ポール集電時代の、叡電・嵐電を語ろう
レトロ調ではなく、「デナ」「モボ」といった独得な形式を名乗る
本物のレトロ電車が永らく活躍し、昭和50年代までポール集電を
採用し続け、駅員や乗務員の制服はこれまた懐かしい詰襟。
うらぶれた雰囲気があった一部のターミナル駅以外は全て無人駅、
車内では車掌がカバンをぶら下げて切符を発売。
もちろん、冷房車なんか皆無。叡電のごく一部の車両以外はすべて吊掛車。
そんな、京都市内にありながらローカルムードに溢れていた、
「あの頃の」叡電や嵐電を語りませんか?
嵯峨駅前で降りて国鉄嵯峨駅を探し回った思い出、
また、高雄口駅を降りて周山街道を高雄まで延々とキョリを歩かさせれた思い出
駅の改名は必然であった >>218
前者は同意だが、後者の「○○口」ってのは、特に京都では
「○○へ向かう入口」程度の意味だから、近道ですよ的なニュアンスは無いからね。 ポール集電時代の食堂車・ビュッフェ・カフェテリアを語ろう
ビール電車的なのってポール集電の頃にあったんだろうか? >>218
貴殿は地下鉄鞍馬口駅で下車して鞍馬山まで行こうとするに違いないw 北野線等持院が知らぬ間に改称されて長名日本一になり、また知らぬ間に日本一から陥落していたとは 長駅名日本一みたいなくだらないことに血道をあげるよりも先にやることあるやろ >>222
等持院か竜安寺のあたりに雀荘があって店主のおばあちゃんがメチャ強かった >>218
今は良くなってるが20年ほど前には案内板の一つもなく地図を持たずに勘で歩くとトンデモないことになった >>226
等持院
今でこそ案内表示があるが1985年頃にはまだなかった
駅を降りても周りはただの民家ばかりで本当にここで下車して良いのか
一瞬だけ不安になったw 低速運転でポール集電でも不都合なかったから。
切り替えたのは、在庫の払底ではなかろうか。
知らんけどw >>232
どっかで見覚えあるトラムやな、と思ったら
乗り越えクロスのあるトラムじゃん。
tp://photos.wikimapia.org/p/00/00/18/00/16_big.jpg
SEPTA Trolley Crossing でググったら動画見れるよ。 らんでんのイントネーションが変わったのかな。
らの次の「ん」でアクセントを上げる人が多いし、「ら」を上げる人もいる。
平板に、あるいは僅かに二つの「ん」を下げるイントネーションだったけど。 乗務員にとっては難物だったらしいよ
いつ外れるかヒヤヒヤものだ 叡電嵐電は詰め襟の制服じゃない?
集電装置は関心なかった >>236
ホイールは外れやすいけど晩年はスライダーでしょ 20年ぶりに北野白梅町駅に降り立ったらあまりの変わりように驚き >>240
白梅町イズミヤができた時以来の大変貌か
駅北側のCD屋、串焼き屋、パチンコ屋は… >>240
建て替え前は道路と線路の仕切りの窓は夏になると駅員が一々開け閉めしていたが建て付けが悪くてものすごい音をたてていた
晩年はそれさえもやらなくなり風通しが良くなくて蒸し風呂みたいになっていた まあ駅冷房なんか地下鉄ぐらいしかやってないからなあ
風通しが良くなかったのか >>242
喫茶店もなかったかなあ?
店から駅員さんに出前のカレーライスとかサンドウィッチ等が届けられていた >>243
その道路は片側一車線でとても狭いのに市バスの通り道になっていた
稀に白梅町を発車する帷子ノ辻行きとバスが競争になることがあった バスはすぐに交通信号があるから競争にならないでしょ