのは感動的でした。
ある意味、“もう1つの晴れ舞台”だったと今でも思います。 >>389
超特急つばめ号殺人事件、でしたっけ。むかし燕号の車内で起こった事件が遠い引き金に…なんて、
なかなか面白く読んだ記憶があります(もう20年も前だ)。小説に出てくるイベント列車のつばめ号は
旧型の展望車を模して新造したことになっていましたね。 まだ出ていないようなので・・・
古い鉄道ファンで見たんですが(記事タイトルは「DD51謎の回送」だったような)
EF65-500+ワム+DD51+ワム多数
見間違いや混同の可能性が大だが、
1980年頃の名鉄局管内東海道線で153か165ベースの快速列車の中に新快速色と修学旅行色のクハ車が一両ずつ混じった編成を見た。
更にクモニまで併結していたと思う。 >>353
阪和+スカ+スカ+阪和+湘南+スカ+スカ+湘南なら
1986年11月1日に内房線で見たよ。 昔の山陽急行には167系(修学旅行色)にサロ・サハシ(153から165か不明)を1両ずつ組み込んだ編成が
走ったことがあったとか。
>>395
大垣の快速編成なら、8両編成中5両に運転台が付いていた編成を見たことがある。
うち1両はモハ164形500番台だけどな。
クハ183+クモヤ143+クモヤ143+クハ183
大船工場の出場試運転 京都←EF65-1100+カニ24→神戸
尼崎にて。網干定検からの回送かな? 瀬戸電の3730+6650
事故車か故障車の代わりだったらしい インターネットがなかった昔は、未だ未確認のとんでもない編成がいくつかにあったのだろう。
特に、581・583系が419・715系に改造される時、特別に組成された6両編成の583系の中間に種車が組み込まれていた。
当時の583系は、12両編成が当たり前だったが、更に短い編成だと目立ったのだろうね。 急行時代の宗谷・利尻とかは出てたっけ?
キハ400,480、182、スハネフ14(利尻)、たまに増結でキハ56も。
キハ56以外は塗り替えられていたけどこれが原色のままだったらスゴイ! DE15(記憶が曖昧…)+キハ400 501+キハ160-1
苫小牧運転所公開の時に、持ってきた車両の返送で生じた組み合わせ
苫小牧に持ってくる時は、牽引する機関車がキハ160側に付いてたと予想。 >>409
臨時列車化される直前の末期のミッドナイトに比べればw
キハ27改造の、「正規の」ミッドナイト編成に、増結でキハ400やキハ184(利尻宗谷塗装)が
並んで、最後尾にはキハ40−700が・・・
ロングシートに並んで座ってさびしく缶ビール飲んでる人が印象的でしたが、車内減光のあとは
横になって寝たのでしょうか 尾久秘蔵の客車群
銀帯オロネ25 7、元サロンエクスプレス東京のスロフ14、夢空間生き残りの1両
などが本日20時現在 本線直ぐ脇に停まっているのだが、果たして・・・・ 空いていれば、“ゴロンと”シートになるロングシートの方が快適だな!
かつての長岡夜行なんかじゃ、好んで3人掛けのロングシートに座って、
通勤客が降りたら寝台替わりに使ったもんだ。
そういえば、昔の長岡夜行や上諏訪夜行なんかは、新聞や郵便の輸送にクモニとかクモユが1〜2両くっついて、
なんか近郊型電車でも“長距離列車”という風格があったなあ。
珍編成といえば、旧型電車の宝庫だった飯田線や身延線、大糸線辺りは、毎日が“珍編成”だった感じだ。 自分は長町の育ちで、一応旧型客車を知っている世代ではあるものの
物心ついた時には、東北本線仙台口には既に35系・43系しかいなかったので
普通列車がすごくつまらないものと感じていた。
32系や60系を体験できなかったのは今でも残念だと思う。
逆に、全部72系のはずなのに、どいつもこいつも顔の違う、
おまけに103系高運車体まである仙石線の方が余程カオスに見えたっけなぁ……。 >>382
まだまだ旧型電車が大量に残っていた時代に7500の更新改造が始まった頃が一番のピークだったように思います。 >>411
定期ミッドナイト時代は所定3両にお座敷2両、自由席車両にはキハ56が付いてた
ノンストップ時期(後は新札幌停車)は所定3両のみで途中駅停車時期は上記の編成になった
他に北海道夜行では、急行まりも時代に増結自由席に指定席用ドリームカーが入った時あった
まりもは急行も特急時代も所定自由席は1両しかなかったが、増結される日の方が多かった気する
記憶にあるのは、平成2年年末で自由席3両+指定席4両(内1両はノーマル14系だった)+寝台車3両の10両編成
同時期の利尻は自由席1両と寝台車1両の増結、大雪は自由席1両のみ増結で、はまなすは所定編成のみだったから、まりも利用者が一番多かったのかな? 50.3で登場した日本海1号(下り)。
青森までの長距離をロネ、ハネ、シも連結せず
14系ハザ12連のみで、17時台に大阪を出発。
西日が射し込む無客の車内に旅立ちの興奮は無く
けだるさが漂っていた。 鉄道雑誌に載ってるミッドナイト増結はバラエティー豊かでほんとに楽しかった
>>411
くつろぎモナー 今考えたら
シュプール14系×4+(12系ロザ2+14系ハザ1)+(14系ハザ2+12系ロザ1)
の「三階建ムーンライト」もたいがい。普通につなげれるのに何か違和感があったw ダイヤが乱れたとはいえ
特急はとに急行明星の編成が使うとは・・・ >>406
ブレーキは一括で制御可能だったが加速時の総括制御が出来ずそれぞれに運転手が乗って無線で連絡を取り合いながら運転していたとか。
ドア扱いもそれぞれの編成に車掌が乗ってやっていた。
初日の出のときの銚子電鉄みたいだな。 カオスといえば阪和線の103N40の中に未改造のが1両だけ入った4両編成。
空いてる時はなぜか一般客も未改造を避けていたw 1988年頃に乗った急行まりもの増結にオハネ14(自由席)
寝台としては使わないようにとのアナウンスが流れ
下段、上段に3人ずつ着席。下段に座っていると目の前には
足がぶら下がっている状態ww
自分は通路側の補助席(?)で釧路まで乗った
なんか子供の遠足みたいだなぁ。
さすがにそれは見たことないが、「津軽」が20系に置き換えられて座席車が激減した時、
あまりの大混雑で急遽寝台車2〜3両を座席扱いにしたことがあった。
その時は“早い者勝ち”で寝台上段を“ゴロンとシート”にしていた客もいたけどね。
車掌も上段には上らないように注意していたけど、通路まで一杯の状況ではお手上げだった。
一度郡山から乗ろうとしたら、「自由席は大混雑しています。お乗りになれない場合もあります」
なんていう駅のアナウンスがあるくらい酷いものだった。
確か3ヶ月くらいで季節臨の「おが」に使用していた14系座席車編成と交換したのは有名な話だ。 >>431
57・11・15の話だな。翌年の7月に14液化されてる。 1988年9月の雨の朝
いつものように小田急町田駅の下りホームに上がってビックリ。
小田原<4000×3><4000×3><8000(?)×4>新宿
既に運用から外れたと思っていた吊掛4000と、8000らしき冷房車が編成を組んでいた・・・
当時は話題にもならなかったが、20年の歳月を経て真相が判明。
今ではwikiにも載ってるけどね・・・ >>433
wikiに詳細の記述がないが、総括協調運転はできたのだろうか? >>434
ブレーキはどちらもHSC系、制御回路も電連の芯線さえ合わせてあれば、とりあえず動かすことは出来るはず。
もちろん性能差は如何ともし難いが、当時の朝ラッシュの上りは1時間29本の超過密ダイヤ。
当然スピードも出せないから、ある程度の特性差は何とかなったんじゃないか?
ダイヤ乱れにより運転された
小田急線の臨時電車が
引退間近の9000形 4両編成だった
相模大野AM1:30発藤沢行きっだたはず 中学校の修学旅行のとき、多分「さんべ」だったとおもいます。
今となっては、車両が足りなかったのかどうか解らんが
デッキなし車両が来たときには、なんとも言えん気持ちでした。 >>438
自分も見ました。新大久保駅でした。
その直後、背後の西武線を2連の臨時電車が走ってゆきました。
興奮しました。 山陰線の客レの最後尾に後藤入出場のDCが連結されてた。あの時代はメモをよく使ったもんだ。 昔の国鉄特急・急行電車には「回送(簡易)運転台」なるものが装備されているものがあった。
サロ165やサシ581などで、妻面に前照灯や尾灯が装備されていた。
東京メトロの6000系にも同様なものがあるが、その使用目的は、
車両基地構内で長編成を入換える場合に使用されたとあるが、実際に使われていたのを見たことがなかった。
規定であの妻面を出して本線を運転することは出来ないんだろうが、一度あの前照灯を灯したところを見たかったな。 >>442
近鉄モ1650型にも切妻にライトと簡易運転台が付いていたよ。 >>442
あの簡易運転台、ワンハンドルマスコンなんだよな。
ブレーキ弁に逆転ハンドルが付いてて、ブレーキ緩め位置より奥に動かすと力行になる。
国鉄も妙なところに新技術を使うなと思った。 >>442
アーバンライナーにもそれらしきものがありましたな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています