長距離・夜行各駅停車
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いまではほぼ絶滅してしまいました。
薄暗い白熱灯の中、直角のシートに身を寄せ
朝焼けを見た遠い日。
そんな長距離鈍行・夜行鈍行のスレッドです。
マタリ語りましょう。 >>243
自分が乗ったときはガラガラで、車端のロングシートに横になって爆睡できたな。
早朝の高知駅は寒かったが、接続する中村行きはグリーン車開放でこれまた天国だった。
あの頃は鈍行の旅そのものを楽しめた最後の時期だったと思う。
18切符の利用人口は当時より増えていると思うけれど、列車自体は単なる安価な移動手段になってしまった。 >>244
おお仲間よ。
俺が乗ったのは9月だったんだけど、結構寒くて眠れなくて、高知に着いたらトンボ帰りで高松行きに乗って寝てしまったよ。気が付いたら大歩危小歩危。
そういえば50系の発電機ベルトが一晩中キュルキュルいってたわ。それもあって寝不足だったのかも。
もう一度、あんな体験してみたいが、もう無理なんだろうなぁ。
今売ってるピクに、長距離夜行普通列車の特集?が・・・ >>242
そうだよ。
特急や急行など優等列車の設定が極めて限定的で
本数が少なかったことが、最大の理由だろうね。
つまり、長距離移動も普通列車が当たり前→2等車が必要。 >>247
並ロが多かったかな。
東海道だとスロ51とか特ロもあったな。 数ある二等車のなかでも
オロ30 スロ33 オロ36 オロ40
が、俺は好きだったな。 >>249
581や583等を彷彿とさせる車輛群ですな
おっと、言葉の使い方が逆かな?
581登場時に 「並ロを彷彿とさせる車輛」 って言うべきだったか PCの普通長距離にはそれこそ普通に付いてたオハネ/オハネフ12。
あまりに普通だったので撮りもしなかったのが悔やまれる。 >>252
その形式名に、12系にも寝台車があるんだと勘違いしていたガキの頃の俺・・・。 82年の時刻表が出てきたので見たら
新宿-長野の普通夜行があった
懐かしかったなぁ >>258
山男列車?の上野-長岡も残ってなかった? 札幌〜大阪間と東京〜鹿児島中央間に長距離普通列車復活!(急行でもいいけど)を妄想してみる。 >>261
その前に石北本線に全線をまともに走る各駅停車の普通列車がほしいな。 長距離列車は乞食の超低価格休憩所になるから治安のために今後も減らされる一方だな 高千穂を姫路の3番線で見た事があったんだけど、
姫路って運転停車だっけ?客扱いしてたっけ? 下りなら、まだ客扱い可能な時間に姫路を通っていたので、客扱いしている筈。
昭和47年(1972)3月に下りに乗車した。確か姫路駅に進入するとき播但線のホームにC57の牽く列車が
煙をあげていたのを見た記憶があります。 上野−長岡夜行は深夜時間帯でもほぼ各駅に停車していて、停車駅の少ない
大垣夜行と違って律儀な列車だとガキの頃思ってた
時刻表に通過のマークがあったのは俺の記憶だと
浦和、井野、上牧、岩原スキー場前、八色
急行ゆけむりが停車する上牧通過だけが謎だった 昭和57年11月14日までは宮内で米原行き客車鈍行522列車に接続して神だった そのルートで来迎寺で降りると、魚沼線乗り潰しに好都合だった >>267
駅員の勤務の関係じゃないか?
山陰地方の朝4時頃の下り列車で浜田〜益田間を全部通過する
客車普通列車も記憶にある。途中当時特急が停車しだした
三保三隅もあった。
この頃定期特急が1本でも停車して定期普通列車(含快速等)が1本でも通過する
という駅に凝っていて
三島,新大阪,神戸,西明石,青堀,佐貫町,保田などと並んで三保三隅があった。
三島は新幹線停車で上り大垣夜行が通過
新大阪,神戸,西明石は新幹線停車で新快速通過
青堀,佐貫町,保田は一部「さざなみ」停車で快速通過
三保三隅は夜行でもなく快速でもない普通列車が通過していたので印象が深い。
1980年頃のお話でした。 今となっては三保三隅も普通はおろか快速も停車する。 鎌手ー岡見ー三保三隅ー折居ー周布ー西浜田ー浜田
いまでも空んじて言える駅名(なぜか東海道〜山陽〜山陰と駅名を暗誦したんだっけ) >>258
青春18切符が出た頃ですなあ。
釧路から長崎まで夜行乗り継ぎの旅をしたのが懐かしい思い出 >>275
「からまつ」はすでになかったな
札幌から48レに乗るのか?
でも青函を夜行にしないとその先の効率が悪いな 当時は青春18のびのびきっぷだったな
どこで略したらいいか困ったもんだ なんでも4文字にしないと気がすまない4つな人ですか 券売機で売ってないから
フルネーミング言って購入って恥ずかしいよ >>279
当時は「のびのびきっぷ」って言ってたが。
窓口でも「のびのびきっぷください」で通じてたし。
逆に「青春18」って部分が気恥ずかしかった。 >>8
画面に映ってる髪がフサフサのグラサンの男は誰ですか? 62年頃まで大垣夜行の車内で「青春のびのびきっぷではグリーン車のご利用はできません」とアナウンスする車掌がいた。 青春18のびのび切符の末ページのワッペンを
胸に張るのがかっこ悪いと思った。 >>270
>この頃定期特急が1本でも停車して定期普通列車(含快速等)が1本でも通過する
>という駅に凝っていて
>1980年頃のお話でした。
季節列車(臨時列車ではない)を入れると湯河原も加わったんだよね
特急のあまぎの最終便が湯河原停車
大垣夜行上下と下りの大垣夜行の前の普通列車熱海行きが、小田原〜熱海ノンストップで湯河原通過
「ながさき」のこげ茶色の夜行鈍行にまた乗りたい
北海道ならワイドでの夜行「すずらん」より函館−札幌山回り鈍行
冷房ないから夏は地獄だったなー 混んでるとき風上側はまるで風来なくて全開にするのに
風下の奴が寒いって閉める
よく喧嘩が見られたもんだ ガキの頃に親に連れられて
長岡行き乗ったなあ〜
暗くなった車窓の街灯の流れ方が
つい最近乗ったあけぼのと同じだったなぁ
(´・ω・`) >>285
スレ違いだけど、ある年の夏に乗ったミッドナイト自由席、キハ57の非冷房車はマジで地獄だった。
まさに車内は蒸し風呂状態、あんなでも窓は開けなかったんだから、みんな余程我慢強かったんだな。
これが指定席と自由席の差とみんな思っていたのかも。 おい、キハ56だろ
夏の夜の「ミッドナイト」56自由席は
押し込み式通風器全開、扇風機フル回転、
窓は二重窓の内窓を当然上げっぱなしにして、外窓の下一段を細く開けてる客が多かった。
いつ降り出すかわからないし、騒音も激しいからな。
夏だけど、明け方は寒かったよ。
それに懲りて、以後はカーペットカーの指定席確保に努めた。
どっちにせよ、森や長万部での深夜の長時間停車に独特の風情があったな。
全車指定席シーズンには全区間ノンストップ扱い(末期は新札幌のみ停車)だったが
自由席車連結時には森、八雲、長万部、東室蘭、苫小牧、新札幌、と客扱いだったかな。
特に長く止まる森と長万部では、寝付かれない連中が三々五々とホームから改札抜けて、
コンビニもない真っ暗な駅頭で自販機の缶ジュース飲んで、
DMHエンジンのアイドリングのみをBGMに、ぼそぼそと雑談していたものだった。 >>290
深夜にもかかわらず森と長万部は窓口が空いてたな。硬券入場券を買った覚えがある。 北海道といえば41列車だな初めて北海道に渡って最初に乗ったから、印象に残ってる。夏でもSGが効いていたのが、びっくりしたな。 >>292
「摩周丸」から乗り換えた列車だったんだよね? 20年ほど前に秋田発福島行に乗車しました。確か50系の客車でしたよ。 >>290
コンビニもない真っ暗な駅頭で自販機の缶ジュース飲んで
これぐらいしかすることがなかった時代もまた楽しかったね。
たしか夜中の長時間停車で「駅前コンビニ殺到」が話題になったのは中央本線の電車鈍行あたりだったかなあ。
(「旅と鉄道」かなんかのルポでそんなのやっていたような・・・7ー11も名前のとおり23:00頃までしか
やっていなくて24時間営業がぼつぼつでだした頃かな)
夜行「ながさき」に使用していた旧客車両、廃止になって運行が終了になったすぐ直後(もしかして翌日?)、
寝台車両を除いて直ちに早岐から高知運転所へと回送。
土讃線で余生を送っていた旧客のシートの横には夜行「ながさき」時代に乗客によって書かれた落書きがそのまま残っていた…
尚、この昭和59年2月ダイヤ改正による「ながさき」廃止→四国への回送を以って、九州地区の全線区から旧客は一掃。
>>297
いつ頃まで残存?
…やっぱり、淋しいぞ!!
http://www.saboten.sakura.ne.jp/~asakaze/nagasakijyosyou.htm >>300
少なくとも昭和60年3月まではあったんじゃないか?
>>300
http://jnr1980.at.infoseek.co.jp/contents3-4-1.html
少なくとも
>この昭和59年2月ダイヤ改正による「ながさき」廃止→四国への回送を以って、九州地区の全線区から旧客は一掃。
これは違うみたいだな >>300
石川優子のふたりの愛ランドが流行っていまる時に旧客で水俣まで行きました 鉄道ジャーナル列車追跡リバイバル「懐かしの国鉄客車列車」を見ると
昭和59年5月7〜9日の九州編で
鹿児島本線125レ 鳥栖→西鹿児島
日豊本線522レ 大分→門司港
が旧型客車の運行になってるから、昭和60年3月まで残存していたのではないかな ふたりの愛ランド (1984.04.21) 作詞:チャゲ,松井五郎/作曲:チャゲ/編曲:平野孝幸 チャゲとのデュエット、JAL『沖縄キャンペーンソング』
wikipedia 石川優子より 定期本州旧客終焉の地、山陰線にいれた俺は幸せ者だったのか…。
キハ58や12系の冷房付き普通列車が単純に嬉しかったあの頃。 >>309
とてつもなく幸せ者だな。
なんせ、戦前製の客車が平成になっても平然と走る路線だったからな。
京都のド真ん中を旧型客車が走るってのも良かったな。 >>310
さすがに平成になると京都口にイベント以外旧客は入ってないよ。 >>311
京都口に限ればな。
それ以外は相変わらず旧型客車の普通列車が結構走ってた。
80年代の荷物輸送終焉までは山陰各線のヌシだった。
山陰線の客車廃止自体結構遅い時期だった。 オハニ36を一回だけ見に行った(始発駅近隣に住んでたから)のが唯一旧客を意識して見た
経験でしたね。昭和60年か61年頃。あの頃夏になると駅寝してる人の目的も旧客だったのかな
と気付いたのは相当後年でした。汽車通学してたからいつも不思議な目で見てた。 >>312
おいおい
>京都のド真ん中を旧型客車が走るってのも良かったな。
って書いといて
>京都口に限ればな。
ってどういうことだよ 乗った旧客が全て蛍光灯に更新された車だった俺は、このスレでは若者ですか?
キハ22なら白熱灯車に乗ったことあります←S58夏 米子・福知山機関区のヌシだったDD51と、
8両程度の旧型客車。
オール未更新の旧客で走ってた日もあれば、
更新43系が多かった日やら。
43系は特急向けだけあって、乗り心地は良かった。
824レには旧客が一番似合うけど、
12系近郊化車両でも824レ運行して欲しかったな。 末期の頃だけど北陸線の普通で急行用に整備されたオハ46なんかにあたったらラッキーだったな、フカフカでシートで背もたれのまん中にモールで区切ってある奴。ノーシルノーヘッダーのオハ35もいたよね。 >>315
十分オッサンですね。なんせ今の新入社員世代は改札鋏を知らないそうだ。
>>315>>316>>317
ちょうど315さんの頃、釧網線で背が木の板の60系かに乗ったんだけど、
体が痛くなって早々に車両を移ったのが悔やまれます。 >>270 が書いてある浜田-益田を全部通過する早朝の列車に乗りました。浜田駅の外のベンチで
夜を過ごして
C57+D51の重連でした。ほぼ乗客0の車内で給気、絶気の汽笛を聞きながらウトウトして
いたのを思い出しました
人生半世紀生きております 山陰本線の長距離列車は824列車スレのレスにもあるように、
主に荷物・郵便輸送の為にあった。
84年2月改正で荷物・郵便輸送のあり方が変わったこと、
ヤード集結方式の貨物輸送が廃止された関係で、
機関車の運用上の都合からも、長距離列車を運行する必要が無くなった。
一時期、米子機関区のDD51は全国最多の配置両数だったとか。 >>320
手持ちの「鉄道ジャーナル」1977年2月号では米子機関区のDD51は63両で最多。
その次が釧路機関区の45両。その次が小樽築港機関区と鷲別機関区の38両。 >>318小浜線のオハユニ61が無くなるらしいので乗りに行きました。東舞鶴からワンボックス占有、狭いシートピッチが足を向かいの席に置くとちょうど快適、しかし 小浜から団体のおばさんが大挙して乗車〜定員乗車で敦賀までは地獄でした。 >>318
ちっ、若者じゃねーのかよwww
って、パンチ知らんのかいな若者は
改札口でリズミカルに鳴らしてる音を聞くのは
一種の楽しみでもあったもんです
ゴム印に切り替わった時はちと嫌だった
インクが手につくは切符が汚れるわで
あー60系ね、気持ち解ります
オレも初めて座った時(S59、東北線)一時間持たずに隣のオハ47に移りました
鎧戸はガタガタいぢくって遊んだけどそこまでだったな
夜7時台の郡山黒磯間だったけど、
そのオハフには誰も乗ってこなかった事を覚えてます
宗谷本線、324レ 321レ は夜行ではありませんが、
のんびりしていて好きでした。各駅に駅員さんがいて、
ゴミひとつ落ちていない構内、きれいな花壇もよかったなぁ 82年位だと思うんだけど、
急行だいせん号で飛び込み自殺があったん
だけど知りませんか?
下りのだいせんで、場所は米子駅の
すぐ手前辺り。
だいせんに乗ってるお客が自らドアを
開けて飛び込んだんだけど、大阪駅を
発車する時にその人と話ししたんだよね。
オレはまだ小学生だったんだけど、
あまり衝撃で記憶が定かでない。 >>325
自分の乗ってる列車に飛び込むのは至難の業だと思うんだが?
飛び降りたんじゃないの? >>326
そうですね。
飛び降りみたいなもんなんだけど、
轢かれてしまったみたいです。
自分の乗っている列車から飛び降りて轢かれるのも結構そっと降りないと無理だね 大学の時に一度興味半分で乗ったけど
二度と乗りたいと思わない 昔は新宿発河口湖行きの夜行があったんだから大したもんだよ
三時を跨がないから夜行かと問い詰められるとちょいきついが
あと、たしか2003年にムーンライト信州の前調査か三日だけ115系山岳夜行が出たよな 80年代になっても、夜行山陰に乗ると深夜の小駅でポツポツ乗降があったものだ。あの人達は、いったい何の必要があって利用してたんだろか。今考えると不思議でならない 指定券を買わないで駅に新聞紙を敷いて待つ
結局座れずにデッキでボストンバッグやリュックに座る >>333
色々理由はあるだろ
今でも深夜に停まるバス停のある夜行バスだと結構深夜でも乗降ある >>332
1972年3月には、新宿発23時20分の甲府行きにくっ付いて行って、大月駅で1時2分に分割、河口湖着1時47分
となってるな。季節列車やね。しかしこの当時は真夜中に新宿を出て甲府までいく
不定期の夜行電車がたくさんあったみたいやな。新宿発午前1時で甲府着が4時14分とか。
ここらあたりは115系だったのかな。連休前に運転してるからやっぱり帰省客用かな。
毎週金曜の夜運転で、新宿発23時50分、甲府着が2時33分なんてのもあるし。
どういう人が乗ったのかね〜 >>336
登山客
甲府までだと大菩薩とか南アルプスあたりかな
富士急直通だと富士山とか三ツ峠とか
山男列車って呼ばれていたのも、登山客がメインユーザーだったから
当時の山行は「夜行日帰り」ってのが多かった
(週休2日じゃなかったし、山は早い時間に下山するのがセオリーだから、時間を有効に使うには必須だった)
今じゃほとんど自家用車に移ってしまったけどね
>>333
都会でいえば、終電みたいな使い方もあるよ。
福知山や鳥取など地方の中核都市に所用があり、遅くなったら、
1泊するか夜行で帰るかということになる。 >>338
福知山あたりだと始発的な使い方もあったし、京都からの最終だったと思う。
(上りは4時半に着いても、5時になると国鉄も地下鉄も動き始めた) 夜行普通列車が存在できた理由の一つはその列車が行う荷物や郵便輸送の重要性が辛うじて
存在させていたのだと思う。ターミナル駅での早朝終着もある意味ブツの荷役や継送が目的とか。
そのせいか“山陰”も荷物や郵便の鉄道輸送を廃止した翌年かな?あえなく廃止となった。
その昔、ダイヤを作成するために各地からスジ屋が集まる場所に新聞社など荷主がやって来て
「こいつはもっと早く着けてくれ」とか「こっちはもう少し遅く出せないか」とか注文を付けたり
してたみたいだ。つまり荷物や郵便は荷主が注文を付けられるぐらいの主導的な立場だったのだと思う。
18きっぷとかの夜行紹介では2ドアデッキ付きで座るのが一番とか書いてあるが
山岳夜行の115系に馴れた身としては、ボックスとかで窮屈に座るより
足を投げ出すロングや新聞紙敷いて床に寝る方が楽だったわ
近郊型夜行派は少数か? >>342
そもそも近郊型の夜行列車も、中央本線と上越線だけでしょ。
無理に付け加えるなら四国の50系客車くらい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています