東山線、名城(現名港)線の頃までは、地下鉄駅は電停(バス停)2つに1駅みたいな不文律?が原則守られていた。
例外は名古屋〜伏見、池下〜覚王山〜本山、矢場町〜上前津くらい。
覚王山は日泰寺への利便性を考えればあの場所しかないし(それでも東側出口はかなり末盛寄りにある)、矢場町は当初予定になかったものを松坂屋が作らせた(何しろその30年以上前に東京で上野広小路駅を作らせた実績がある)もの。
それを考えるとその昔は愛電のターミナルでもあった柳橋を、あの時点(昭和32年)でスルーしたのは英断というか謎でもある。