【市電】名古屋市交通局【地下鉄/トロバス】
20年くらい前、名城線が5両から6両化した時に、一時先頭車が中間に組み込まれて
3+3で走っていたのを覚えています。方向幕は黄色の板で塞がれて、ちゃんと
貫通幌も付いていましたね。2000の増備に伴い廃車となりましたが。
あと同じ時期に名城線の久屋大通駅(建設当時は東桜駅)が建設中で、当時高校生で
通学に利用してたから、日々駅が出来上がって行く様子をかぶりつきで観察
してました。開業数日前は実際に数秒一時停止して車掌が「久屋大通が開業します。
桜通線との乗換えもでかます。どうぞご利用ください。」と放送したのを覚えています。
>>148
私はHPで画像見て行ったのですが、屋根だけでも現存がわかったので感動しました。
東郷町はどのあたりにあるのでしょうか? μ鉄バス豚山バス停前裏山に
原家の特徴ある表札の門を
見つけたらビンゴ >>149
◆中間に組み込まれた1001−1002のみ
塗り替えが行われず(紫帯が茶色になっとったw)
デ博終了後引退が近いのを物語っておった
◆上前津〜東別院間に走行中デポちゃんがトンネル柱に
パラパラ漫画のように浮かぶ仕掛けがあったが速度が
あわないのかブレまくりであった
◆東桜〜名古屋までの建設中のトンネルウォークに
参加したが、名城ホーム栄寄りからの非常出口をあがると
TV塔真下に出られるのには感動した
連投スマン さて年寄りは医者にいってくる >>151
バス停前裏山とはバス停のある道の北側ですよね?
googleマップで探してみたのですが、屋根らしき物体が見えなくて・・・
上空から見えるような状態ですか? ほほ早速食いついてきましたな
確かにググルマップでは解像度がいまいちで日陰ときたもんだ
確か市電の上にトタン屋根が施してあったと思う
庭先に記憶違いでなければ1522がある筈
敬老パスでは範囲外なのでw代わりにぜひみてきてほしい >>152
1000系引退間近には方向幕が黒地ローマ字入りになって、その似合わなさ
といったら無かったですね。六番町出身で昔の名城線知る身としては、
今の名城線は隔世の感がありますね。
窓全開でゴーゴー走る黄色い1000系にもう一度会いたいなあ。 1200系の爆音CPの音も懐かしい。もう一度聞いてみたい。
しかし、なぜあんなに大きな音がしていたのかなぁ。 日陰の上にトタン屋根ですか・・・
それは分かりにくいわけですね。
しかしトタン屋根があると言うことは状態はそれほどわるくないのでしょうか? >>154
今日東郷の市電を確認してきました。現役時代とは車体の色が違っていましたが、
間違いなく1522でした。かなり痛みが目立ちましたが、何とか修復などすること
はできないのでしょうか? 東郷の市電確認乙でした
あれは車体だけ利用で台車がない状態だね
レトロ館の近所だが収納は難しいだろう
せめて欧米の鉄道博物館みたく車両のドンガラ
だけでも確保できればいいが
春日井交通公園の1638解体は勿体なかった 車体だけで台車がないんですか。集電装置が無いのは一目で分かったのですが。
確かにコンクリートの台の上でなさそうだったので、もしかしたらとは思っていましたがやはりですが・・・
今荒れてはいますが、車体は何とかなりそうだったので。
いつ頃から放置されてしまったのでしょうか? 少なくとも10年は放置されている
所有者の原さんが芸術家だったかアトリエとして
使用されていたっぽい
ずっと空き家なのでこの先いつまで残るか心配でした
古い市バスでアトリエにしたのは名芸大のリニモの
近所にまだあるね
そうそう名市バスの懐かしスレがバス板に立ったのでご案内
名古屋市営バスの歴史を語るスレ
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/bus/1244290795/ 少なくとも10年ですか。意外と空き家になって長いんですね。
バスのアトリエは芸術大学生向けとして使われているアトリエですよね?
そちらも原さんの所有なのですか? 芸大のは原さんは関係ない
ただ現在もバスアパートとして芸大生さんが
住んでいるよ バスは関係ないんですか。
それにしてもはじめてあのバスを見たときは驚きました。
原さんは今どんな活動をされているんですか? それは残念です。
いずれこのまま1522は解体撤去か崩壊でしょうか・・・ 市バス非冷房車のいちばん後ろの席って
内装の頭の高さのところがボロボロになってたな
ポマードの時代はとうの昔に終わってたはずだが
バナナボンタン 高浜にある市電の方がいつ解体撤去されてもおかしくないが
もうないかも 高浜にある市電は最近探しに行ったけど見つけられなかったな・・・
探し方が悪かったか、もう撤去された後だったのか。 昭和49年3月31日のさよなら電車乗ったぞ2回も。
無料で超満員電車だった。瑞穂通一丁目から桜山電停へ乗るのに30分もかかった。
金山橋電停で午後3時ごろだったか最終電車のセレモニーがあって交通局の役人の
あいさつの後和服のねえちゃんから運転手への花束贈呈があり、花飾りのしてある
電車に乗って蛍の光をききながら市大病院まで乗ったのを覚えている。
「ああ、もう二度と乗ることがないんだな」としみじみかみしめたもんだったな。 その和服のねえちゃんも50代半ばと考えると時の流れは残酷ですね >>172
そうですね、手ぢかの鏡を見たら、困ったそうな顔をした
しけたアラウンドフィフティのオヤヂと正面から目が合いましたよw つい数年前まで一色大橋の裏側に
一色線の架線を通していた錆びた鉄釘が
何本も並んでたけどあれってまだあるのかな? 局OBの人でトラバーサを壁面にぶつけた人はおったな
本人は怪我がなくてよかったけど現在毛がない…もう爺だでね
猪高車庫の水銀灯柱も市電の架線柱の再利用だね
那古野は再開発で無くなったまだバス車庫や公所を探せば
再活用しとる所はあるかも 東区の矢田町十丁目(現在の矢田五丁目)交差点の信号機の
電柱も地下鉄建設工事が始まる平成6年まで約20年間架線注が
使われ続けていました。
その信号機もLEDに最近交換されました。 現在なら大曽根駅前と言う名称だっただろう矢田町四丁目電停
ガイドウェイバスが大曽根からカーブした先って言えばいいのかな
その先矢田町十や十五丁目なんて子供心にどんなにでかい町なんだと思った
近所はせいぜい1〜3丁目しかなかったから
専売公社引込み線とのクロスがあった >>177
当初は中央本線のガード直前の東側あたりにありましたが、
地下鉄の市役所〜大曽根間の工事が始まったときに三菱電機
名古屋製作所の北口前(メッツ大曽根の南側あたり)へ移動した。
地下鉄工事が完了しても元の位置へ戻らずそのまま廃止されました。 矢田町4丁目って最後まで残っていた終着駅だったんですよね? >>179
ありがとう!これで長年のナゾが解けたよ
時期によって違ってたのね
矢田町出身の父親が「矢田本通商店街の入口(軽急便爆破事件が起きたビルの前)
にあった」と言ってたが、廃止直前の頃の写真を見ると今のメッツ寄りにあるよう
しにか確認できなかったので。
>>178
住居表示変更前は18丁目まであったけど、11丁目から18丁目は
三菱電機と専売公社の工場敷地だった
ちなみに専売公社引込線跡が残ってたJTの社宅一帯が現在取り壊し中
あんなところにドームができるなんてあの当時全く想像もしなかったな。
さしずめ矢田町15丁目→ナゴヤドーム前というところか。(多分瑞穂運動場前よりは距離的に近い) >>180
大江の南にあった「昭和町」もそうですね。 >>180
金山橋 安田車庫前モナー
駅というより電停
全廃直前まで残った船方も 市電全廃まで約3年の間に当時残ってたすべての路線に乗ったけど
それ以前に廃止になっていた下之一色線と今池から星ヶ丘までの広小路線
、鶴舞公園から上飯田まで向かう電車と名古屋港まで行く電車に乗れなかったのは
なんとも心残りではあるな。 >>184
確かに全廃時は終着駅だったが、安田車庫前は八事までの路線があったし、
金山橋は大津町まで路線がありました。船方は熱田駅〜築地口間の途中駅に
日比野からの路線との合流駅。だから全盛期はすべて途中駅でした。 交通局の資料をみると市電には路線名があるんだよね
循環東線とか笠寺線とか中村線とか廊内線とか
有名な下之一色線も下之一色以南は築地線になってる
実際まだ営業していた頃はお客さんの間でも路線名で
呼ばれることはあったのでしょうか?
うちのオヤジもいまだに地下鉄鶴舞線の事を「八事線」と呼ぶんでw >>186
金山橋の電停は最後まで残ってたからよく覚えてるな。
廃止になる1年前くらいに電車が正面上にある行先表示をグルグル回すのを興味深く見てたら
名古屋港だの栄だの上飯田だの瑞穂運動場だの出て面白かった。
金山橋から沢上町行きの電車が出てた理由が最後までわからなかったけど
あれは大津町までの路線があったころの名残だろうな。 >>188
おそらく沢上車庫への回送運用を営業運転したと思われ。
このような例は秩父通→浄心(車庫)行きなどで見られました。 レトロ電車館の黄電の床の色が現役時と違う
今はグレーだが以前赤色でなかったか?
確か名城線1000形まで
それ以降の車両は確かにグレーだった 下之一色線は廃止が全廃の時期まで延びていたら
都電荒川線みたいに残ったかもしれないね。 >>191
ネタなのかなぁ?
で、マジレスすると、難しいのでは?
@ ほとんど単線(稲永町―築地口以外)
A 尾頭橋―長良本町間の道幅の狭さ、特に長良橋―長良本町間
(今は当時より道幅が広がっているはず)
B 築地口以外、地下鉄との接続が無い。市バスとの接続では中途半端。
(路線として根無し草となる。専用軌道部分だけ残したら更に悲惨)
C 稲永町―築地口間で、荒子川の橋梁部分(もう少し長い部分かも知れない)が専用軌道、
ここで交通量の多い道路を横切る形となる。
D 絶対的な客の少なさ
E 下之一色車庫で全検?
ただ、残ってほしかったという思いは、今でもある。
金山―尾頭橋―長良本町―あおなみ荒子―一色大橋(下之一色改称)―惟信高校―あおなみ稲永―築地口
妄想スマソ
>>190
赤色っと言うよりレンガ色?のような感じでしたね。
いつ頃変わったのか思い出せないが、変わったときは
「あれっ?」と思いました。 >>190>>193
藤ヶ丘車庫で保管中の時はまだ床はレンガ色だったよ
展示にあたり整備の時に300形と同じグレーで床を
引きなおした 名四国道建設の時点では下之一色線は残す気があったんじゃないかな。立体交差を作った。
西町の局工場と接点があることが条件だけどね。名古屋市としては中央線から南側は地下鉄の整備が遅れるので残す気があったようだ。 平成8年頃に転勤で藤が丘車庫の前のマンションに住んでたよ。
たぶん、200系の末期かな?片開き扉と、行先看板に感動した。
もっとも、網棚が無いのと、車幅が狭いのには閉口した。
朝のラッシュは300系か、何系だっけ?改造車みたいな平妻に乗るのが
好きだった。夏場は非冷房が嫌われて空いてたし。トンネル内も、妙な
カビ臭さを気にしなけりゃ、案外涼しかったな。5000系?はクーラーが
弱くて網棚が入り口付近だけだったので、嫌いだったな。5500系?
は新型って気がして良かったな。
ある日、藤が丘車庫の置物だった100系が車庫内で動いてるのを見て、
感動した。何かに牽引されてた記憶があるのだが、あれは何だったんだろう。 >>196
100形は昭和60年の廃車後、中間車を抜いて107−108の2両組成で牽引車みたいな事をやっていました。
(後に329−330に変更)
一回塗替をやっていて真っ白の下地状態になったのをご覧になっていませんか?
その後車庫奥に留置の日々が続きましたが、レトロ電車館に展示のため塗装庫へ。
ピカピカになって引き出す時は工場のアントで入換をしました。
私も関係者でしたがその場で久しぶりに動く(牽引だけど)のをみて感動しましたよ。確か夕方でした。 下之一色の車庫跡の事務所の木造庁舎って随分あとまで
残ってたよね?昭和の終わりぐらいに見た覚えがある >>197
107-108のあとは300形で牽引車やってたんですか。
使われてた 329−330はもう残ってないんですか? >>197
私が名古屋に行った時には、すでに片隅に放置されてた時期で、下地状態は
見ていないです。
藤が丘車庫の北東隅になるのかな?いつも置いてあった場所から、南側の
2本伸びてる線の手前ぐらいに移動していて、「何なんだ?ついに、
スクラップか?」と思って見ていました。平日に会社を休んで、通院した
帰りだったのを覚えています。(10−11時頃かな?)
しばらく、「動け、動け」と思いながら見ていたら、動いて感動しました。
ただ、アントみたいなのでなく、平べったい板が自走するのが、引いていた
記憶があります。
そういえば、今頃の時期に車庫の玄関の横にある大木に、、とんでもない
数のヒヨドリ?がとまってました。ヒッチコックの鳥を思わせるものが
ありました。
>195
名四立体交差の工事は、国費負担が主で市交負担が少なければ、廃止を考えてても改築したと思うよ。
三河海線の高架化して間なしに廃止、という実例が身近かにあるじゃないですか。 >>199
329-330はこれも琴電に譲渡のはずだったが残念ながら解体された
最後は330の方は壊れて329が330を引っ張りつつ牽引していた
解体前に中学生が社会見学に工場を訪れたのかボディにたくさん
落書きされたのが痛々しかった
ちなみに300の履いていた台車が一組だけ残されている
>>200
>アントみたいなのでなく、平べったい板が自走するのが、引いていた
多分それが藤ヶ丘工場のアントです
本来は小移動のためのものであれだけ長距離移動させるためのものでなく…
日進工場みたいな機関車があればよいのですが 操車の信号塔も耐震補強ができず使用中止になった
あの研修所自身もやがて懐かしくなる日がくる
そういやあ藤ヶ丘に鳩やら雀やらカラスやら“鳥”はやたら多いな >>201
それを考えると、名岐バイパスの犠牲になった名鉄一宮線は、浮か
ばれないなぁ。もともと複線だったんだから仮線用地も必要なかっ
ただろうに。
相手は同じ建設省なのに、名四国道と名岐バイパスで、大きく結論
が違うことになるんだよね。それを考えると、大井川鉄道の井川線
なんか水没しても廃止じゃなくて付け替えになるなんて、ますます
理解できんよね。 「国費負担が主」と書いてあるでしょ。たとえ数パーセントでも余計な負担がいやなら廃線の口実になる。
大井川は電力補償なんでまったく別次元の問題。 >>204
あの頃の名鉄は、とにかく不採算路線を切りたがっていたからな。
名古屋へ直通しない、また一宮も連絡しているとは言い難い路線だから、
これ幸いに廃止したのでは。
現状を見ても、また残したとしても、採算の取れる路線とは思えない。
一色電車の名四の場合は、交通量を考えると踏切ではとても捌けなかったと思はれ。
当時も交通量の多かった国道1号線は立体交差(アンダーパス)。
逆に交通量が少なかった東海通は確か踏切。
>>170-171
あの着物姿の(当時)お姉ちゃんって鉄道友の会会員の“女鉄”だと聞きましたが…ホントですか? >>205
電力補償?
それは中部電力による井川線の建設経緯のことでは?
たぶん、>>204の言うのは建設省の長島ダム建設に伴うアプト式
の付替路線のことではないかな。名岐バイパスも名四国道も長
島ダムも、同じ建設省の公共事業が原因なんだから、同列の比
較がしたかったんじゃないかな。
皆の衆スレの趣旨から脱線してるぞw
脱線といえば稲永町で西稲永行きがポイント通過中に
後ろの台車だけ下之一色方面に切り替わってしまって
明後日の方向に向いたけど営業所から応援呼ぶ前に
通りかかったトラックに牽引してもらって復旧した
という武勇伝を市電OBさんから聞いたなあ >>208
井川線は廃止にしたくても中電と地元との協定上、できない。
廃止できないものを比較対象に含めることは無理でしょ。 脱線の話が出たついでに。
市電800型は軽量だったために脱線しやすかったそうだ。
ベテラン運転士だと脱線しかかった時に発する独特の音が分かる
らしいので、その音がしたらすぐ停車し、ノッチを逆にして線路上
に戻したそうだ。
落ち葉のシーズンにイチョウの枯葉を踏んでしまい
今池の交差点を赤信号だというのに滑走して横断
生きた心地がせんかったという話も聞いたな 自由が丘3丁目の交差点にある、店じまいしたと思われる
お店の看板が明らかに電停柱なんだけど、長い間使われていないようだ
頼んだら譲ってくれないかなぁ >>213
確かにあるね。ただ、コンクリートでしっかり固定されているし、
かなり朽ち果てている。無理に取り外そうとすると破壊するかも。 >>213
伏屋のバス通り沿いの市電の隣の解体?屋にも
確かいくつかあったぞ電停 301編成の中間車349号車って車側灯2つですか?
市電全廃直前の運行パターンはどうでしたか?
金山発は昭和町まで行ってたでしょうか?
安田車庫行きは矢田町四丁目発でしたか? どなたか300形の301の画像持ってる方いませんか〜? >>217
21系統が金山橋〜昭和町、60系統が矢田町四〜安田車庫前
63系統が矢田町四〜新瑞橋、61系統が今池〜昭和町、
31系統が金山橋〜港東通、51系統が市立大学病院(桜山)〜船方
以上が最後まで残った系統です。 厳密に言うと、沢上車庫扱いの21番と51番は2月に廃止
になってるんじゃない?
3月30日時点の最後の系統図ってどの本にも載ってないよね >>220
失礼、そのとおりですね。21系統と51系統は一足先に廃止になった。
自分がカキコしたのは昭和47年3月の系統図からです。
前月の2月に名古屋駅付近の路線が廃止となり、一気に寂しくなって
しまいました。 安田通りのコンクリート舗装が残ってる辺りに
まだレールが埋まっているような気がするのは私だけでしょうか >>222
コンクリート舗装という点だけでアウト。
で、安田車庫跡地・・・・・
いや、何でもない。 >>222
車庫の跡地はほとんどが名古屋市の建造物に様変わりしてますな。
交通局関連になったのは池下くらいしか思い浮かばないが >>224
大久手が局の電気通信事務所になっとるよ
>>223
沢上車庫のようにまるまる車庫ピットが埋まっとるかも?
港車庫撤去がつくづく残念本当はレトロ電車館にふさわしかった 今でも、大津通りを南北に走るのは21系統なのは名残ですか? 瑞穂通りから瑞穂運動場前までゆく路線も結構最後まで残ってたな。
ほとんど使われてなかったみたいで線路もさびてたけど
電停もあったからなんか子供心にもったいないとおもったよ。
>>227
あの路線は「瑞穂運動場引込み線」と言って、愛知国体が開かれた
ときに観客輸送のために敷かれたんですよね。国体後は小学校連合
運動会等で年に一度くらいしか使用されませんでした。 >>227
最期というと74年3月31日だが、それより少なくとも2年前には撤去されたと思う。
また、電停なんてなかったが。 >>230
子供の頃、昭和40年代前半くらいに
瑞穂運動場前の電停がおぼろげながら見たような記憶
だが間違いかな? 名古屋港の電停は覚えてるな。
小学校の社会見学で名古屋港行ったときに
名古屋港の電停みてああこんなところまで
市電がきてるんだと思ったよ。
小学校低学年で母親に連れられて松坂屋へ買い物へ行った帰りに
矢場町から市電に乗ったら超満員で寿司ツメでまったく身動きがとれず
視界がさえぎられた覚えがある。 運動場に電停はないよ。
どっかと取り違えて記憶しているんじゃないのかな。
オレは近所に住んでいたからよく覚えているよ。
それから市電の線路は基本的に軌道敷なら廃止になっても錆びないよ
自動車のタイヤが磨いてくれるからね。 >>233
>それから市電の線路は基本的に軌道敷なら廃止になっても錆びないよ
俺もウチの前市電走ってたから廃止後も見てるけど色は変わってゆくな
あれが錆びというかどうかは知らないが
昭和46年頃下之一色線の廃線跡を歩いたけど
荒子あたりに専用軌道の残骸が残ってて線路も鉄柱もかなり
錆びていた。 赤サビは出ないけど、黒く変色していく
これが黒サビかどうかは、よくわからん レールの踏面(銀色に光っている)部分は一晩でうっすら錆が浮く
廃止後何ヶ月も放置されたら見事に赤錆が浮くよ
さらに何十年放置されるとレール自体が酸化?してこげ茶色に変色
しかし切断すると中はきれいな銀色のまま レールの踏面(銀色の部分)は一晩経つだけでうっすら錆がうく
廃止になった後は見事に赤錆がうくよ
これが何十年も放置されると酸化?するのか黒っぽく変色
でも切断すると中はきれいな銀色のまま あらら二重カキコごめん
でも荒子のあたり廃止後しばらく放置されていた情報は収穫 実際に見て言ってるの?
>236
だいたい軌道敷と言ってるしょ
専用軌道が1日で錆びるのは当たり前
>237
だから
電車運行本数よりン倍多い自動車が磨いてくれるんだよね
しかもご丁寧にゴムでもって。
黒川あたりや東部循環線は架線のみ取り払って暫く放置されたレールを
リアルで見ていたからさ、覚えている。
最近では岐阜市内線が良い例だね。 >>240
うちは環状線沿いだったが早朝夜間は今より走る車はずっと少なかった
だから交差点以外でわざわざ軌道の上を走る車なんかいなかったけど?
市電があった頃は分離帯がなく信号でない場所でも簡単に歩いて渡れたけどな
もちろん始発前の線路も見ているが確かにうっすら錆は出ていたよ
ただ電停前だったから車が走らなかったのかも知れないが 瑞穂通の線路跡は結構赤くさびてたぞ
おれ沿線に住んでたから毎日見てたからわかる >>239
長良本町を過ぎて小本から荒子の例の民家の道に
入る手前まで結構断続的に跡が放置してあった。
荒子電停跡のシキシマパンの店の前の道路に短い線路跡を
見つけた時は感激したな >242
話しの意味がわからないのだが…
始発前に錆びが浮くのは夜間に列車が走らなければ新幹線だって浮くでしょう…
年に1度くらいしか使われなかった運動場引込線の線路が
「ほとんど使われてなかったみたいで線路もさびてたけど」
これに対してレスしたのだが
>243
質問
瑞穂通の軌道は74年3月廃止後どのような変化をたどりましたか?
オレの部屋は2階で窓は環状線に面しているよ >始発前に錆びが浮くのは夜間に列車が走らなければ新幹線だって浮くでしょう…
雨が降らなきゃ、見た目で判断できるほどのサビは発生しないよ やけに錆の発生について粘着しておるな。。。皆の衆
まああれだなそれぞれ各自の見てきた記憶に基づいて書き込みしているから
どの話もOKでいいんじゃないの? ○か×じゃなくてさ
記憶ちがいだってあるだろうそれはやんわり訂正すりゃいいんだで
ほしたら知識が身について勉強になるんだで 錆ですか〜
名鉄岐阜市内線のJR岐阜-新岐阜が運休になったあと見に行ったけどレールは光り輝いていました。
名古屋市電は錆びるもなにも、すぐ剥がしたか埋めたのでは? 幼心に広小路線の撤去工事を思い出します。