【いろんな電車の】弘南鉄道【博物館】
↑と言われても仕方ないかな 寂しいけど
もう鉄道は構造的に儲からない商売になってしまったと諦める時が来たのか 弘南鉄道はこの冬から今までのラッセル車での排雪からモーターカーでの排雪が基本だって。
本格的な冬備え排雪列車試運転/弘南鉄道(陸奥新報)
http://www.mutusinpou.co.jp/news/2021/12/68165.html
約1週間前の地元テレビ局のニュースでは大鰐線のモーターカーの試運転をやってた。
ラッセル車は今後、特に雪が多い時に補助的に使われるようになると伝えてた。 >>263
公営化までして維持しますかね?
みんな反対するだろ 先日乗った、元投球7000系は昭和38年製だった。
もうすぐ還暦ではないか。 お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳独身、元自衛官)についてご存じか。この方は神のような素晴らしい人間性を有しているので覚えていた方がよいぞ >>267
アメリカと日本のちゃんとしてる頃にガッツリこしらえたものだから問題ないんじゃないの、特に上の箱は >>269
自衛隊辞めた理由は?
いじめられたの?? ローカルで6両編成を組むのはなかなか見られない
それほどまでに客が多かったのか 元伊那電鉄のクハニを間近で見られた事が思い出
1984年平賀 荷室側が先頭になっときかぶりつきができないのが難点 >>277
荷物車が機関車の替わりだったところでは
かぶりつき自体が不可能 >>275
その車両か定かでないが極端に車高の低い電車がいた
屋根の深い元西武車と組むと大人と子供が連れ立って走ってるように見えた 昨シーズンから>>264に貼り付けられてる記事のように、モーターカーでの排雪を基本にしようとしたけど
結局、雪が多くて昨シーズン中に、これまで通りのラッセル車での除雪に戻ってしまってたな。
今シーズンもラッセル車基本の除雪体制だけど、ネット記事を見たら人員のやりくりが大変になってるようだな。
昨シーズンにモーターカー基本の除雪体制にしようとしたのは、そういう訳だったんだな。
冬の守護神「ラッセル車」社員減で車掌が兼務 電気代も圧迫 鉄路守る厳しさ弘南鉄道に聞く(乗りものニュース)
https://trafficnews.jp/post/124251 大鰐線が脱線事故で運行再開の見込みが立たない一方で
弘南線は12日(土)にはるか夢球場で開催される
イースタンリーグ公式戦に合わせて臨時列車が運行される。
中には久しぶりの4両編成で運行される便もある。
楽天vs日本ハム 弘南線増便運行 2023/8/12(弘南鉄道)
https://konantetsudo.jp/2023/08/08/rakuten-eagles2023-03/
弘南線と大鰐線は弘前市内にあるのに、繋がってないせいで
良くも悪くも全く連動してないんだな。
一体運用が出来ないのに、2路線を保有する意味が無いんだよな。
意味がないどころか弘南線のサービス維持・向上の足枷にすらなってる。 >>285
1キロくらいしか離れてないんだけでねえ 弘前電鉄を買い取った時、とてもこんにちまでもつと思わなかった
旧型電車の中でも大鰐系統は更にワンランクぼろかった
黒石線と言い、どうも損を承知で引き受けちゃうみたいだ。前社長のインタビューを読んだことがあるが 弘南鉄道開業90周年の時の地元紙の特集に、弘南鉄道の歴史と共に証言もシリーズで載ってた。
大鰐線を引き受ける時は、社内でも反発が凄くて受け入れを決めた当時の社長に向かって専務が
「電鉄(弘前電気鉄道)買って、どすんだば!」と詰め寄ってたそうだ。
国鉄の黒石線は弘南鉄道にとって最終的には赤字垂れ流しのダメ路線だったと思われてるけど
証言を聞くと初期の頃は、必ずしも弘南鉄道が一方的に不利な条件で引き受けたわけではないようだ。
国鉄から転換される路線には、転換交付金とか各種補助金が自治体経由であったから。
黒石線の譲渡を受けた頃、弘南線で貨物営業が廃止になって余剰人員が発生したけど
転換交付金のおかげで人を切らずに配置転換で済ますことが出来て、かなり助かったと証言してた。 川部から青森まで奥羽線列車に併結して直通
何て妄想もしたもんだが。 直通してくれるのはいいが速達でないと鈍行では値打ち半減 昭和39年生まれの元東急7000系がきれいに整備して使われているのに敬服する 伊那電、富士身延、阪和…
買収国電が本当に現役の営業車で取れるとは、譲渡後でも当時ですら凄いと感じていました
それに同じく元クモハ11などもいて、興奮ですね
2ドアの2250が廃車時期だったのか、ギリギリ撮れました
1981年と1982年でしたね 見た目でも相当に古い車両を多く抱えて、調達コストは安く抑えられたかもしれないが保守コストは逆に嵩んだのではないかな 元阪和モヨ100の残党を見られたのが思い出
中間に閉じこめられていて顔は拝めなかったが
側面の特徴のあるドア・窓配置は目に焼き付けられた
昭和63年の夏