【市電】名古屋市交通局【地下鉄/トロバス】
>>179
ありがとう!これで長年のナゾが解けたよ
時期によって違ってたのね
矢田町出身の父親が「矢田本通商店街の入口(軽急便爆破事件が起きたビルの前)
にあった」と言ってたが、廃止直前の頃の写真を見ると今のメッツ寄りにあるよう
しにか確認できなかったので。
>>178
住居表示変更前は18丁目まであったけど、11丁目から18丁目は
三菱電機と専売公社の工場敷地だった
ちなみに専売公社引込線跡が残ってたJTの社宅一帯が現在取り壊し中
あんなところにドームができるなんてあの当時全く想像もしなかったな。
さしずめ矢田町15丁目→ナゴヤドーム前というところか。(多分瑞穂運動場前よりは距離的に近い) >>180
大江の南にあった「昭和町」もそうですね。 >>180
金山橋 安田車庫前モナー
駅というより電停
全廃直前まで残った船方も 市電全廃まで約3年の間に当時残ってたすべての路線に乗ったけど
それ以前に廃止になっていた下之一色線と今池から星ヶ丘までの広小路線
、鶴舞公園から上飯田まで向かう電車と名古屋港まで行く電車に乗れなかったのは
なんとも心残りではあるな。 >>184
確かに全廃時は終着駅だったが、安田車庫前は八事までの路線があったし、
金山橋は大津町まで路線がありました。船方は熱田駅〜築地口間の途中駅に
日比野からの路線との合流駅。だから全盛期はすべて途中駅でした。 交通局の資料をみると市電には路線名があるんだよね
循環東線とか笠寺線とか中村線とか廊内線とか
有名な下之一色線も下之一色以南は築地線になってる
実際まだ営業していた頃はお客さんの間でも路線名で
呼ばれることはあったのでしょうか?
うちのオヤジもいまだに地下鉄鶴舞線の事を「八事線」と呼ぶんでw >>186
金山橋の電停は最後まで残ってたからよく覚えてるな。
廃止になる1年前くらいに電車が正面上にある行先表示をグルグル回すのを興味深く見てたら
名古屋港だの栄だの上飯田だの瑞穂運動場だの出て面白かった。
金山橋から沢上町行きの電車が出てた理由が最後までわからなかったけど
あれは大津町までの路線があったころの名残だろうな。 >>188
おそらく沢上車庫への回送運用を営業運転したと思われ。
このような例は秩父通→浄心(車庫)行きなどで見られました。 レトロ電車館の黄電の床の色が現役時と違う
今はグレーだが以前赤色でなかったか?
確か名城線1000形まで
それ以降の車両は確かにグレーだった 下之一色線は廃止が全廃の時期まで延びていたら
都電荒川線みたいに残ったかもしれないね。 >>191
ネタなのかなぁ?
で、マジレスすると、難しいのでは?
@ ほとんど単線(稲永町―築地口以外)
A 尾頭橋―長良本町間の道幅の狭さ、特に長良橋―長良本町間
(今は当時より道幅が広がっているはず)
B 築地口以外、地下鉄との接続が無い。市バスとの接続では中途半端。
(路線として根無し草となる。専用軌道部分だけ残したら更に悲惨)
C 稲永町―築地口間で、荒子川の橋梁部分(もう少し長い部分かも知れない)が専用軌道、
ここで交通量の多い道路を横切る形となる。
D 絶対的な客の少なさ
E 下之一色車庫で全検?
ただ、残ってほしかったという思いは、今でもある。
金山―尾頭橋―長良本町―あおなみ荒子―一色大橋(下之一色改称)―惟信高校―あおなみ稲永―築地口
妄想スマソ
>>190
赤色っと言うよりレンガ色?のような感じでしたね。
いつ頃変わったのか思い出せないが、変わったときは
「あれっ?」と思いました。 >>190>>193
藤ヶ丘車庫で保管中の時はまだ床はレンガ色だったよ
展示にあたり整備の時に300形と同じグレーで床を
引きなおした 名四国道建設の時点では下之一色線は残す気があったんじゃないかな。立体交差を作った。
西町の局工場と接点があることが条件だけどね。名古屋市としては中央線から南側は地下鉄の整備が遅れるので残す気があったようだ。 平成8年頃に転勤で藤が丘車庫の前のマンションに住んでたよ。
たぶん、200系の末期かな?片開き扉と、行先看板に感動した。
もっとも、網棚が無いのと、車幅が狭いのには閉口した。
朝のラッシュは300系か、何系だっけ?改造車みたいな平妻に乗るのが
好きだった。夏場は非冷房が嫌われて空いてたし。トンネル内も、妙な
カビ臭さを気にしなけりゃ、案外涼しかったな。5000系?はクーラーが
弱くて網棚が入り口付近だけだったので、嫌いだったな。5500系?
は新型って気がして良かったな。
ある日、藤が丘車庫の置物だった100系が車庫内で動いてるのを見て、
感動した。何かに牽引されてた記憶があるのだが、あれは何だったんだろう。 >>196
100形は昭和60年の廃車後、中間車を抜いて107−108の2両組成で牽引車みたいな事をやっていました。
(後に329−330に変更)
一回塗替をやっていて真っ白の下地状態になったのをご覧になっていませんか?
その後車庫奥に留置の日々が続きましたが、レトロ電車館に展示のため塗装庫へ。
ピカピカになって引き出す時は工場のアントで入換をしました。
私も関係者でしたがその場で久しぶりに動く(牽引だけど)のをみて感動しましたよ。確か夕方でした。 下之一色の車庫跡の事務所の木造庁舎って随分あとまで
残ってたよね?昭和の終わりぐらいに見た覚えがある >>197
107-108のあとは300形で牽引車やってたんですか。
使われてた 329−330はもう残ってないんですか? >>197
私が名古屋に行った時には、すでに片隅に放置されてた時期で、下地状態は
見ていないです。
藤が丘車庫の北東隅になるのかな?いつも置いてあった場所から、南側の
2本伸びてる線の手前ぐらいに移動していて、「何なんだ?ついに、
スクラップか?」と思って見ていました。平日に会社を休んで、通院した
帰りだったのを覚えています。(10−11時頃かな?)
しばらく、「動け、動け」と思いながら見ていたら、動いて感動しました。
ただ、アントみたいなのでなく、平べったい板が自走するのが、引いていた
記憶があります。
そういえば、今頃の時期に車庫の玄関の横にある大木に、、とんでもない
数のヒヨドリ?がとまってました。ヒッチコックの鳥を思わせるものが
ありました。
>195
名四立体交差の工事は、国費負担が主で市交負担が少なければ、廃止を考えてても改築したと思うよ。
三河海線の高架化して間なしに廃止、という実例が身近かにあるじゃないですか。 >>199
329-330はこれも琴電に譲渡のはずだったが残念ながら解体された
最後は330の方は壊れて329が330を引っ張りつつ牽引していた
解体前に中学生が社会見学に工場を訪れたのかボディにたくさん
落書きされたのが痛々しかった
ちなみに300の履いていた台車が一組だけ残されている
>>200
>アントみたいなのでなく、平べったい板が自走するのが、引いていた
多分それが藤ヶ丘工場のアントです
本来は小移動のためのものであれだけ長距離移動させるためのものでなく…
日進工場みたいな機関車があればよいのですが 操車の信号塔も耐震補強ができず使用中止になった
あの研修所自身もやがて懐かしくなる日がくる
そういやあ藤ヶ丘に鳩やら雀やらカラスやら“鳥”はやたら多いな >>201
それを考えると、名岐バイパスの犠牲になった名鉄一宮線は、浮か
ばれないなぁ。もともと複線だったんだから仮線用地も必要なかっ
ただろうに。
相手は同じ建設省なのに、名四国道と名岐バイパスで、大きく結論
が違うことになるんだよね。それを考えると、大井川鉄道の井川線
なんか水没しても廃止じゃなくて付け替えになるなんて、ますます
理解できんよね。 「国費負担が主」と書いてあるでしょ。たとえ数パーセントでも余計な負担がいやなら廃線の口実になる。
大井川は電力補償なんでまったく別次元の問題。 >>204
あの頃の名鉄は、とにかく不採算路線を切りたがっていたからな。
名古屋へ直通しない、また一宮も連絡しているとは言い難い路線だから、
これ幸いに廃止したのでは。
現状を見ても、また残したとしても、採算の取れる路線とは思えない。
一色電車の名四の場合は、交通量を考えると踏切ではとても捌けなかったと思はれ。
当時も交通量の多かった国道1号線は立体交差(アンダーパス)。
逆に交通量が少なかった東海通は確か踏切。
>>170-171
あの着物姿の(当時)お姉ちゃんって鉄道友の会会員の“女鉄”だと聞きましたが…ホントですか? >>205
電力補償?
それは中部電力による井川線の建設経緯のことでは?
たぶん、>>204の言うのは建設省の長島ダム建設に伴うアプト式
の付替路線のことではないかな。名岐バイパスも名四国道も長
島ダムも、同じ建設省の公共事業が原因なんだから、同列の比
較がしたかったんじゃないかな。
皆の衆スレの趣旨から脱線してるぞw
脱線といえば稲永町で西稲永行きがポイント通過中に
後ろの台車だけ下之一色方面に切り替わってしまって
明後日の方向に向いたけど営業所から応援呼ぶ前に
通りかかったトラックに牽引してもらって復旧した
という武勇伝を市電OBさんから聞いたなあ >>208
井川線は廃止にしたくても中電と地元との協定上、できない。
廃止できないものを比較対象に含めることは無理でしょ。 脱線の話が出たついでに。
市電800型は軽量だったために脱線しやすかったそうだ。
ベテラン運転士だと脱線しかかった時に発する独特の音が分かる
らしいので、その音がしたらすぐ停車し、ノッチを逆にして線路上
に戻したそうだ。
落ち葉のシーズンにイチョウの枯葉を踏んでしまい
今池の交差点を赤信号だというのに滑走して横断
生きた心地がせんかったという話も聞いたな 自由が丘3丁目の交差点にある、店じまいしたと思われる
お店の看板が明らかに電停柱なんだけど、長い間使われていないようだ
頼んだら譲ってくれないかなぁ >>213
確かにあるね。ただ、コンクリートでしっかり固定されているし、
かなり朽ち果てている。無理に取り外そうとすると破壊するかも。 >>213
伏屋のバス通り沿いの市電の隣の解体?屋にも
確かいくつかあったぞ電停 301編成の中間車349号車って車側灯2つですか?
市電全廃直前の運行パターンはどうでしたか?
金山発は昭和町まで行ってたでしょうか?
安田車庫行きは矢田町四丁目発でしたか? どなたか300形の301の画像持ってる方いませんか〜? >>217
21系統が金山橋〜昭和町、60系統が矢田町四〜安田車庫前
63系統が矢田町四〜新瑞橋、61系統が今池〜昭和町、
31系統が金山橋〜港東通、51系統が市立大学病院(桜山)〜船方
以上が最後まで残った系統です。 厳密に言うと、沢上車庫扱いの21番と51番は2月に廃止
になってるんじゃない?
3月30日時点の最後の系統図ってどの本にも載ってないよね >>220
失礼、そのとおりですね。21系統と51系統は一足先に廃止になった。
自分がカキコしたのは昭和47年3月の系統図からです。
前月の2月に名古屋駅付近の路線が廃止となり、一気に寂しくなって
しまいました。 安田通りのコンクリート舗装が残ってる辺りに
まだレールが埋まっているような気がするのは私だけでしょうか >>222
コンクリート舗装という点だけでアウト。
で、安田車庫跡地・・・・・
いや、何でもない。 >>222
車庫の跡地はほとんどが名古屋市の建造物に様変わりしてますな。
交通局関連になったのは池下くらいしか思い浮かばないが >>224
大久手が局の電気通信事務所になっとるよ
>>223
沢上車庫のようにまるまる車庫ピットが埋まっとるかも?
港車庫撤去がつくづく残念本当はレトロ電車館にふさわしかった 今でも、大津通りを南北に走るのは21系統なのは名残ですか? 瑞穂通りから瑞穂運動場前までゆく路線も結構最後まで残ってたな。
ほとんど使われてなかったみたいで線路もさびてたけど
電停もあったからなんか子供心にもったいないとおもったよ。
>>227
あの路線は「瑞穂運動場引込み線」と言って、愛知国体が開かれた
ときに観客輸送のために敷かれたんですよね。国体後は小学校連合
運動会等で年に一度くらいしか使用されませんでした。 >>227
最期というと74年3月31日だが、それより少なくとも2年前には撤去されたと思う。
また、電停なんてなかったが。 >>230
子供の頃、昭和40年代前半くらいに
瑞穂運動場前の電停がおぼろげながら見たような記憶
だが間違いかな? 名古屋港の電停は覚えてるな。
小学校の社会見学で名古屋港行ったときに
名古屋港の電停みてああこんなところまで
市電がきてるんだと思ったよ。
小学校低学年で母親に連れられて松坂屋へ買い物へ行った帰りに
矢場町から市電に乗ったら超満員で寿司ツメでまったく身動きがとれず
視界がさえぎられた覚えがある。 運動場に電停はないよ。
どっかと取り違えて記憶しているんじゃないのかな。
オレは近所に住んでいたからよく覚えているよ。
それから市電の線路は基本的に軌道敷なら廃止になっても錆びないよ
自動車のタイヤが磨いてくれるからね。 >>233
>それから市電の線路は基本的に軌道敷なら廃止になっても錆びないよ
俺もウチの前市電走ってたから廃止後も見てるけど色は変わってゆくな
あれが錆びというかどうかは知らないが
昭和46年頃下之一色線の廃線跡を歩いたけど
荒子あたりに専用軌道の残骸が残ってて線路も鉄柱もかなり
錆びていた。 赤サビは出ないけど、黒く変色していく
これが黒サビかどうかは、よくわからん レールの踏面(銀色に光っている)部分は一晩でうっすら錆が浮く
廃止後何ヶ月も放置されたら見事に赤錆が浮くよ
さらに何十年放置されるとレール自体が酸化?してこげ茶色に変色
しかし切断すると中はきれいな銀色のまま レールの踏面(銀色の部分)は一晩経つだけでうっすら錆がうく
廃止になった後は見事に赤錆がうくよ
これが何十年も放置されると酸化?するのか黒っぽく変色
でも切断すると中はきれいな銀色のまま あらら二重カキコごめん
でも荒子のあたり廃止後しばらく放置されていた情報は収穫 実際に見て言ってるの?
>236
だいたい軌道敷と言ってるしょ
専用軌道が1日で錆びるのは当たり前
>237
だから
電車運行本数よりン倍多い自動車が磨いてくれるんだよね
しかもご丁寧にゴムでもって。
黒川あたりや東部循環線は架線のみ取り払って暫く放置されたレールを
リアルで見ていたからさ、覚えている。
最近では岐阜市内線が良い例だね。 >>240
うちは環状線沿いだったが早朝夜間は今より走る車はずっと少なかった
だから交差点以外でわざわざ軌道の上を走る車なんかいなかったけど?
市電があった頃は分離帯がなく信号でない場所でも簡単に歩いて渡れたけどな
もちろん始発前の線路も見ているが確かにうっすら錆は出ていたよ
ただ電停前だったから車が走らなかったのかも知れないが 瑞穂通の線路跡は結構赤くさびてたぞ
おれ沿線に住んでたから毎日見てたからわかる >>239
長良本町を過ぎて小本から荒子の例の民家の道に
入る手前まで結構断続的に跡が放置してあった。
荒子電停跡のシキシマパンの店の前の道路に短い線路跡を
見つけた時は感激したな >242
話しの意味がわからないのだが…
始発前に錆びが浮くのは夜間に列車が走らなければ新幹線だって浮くでしょう…
年に1度くらいしか使われなかった運動場引込線の線路が
「ほとんど使われてなかったみたいで線路もさびてたけど」
これに対してレスしたのだが
>243
質問
瑞穂通の軌道は74年3月廃止後どのような変化をたどりましたか?
オレの部屋は2階で窓は環状線に面しているよ >始発前に錆びが浮くのは夜間に列車が走らなければ新幹線だって浮くでしょう…
雨が降らなきゃ、見た目で判断できるほどのサビは発生しないよ やけに錆の発生について粘着しておるな。。。皆の衆
まああれだなそれぞれ各自の見てきた記憶に基づいて書き込みしているから
どの話もOKでいいんじゃないの? ○か×じゃなくてさ
記憶ちがいだってあるだろうそれはやんわり訂正すりゃいいんだで
ほしたら知識が身について勉強になるんだで 錆ですか〜
名鉄岐阜市内線のJR岐阜-新岐阜が運休になったあと見に行ったけどレールは光り輝いていました。
名古屋市電は錆びるもなにも、すぐ剥がしたか埋めたのでは? 幼心に広小路線の撤去工事を思い出します。
稲葉地へいってた路線って
なにかの古地図で大門あたりで北へ向かって直角に上がっていたんだけど
ほんとかなぁ
誰か知らない? 名鉄(の前身)が柳橋まで市電に乗り入れていたとき、
運賃とかはどう精算していたんですか?名鉄車両が名古屋市内で乗せた
分は名鉄の収入でしたか? >>250
中村電気軌道?時代は中村公園の大鳥居から北に曲がって豊国神社の前まで
来とったらしいぞ。あの大鳥居をくぐっていたのか柱を避けて軌道がしかれて
おったのか気にはなるが。あとオーモンと聞いて北に曲がるのは俺の息子だなw 大門というか中村日赤に昔の地下鉄方向板を飾った模型屋さんなかったっけ? 昔は近くに早川模型があった
地下鉄方向板を飾っていたかは覚えてない >>254
もう今は早川模型ってないんですか?
早川模型以外にもっと日赤よりのところにも模型店があったような・・・
方向幕はあったかわからないけど。 ダイエー鳴子店にもしばらく市電が置いてあったけど車番わかりますか?
たしかこちらも1400シリーズだと思いましたが?
ありえないけど市電復活して欲しいなぁ。何年か前にZIPのニュースで
広小路線復活構想があると某DJが言ってたけど・・・。 昭和60年前後にNHKで放送された「緒方アナウンサーのいってきます」と言う
番組で名古屋市電をテーマにした番組知りませんか?
もう一度見たいし、さすがに「You Tube」にでもなかったなぁ。
因みに名光ツーリストや小牧の電車ラーメン、伏屋住宅等車体が残っている所へ
訪問したり、もちろん廃線前の映像も流れたけど。
廃線10年後のS59年の放送かも。 鶴舞線の赤池延伸後も日中に「八事」行きがあったと思います。確か浄心延伸まで存在したかな?
どのくらいの割合で「八事」止まりがあったか教えてください。
車内及び駅の構内放送は「御器所方面八事行き」だったと思います。
また、八事着後はどうしてたのでしょうか?
そのままポイントへ進入して2番線で折り返したのか、一旦八事留置線へ引き上げてたのか・・。
>259
たぶんこのPCデスクの下の箱の中の奥底にあるわそれ。
名四国道を渡る光景もあったな。 >259
覚えてる!例の市内某所1825車所有宅へも行ったネ!
NHKアーカイブスみたいなもので是非再放送して欲しいな。
>>260
八事、赤池、豊田市の順番で来てたので、3本に1本が八事止まりだった。
(当時は昼間7分ヘッドだった記憶がある)
そのまま2番線へ進入して折り返してた。その頃、原に住んでたので、
八事止まりだとがっかりだったけど、空いていたので大抵座れた記憶がある。 豊田市延伸前は、八事ゆき、赤池ゆきが交互に出ていました、
ですから赤池ゆきは14分間隔。
八事止まりは2番線に着いてそのまま伏見ゆき折り返し。
(今の最終八事止まりみたく)
八事−赤池開通の少し前から、電車は八事止まりでも1番線に着いて客を降ろし、
回送で赤池方面に走っていった記憶があります。 藤ヶ丘(敢えて当時表記)開通当初、少なくとも上社開業以前は星ヶ丘ゆきと藤ヶ丘ゆきが交互に出ていたような記憶がある。
>>265
中村公園→高畑延伸まで日中若しくはラッシュ時?でも星ヶ丘行きなかった?
紺色に黄字表記。 >>128
1825の所有宅は私も知ってますが、訪問したら見学可なのでしょうか?
今日、久々に前を通ったけど相変わらずひっそりとおいてありました。
思わずその後とある図書館に行き「名古屋市電物語」を読んできました。 >>259
確か一般民間人のおばちゃんが廃止後の名古屋市電を買って
個人で所有してたのを管理しきれなくなって10年後
神主さんにお祓いしてもらった後解体するところから始まる番組だよね
一色線が名四国道渡る画面が出たり興味深かったな >>265
昭和50年代も星ヶ丘行きと交互だった記憶があります。 >>264
確かに。1本乗り遅れると14分の待ちはきつかった。でも土休日は10
分ヘッドなので、大して変わってないといえばそうかもしれないかな。
まあ昔は4両編成だったから、輸送力は向上してるかもしれないけど。
そういえば8両編成化を見越してホームも長いし、3000系は形式番号
がとんでいたのに、実現前に全車廃車になりそうだな。 先日名城工場(車庫)跡地を工場の門越しに見てきました。
ご承知の通り更地になっていますが、建物が存在した時代には見ることが出来なかった本線からくる3箇所のトンネル開口部が
はっきり見えました。
一番右側の開口部には保線車両が見えましたが開口部から本線まで線路が存在してるのかな?
この工場は敷地内が見えないためにホント謎が多かったですね!?
そういえば、以前大晦日終夜運転のときに市役所止まりもが存在したと思いますが、
名城工場引込み線から本線に入線待ちする列車を本線走行中の列車から見た記憶が・・・。
間違いでしたらスイマセン。
市電について・・。
全廃直前の頃、各線日中は何分間隔だったのでしょうか?
また下之一色線のダイヤも教えて下さい。
全廃の頃、大久手〜安田車庫間利用客はどうだったのだろう? 名古屋市電は鉄道ファンに現在でも人気があるので関連する書籍が100冊以上出版されていて
これからも本として同じ事が書かれる予定です。
しかも開業時からの全従業員の名称や給与関係 プライベートな事
定期検査の詳細の工程等部内秘的な事まで記載されております。
それは昭和40年以前に廃止された民鉄 市電 国鉄車輌 箱根登山鉄道 江ノ電に共通
する事で昭和37年に廃止された草軽交通 S52年廃止の尾小屋鉄道は関連する書籍が
50冊以上あります
又それと比格してここ20年間で廃止された民鉄 現役の中小私鉄の過去車輌は書籍であまり紹介
された事はありません 不公平すぎます
現在の鉄道愛好者は昭和40年以前の鉄道特に昭和30年代 sl 廃止された市電 国鉄車輌と最近の
新車の事しか目が無く昭和50年代の鉄道特に大手中小民鉄の事には写真集や書籍も殆どありません
不平等すぎます
>>271
左回りの列車で市役所到着直前で最後部から見ると、開口部まで
線路が続いているようですね。
市役所止まりの列車も以前はありましたが最近は見ませんね。
車庫への引込み線を引き上げ線代わりに使っていました。
引込み線から本線へ出る電車は自分は見たことはありませんが、
早朝なら見ることが出来たかも?
現在は同じ光景がナゴヤドーム前・矢田駅で見ることが出来ます。 これほど意味不明の文章を読む羽目になったのは久しぶりだw 現役の市バスの車内で
昔の急行型車両と
同じ匂いがするのがある
どんな匂いか言葉で説明はできないが… ↑
書き込みミス
亀レスだけど、名城線の1000系はブレーキのエア音にも特徴があったな。
終点で運転士がブレーキハンドルを抜き取った時の『パキュ〜ン!!』という大きな音が忘れられない。 >>278
あれは非常ブレーキの音。名鉄の6000系でも似たような音がする。
まぁ、最近の電気指令式ブレーキでは音がしなくなってしまったが。 >>279
ご教示サンクス。
夏場は窓から入ってくるカビ臭く生温い風。
『♪ピンポンポ〜ン 次は〜港区役所〜』という車内アナウンスも反響する走行音に書き消されてしまう。
今と比べたら快適とはほど遠い乗り心地だったけど良い思い出だな。