懐かしの日立電鉄
でも営団からの中古車で統一されてから急速に魅力なくなったけどな
やる気も失せてたと思うゎ 交換設備があったのは桜川、大沼、水木、大甕、久慈浜、あと大橋だっけ?・・・
久慈浜から太田の間は余り乗らなかったので記憶がない
大田の方に行くと河原で放し飼いの牛たちだのんびり草を食んでいるのを見て驚いた >>215
>>215
その通りです。
牛の放し飼いは里川の橋梁ですね。
太田側の電鉄の情景写真で良く出てきますね。 日立電鉄は止む負えないにしても
工機・化成に続き金属まで売るなんて
日製はもはや日立市民・茨城県民に対しての逆賊だな
日立製品は不買しようぜ 日立まで到達しなかった時点で決まっていたようなものだな 日製もなんであんな平地の少ない土地に工場乱立したんだろ?
久慈川より南なら平地も多いから大規模な工場を造れたろうに
鉱山からの移送は助川から常磐線使えば良かったんだし 日立中心部まで本気で延伸するつもりだったのかな
単なる願望ではなく 本気だろ
目的地へのアクセスとして機能しないと誰も乗ってくれないから 途中で国鉄に接続するという手もあった
鮎川は、いかにも中途半端 大甕があるじゃないか。
まあでも河原子か桜川から分岐して常陸多賀へ向かう支線でもあれば違ったかもな。
それにしても当時の茨城県内私鉄で直流電化できたのは柿岡から遠く離れた北部だったらか? >>226 電圧が600Vであること、そして地磁気観測所対策として変電所の間隔を7qごとと短くしていたそうで。距離にもよるが1500Vだと支障が出る。
戦前、短期間だったが土浦・阿見間の常南電気鉄道があったし、水戸には1966年まで茨城交通水浜線の路面電車が走っていた。 けっこう地磁気研究所の近くまで、電化していたんだね。 平成になっても冷房車なしでは客離れするわな。水郡線も冷房付きのキハ110が入っているというのに。営団2000形ベースでは冷房搭載難しかったのか? かつては、この木何の木気になる木のCM
にも名を連ねていた。 自分も若かりし時、松戸日立自動車教習所で大型特殊と牽引免許を取った。
その後の人生で大いに役立った。
ドライバーから引退して久しいが、免許証には痕跡が残っている。 東京モノレールは日立グループだったのに日立電鉄がそうじゃなかったのは日本鉄道史三大七不思議の一つよな。
東京オリンピックの頃にでも日製に頼んで全線を跨座式モノレールに改めたら日立駅まで延伸出来た上に今の残っていたか? 日テレで日曜夜に放送されていた
素晴らしき世界旅行のスポンサーが日立グループ。
冒頭の提供クレジットで日立製作所、日立物流、日立建機など
グループ各社がスクロールで紹介されるなか、
日立電鉄の名前が一向に出てこず
とても寂しい思いをしたことが懐かしい 戦後日立が経営から手を引かなきゃ
日立駅まで延伸できてたのにな 祖父母は、日立は昔は助川、多賀は下孫だったと教えてくれた。
思えば常陸多賀とは呼ばずに単に多賀だったな。 鮎川駅の近くに常磐線を渡る第4種踏切があったが、あれ今では警報器付いているのかな? >>245
全国の同名駅を区別するために旧国名付けるけど
地元じゃ旧国名省いて呼ぶのが普通だと思う 桜川駅から見て河原子方面に大きな踏切があったよね
国道245号とさくら通りの三差路を渡る踏切
あの三差路、昔は信号機がなかったんだよね
さくら通りから245号に来る車、245号からさくら通りへ入る車は踏切手前で必ず一旦停止だから信号機がなかったのか?
今の信号機あるの? この木何の木気になる木のCMで日立電鉄の名前は出てなかった? 短い路線なのに鮎川・大甕・久慈浜・太田と拠点が多かったな 大甕
地元民じゃないので読めなかった
コロタン文庫で初めて読み方を知った
あの本に収録されていた路線図の駅名には全てルビがふられたおかげで難読駅名も読み方を覚えることができた 銀座線から2000形がやってきたときに「営団からの転入は二回目」と解説があって不思議だったが戦時中の注文流れを引き取ったモハ11がいたことを知ってとても意外だった 大甕から常陸太田までバスで行ってみた。
鐵道の痕跡は見かけなかった。 >>258
注文流れを引き取ったのを転入とは言わんだろ?
一度も銀座線には入線しなかったのだから。 このスレが始まった時、全線廃止からまだ3年しか経ってなかったんだな >>262
11,12はもっと後まで居たような。なぜなら営団流れに乗った記憶がある