【いろんな電車の】弘南鉄道【博物館】
国鉄、東急、西武、富士身延鉄道、伊那電気鉄道、阪和電気鉄道…
いろんな鉄道で生まれた電車たちが集まって、まさに「電車の博物館」だった
弘南鉄道を語りましょう。 2番 いただきました
快速運転があったころは、場内信号機に通過信号機が付設されてた。 珍しいサハ17があったけど最後にはクハ化されてた。
南海から1521を買ったが長すぎてホームに入らず連結両数減らしたとか?
今は最大何両編成なんだろう? かつて弘南線のラッシュ時には、旧型電車が堂々の6両編成で走っていて、あれは圧巻
だった。当時も今も、地方中小私鉄で他にこのような長大編成が思い浮かばない。
今は基本2連だが、ラッシュ時には4連も走るらしい。
南海の1521は弘南に入線してもほとんど動かないまま、すべて重機の餌になった模様。
「長すぎる」し、重い、今どきツリカケ駆動、ワンマン化に向かないドア配置…
と、使い物にならない要素が勢ぞろい。一体どういうつもりの買い物だったのか? 昭和59年に訪問した時、まさに旧国、東急、西武、富士身延、伊那、阪和の
電車がいて興奮した。当時国鉄から旧国は殆ど姿を消し(小野田本山、可部、
富山港、鶴見大川にはいた)夢のようなひと時で夢中でシャッターを切った。
東急3000なんかは全く眼中になかった。 難解1521って、全部潰されたの?
関西人としては寂しいなぁ。 大鰐線で窓の大きなモハ108という電車が単行運転しているのを見かけたなぁ。
京急400型の注文流れだったとか…。 >>8
旧型電車好きの間には「東の弘南、西の琴電」という言葉があった。 気動車界では「西の江若、東の常総筑波」だったな
江若は弘南が資材確保に苦労している頃、米軍輸送でだいぶいい思いしてたようだが
江若の担当者に「どうせ廃止で在庫処分だろ?」
と横柄な態度で42000買い叩かれた長門鉄道のスタッフたちが
怒って整備陣総出で、発送前にガタの来たエンジンに載せ替えてから送り出した、って湯口さんの話に
「どうせならもっと面白いコトしてからでも良かったんじゃないか」と不謹慎なこと考えた俺
開業時の弘前電鉄には三菱電機の手づるで秩父鉄道の中古がずいぶん入ったが、あれも貧乏な話だなあと >>7
>京急400型の注文流れだったとか…。
あれは京浜急行401〜410の旧車体(1947年三井造船玉野製)を西武所沢が購入し、手持ち部品と組み合わせて地方私鉄に納入した電車の一つ。
伊予鉄道モハ121〜123・クハ421、流山電鉄モハ1101が仲間 >>5
私が行ったのは、主に81年と82年。
旧30系、31系、そして張上げの50系もいました。
富士身延、伊那電、阪和も現役で本当に動いている姿みて感激です。
黒石行は3両でMcTTc、大鰐行はMcTcの2両、大鰐線に社型が集中と思いました。
当時ですら20年ほどタイムスリップした感覚。 当時の弘南だと、
4桁番号の電車が弘南の車輛で、3桁番号の電車が弘前電鉄の引継車(一部例外あり)でしたね。
1980年頃だと、東急3600の大量投入で弘南線の体質改善を行い、
玉突きで西武の車輛なんかが大鰐線に来ていた頃だったかと。
当時も東急の車両が入りかけていたため、それが来るとちょっと…、でした。
西武の電車も確かに見たと思います。
弘南以外津軽の客車にも改造の上西武の電車がいましたね。
どちらも2本/1Hで程度で、割と本数は多目。
というか奥羽本線や黒石線五能線の普通列車が少なすぎ。
石川や大鰐の普通列車の本数が信じられないほど少なかったです。 松尾の旧阪和なんて良くあの激重電車を買う気になったよなw
案の定重過ぎてDT10と85kwのMMにスペックダウンして少し軽量化、
そしたら過小出力でまともに走らなくなり哀れTc化。
富士身延、伊那電、武蔵野に小田急1450とか
東急3600ですらも間に合わなかった俺からすればテラウラヤマシス >>15
あの当時は、大鰐線に5両あった木造車を追放するという至上命題があったから
なりふり構わない状態だったのでしょう。
鋼製車が、
モハ105(鋼体化)、モハ106、107(秩父)、モハ108(京急)、 クハ201(小田急)
の5両だったんだから。
上田交通真田線から2両もらってきたなんて、正に「なりふりかまわず」だと思う。 >>16
確かに中古車放出の端境期で、出物が少なかったというのもあろうけど、
それにしてももう少しマシな物件があっただろうにw
その辺りは後年、東急6000や南海1521を掴まされる「伝統」なのか? >>17
これは完全な想像だけど、輸送費がかからない・・というのもあったんじゃないかな?
なんてったって花輪線と奥羽線の貨物列車にぶら下げれば弘前まで来るんだから。
1970年という時期がキーだな。
当時、車輛の供給基だった西武は、焼け電しか出てこなかったから、
小田急だの京王から車体を買って、機器を移植して納入していたんだし。
17m級国電じゃダメだったの?という気はたしかにするんだけどね。 >>3 サハ17から改造されたクハ17の前面は、身延線のクハ47にそっくりだったなぁ。 >>3>>19
貴重なサハ17を自社工場で改造したんだが、1980年代だというのにいかにも野暮ったい
田舎電車風の改造が、なんだか微笑ましかった。 弘前駅は、改札口が分かれていた覚えがある。
中に入ればいっしょ。国鉄の乗り場にも行けてしまう。 >>21
1981年までの旧々駅舎の時代、2004年までの旧駅舎の時代ともに、改札口を
入ると国鉄(JR)の1番ホームに出てしまい、弘南に乗るためには国鉄と共用
の跨線橋を通っていった。弘南の出札・改札口には、青の上っ張りを着た委託
のオバちゃんがいることが多かったように思う。
今は、JR・弘南は完全分離されています。念のため。 >>22
そうですか…機会があったら久しぶりに行ってみたいです。 大鰐線にクハニ1271だったと思うが荷物合造車がいた。
珍しい「私鉄の荷物車」には妙に惹かれるものを感じた。
まさか荷物室でりんごを運んでいたわけではないだろうけど…。 スレ違いなんだけど、秩父鉄道にもクハニが'80年代までいましたね。
それを言い出したらきりはないけど(北勢線とか)。 一畑には今でもデハニがいるしね。
漏れが乗れた唯一の旧型車は弘南線の1521だった。しかも弘前〜平賀までだったし 一畑のデハニ、フラグが立ってるらしいじゃないですか、
スレチだけど >>26
弘南の1521に乗ったなんてネ申じゃないですか!
漏れは1521導入後の弘南を何度か訪れたが、乗るどころか、走っている姿も
見かけなかった。
いつも平賀か黒石に留置されていて、ボロボロになり果てた姿しか知らない。 地方私鉄の荷物車なんて、ありふれていると思うけど…。
関東近辺だけでも、上信、上毛、上田、長電にいたし…。 弘南1521は格安で譲ってもらえて、その上20m車なんで乗客が増える(雪でチャリ通学の
学生や自動車通勤客が電車に乗る)冬季向けにと思ったんだけど、重いわ古いわ4ドアで
寒いわで使い物にならなかったと聞いたことが。
3600の車体新製車使い続けてたほうがまだ良かった気がしますね。 元南海の1521を話題にしているのは若い人たちかな。
我々オサーン世代が弘南と聞いて思い浮かぶのは、クリームとエンジの、地味な
ツートンカラーの電車なんだが。
大鰐線では前身の「弘前電気鉄道」時代からいる車が3桁番号、弘南鉄道に吸収
合併後入線した電車は4桁番号と別れていて、3桁番号車は元小田急のクハ201だ
とか、秩父から来たモハ105など、弘南鉄道の電車群の中ではちょっと風変わりな
ラインナップだった。