ポール集電時代の、叡電・嵐電を語ろう
レトロ調ではなく、「デナ」「モボ」といった独得な形式を名乗る
本物のレトロ電車が永らく活躍し、昭和50年代までポール集電を
採用し続け、駅員や乗務員の制服はこれまた懐かしい詰襟。
うらぶれた雰囲気があった一部のターミナル駅以外は全て無人駅、
車内では車掌がカバンをぶら下げて切符を発売。
もちろん、冷房車なんか皆無。叡電のごく一部の車両以外はすべて吊掛車。
そんな、京都市内にありながらローカルムードに溢れていた、
「あの頃の」叡電や嵐電を語りませんか?
>>115
どうも嵐山駅を間借りしていただけで、乗り入れ自体は行っていなかったっぽい。 嵐電も叡電も、すっかり近代化されたな。
あの旧型車のニス塗りの車内が懐かしい。 出町柳駅の古びた券売機で黄色い紙にインクで印字されたきっぷを買い、改札口を抜け、
好ましい落ち着いた塗装の旧型電車に揺られ、ニス塗りの車内で癒されながら洛北へ向かう…
詰め襟の制服に身を包んだ車掌がカバンをぶら下げ、ハサミをカチカチさせながら切符を売る…
あの独特の風情がたまらなかった。 叡電の記号、デオ、デナの「オ」「ナ」はそれぞれ「大型」「中型(なかがた)」の頭文字に由来してると何かの本で読んだが
だとすると小型車は「デコ」だったのだろうか。
元阪神車のデナ500などは一般的な感覚だと既に小型車なんだが・・・ そういえば小さい頃、自宅の場所やよく行く行き先の関係から滅多に乗れない叡電に出町柳から乗った時、
ちょうど次発の電車がちょうどその頃引退間近なデナ500の二両編成で、これ乗りたい!って言ったんだけど、
親か祖父母のどちらかだったか忘れたが、理由を解ってもらえなくて、先発の違う電車に乗ってしまったことを
思い出した。
あれがデナ500に乗れる最初で最後のチャンスだったんだよなぁ…
その後、叡電で通学するようになったんで、デナ20型以降はこれ以外全て乗ったし、車内の様子はありありと
思い出せるだけにデナ500型の車内の様子とか、運転台の様子とか未だに知りたくて気になって気になって…
西院車庫横の保育園に通ってた、遠足は当然嵐山。秋の嵐山で団栗拾いに満足した一行は復路のク200型貸切で西院駅に向かった。 西院駅到着直前に俺の嵐山で拾い集めた団栗の入った袋が破れ車内にぶちまけた、泣きながら拾ってたら、なんと運転手さんも一緒に団栗を拾ってくれた。以上ポール時代の話です。
ク201懐かしいな。
運転台がない方の表情に何とも言えない味わいがあった。 嵐電の旧型車が1両も残っていないのが残念ですな。
運転席部分だけ切断して嵐山駅に置いてあったのに、それもなくなってしまった。
叡電のデナも、辛うじて鞍馬にカットボディがあるだけ。
時代の流れとはいえ、寂しい事だ。 個人的には叡電には21など優美なスタイルの車があって興味も持てたのだが
嵐電は111を見てもそれほど魅力感じないんだよなあ〜 そら、昔の叡電言うたら電気が暗うてなあ。
デナ21なんて確か扇風機もあらへんかった。
宝が池のポイント亘る時は車掌はんがポールの紐を操作しはって
外れん様にするんえ。
マイクもおへんよって、そらもう大きな声で「次はぁ元田中〜〜」言うてね。
風情おましたんえ。 あの頃は二軒茶屋なんて寂しい駅で、折り返しの電車もそうそう
無かったんやろか。
方向板も出町に鞍馬、あとは修学院に岩倉、二軒茶屋くらいで、あとは
八瀬遊園どす。
十一月になって鴨川の橋の上から北山がくっきり見える頃になると
そらもぅ寒うて、日の落ちるのがはよなると電車も寒うてね。
あの頃はまだ京阪が三条までどす。
蹴上から三条まで京津電車が大威張りでそこのけ言うてね。
あの頃の叡電はよろしおしたなあ。 ポール時代、鞍馬行きの切符で八瀬遊園行きの電車に乗って宝ヶ池で乗り換えしようとしたら車掌にえらく怒られた、出町柳で目的地行きの電車に乗るのが沿線住民の常識だったんだ。
>>131〜133氏が語っておられる時代の叡電に乗ってみたかったですな。
私が物心ついた時はもうパンタグラフになってましたから。
ま、それでもデナ21、デオ200、300あたりには良く乗りましたけどね。
“京福電鉄叡山線”って呼ばれてた時代が懐かしいですなぁ。 嵐電北野線は昭和50年前後でも4種踏切が多く
子供の飛び出しも珍しくなかったとか。
いくら低速の軌道線電車でも急には止まれませんものね。
小学校に入学した最初の授業で、
先生から横断歩道と踏切の渡り方を何度も教えられたのを覚えてます。 四条大宮出てすぐの小さい踏切まで4種→1種化してるから、多分残ってなさそう。 北野線の高雄口駅の駅名板って、確か「たかをぐち」と表記されていたような…
今は宇多野駅になったけど。 昔、出町柳から叡電に乗り、岩倉で下車したら車掌が集札に来た。
出町柳の券売機で買った黄色い紙の切符を渡したら、その車掌はすぐに切符を豪快にベリベリっと破って黒いカバンに入れたなぁ。
あんな切符の“回収”をされた事は後にも先にもあの時だけだな。 叡電も嵐電も、すっかり車両がキレイになったなぁ。
俺が小さい頃(昭和50年代)冷房車なんて1両もなかったし、高性能車も叡電のデオ300くらいだったしな。 何でポールって外れないのか、そればかり眺めていた頃があったっけ。
いきなり電車が現れて豪快な吊り掛けの音をさせて消え去る。
良い時代でした・・・・・・・・・
「つぎはぁ宝が池 宝が池 八瀬方面はお乗り換え」
マイクも無かったからね。 デオ300って期待されたほど俊足じゃなかったんだよね。
というか周りが釣掛車ばかりだから意味なかったんだけど 叡電ではないが、カルダン車が出始めの頃は、
スピードが出過ぎて運転士達からは却って嫌がられていた(怖がられていた)
というエピソードを聞いたことがあります。
利用者からすると、長年の叡電ファンである父がいうには
登場時のデオ300はそれはそれは綺麗で静かで乗り心地がよくて、
当時京都市電にも700や900が新製投入されていましたが、これらよりも
評判の良い車だったそうです。 >>144
デオは別にスピードアップを期待して導入した車じゃないよ。 >>141
>切符を豪快にベリベリっと破って黒いカバンに入れた
昔の、ワンマンになる市電の車掌もそうやっていたのでは?
二度売り?の不正行為はしませんよ、という決意表明かと。 嵐電のあの紫色はありえへんわ。
電動貨車も紫になるのか? >>141
京福以外でも軌道系の車掌は切符を破る人よく見かけたな
客の下車時に現金を収受して、あとからその分の切符を切って即回収箱に入れたり 嵐電は昔は塗装の色褪せが激しかった気がするけど、気のせい?? デナに乗れなかったのが心残り。2両だから晩年はラッシュ時しか出てこなかったよね。
大阪から一乗寺の有名眼鏡店(今でもあるかな?)へ何度か行ってたけど
夕方に一度だけ見たが鞍馬行&出た直後だったから待ってまでは諦めた。
それが最後になった。薄暮に消えてゆく管球の車内が忘れられない。 概算鋏をカチカチ鳴らしながら回ったり切ったりするのは環境的には水間で現役。
ただ車掌さんによると思う。自分の水鉄訪問時はそういう車掌だった。 宮松師だったか高松師だったか、関西の軌道は蒐集のためだといっても
余計には売ってくれなかったと書いておられた。
俺もワンマンになる前の嵐電で断られたが、有人駅で申し出てくれと車掌に言われ
駅で無効印を押してもらって使用済みの切符を入手した。 嵐電沿線に住んでたんだが、検査入場とか関係なく一斉に塗り替えしてたな、五月くらいに。40年前のはなしやけど。 昔の帷子ノ辻駅の写真って、どこかにあらへんやろか?
ジャスコや厚生会ができる前の。 叡電の運転士さんでもまだ鋏持ってるひといるね。
こないだ土日の昼間に車掌さんから買ったわ 関西私鉄の概算鋏(国鉄用語?)はバネが入っていないんですよね >>159
構内(ホームや車両など)の風景ならレイルvol.17 >>161
どういうこと?
買った切符ってのは、何? 今でも宝ヶ池までは平日6分40秒感覚、休日7分30秒間隔だよ
そうしないとバスや地下鉄に対抗できないけど
叡電区間、乗継割引の対象を市原まで広げてもいいと思う
京阪区間も七条か東福寺まで
それなら鞍馬・貴船への観光客からの収入を維持できるし >>166
あほか
買った券の内容を訊いとんじゃ
現行で発売時に鋏が必要な券種なんてあるのか? >>166
ふーん、相変わらず下らない無差別大量絨毯爆撃カキコしてるんだね。元気でなによりだ。
話は変わるけど、
神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em
まあ、こっちに座れよ。薩摩白波のヤクルト割りでも奢るよ。一杯呑んで落ち着くんだ。 >>167
もうその間隔になって長いけど、これがたとえば15分隔になったりしたら途端に苦情が出るだろうなあ。
しかも単行か2連でしょ。輸送単位が小さいのに頻発だものね
ローカルで毎時4本運転と言えばかなり多いと思う。 叡電〜京都バスの通しきっぷ、
割引になっていたの、
記憶している人、いる? デナ200の最晩年に乗ったかな
まだ当時は吊り駆け車は普通に走っていたが
この形式は矢鱈と五月蝿かったことを覚えている。 >>172
これは素直に称賛して良いと思う
フリークエンシーの確保こそ鉄道の生き残る唯一の道 >>141 >>147
>切符を豪快にベリベリっと破って
嵐電や叡電じゃなくて、京都市電(スレチでスマソ)での体験談なんだが、
俺が小学校一年生の頃の話
それまでは幼稚園だったので、市電に乗る時は親と一緒でタダだったのだが
小学1年になって、はじめて親が買ってくれた切符を俺に持たせてくれた。
だがしかし、
「降りる時に切符を渡す」というシステムを知らなかったので
切符を持ったまま(集札されずに)下車してしまった。
電停に降りて、俺が切符を持ったままなのを、親が気づいた時には、市電は発車した後だった。
誰かが「もう1回使えるなw」と言った。
この時、子供心にも「不正乗車はダメだ!」という正義感が湧き
切符をグチャグチャに破り捨ててしまった。
スレチ長文スマソ >>176
そうだよ。
ともに、おけいはんの仲間。 >>175
利益を確保するためには経費を抑える必要があるが、
フリークエント運転はもろに逆行しない? フリークエンシーを維持しないとバスに流れちゃうからね。しょうがないね。 昔からの疑問だが、方向板は縦長長方形に起点終点を並記してるタイプと、
円形に終点だけを記載してるタイプがあったと思うが、使い分けの基準ってどうなんでしょ >>184
当方52歳、小2より百万遍住み
おぼろげな記憶では
円形は鞍馬線系統
角形は「出町柳⇔八瀬遊園」で、裏は「修学院」だっと思ふ >>2>>185
京阪2624・2818「ふっ・・・お主らもまだまだよのう・・・」 そういや京阪京津線も1970年代までポール集電が残ってたな >>186
生身の人間と車輌とを同列比較はあかんやろw 小学生の頃に阪神からここに行った831を見たが、
修学院車庫にたくさんたむろしてたので驚いたのを覚えてる
コロタン文庫の本を見たら10両も入ってたんだね >>185
百万遍にお住まいですか
羨ましいです。 茶山に親戚が住んでたので子供の頃ポール時代に間に合った。デナ300は格好良かったな。俺は嵐電沿線に住んでてモボ301のナメクジみたいなスタイルと違って輝いて見えた。 どうもモボという記号がモーホーに見えてしまうんだな
すまん独り言だ >>190
左京やんw
中京で七代くらい住んでないと京都人の末席にすら入られへんのやろ? 裾回りがスッキリしてるモボ301,101こそ
素敵なスタイルだと感じたよ
デオ300は平凡。 車内放送施設が無いから、車掌が車内回って駅名を伝えてた 叡電の思い出
まだデナ21が元気だったころ、子ども会で八瀬へキャンプに行くときに引率のリーダー人が鉄ちゃんで
デナ21の窓の上隅のRは手作業で研削してできてるみたいな説明をしていて
そのまま信じ込んでいた。それがでたらめだと分かったのはかなり後になってからだった 子供に嘘を教えたら駄目じゃん
今なら教育委員会に通報して処分食らうだろな 子供会のキャンプでそんなニッチな話やっててたのか
うらやましーぞ このスレまだあったのか
>>201です
叡電の思い出2
1995年、出町柳でエコモーショントレインのデビューセレモニーの見学に行った時、
デザイナーの女性のスピーチを通訳する人がアガってたのか噛みまくってた
どこかの大学の学生さんがバイトでもしてたのかな
見てていたたまれなくなった
この年1月に阪神大震災があって改札には
復興のための募金箱がまだ置いてあったな 正式な名前を忘れたが洛北観光大使みたいなのの任命式やら、
やたらとイベント、セレモニーを打ち上げてた時代
京阪と繋がって客が激増して経営的に今が攻め時と考えてたのだろう >>201
窓の木枠の話だろ?サッシ化後に木製時代の話をしてるのがおかしいだけで
木枠のアールは人間が切り出すわけだから、それほど間違ってなくね? >>209
売り上げが倍増してもそれまでの溜まりに溜まった赤字を解消するには程遠かったから京阪の軍門に下ることになったが
じゃあいったいどれほどの赤字を溜めつづけてたかって話になるよな
行政は、叡電がなくなっても市バスで吸収できると考えてたふしが、1990年代まであった
いつやめるか、廃止するのか、と傍観 沿線のあの辺りってバスの使い勝手が良くない
だから電車が残ってくれてありがたい いやいや、電車と競合するルートを走らせる方が無駄と非難されるからに決まってる
それを冷遇とは言わん
全体最適を選択した結果だ