懐かしの日立電鉄
クーラーなしはキツいかなあ
今は大手から中型クラスの出物があまり出現しないので
中小ローカルの車両調達は一苦労だね 今が狙い目じゃないかな
第三軌条集電を架線集電に改造するのも先例があるし。 太田駅と鮎川駅のところを直通するバスがないみたいだけど
バスで移動する人はどうやって移動するのだろうか タラレバ話になっちゃうけど日立市中心部まで延ばせていたならなあ
あと、戦時統合で水浜→茨交傘下に入れていたならなあ 市中心部へは何としてでも成し遂げてほしかった、
というのは後世の人間の戯言なのかな
当時はどうしても乗り越えられなかった障壁があったか 日立グループ金持ってるんだから支援してやりゃ良かったのに。
下らねー事に金使わないでよ。
スマトラとか小集団とか社外コンサルとか番組のスポンサーとかさぁ。 >>168
バス乗り継ぎを余儀なくされているから直通バスを本当は走らせないといけない 日立電鉄の支援が一番下らないwww
鉄屑ざまぁwww 2002年に乗ったのが最初で最後だが、暑かったことしか覚えていない ひたちBRTはJR常陸太田駅まで開通すべきだ
大甕と久慈浜の間だけじゃもったいない
勿論廃線跡流用で >>176
小生も同じく。
あとに付け加えるなら騒音も。
ドアの立て付けが悪かったのか、駅間ではずっとガタガタ音を立てていた
これが元国電なら分かるが、
営団時代にはそんなことなかったはず >>181
今度はこれをBRTでやって欲しいな
日立電鉄は全線BRTで復活すべきだ 末裔も今年の4月末までか
まあ本来の予定通りだから仕方ないか 久慈浜近くの常磐線下を通る箇所が唯一のトンネルだったかな。
水木〜大甕〜久慈浜は、常磐線を二度も高架で越えるのは無駄に思えた。 20年ちょっと前に常陸太田から鮎川まで乗ってみたが、元営団銀座線の車両の窓が埃だらけだった。
金がないのか、あまり掃除が行き届いていないような。
冷房付きのキハ110が水郡線、常陸太田支線まで入るというのに、こちらは全車非冷房。 車両が汚いのはローカル私鉄共通の課題だな
御指摘の通り、総じて窓ガラスのメンテナンスに難がある
手作業に頼らざるを得ない箇所は後回しになってるのか… >>110 今更ながら調べました。日立南営業所は、1990年6月、太田営業所と大甕営業所の統合により誕生したそうです。 遂に子会社も無くなってしまった
まあ当初の予定と言えば当初の予定通りだから、仕方ないのか
ひっそりと無くなった日立電鉄(交通サービス) 常北太田駅の常北の由来が未だに分からない。
常陸太田駅か単純に太田駅でも良かったのではと今でも思う。 >>193
日立電鉄になる前の常北電気鉄道の常北じゃない?
単純に太田だと群馬と重なるしな。 鮎川〜日立〜高萩〜北茨城
久慈浜〜東海〜ひたちなか〜水戸
と、常磐線に対抗するような鉄道会社になってほしかったな 電鉄の名を残すのは電鉄タクシーだけになってしまったわけか。 日立市って茨城の海沿いでは殆ど平地がないのを今更知った。 だから311でも津波で深刻な被害(もちろん被害ゼロじゃないけど)受けなかったんだよ 最末期に乗り鉄した時に見かけた乗務員さんには若い人もチラホラいたのだが、
この人々は廃業後全く別の業種に転職していったのかな
すごく勿体無い希ガス
運転士や車掌の資格なんて簡単には取れないでしょ? >>203
つくばエクスプレスに行った人多いらしい そう考えると個人的には複雑な心境だ
鹿島鉄道はつくばエクスプレスに止め刺されたようなもんだからな >>195
日立電鉄ももう少し景気良ければ『電鉄太田』とかに改名したのだろうか?
改名って結構金掛かるし。 >>200
平地であれば鮎川ー日立の延伸も容易で日立電鉄の命運も少しだけ変わったかもな。
海岸沿いを北進して川尻辺りまで伸びていたかな? 免許認可が9キロに対し実際の開業は6.6キロに留まる。
よく出てくる終点が日立二高前という説。
したがって相瀬港付近まで国道沿いに北上し築堤で常磐線を越え日立工場敷地に沿って二高付近までというルートが想定される。
当然、鉱山電車との徒歩連絡が考えられる当時の市街地ギリギリまでを狙うだろう。
日立工場から二高のほうへ、助川中の前を通る道がいつ頃出来たのか気になる。 この会社もマニアとしてはタラレバが多いと思う
残ってほしかった
中学の頃から撮り&乗り目的で訪問して結構売上げには貢献したのにな でも営団からの中古車で統一されてから急速に魅力なくなったけどな
やる気も失せてたと思うゎ 交換設備があったのは桜川、大沼、水木、大甕、久慈浜、あと大橋だっけ?・・・
久慈浜から太田の間は余り乗らなかったので記憶がない
大田の方に行くと河原で放し飼いの牛たちだのんびり草を食んでいるのを見て驚いた >>215
>>215
その通りです。
牛の放し飼いは里川の橋梁ですね。
太田側の電鉄の情景写真で良く出てきますね。 日立電鉄は止む負えないにしても
工機・化成に続き金属まで売るなんて
日製はもはや日立市民・茨城県民に対しての逆賊だな
日立製品は不買しようぜ 日立まで到達しなかった時点で決まっていたようなものだな 日製もなんであんな平地の少ない土地に工場乱立したんだろ?
久慈川より南なら平地も多いから大規模な工場を造れたろうに
鉱山からの移送は助川から常磐線使えば良かったんだし 日立中心部まで本気で延伸するつもりだったのかな
単なる願望ではなく 本気だろ
目的地へのアクセスとして機能しないと誰も乗ってくれないから 途中で国鉄に接続するという手もあった
鮎川は、いかにも中途半端 大甕があるじゃないか。
まあでも河原子か桜川から分岐して常陸多賀へ向かう支線でもあれば違ったかもな。
それにしても当時の茨城県内私鉄で直流電化できたのは柿岡から遠く離れた北部だったらか? >>226 電圧が600Vであること、そして地磁気観測所対策として変電所の間隔を7qごとと短くしていたそうで。距離にもよるが1500Vだと支障が出る。
戦前、短期間だったが土浦・阿見間の常南電気鉄道があったし、水戸には1966年まで茨城交通水浜線の路面電車が走っていた。 けっこう地磁気研究所の近くまで、電化していたんだね。 平成になっても冷房車なしでは客離れするわな。水郡線も冷房付きのキハ110が入っているというのに。営団2000形ベースでは冷房搭載難しかったのか? かつては、この木何の木気になる木のCM
にも名を連ねていた。 自分も若かりし時、松戸日立自動車教習所で大型特殊と牽引免許を取った。
その後の人生で大いに役立った。
ドライバーから引退して久しいが、免許証には痕跡が残っている。 東京モノレールは日立グループだったのに日立電鉄がそうじゃなかったのは日本鉄道史三大七不思議の一つよな。
東京オリンピックの頃にでも日製に頼んで全線を跨座式モノレールに改めたら日立駅まで延伸出来た上に今の残っていたか? 日テレで日曜夜に放送されていた
素晴らしき世界旅行のスポンサーが日立グループ。
冒頭の提供クレジットで日立製作所、日立物流、日立建機など
グループ各社がスクロールで紹介されるなか、
日立電鉄の名前が一向に出てこず
とても寂しい思いをしたことが懐かしい 戦後日立が経営から手を引かなきゃ
日立駅まで延伸できてたのにな 祖父母は、日立は昔は助川、多賀は下孫だったと教えてくれた。
思えば常陸多賀とは呼ばずに単に多賀だったな。 鮎川駅の近くに常磐線を渡る第4種踏切があったが、あれ今では警報器付いているのかな? >>245
全国の同名駅を区別するために旧国名付けるけど
地元じゃ旧国名省いて呼ぶのが普通だと思う 桜川駅から見て河原子方面に大きな踏切があったよね
国道245号とさくら通りの三差路を渡る踏切
あの三差路、昔は信号機がなかったんだよね
さくら通りから245号に来る車、245号からさくら通りへ入る車は踏切手前で必ず一旦停止だから信号機がなかったのか?
今の信号機あるの? この木何の木気になる木のCMで日立電鉄の名前は出てなかった? 短い路線なのに鮎川・大甕・久慈浜・太田と拠点が多かったな 大甕
地元民じゃないので読めなかった
コロタン文庫で初めて読み方を知った
あの本に収録されていた路線図の駅名には全てルビがふられたおかげで難読駅名も読み方を覚えることができた 銀座線から2000形がやってきたときに「営団からの転入は二回目」と解説があって不思議だったが戦時中の注文流れを引き取ったモハ11がいたことを知ってとても意外だった 大甕から常陸太田までバスで行ってみた。
鐵道の痕跡は見かけなかった。 >>258
注文流れを引き取ったのを転入とは言わんだろ?
一度も銀座線には入線しなかったのだから。 このスレが始まった時、全線廃止からまだ3年しか経ってなかったんだな