【市電】名古屋市交通局【地下鉄/トロバス】
藤ヶ丘(敢えて当時表記)開通当初、少なくとも上社開業以前は星ヶ丘ゆきと藤ヶ丘ゆきが交互に出ていたような記憶がある。
>>265
中村公園→高畑延伸まで日中若しくはラッシュ時?でも星ヶ丘行きなかった?
紺色に黄字表記。 >>128
1825の所有宅は私も知ってますが、訪問したら見学可なのでしょうか?
今日、久々に前を通ったけど相変わらずひっそりとおいてありました。
思わずその後とある図書館に行き「名古屋市電物語」を読んできました。 >>259
確か一般民間人のおばちゃんが廃止後の名古屋市電を買って
個人で所有してたのを管理しきれなくなって10年後
神主さんにお祓いしてもらった後解体するところから始まる番組だよね
一色線が名四国道渡る画面が出たり興味深かったな >>265
昭和50年代も星ヶ丘行きと交互だった記憶があります。 >>264
確かに。1本乗り遅れると14分の待ちはきつかった。でも土休日は10
分ヘッドなので、大して変わってないといえばそうかもしれないかな。
まあ昔は4両編成だったから、輸送力は向上してるかもしれないけど。
そういえば8両編成化を見越してホームも長いし、3000系は形式番号
がとんでいたのに、実現前に全車廃車になりそうだな。 先日名城工場(車庫)跡地を工場の門越しに見てきました。
ご承知の通り更地になっていますが、建物が存在した時代には見ることが出来なかった本線からくる3箇所のトンネル開口部が
はっきり見えました。
一番右側の開口部には保線車両が見えましたが開口部から本線まで線路が存在してるのかな?
この工場は敷地内が見えないためにホント謎が多かったですね!?
そういえば、以前大晦日終夜運転のときに市役所止まりもが存在したと思いますが、
名城工場引込み線から本線に入線待ちする列車を本線走行中の列車から見た記憶が・・・。
間違いでしたらスイマセン。
市電について・・。
全廃直前の頃、各線日中は何分間隔だったのでしょうか?
また下之一色線のダイヤも教えて下さい。
全廃の頃、大久手〜安田車庫間利用客はどうだったのだろう? 名古屋市電は鉄道ファンに現在でも人気があるので関連する書籍が100冊以上出版されていて
これからも本として同じ事が書かれる予定です。
しかも開業時からの全従業員の名称や給与関係 プライベートな事
定期検査の詳細の工程等部内秘的な事まで記載されております。
それは昭和40年以前に廃止された民鉄 市電 国鉄車輌 箱根登山鉄道 江ノ電に共通
する事で昭和37年に廃止された草軽交通 S52年廃止の尾小屋鉄道は関連する書籍が
50冊以上あります
又それと比格してここ20年間で廃止された民鉄 現役の中小私鉄の過去車輌は書籍であまり紹介
された事はありません 不公平すぎます
現在の鉄道愛好者は昭和40年以前の鉄道特に昭和30年代 sl 廃止された市電 国鉄車輌と最近の
新車の事しか目が無く昭和50年代の鉄道特に大手中小民鉄の事には写真集や書籍も殆どありません
不平等すぎます
>>271
左回りの列車で市役所到着直前で最後部から見ると、開口部まで
線路が続いているようですね。
市役所止まりの列車も以前はありましたが最近は見ませんね。
車庫への引込み線を引き上げ線代わりに使っていました。
引込み線から本線へ出る電車は自分は見たことはありませんが、
早朝なら見ることが出来たかも?
現在は同じ光景がナゴヤドーム前・矢田駅で見ることが出来ます。 これほど意味不明の文章を読む羽目になったのは久しぶりだw 現役の市バスの車内で
昔の急行型車両と
同じ匂いがするのがある
どんな匂いか言葉で説明はできないが… ↑
書き込みミス
亀レスだけど、名城線の1000系はブレーキのエア音にも特徴があったな。
終点で運転士がブレーキハンドルを抜き取った時の『パキュ〜ン!!』という大きな音が忘れられない。 >>278
あれは非常ブレーキの音。名鉄の6000系でも似たような音がする。
まぁ、最近の電気指令式ブレーキでは音がしなくなってしまったが。 >>279
ご教示サンクス。
夏場は窓から入ってくるカビ臭く生温い風。
『♪ピンポンポ〜ン 次は〜港区役所〜』という車内アナウンスも反響する走行音に書き消されてしまう。
今と比べたら快適とはほど遠い乗り心地だったけど良い思い出だな。 まいどー ごりよー ありがとーございます。
まもなくー 2ばんホームにー でんしゃがまいります。
はくせんまでー さがってー おまちねがいます。
>>265-266
亀ゴメソ。
「藤ヶ丘」開業当初は概ね4本中3本が星ヶ丘止まり。
星ヶ丘以東はラッシュ時8分毎、日中16分毎。
まだ5両編成と4両編成が半々だった時代。
名港線開業の頃から徐々に藤ヶ丘直通の割合が増したが
高畑開業の前日まで3本中1本位の割で星ヶ丘止まりがあった。 名古屋市電(3部コラム)大阪市電(2部コラム)山陽電軌、阪神電鉄国道線 昭和30年代の国鉄車輌(題名は不明)
根室拓殖鉄道、花巻電鉄、淡路交通をネコ・パブリッシングのRMライブラリーで書籍として、近いうちに
確実に出版して販売されます楽しみにしていて下さい。かなり触れられていない面も書かれる見たいです。
これらの鉄道は前にも、他の鉄道関係の出版社から数十冊以上、出されたはず
これはただの書き写しで著作の侵害じゃない?編集に関わっていない人の名前を出して!! >>281
25年近く前の記憶だけど、名城線で今で言う発メロに『ボォーーー』という電子音を使ってたような希ガス。
市内在住ではないので乗車機会は少なかったけど、どなたか憶えてる方いますか? お待たせしました、浄心ゆきー 間もなく発車します。
扉がー閉まりますからー、ご注意願います。
『ボォーーー』
ジリリリリリリン
次ぎはー いりなかー いりなかー >>286
名城線が大曽根止まりだったころ、
「お待たせしました、まもなく発射します。」
「ポォーーーーーーッ」
「扉にご注意願います。次は平安通り、平安通り」
と、案内が流れていましたね。 ↑思いっきり誤字しているwww
発射→発車
平安通り→平安通 黄電1000系の運転台には、箱型の大きな速度計が付いていて萌えた。
ATCの信号現示に従い、速度計の周りが緑→黄→赤と点灯する仕組みで、他に類を見ないタイプ。
かぶりつきに立って、遮光幕の隙間から運転席を覗き見ていた、消防の頃の思い出。 >>291
少し違う。
緑(65)→黄(45)→オレンジ(25)→赤(0)
の四段階でした。(これは今の2000系でも同じ)
ベルの音も「カン」ではなくて、「チィリリン」でした。 自分もかぶりついて見てたな
っつか、それより、イスに右足上げて足立てて運転してた横着な運転士がいた。あれには子供心にもビックリしたな 市電末期の記憶しかありませんが、系統表示板に「臨」か「臨時」というのが
よくあったように思います。これはダイヤにはない列すを臨時で出していたというのでしょうか? >>295
そのとおりではないかな?
普通の鉄道車両なら増結で対応できるが、路面電車では
それが出来ないので臨時運転で対応したのでは? ネコパブリッシング株ュ刊のRMラブラリーで名古屋市電を127号128号
で紹介するみたいです。尚125号126号は大阪市電で123号〜124号は
この本特有のマンネリの昭和30年代の国鉄車両だそうです。 >>297
>125号126号は大阪市電で
49で大阪市電やってるのにまたなんて、信じられないな。 298様 私の後輩が携帯電話から直接メールで聞いた事なので、不明瞭な事なので
何卒ご了承ください。又名古屋市電はRMラブラリーで必ず紹介する事はほぼ確実だそうです。
他に廃止された市電や昭和40年代以前の旧国鉄車両も全て紹介するみたいだと、後輩は話していました。 4号線金山ー新瑞橋が開業する前(名古屋港までは開業後)の
金山駅や鶴舞線開業前の伏見駅はどのような構造だったんですか?
金山駅は4号線用のホームはなくて名古屋港方面用の中の2線だけで
栄え方面からの列車の半分は金山折り返しでしたか?
伏見駅は新栄町みたいに、東山縁ホ−ムのすぐそばに改札があったんんですか?
そして鶴舞線工事のさいに、出口の付け替えもあるような大工事をやったんでしょうか? 昔 金山駅の北の方に右手に分かれる引き込上げ線があったと思うのですが?
あれは何処に繋がってたんでしょうか?
昭和の終わりぐらいには無くなってたんで >>299氏
執筆はどなたですか?
それにより中身の品質に差がでますんで…
>>300氏
私も4号線開通前の金山ホームの構造を知りたいス
あと伏見はまさしく新栄町みたいなホームに改札のスタイルでしたよ
今でも地上への階段跡が東山線ホームの鶴舞線乗換通路脇に4箇所残っています
今の東山線の伏見駅は地上へ出たいのに何度か階段を下がらなければならなく不便です >>302
>299は釣りだから信じるな。
RMライブラリースレ他で微妙に異なる類似内容を投下して回っている。 伏見の肛門科へ行くのに余計な階段の昇り降りはつらいっす
乗車して座れば座ったでry >>302
伏見駅の場合、新栄町のような構造から、改札口を外へ移動し、
さらに地上出口との通路も作り変える、とやったんですか? >>305
鶴舞線開通の時に現在の位置に改札口を移転しました
鶴舞線ホームは片側だけ使用(今の赤池方面)で
反対側のホームは照明が消されてとにかく薄暗かったです >>306
地上出口への通路も作り変えた(遠回りに)んですか? >>307
伏見の地上出入口は確かに鶴舞線ができて不便になったよ
東山線改札から発車間際の電車にダッシュで駆け込む光景は
伏見ならではだね
>>307
伏見駅1番出口の案内図や市交通のHPの
災害発生時の当駅の避難経路図
http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/subway/station_map/fushimi/fushimi-h-h.gif
http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/subway/station_map/fushimi/fushimi-t-h.gif
を見ると旧出口の痕跡があります。
それを見ると1番出口は旧出口に近いところに新設したか鶴舞線開業時に改装したのかな?
あと、名ちゃり借りて大須に行くついでに現地を見てきましたが、
交差点の対面のNO1排気口?あたりにも出口があったみたいです。
他は道路工事やらで地上からの痕跡は確認できませんでした。
小さいころの記憶で申し訳ないのですが 小学生の遠足の時は黄電から
今の鶴舞線連絡口あたりにホームとツライチの改札が見えてた覚えがあります。
駅裏住民なんでぶっちゃけ伏見駅は鶴舞線開業するまで利用しなかったなー
>>312
昔は栄行きの改札口から1番出口に直接つながり、
名古屋方面改札からは排気口付近に出口、というわけでしょうか?
>>313
高速度鉄道建設史という本に開業当時の駅の図面があったような?
丸の内の資料センターで調べて見れば? 豊橋のモ3102、外観は変わってしまったけど、
次回塗替時に名古屋市電のカラーにならないかな?
ttp://www.toyotetsu.com/shiden/train.shtml >>316
昔の豊鉄も市電に似た色だったのにね
市民(orマニア)が100万くらい集めてカンパすれば・・・ 3200に続いてリバイバルカラーってことでなんとかならないかな。
それ以前に3102がいつまで走り続けるかが問題かもしれんが・・・ 地下鉄東山線の西柳町交差点地下の未成駅、とりあえずホームの構体だけは予め
路線開業時に造っておいてあるらしい。
しかし乍ら、未開業のまま50余年、結局は幻で終ってしまうのだろうか…。
ここは駅間距離も長いし、中間に駅があってもよさそうな気もするが。 >>316
本日、仕事で豊橋に行った際に3102が運動公園前系統で営業運転してたので、
車を岩田運動公園に止めて駅前まで往復乗車してきた。
東田付近で写真撮ってる人もいたけど3102ってどれくらいの割合で営業運転に
入ってるのか教えて下さいな?
豊橋へは仕事で月1ぐらいの割合で行くけど前にも3102が営業運転に入っていたのを見たなぁ。
しかし、いつ廃車になってもおかしくないけど名市電リバイバルカラーにしたらホントうれしいし、
名古屋から乗りに行く人もかなりいると思うから収支up出来ると思う。
ウチの父チャン、水主町〜舟方まで名市電で通勤してたケド、3102がリバイバルカラーに
なったら絶対乗りに行くって言ってた。 >321
行頭が少しずつズレてってるの気づいてます? 市電全線廃止の前に西町工場への路線は廃止されていますが、
最終廃止後の車両処理はそこではなくどこでやったんですか?
西町工場への線は安田車庫への線のように最後まで残した
方がよさそうなのに、なぜ全廃の前に廃止されたんですか? たった1か月じゃん
それでしのげる
というか
そのためにわざわざ2月時点まで残していたんでしょ 当初は2月で全廃予定だったが、最後まで残った区間は
3月まで延長した、と新聞記事で読んだような気がする。 >>326
そもそもは地下鉄4号線(懐かしい響き)の金山から新瑞橋の開業に
合わせて市バス再編と市電全廃を48年の年末にする予定だったけど、
開業が遅れて年度末まで生き延びたようだ >>320
あくまで噂だけど、現行の防災基準を満たせなくなってしまったので
このままでの開業はむずかしい、とかいう話を見たような気がする。
なにが悪いのかはよくわからんが。 >328
それはあり得るな。
開業時の規格だと、通路幅とか非常口とかで引っかかると
言われてもうなずける。 >>320>>328-329
へぇー‥‥あの辺の地下を掘り返したら駅(?)が出てくるんだ‥‥知らなかったorz
確かに名駅〜伏見って都心部の割には駅間が長いなぁとは思ったけど。
>>314さんの言う“建設史”みたいな本は鶴舞の図書館にも置いてあるはずだから
今度暇なときに調べてみよう。 ちなみに一応名鉄にはなってしまうんだが、
上飯田〜味鋺にも新駅準備がしてあったりする。
シールドトンネルのセグメントが鉄製になっていて、
コンクリ製の通常のものと比べると解体が容易だとか。 >>332
そういえば、新線開業の何年か前に『瀬古駅、上飯田連絡線開通と同時に復活』
と、中日新聞が勇み足報道したんだよなw 東山線、名城(現名港)線の頃までは、地下鉄駅は電停(バス停)2つに1駅みたいな不文律?が原則守られていた。
例外は名古屋〜伏見、池下〜覚王山〜本山、矢場町〜上前津くらい。
覚王山は日泰寺への利便性を考えればあの場所しかないし(それでも東側出口はかなり末盛寄りにある)、矢場町は当初予定になかったものを松坂屋が作らせた(何しろその30年以上前に東京で上野広小路駅を作らせた実績がある)もの。
それを考えるとその昔は愛電のターミナルでもあった柳橋を、あの時点(昭和32年)でスルーしたのは英断というか謎でもある。 覚王山は「末盛通駅」を作れって住民がゴネた結果、あの場所なんだっけ? >>335
ゴネたのは覚王山の住民。名市交としては当初から末盛に駅を造るつもりだった。 >>334
柳橋は名岐のターミナル。愛電は神宮前。
幻の東山線柳橋駅も謎だが、漏れは、押切町から新名古屋にターミナルを
移した時に、名市交は押切〜東枇杷島の路線を市電の路線として譲り受け
しなかったことの方が謎だな。線路も繋がっているんだから、ホームを低
くする改良ぐらいで済んだだろうに。 南方の工場群への路線延伸が大事だっから
そんな余裕はなかったんじゃない?
千早とか市役所のレール剥がして使ったくらいだから
地下鉄の廃工場って全国的にも珍しいんだけど、
名古屋も二箇所あるのか
よいね
東京は都営の一箇所くらいしかないかもな 千早って国鉄中央線とダイヤモンドクロスだったんですか?
それとも立体交差? >>340
立体交差
今の高架ができたのは昭和37年
(当時の“広報なごや”一面に真新しい高架橋上を走るD51の牽く
客レの写真が掲載されている)
それ以前は盛土だったらしい >>341
「名古屋を走って77年」に戦時中に廃止になった矢場町から来る市電と、
千早から古井ノ坂通って大久手に抜ける新三河鉄道線の間に踏切があって
そこで乗り換えるような写真を見たが、あれは中央線が地上走ってるから
線路が分断されているかと思ったのけど、違ってるのかな?
>>342
私も「名古屋を走って77年」の写真は覚えています。
「鉄道写真記録集 鉄道青春時代 中央線」に載っている昭和8年中央本線各駅配線略図並線路縦断面図」を見ると、千早は第一種踏切になっていて、立体交差ではないようです。 たぶん寸断じゃないのかな
この矢場町〜千早〜大久手の路線はマニアの間でも忘れられた存在だよね
77年、オレもうろ覚え
D51かなボケボケの写真だったよね? >>344
矢場町から千早までは戦後若宮大通ができたお陰で全く痕跡ないよね
北側の車線が恐らく電車通りの跡だと思うが
>345
その文脈で「おかげで」を使うのは、文法上おかしい。 >>340
以下の地図でも中央線の線路のところで切れている。
ttp://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/txu-oclc-6542365-ne.jpg
>348
なかなか興味深い地図ですね。
金山が中央西線と東海道線でデルタになっていたり、
市電の千種駅前に入る枝線があったりして。 >>348
これは初見だわ、どこで見つけたのかな?
今池・大久手間はトローリーバスと市電がラップしてたんだね
墓地まで引き込みあるね
これの南部版?は堀田止まりじゃなくて笠寺まで路線あったりして笑えた 追記
墓地への引き込みは八事交差点じゃなくて
そのやや北側というのが通説だけどこの地図はそうなってないね
あと今池もつながってないような記載だね >348
戦後間もない米軍作成の地図ですなあ。守山は瀬戸街道以外田畑ばっか。千種区東部〜名東区は山ばっか。 >352
どうかな?
八熊通から西進路線は幻の路線として有名だけど…
そういえば市電50年史?で桜本町を東西に走る路線が計画線として載ってたから
堀田からの南進は有り得るかもしれないね
ちなみにそれによると、老松あたりも19号に移設の計画となってた
>355
「名古屋市交通局50年史(かな?)」は実家にあり、よく読んでいました。
でも、「桜本町を東西に走る路線が計画線」は記憶にないです・・・ orz。
堀田からの南進は、名鉄との平面交差(当時)もあり難しかったのではないでしょうか?
そういえば、この平面交差に近い線形を利用して名古屋市電の車両を、豊橋鉄道に譲渡する際に利用したという
のを読んだ記憶があるのですが、ソースは不明です・・・
>>353
八事近辺の住人です。
この地図を信じるとすれば、確かにその通りですね。
スマソ、途中送信orz
>>353
八事近辺の住人です。
この地図を信じるとすれば、確かにその通りですね。
八事のターミナルがあったのは八事西方の細い道に沿って入った所でしたから、
この当時は道路上に八事電停があったのでしょうか。
また、八事のターミナルが出来たのはいつでしょうか。
八事のターミナルは道路から入った所で、その先50mほど線路が延びており、
やや堀割状の行き止まりになっていました。大正時代の地図では、道路から
引き込まれた八事駅からそのまま伸び、八事交差点のやや北側から再び道路に
合流して、石屋と名城大学薬学部との間の道を北へ上がり、十字路のあたりまで
線路が延びていたものと思われます。今でも線路の終点とおぼしき場所は、
いくらか平坦になっています。 つづき
八事の交差点北は、多分コンビニのあるあたりを通っていました。
今見ると多少無理があるような気がしますが、不可能ではありません。
また八事交差点から東は、ほとんど道路上(多分歩道あたり)を通って
いたのではないでしょうか。今石屋が建ち並ぶ裏はすぐガケになっており、
線路を通したとは思えません。
以上、現地を歩いて確認しています。
長々失礼申し候。 オレも全く同じ認識です
道路上に移設したのはかなり後年だと思いましたが。
今のパン屋?のところにあった停留所は
そのまた前には晩年と同じ道路上にあったってことなのでしょうかねぇ
たぶん地図の方が違うと思うけど・・・ 八事終点が飯田街道から外れていたのは、新三河鉄道の頃から
路線免許を持ってた挙母(豊田)までの計画線と軌道線の分岐
点にするつもりだったのではと妄想してみる。
廃止になった岐阜の忠節駅のような感じで
>>361
妄想としては最高ですね。夢が拡がりますwww
現実としては 、今の分水嶺あたりから植田村までの勾配が結構きついのではないかと。
まあその先、植田・平針からどこを通るか、
和合〜三好、または浅田〜蟹甲〜三本木から山を越えるか。
どちらにしても決して豊かではない村々でしたから、
電車にする程では無かったろうし、蒸気機関車では勾配がきつい。
案外貨物輸送の需要のほうが有りそうだが、今度は名古屋市内が困るか。
やはり実現が無理なルートだったんかなぁ・・・ 今日、用事があって環状線(県道ね)の大江交差点を越えて西へ向かって
名鉄をオーバークロスして思ったんだけど
あそこの陸橋は市電の軌道部分だけ先に造って
あとから両側の道路部分を追加したのかな?
そんなような、キリコミ?があった。