なつかしの国鉄日豊線・豊肥線・久大線
(日豊線)
・DF50の牽引する特急富士・特急彗星
・DE10(C58)の牽引するローカル列車(大分-佐伯)
・C55・C57の旅客列車
・D51の貨物列車
・急行高千穂
(豊肥線)
・9600の牽引する貨物列車
・C58の牽引する旅客列車
とりあえず、こんなもんか。 これら3線で蒸気は乗ったことがないけど
別府の杉の井パレス?に行った帰りに
西鹿児島発門司港行きの客車列車に乗ったとき
ちょっとしたカルチャーショックを受けて
旧客に惚れてしまった。 知らない間に日出行きとか暘谷行きとかの列車が出来たこと >>8
幸崎発暘谷行きってのがあった
すぐに中山香行きに変更されたけど 久大線の電気式改造の湘南型郵便荷物車は子供心に強烈なインパクトがあった。 キユニ16だな
キハユニ22(?)が夕方の幸崎逝きに連結されていて、荷物室まで人をのせていたな 西鹿児島行き「にちりん」がキハ80系だったのが今も印象に残っている。 宮崎の大淀川鉄橋の風景はSLが電車になったくらいで
40年間くらい何も変わってない。 冷静に考えてみると、宮崎電化で、485の11連とか583の12連が
宮崎まで入線していたんだが、有効長はたりてたんだろうか。
宗太郎だと、D51クラスで定数40くらいのはずなので、貨物とて
140mくらいの長さ(実車のワムで20両)しかないはずなんだが・・・・ >>15
一部駅、後方ドア締め切り、信号封鎖で対応 中山香と杵築の間、それと直美と直川の間だったか、信号所があった。 >>19
川原木信号所だっけか?(直川〜重岡)
まだED76牽引の旧客鈍行時代に停車中に降りた事がある。
そういえば昔85年ぐらい?まで荷物&郵便列車が1往復有って
オハフ50を1両ぶら下げて客扱いしてたっけか
運用が確か上りは客扱い無しで佐伯に11時半位に来てて
下りは16時半ぐらいに佐伯発〜南宮崎行なってたな。
覚えてる人が居たら編成の詳細を教えてもらいたいです。
うろ覚えだが確かこんな感じ ↓
宮崎方【緩急付パレ車】【パレ車】【パレ車】【マニ】【スユ】【オハフ】 大分方
あとどこまで走ってたかも知りたいですね〜、北は門司港まで行ってたのかな?南は西鹿児島までなのか? >17
いまでも、午前の下り貨物は、コキ11両+ED76なんだけど、そんなことやってる? あ、そういえば、大分と門司港の間、旧客が一往復走ってた。編成は忘れたけど。
で、それに乗って大分から別府に行ったとき、列車が完全に停まるのが待ち切れなかったのか、
急いでたのか、婆さんが別府駅のホームに着地失敗してすっ転んでうずくまっているのを見た覚えがある。
その旧客が暫くしてピンク色の客車に代わって、やはり門司港と大分間を走ってた。
いつだったか、亀川と豊後豊岡の間にトンネルが開通して、ちょっと距離が短くなったのかな。
大分駅だったと思うんだけど、「宇佐(?)までの運賃改定」というような張り紙があったような・・・ 宮崎ブームの頃は編成長に比べてグリーン車多めで運転されていましたよね。 日豊本線竜ヶ水駅が豪雨で流されたのには驚いた。
もろ流された人家の前でC57貨物発車を撮ったよ。C5741だった。S49頃。 >>24
竜ヶ水駅が流された時は、乗務員も必死で
海に沈みそうになっている乗客を助けたという逸話がありましたね。
もちろん平成になってからですが。
火山灰地の悲しさといってしまえばそれまでですが、
はるか昔の人たちがヤバそうな場所を
地名に隠して伝えてくれていたのかもしれませんね。
新造されて間もないキハ200も廃車になって代替新製されたような。 質問なんですが。
昭和50年代後半の宗太郎越えの運用で、当時の時刻表を見ますと、一部電車が運用されてるようですが。
朝夕などは急行の送り込み運用ついでに475系が使われていると聞きました。
緑車は使用禁止?
日中にも電車の運用があるけど、これは何が使われているのでしょうか?これも急行の間合い?
あと、旧客の普通ってどのような編成になってたのでしょうか?
よろしければアドバイス下さいませ。 >>26
50年代後半ねえ〜、記憶では昼行の日南が廃止された移行なら・・・
車両はそのままのでG車は開放だったので乗りドクでしたね。
旧客は荷物車・郵便車を数両とハザ4両ぐらいで
佐伯で3両ぐらい抜いたり(宮崎方)足したり(大分方)してました。
佐伯以北は長い編成になってましたね。 >>26
どうもです。
通勤車(421・423・415)は佐伯以南は投入されてないと別スレで教えてもらったので
475の間合いって事でしょうね。。。。(日南はまだ存在していた頃の時刻表を見て)
ttp://www.youtube.com/watch?v=obxFyb6ljEw
フリゲsimutransで、佐伯→延岡の旅(キハ80にちりん)を再現してみました。
配線など情報は教えてもらいましてなるべく再現してます。
良かったら見てみてください。。。
(※閲覧される場合、画面右下の「高画質に表示する」をクリックして下さいませ) >>28のネタの続きで急行日南(関西直通夜行)の再現しようと当時の時刻表を見ていて驚いたけど・・・
急行「日南1号」(都城発京都行)って宗太郎停車(16:12発)するんだなw
誰が乗るんだ? 誰の為に止めてるんだ?w なんでまた宗太郎に停車するんだろう・・・
(マップ再現の唯一の資料w)航空写真(S49年撮影)を見ても、小さな集落がある程度の駅のようだけど。。。
●その他の宗太郎越え(佐伯〜延岡)の途中駅停車の優等列車ダイヤ
上り
急「日南」3号(宮崎発大阪行) 北川18:52 直見19:38
下り
急「高千穂」(西鹿児島発東京行) 北川9:30 日向長井9:39
急「日南」2号(大阪発宮崎行) 直川10:01 重岡10:43 市棚11:12
急「日南」3号(京都発都城行) 市棚12:58
それ以上に驚いたのは・・・
始発・直川16:21→終着・直見16:28 という一駅区間の列車(客レ4592)が存在していた!
直見折返しの下り、直見発の佐伯方面の列車も存在しないが、この運用は何? もう一つ疑問
急行「日南」1号が宗太郎16:12発なんだけど。
下り普通レ543(大分発都城行)が宗太郎16:04発→市棚16:22発
その他の普通列車を見たら宗太郎発時刻→市棚発時刻、約10分
レ543と日南の交換は市棚(16:10着だとしても、2分で宗太郎まで行けない・・・)だったら
日南は宗太郎に16:12までに到着しない・・・ような。
これって、日南が宗太郎でレ543の交換待ち、と考えて良いの?
交換待ちついでに客扱い(誰が利用するかわからないけどw)してたのかな? 昔、日出駅に留置されてたスロ81ってどうなったの?
>30
日南1号の話だけど、その時間帯に、下りの電車特急か電車急行かDC急行がいないかな?
市棚は3線で、追い越し可能な駅なんで、
宗太郎に543レ到着
日南1号到着
543レ発車
(下り優等列車通過)
日南1号発車(16:12)
で下り優等列車は、市棚で543レを追い越し
なのではないかと思う。
昭和49年だとすでに電化しているけど、新幹線はまだ博多まで開業していないので
おそらく、急行青島(臼杵を15時くらいに下っていく)が該当だと思うけど。(記憶頼み) >>32
ビンゴです!
時刻表無しでよく覚えますね・・・(驚
書き込みの後で再度時刻表を見てましたが
543レの重岡→宗太郎の所要時間がその他普通列車より遅かった
(その他列車は14分程度→20分程度)
なので仰るとおり
>宗太郎に543レ到着
> 日南1号到着
> 543レ発車
> (下り優等列車通過)
> 日南1号発車(16:12)
ですた。。。急行青島も大正解っす。
ありがとうございました。 >32
あ、そのころ(電化前)、厨房で貨物列車(D51)やら追っかけてたので、
ぼんやりダイヤが頭の中に残っているだけよ。
急行日南が電車になったあたりからはほとんどわからない。
・・・というか手動ドア列車全盛時代って今でいう「運転停車」という概念自体なかったからな。
運転停車であろうがなかろうが,列車が停まれば人は乗降しちゃうから
宗太郎程度(失礼)の駅でも「客扱」停車にしたのだろう。
日豊線の話で昭和50年3月頃の時刻表みていて驚いた思い出がある。
南延岡→延岡間を利用しようとした場合,夕方高千穂線だかに直通する「快速」が
停車したあと,夜中の夜行「日南」まで列車なかったんだよな。
都城方面からの普通列車は南延岡止,また延岡以北への普通列車は延岡始発なので
ちょうどエアーポケットみたいになにもなかった。
その後改善されたが・・・。
あと、大分-佐伯のローカルにC58がはいっていたなんてしってるかな?
その後、DE10になっちゃったけど。
ステータス感じるよね C58というと1号が別府と豊肥線の三重町の間で「豊の国号」という名前で
運転した。今から20数年前のことだけど、覚えている人いるかな? >>28
動画拝ませてもらいました、ありがとうございます。動画上の佐伯球場の近くに私の実家が有りまして、
この設定時代のオープン戦(広島カープvs日本ハム)で山本浩二選手の大ファールボールが実家の瓦を
破壊してくれたのはとても懐かしく・・・推定飛距離150b(どうでもよい話だが)
佐伯駅の配線ですが、1番線と国道217号線の間に興人と日通用の貨物ヤードが4〜5本ぐらい有ったかと
記憶しています。あと延岡方の踏み切りから50bぐらいまで貨物突放用の側線が本線に平行してましたね、
朝の7時半頃下りの貨物列車が興人用の空有蓋車と苛性ソーダ?とかの黄色タンク車とかを突放で
切り離して、16時頃の上りでパルプ積んだ有蓋車と空になったタンク車を編成に付け足してた様な運用で
列車を牽引してきた釜(ED76)が抜き差し作業をしてました。当時小学校への通学時の行きと帰りに
その光景を飽きる事無く良く見てましたね〜。下校時に興人へ貨車を引き込む時に貨車のステップに乗って
タダ乗りしてて、よく監視員のオッチャンに怒られてた(引き込み線が横切る2本の国道に信号や踏切が無かった)
>>35
高千穂線運用がらみだけど、50年代半ばまで佐伯止の最終上りと佐伯発の始発下りが気動車で運用で北延岡?
まで有ったかと記憶してます。確か編成は20系と58系の混成だったとうろ覚え・・・。 >>35
成る程、昔の行き違いの為の停車でも客扱いしてた訳がわかりました。
手動だから駅に停まれば、乗降できる。
どこの駅にも駅員がいる。
時刻通りなので、他の駅で行き違いすることが少ない。
こんな感じですかね。 >>38
こちらこそ。地元民に見て頂いたけると光栄です。当時のお話を聞けるのもありがたいです。
制作資料が国土地理院の航空写真(昭和49年のみしかない orz)と、現在のネット地図を照らし合わせつつでした。資料が少ない。。。
佐伯駅構内配線は広げ過ぎると、街の大半を占有するので省略しました。。。 >>38
(長文なので更新)
航空写真に球場が映ってましたが、プロ野球も行われた球場だったとは。。。
カープ全盛期だったんですね(今年は期待!)
ちなみに、その航空写真で佐伯鶴城高近くに大きな陸上競技場らしき建物が写ってましたが。
あれは学校の施設だったんでしょうか?
ググッてもそれらしい答えが見付からなくて。。。 電化前の時代は、線路脇の電柱にいっぱい
電線が張られていた風景が甦るのだが、
あれはどんな理由だったんですか。 通称ハエタタキと言われる電柱のことかな
横桁が長くて数本あり一番下の横桁に支えのため斜めの支柱がついていて
まさにハエタタキのような感じだったのでついた名前ですが
通信用でしたがかなり早いうちに使われなくなったようです
以後は通信用電線のみ撤去して通常の電柱として使うようになってました ハエタタキ型電柱が本来の役目で使われていた最後は
九州では、鹿児島交通かと。スレチでごめんなさい。 俺の父親の実家が宇佐市にあって
昔は宇佐に特急なんて停車しなかった。
「富士」で行って中津乗換えか新幹線+急行「ゆのか」だった。
それが昭和51年だか52年だかあたりに「にちりん」が3往復停車したときなんて
町はもうすごい騒ぎだったそうだ。
まーそれ以前の日豊本線大分までの特急停車駅は
小倉・中津・別府・大分だから騒ぐのも無理ないわな。
さてこのまえ父親の墓参りのため久々宇佐駅におりた。
昔は通過していったあの「富士」からおりた。
おりたのは僕だけ。ヒマそうな駅員に特急券を所望すると
「どうぞー」と一言。
急行「ゆのか」しか停車しなかったころ柳ヶ浦高校が甲子園出場した
といえば横断幕があちこちに飾られていた駅前商店街・・・だったはずなのに
人っ子1人いない。ヒマそうなタクシーの運転手に行き先を告げると・・・
高々2000円程度の距離なのに「今日は朝からツイとる!」と独り言。
父親の実家はもうなくて墓があるだけ。それでもしばらくそのへんをブラついてみた。
夕方また宇佐駅に戻ってきた。なんとなく1人で飲みたかったがやっぱり店はない。
適当に電車にのって行橋までいってみると,何軒か飲み屋があった。
こじんまりした店のカウンターでちょっと上品そうなママ相手に1人で飲んだ。
よく考えてみたらその日一日ではじめて会話らしい会話をしたのがここのママさんだった。
>>45
宇佐駅の周りは、何もないね。中心部からも離れてるし。
宇佐市の中心の四日市には飲み屋があるけど。 普通電車も門司港←→大分直通が当たり前のようにあったな
しかも殆どが非冷房車 >>41
帰省中だったので亀でスマソ
そのグラウンドは鶴城の陸上用のグラウンドです、
母校の佐伯東小学校も間借りで使わせてもらってましたね。
ココからは編成全容が眺めれるぐらい開けてたので、
よく朝方に新聞配達のバイト帰りに583系彗星を眺めてました。
>>43
ああ〜線路にずっと這わせてる国鉄電話線ですね、
記憶では53年ぐらいまで見た記憶が有ります。
にちりんで車窓眺めてたらずっと延々と電線がウエーブ
こんな感じ ↓
〜〜〜〜|〜〜〜〜|〜〜〜〜|〜〜〜〜|〜〜〜〜|
しててウザかったのを記憶してますw
>>45
宇佐駅前は今はホント閑散としてますね〜。
50年代半期の宗太郎駅前と変わらないような・・・w
富士は宇佐に止めずに杵築に止めろよと・・・
昔止まってたのに、ソニックやり過ごすだけなのに
客扱いしないのは酷すぎる(現在)
>>48
当時交流車に非冷房車有りましたか?
当時は475系?415系で冷房はデフォだったような・・・? 映画「なごり雪」で上臼杵駅、重岡駅を使ってたね
過去のシーンでは国鉄時代の設定にもかかわらずJR九州色だったけど >>49
鉄道電話はずっと後年まで使っていてハエタタキの太いケーブルのうねうねはそれだと思うが
碍子につながれていた細い電線が本来の役目だったね
これは40年代後半にはほとんど取り外されていたみたい
電話でなくて電信だったと聞いている >>50
非鉄な多くの観客にとっては、色なんて気にしないw >>50
地元民ですが、あの映画の列車はやはり昔のアズキ色のほうが良かったと思いますね
帰省のときは「彗星」をよく利用していました、「にちりん」は疲れましたからね
>>49
急行型でない交直型電車にはゴロゴロ非冷房あったよ。
・・・というか昭和50年ごろなんて冷房車なんてあったのか?
おれは東京だったが常磐線の普通列車はオール非冷房だったよ。
映画「なごり雪」の主人公若かりし頃はまだDF50+旧客だったかと。
東京に帰るシーンで電車が延岡方面に行ったのを見たときはおもわず「おいおい反対だろ」って言ってしまった。 臼杵から東京へ逝くには、にちりんで宮崎空港まで逝って、飛行機にのるんだよ なるほど・・・っていや普通列車に乗ってたし。
思い出してみれば主人公が東京から臼杵に帰るのに新幹線使ってたな。映ってるのは700系だったのに車内は500系、
おまけに小倉から乗ったのが特急じゃなくて普通だったし。臼杵まで何時間かかるんだよ。
「なごり雪」は鉄道的にはつっこみどころが結構あったような。 大林監督の映画ならば柳川で撮られた「廃市」など
今は亡き佐賀線の列車が筑後柳河駅に入ってくるところから始まり
佐賀行きの列車が夏の原野を走り去っていくところで終わっていますね
「佐賀行き」といいながら実際は瀬高方面に走って行っていましたが 「なごり雪」ね
駅のシーンがやたらと多いだけに
少なくてもあずき色くらいには塗り替えて撮影して欲しかったな
パッチギではキハw塗り替え、ぽっぽ屋では改造までしているんだからさぁ 当時宮崎には1編成、国鉄色があったような気がする。 >>29さん
亀にて恐縮です。
> それ以上に驚いたのは・・・
> 始発・直川16:21→終着・直見16:28 という一駅区間の列車(客レ4592)が存在していた!
> 直見折返しの下り、直見発の佐伯方面の列車も存在しないが、この運用は何?
僕も、この4592列車の掲載された時刻表を持っています。
29さんのおっしゃるように、とても気になる列車です。
JTB時刻表の1973年7月号ですが、このときは、直川1554→直見1603(休日運休)でした。
列車番号から考えて、下2桁目(十の位)が「9」なので、混合列車または貨物列車と考えられますが、
たった一駅区間のために客車を一両ぶら下げてわざわざ客扱いするとは、想像できません。
この列車の設定時間帯や沿線人口、休日運休である点から考えて、
おそらく中学生の帰宅用として、4〜5人程度の生徒を運ぶために、
貨物列車の車掌車を使って、便宜的に客扱いしたのではないかと考えられますが、
いかがでしょうか。
どなたか、わかる方がいらっしゃったら、教えていただきたいです。
ちなみに、同様の事例について、うろ覚えで大変に恐縮ですが、
40年ほど前の新聞(縮刷版)で、
北海道の根室本線で小学生の通学用に貨物列車の車掌車が客扱いされていたケースが紹介されていた記事を
目にしたことがあります。 >>62
根室本線の、貨物列車の車掌車に便乗する児童の話、
NHK-TVのこどもニュースで見ました。
歩いたとしたら2時間?かかるとか。
車内の石炭ストーブが印象的でした。
九州と関係なくて、すみません。 しかし面白いなぁ
昭和41年7月号の
佐伯〜延岡間の優等停車は
下り急行日南(515D,別府始発西鹿児島行)重岡停車0939
下り急行夕月(203,新大阪発宮崎行)直川停車1056
下り急行日向(1203,京都始発都城行)重岡停車1353
上り急行日向(1204,都城始発京都行)北川停車1513
どれも列車交換がらみなのだが,515Dは「D」なのだから別に「運転停車」でもよさそうなんだけどね。
日豊線の大分県内の駅の大半には急行、準急が停車していたことがある。
列車交換のためだから、片道停車がほとんどだったけど。 熊本で高校生をしていた頃、ある試験を受けるために大分に行くのに
自宅近くの駅から急行「火の山」に乗った憶えがあります
立野あたりからの車窓は最高でしたね、いろいろあってむしゃくしゃしていた時期だったのですが
非常に爽快な気分になりました、やはり旅は良いものです 大分で小学生をしていた頃、学校の算数の試験に
大分駅から豊肥線で三重町駅まで急行「火の山」を利用するとき
乗車券がいくら急行券がいくらだが、では一万円で何回往復できるか、といった問題が出されました
教師が自分の故郷を想いまがらつくった問題ではなかったかと想像しています 中学生の頃だったかな?東中津駅から延びていた引込線から某企業敷地内へ分岐するところにダルマ式転轍器があった(今は線路そのものもなく軌道敷が残るのみ)。当時すでに路線廃止だったのだろう、よく転換して遊んだが一度も咎められることはなかった。 久大線のキユニ16、隣にはいつもキハ45の601または602を連結してセットで運用されていましたね。
荷物がキユニに積みきれなくなると、キハ45の車内にあるアコーディオンカーテンを閉めて半室荷物室として使用しているのを見ました。
昭和50年頃の思い出です。 親父は急行高千穂で23時間かけて東京に受験しにいったって聞いた。
しかも座席車で。
今だとかなり信じられない話だよな。
海外の大学行くより時間がかかるw >>79
時間はそうかもしれないが特急寝台と急行の座席では疲労はえらい違い
比較の対象にもならんと思う 昔なら急行に乗れただけましかも。
貧乏人は普通列車だったらしい。 しかも長距離カーフェリーの本格普及は昭和40年代後半以降
宮崎空港のジェット化は早かったが新婚さん向けだから、学生は高千穂のボックスで辛抱するしかなかったろうな >>82
昭和40年といったらおれの親父(30歳大卒それなりの企業勤務)の手取りが1万円〜程度だったそうだ。
それでも東京〜九州の航空運賃は軽く1万円以上したからなー。
今の感覚だと最低でも10万〜20万以上する贅沢な乗り物だったな。
飛行機に乗ったら宮日新聞の「きょうの飛行機利用者」欄みたいなのに名前が載ったらしいよw
もちろん連なってる名前は名士ばかりで身分不相応な者が載ると恥ずかしい。 消防のとき、宮崎空港から羽田まで飛んだな。
ジェット化の前のことだ。 >>85
ジェット化前だと、伊丹で乗り換えじゃなかった?
俺も小学生の頃、東京→大分を飛行機に乗せてもらったことがあるが、
東京→大阪が727で、大阪→大分がYS11だったと思う。YSはやたら煩かったな。
本当はフレンドシップに乗りたかった。というか、それ以上に「富士」に乗りたかったし、
さらにそれ以上に「高千穂」に乗りたかった。
で、その飛行機初体験なんだが、俺はそのときまで、飛行機のタラップを降りたら、
綺麗なおねえさんがレイを首にかけてくれるものだとばっかり思っていて、それがないので
かなりがっかりしたことを覚えているorz
急行「火の山」
両親の実家が熊本で、宇和島に住んでいたので宇和島運輸の旅客船(のちフェリー)で国際観光港へ。夜発で別府には朝7時頃到着。
別府駅までタクシー。
8:20の「火の山1号」に乗る。
港の匂い、別府駅の匂い、朝の匂い、車両の匂い・・・今でも思い出す。 鹿児島本線荒尾駅近くに住んでいた俺は
小さい頃家族旅行といったら別府だった
鹿児島本線からそのまま入っていく火の山を利用していました >>83
今の世の中、30歳大卒それなりの企業勤務の手取りが10〜20万ってことはないと思う。 「火の山」での家族旅行の思い出をお持ちの方々がおられて嬉しいです。
当時は確か三角ゆきでしたっけ?
立野のスイッチバックには胸踊りました。
朝の別府始発の列車と言えば他にも、西鹿児島・鹿屋ゆき「しいば」、長崎・佐世保ゆき「西九州」
どんどんあげていくと、門司港・広島発宮崎ゆき「青島」、ぐるりと回って戻ってくる「ひまわり」、九州をほぼ一周していた「フェニックス」…いろんな列車がありましたね。
DC急行全盛期の懐かしい思い出です。 火の山は三角行きと博多行きがありました。
俺が乗ったのは53年、豊後竹田から大牟田まで、
豊後荻からの山登りで、いつ止まるのかと思うようなノロノロ運転。
外輪山を下る時のカルデラの雄大さ。
立野のスイッチバックなどが印象に残ってます。 >>86
全日空のフォッカーF27フレンドシップ。
足摺と室戸の両岬の沖を通って羽田に直行だった。 別府に行くのに「ゆのか」をよく利用していましたが
この列車にはビュッフェが付いていましたね
別府に近づくと本当に湯の香がしてきて温泉地に来たという気分になります
そういえば長距離列車にその名も「べっぷ」というのがあったような気がします >>91
>火の山は三角行きと博多行きがありました。
そうでしたね。
ボックス席の通路側に手すりというか取っ手が付いてましたが、
単純な形のやつと立体的な形のやつとがあって、立体的な方が高級感があるように感じてました。
小学生の一人旅でしたが、飲み物は冷凍した缶入りポンジュースを2本持たされ、車内販売は御法度でした。
立野あたりで売りに来るアイスクリームが欲しかった・・・
夏休みの冷房は快適でしたが、冬休みの暖房は効きすぎで火照った顔をくもった冷たい窓に押し当てるのが気持ち良かった。 1977年頃に大分近辺で使われてた気動車ってどんなのあります?
西九州や由布、火の山で使用された58系はもちろん、あとは45系の他、
久大線で毎朝キハ55か26を見かけたのは覚えてるんですが…。
廃止された宮原線では当時新鋭のキハ40に乗りました。
「べっぷ」ありましたねー。臨時(季節だったかも)列車でした。
子どもの時に、「かいもん」に乗った時に、別府で後ろ寄りの車両が切り離されたことがありました。あれが「べっぷ」だったかも…。
非営業になったサハシ455のビュフェの丸椅子に座って、横向に流れる景色を見て、特別な列車感を味わったりもしましたね。当時はわざわざそんなことをする人は無く(今も?)、ビュフェ室貸切でした。 大分運転所所属のキハ55には、一次車バス窓の33番がいましたね。
珍車で、キハユニ16の3というのもいて、これは他のキハユニ16とは側面のドアや窓配置が異なり、前面も貫通型という1形式1両状態の車両で、久大線に入ってました。
何度か乗りましたが、座席の背もたれが低いので、後ろ側の人と頭がぶつかったりすることがありました。これも思い出に残る車です。
キハ20の250番は宮原線を担当していて、大分12時13分発の久大線鳥栖ゆきに、回送を兼ねて豊後森止まりで連結されていました。
この車が検査に入ると、普段豊肥線で走っているキハ53の8番や9番が宮原線に入ることもありました。 >>96
大分には2両のみの珍形式キハ45 600番台の601、602が配置されていましたね
これは簡易荷物室付で数ある簡易荷物車の中で唯一の新製車
運転室寄りがロングシートと窓には保護棒、アコーディオンカーテン付かな >>97
「べっぷ」という列車はあったのですね
別府駅で「ゆのか」を待っているとき
「大阪行き寝台急行列車べっぷ・・・」という放送を聞いた憶えがあります 列車の種類が百花繚乱で、下り終着駅の都市の名前を使ってお茶を濁した典型例ですね。
「別府温泉からだ!」と言い張ればそれまでですが
30年代初めは別府を舞台に有力ヤクザの縄張り抗争事件があるなど、「仁義なき戦い」とも通じる暴力団抗争が盛んな時代でした。
北九州では夜桜銀次殺しなどが原因で抗争勃発。
「高千穂」に愛人と乗っていたヤクザが対立組織の手の者に車内でタマ殺られる「高千穂号事件」というのも起きましたね。 新大阪ー南宮崎を東国原のヘッドマーク付けて走ったらw >>103
オマエは路車板に篭ってろ!懐かし板にくんな! 客車の寝台急行「夕月」を覚えてる人って、いないね。
ほんの短期間だったからなあ。 別府駅の渋い声の構内放送が今でも忘れられない。
べっぷ〜べっぷ〜べっぷ〜お疲れ様でした、別府です
こんな感じで。 >>106
両親の実家の熊本で楽しい夏休み、冬休みを過ごして、
宇和島に戻る時の寂しさが倍加される構内放送だった。
逆に休みの始まりに熊本へ向かう朝、
火の山1号を待つホームで他の列車が到着したときの
「べっぷ〜、べっぷ〜、べっぷ〜、べっぷです」ほど高揚感を与えてくれる声もなかった。 やまなみハィウェイの観光バスか急行「火の山」かで悩んで
バスに決定したのはウチの家族旅行だったりする。
阿蘇には遠足も含めて何度か行ったけど
マウントカーには乗れずしまい
熊本〜別府・大分はともかく
阿蘇観光に豊肥本線は昭和40年台から絶対的に観光バスに負けていたよなあ >>108
九州横断国際観光バスって仰々しい名前だったよね。
「観光」という面ではバスの方が勝ってたな。 1972(昭和47)年の夏休み、僕は小学4年だった。
大分県臼杵市にある父の実家に過ごしていた。
鶴崎の従兄の家へ遊びに祖母と一緒に臼杵駅のプラットホームで上り普通列車を待っていた。
その列車を何とC58が牽引していた!!
DF50だと思っていただけにその感激は大きかった。
列車がトンネルに入った。
白熱灯のやさしい光線が僕らを包んだ。
僕は面白半分に窓を開けようとしたところ、
「これ、だめよ。煤煙が入ってくるよ。」と祖母は注意する。
お互い微笑みあったあの時。
あれから36年。
すでに祖母もC58もオハ35系も極楽浄土へ旅立った。
>>98
そうですか、やはりキハ55ですね。配置表のサイトを見るとにバス窓が三両ほど
大分にいたようですね。キハユニ16はちょっと覚えていません。他の10系気動車
はいなかったようですね。
>>99
キハ45は昔の写真でよく出てきますね。
>>111
ウチは母親の実家が上臼杵駅の近くでした。夏休みになると大分発正午くらいの
西鹿児島行き普通列車を毎回利用してました。
私が乗った頃はED76と35系の客車だったと思います。77〜80年くらいの頃。
一度友達と大分から宗太郎駅まで客車列車で往復してきたこともありました。
その時帰路大分駅で出迎えた親に、列車が完全停止する前にデッキからホームに
飛び降りたことを激しく叱られたのを覚えていますw
しかしC58、DF50が見れたのは羨ましい・・・。
豊肥線でC57のイベント列車に乗ったことはありますが。
・・・77年の時刻表見てますけど、現在に比べるとやはり便が少ないですねえ。
ここはなかなか盛り上がりますな。
そう言われてみれば大分運転所には10系気動車はあまりいませんでした。他にはキハ17の47番がいましたね。
南宮崎電化の直前、訓練運転でED76+DF50牽引の列車がたくさん走りました。
貨物列車はまだほとんど蒸気でしたから、それを見て急に近代的になった気がしたものです。
>>112
あの当時臼杵を通過するSLはD51の貨物も走っていました。
猛煙を吐いて通過する姿を見ました。
深夜も汽笛が聞こえていました。
1974(昭和49)年4月までD51が活躍していました。
臼杵付近のトンネルや鉄橋、踏み切りを見ると今にもD51の貨物列車が通過しそうです。
1975(昭和50)年3月宮崎でC57のさようなら列車が日豊本線最後のSLです。
>>113
ED76の客車列車も懐かしいですね。
すでに僕は中学生になりスリルを味わいたいために走行中デッキのステップに乗っていたのを覚えています。
今から見れば大変危険な行為ですが当時はさほど珍しくはなかったようです。
貨物列車の大幅削減。客車列車の全廃。
日豊本線に限らず1970年代と比べると今の列車ダイヤは本当に寂しい限りです。
「富士」も来年で見納めとなるようです。 >>114
僕もED76の試運転列車を見ました。
地元の人たちは近代的な赤い電機機関車を珍しそうに見ていました。
小学5年の時で1973(昭和48)年〜1974(昭和49)年の頃と記憶しています。
蒸気が廃止されるうわさもこの頃から聞き始めました。 小3だったと思うが、由布院に行って小倉へ帰るとき
直通の「はんだ」に乗るか「由布〜フェニックス」にするかで迷った。
結局、55系の「はんだ」はクーラーが無く暑いので
涼しい58系の「由布〜フェニックス」ルートにした。
大分で乗り換えの時にDF50の「富士」を見て興奮した。
大分で小学生をしていた頃の同級生の父親が機関士で
遊びに行くとたまに色々な話をしてくれたものです
見習い(?)機関士だったころ人を線路上にいた人を跳ねてしまった話をなさるときは
涙を目に浮かべておられました
ED76は最高の機関車だ、というようなこともおっしゃっていましたね
引っ張るものの多くは貨物列車だということでしたが
「富士」や「彗星」を引っ張るときはやはり気をつかう、腕の見せ所だということでした
この方も数年前、鬼籍に入られました DF50と20系客車は本当によく似合ってました。
上りの「富士」だと大分で機関車の交換、付属編成の増結、と大がかりなドラマがありますから、興奮ものでした。
仕事を終えてナハネフ23から切り離されたDF50が独特のエンジン音を響かせて去ってゆくと、今度はED76に推されてナロネ21を先頭にした付属編成がやってくる…。たくさんの荷物を持って旅立つ乗客でホームはいっぱいでした。
いい時代でした。 ここ
相当古い時代の大分近辺の国鉄写真があるよ
ttp://6.fan-site.net/~haasan55/JNRnippou.htm もう三十数年くらい前だけど、大分から特急日向に乗って宮崎に行ったとき、宿泊したホテルが大淀川沿いの鉄橋の近くにあって、
ホテルから蒸気機関車が汽笛を鳴らして鉄橋を渡っていったのをみました。
その数年後に宮崎に行ったときは、宮崎駅でDF50が走っていましたね。昭和49年当時「蒸気機関車」という
月刊誌があって、それに大分以南の蒸気機関車の廃止の特集があったように思います。
数年前まで大分駅の2番・3番線ホームの宮崎方面の先端に、貯水塔と石炭置場があったと記憶していますが、
もう無いんでしょうか?
>>37
それ見ましたよ
水色の綺麗なヘッドマークをつけていましたね
上り列車は機関車が後ろ向きのままで走ってきたような憶えがあります 久大線にはその昔、博多発筑後大石行きがタケ車で早朝にあったな。
到着後、数分で鳥栖に折り返すが当時はまだ新しい17系ばかりだったな。
>>77
キユニ16末期は朱色一色になり頑張ってましたね。
キユニ26もバンパー付きが懐かしい。
>>59
日豊本線と聞くと私も真っ先に思い浮かぶのは日南3号。
それ以外にも、優等列車から蒸気が引退後も臨時列車に蒸気列車がありましたね。S46年、都之城発の高千穂51号は宮崎までC57117の牽引でした。 あの朱一色ってのは、中央線なんかのとは違って、いかにも品がなくて嫌だった。 70年代後半の時刻表を見るとやはり長距離PC鈍行が各地に存在してますね
日豊線でも西鹿児島527→2120門司港とか、宮崎1310→006門司港とか。
来年廃止の富士が当時は西鹿児島発が午前中の941なのは驚きですw
他にもDC急行のしいば、EC/PCの日南、くにさきなどの長距離急行がたくさん。
当時小学生だった私ももう一度この頃にタイムスリップしてみたいです。
まあ、最近は去年20年ぶりにやり始めたNゲージで再現してますがw 国鉄時代の久大線といえば、久留米寄りは竹下区の気動車も使用していたこともあり
博多発着の列車ありましたね。
国鉄末期は快速あさぎりの天ヶ瀬への58系3連の送り込みや、上りの始発博多行きは
鳥栖まで58系の2連、鳥栖で当時新車のキハ31×2連を増結して鹿児島線の通勤列車に
なっていましたね。この列車、昔は水城通過だったような?
だが今でも、特急ながらゆふ森などの架線下DC健在ですね…
国鉄時代の久大線といえば、久留米寄りは竹下区の気動車も使用していたこともあり
博多発着の列車ありましたね。
国鉄末期は快速あさぎりの天ヶ瀬への58系3連の送り込みや、上りの始発博多行きは
鳥栖まで58系の2連、鳥栖で当時新車のキハ31×2連を増結して鹿児島線の通勤列車に
なっていましたね。この列車、昔は水城通過だったような?
だが今でも、特急ながらゆふ森などの架線下DC健在ですね…
>>128
>快速あさぎりの天ヶ瀬送り込み。
急行「あさぎり」のころは
博多→(普通)→天ヶ瀬→(急行あさぎりで往復)→由布院(?)→(急行ひこさん)→博多
だった記憶がある。
日田〜由布院間は下り急行由布に併結?>ひこさん
あれは(はんだ)だったかな。66,67系
>>129
片道だけ存在した日田彦、小倉経由「ひこさん」のからくりというか、運用だね
>>130
はんだが正解で、併結は片道だけ。
時刻表引っ張り出して確認した(1979) まだ90年代半ばまでは、西鹿児島から宮崎で列車番号変えて大分より北まで直通、なんてのもぽつぽつあったね
サロ改のクハ455がロマンスシート残していて、リクライニングは無理でもフットレストは生きてたからくつろげた そういやオイのは回転機構とフットレスト生きてたから快適だったねぇ。 フルリク装備の分オイキハ58の5000代配置直後、由布用にはキハ28の5200代があった為、久大の普通運用に
よく入っていましたね。連結相手はキハ45や53で冷房入らず…
国鉄時代はクーラー付のキハ58、普通列車の運用に入ると電源がないため冷房入りませんでしたね。
その為、扇風機回ってました。
JR化後も久大の客車列車末期にはフルリク装備のスハフ12が走りましたね。
>>134
元は夜行日南用だったヤツね。
ガキの頃に乗った夜行日南の座席はボックスのままだった・・・。 国鉄末期は無駄に編成長かったので昼間ならボックス一人占めできましたね。
それどころか、一両貸切りのときも・・・。
久大線の久留米口DC8連なんて、今では想像つかないですね。
鳥栖← キハ35・30・58・55・53・55・45・キユニ26 →大分
←門タケー→←ーーー分オイーーー→
S58年頃かな >>59 >>124
3号だったかどうか判らないが、親に連れられて帰省で乗った夜行の「日南」
生まれて初めて乗った寝台車両が懐かしひ。
朝、日向住吉を通過した際に目に入った日向「住吉」という駅名を見、
その瞬間「神戸に帰りたい(泣」と、日南市の本家に着く前からホームシックに
罹ったあの頃のポク…(遠い目)。 >>132 ロマンスシート
志布志にいたキハ26-400のやつですか?
久大本線を通しで走る貨物列車って、いつまで走っていたのかな?
蒸気時代、日田に停車中の貨物の最後尾に連結されたワムフ100が懐かしい。
>>139
昭和57〜58年頃までじゃなかったかと思うけど・・・違っていたらゴメン。
昭和62年が貨物廃止だけど
通しってところが判んないな
晩年は通しの貨物なんてないしね >>140
大のDE10牽引で鳥栖操〜日田間1往復の貨物列車は確か59.2改正で消えましたね。
同改正でCTC化、郵便荷物取扱い廃止、急行由布のグリーン車も消えました。
キハ55系列も同時に大分から居なくなった様な? こちらのサイト様に素晴らしい久大、宮原線の写真が
http://www.k4.dion.ne.jp/~kidousha/31-kyuudai/31.kyuudai.html 久大線の恵良を出ると大分方面右手車窓に、
宮原線跡の築堤がかなり長い間見えるな。ちょっと感動する。 >>143
バス窓キハ20一般色ですか
一度乗ってみたかった
タラコは高千穂線で乗ったけど 1980年に宮原線乗った。
下りの最終だったので、帰りは引治までタクシー。
引治で蛍が飛んでた。 今、麻生釣など宮原線沿線の温泉があらためて注目されているからなあ。
湯布院、黒川が韓国人に占領されていることもあるけど。
宮原線が残っていれば、博多から観光特急が走っていたかもしれない。
国鉄、大分地区の思い出。S56年前後かな、貨物列車削減と思うが、高城駅構内に大量のED76が休車状態で留置されていたのが印象に残っていた >>149
76の若番(一ケタ)は国鉄末期まで走っていましたが…
私は76より小さいED74のブルトレ牽引が好きでした。
>>149
高城駅にはED74も長いこと留置されてたね 九州オリカラのキハ58系もはるか昔の話だね。
あまり好きじゃなかったけど。 鹿児島市電があの急行気動車色を引き継いだ?時期があったような 大分の配置されている415系ってあまり話題にはならないけど、
常磐線の初期型無き現在、415系唯一のセミクロスシート車なんだよね。
大分付近よりも北九州で働いてる事が多いみたいだけど、小型テーブルも何も付いていない
オリジナルのままの近郊型のボックスシートがいい。
ED74は好きでした。
そういえば、ブルトレ(彗星?)の間合い運用時だと思うのだが
ヘッドマークは付けたままで、緑色っぽいカバーを被せて走っていた。 ヘッドマークといえば
蒸気時代、カマのデフ裏によくヘッドマーク収納してましたね。
門司や大分のDE10にはヘッドマークステーが付いてたのがあったね。
昔、あかつき牽いていた証拠か…。 >>156
DE10のそれは「タウントレイン」のでは? >>157
「タウンシャトル」ですね。
あれは大分区の台形型のステーでした。当時は気動車も付けてました。
DE10の手すりに付いているものではなく連結器上部の床から棒状にはえていたやつです。
元お召機1209号にも国鉄時代は付いてましたね。 日豊線と言うとC55・C57牽引の貨物。
国分・隼人で組成した「たばこ列車」を牽いて鹿児島を通過。
西鹿児島から指宿線に入り、指宿線と鹿児島線が別れる所にある専売公社の
乾燥場まで直通していた。
現地に行った事ある人なら解ると思うけど、鹿児島運転所に入出場する列車を
観察するベストポイントにこの専用線があって、ちょうど専用線の門が開いたので
へろへろの線路だし貨車入換機か、よくてタンク機だろうと舐めてたらいきなり
C55が這うような速度でやってきてビビったのも懐かしい。 日豊本線が全線電化される頃の話ですが
西鹿児島発、門司港行は宮崎で停車時間が90分位有ったような・・・
後に同一列車ながら列番が宮崎で変わって、ダイヤ上では
西鹿児島発、宮崎行と宮崎発、門司港行の別列車になったと思います。
>>160
一時期、一番長く停車する列車としてあったな。
今の紀勢線の紀伊長島並み 「同一」列車か「別」列車かは一応時刻表で同一列車を示す記号の有無で
判断されていたね。
今でも鹿児島中央発延岡行の6960M〜760Mは宮崎で50分近く停車するな。 >>163
別列車なのをいいことに、車掌は人件費削減のために一度降りてしまう
のですかね?末期の中央(東)線の普通夜行の下り甲府がそうだった… >>164
車掌もなにもそもそもワソマソだろw
運転士はたぶん交代だろうけど。
豊後森で1時間以上停まってた客レのレチさんはタバコ吸ったりコーヒー飲んだりする
以外は乗ってたなぁ。 なんだかんだ言いつつ久大線を全線走破しちゃってたあの50系鈍行か。乗り通したよ。
豊後森の待ち時間が激しく長くて、駅の回りをふらついた覚えがある。
駅近くのスーパーで「チャンポンの麺」(ローカルな製麺所のチープな個包装)があってちょっとカルチャーショックw >>166
スマン、俺が乗ってた時代は12系だった。
大学生の頃、実家と下宿先との行き来で久大線客レはしょっちゅう乗ってた。
駅前のスーパーしょぼすぎるよねw
何か食べ物買おうと思って行ったらラインナップの貧弱さがちょっとショックだった。
駅前通りも何にもなくて時間つぶしに苦労する駅だった。
のちに気動車化されたけど客レのスジに入ってたのはSSL色のキハ58やらキハ47やら
がごちゃごちゃに組成された編成で面白かった。 鳥栖10時くらいに出てた50系客レはよく乗ったな。乗り通した事は1回だけど。
博多から近いから特別早起きしなくても、手軽に乗れる客車列車だった。
昼間なのに4Bもあったからほぼ貸切みたいな状態がほとんどだったし
豊後森では、駅のまわりを歩いて一周しても時間が余って困ったな その列車、昔は大分方にオハニ36を連結してた。
海、山編成が全盛の頃は良くDEの回送をこの列車でやってて重連になることが
多かった。
客車4Bなのは日田近辺の高校生が試験などで半ドンになった時のこと考えてみろ。
国鉄当時はこの客車の後のDC列車はキハ20先頭のタケ車の凸凹5両編成だった。
10年ほど前大分発昼過ぎの久大線に乗った。いい車両の客レだったな。
そのあと原田から筑豊線乗ってそのときはまだ非冷房DCだった。
若松から戸畑まで船のったら,切符すらなくて10円玉を3枚ほど
箱に入れただけだった。 日豊本線というと、蒸機時代の末期、田野や青井岳に通いつめた日々があった。
門石や楠ヶ丘の信号所、今はどうなっているだろうか。あれ以来すっかりごぶ
さたしていますが。
あのころは、信号所にとまる列車ならば、車掌にいうと運転室のドアをあけて
おろしてくれた。
はじめは山之口から楠ヶ丘まで歩いた。重い写真機材を背負って、これはきつ
かった。 >>172
信号が自動化された以外は今でもあの辺りは変わってないよ。
>>172・173
そう、変わってないね〜
DF末期に行って以来、20年ぶり位で行ったら
昔と同じ風景の中に電車を見て感慨深かった。 >>172
俺も歩いたな。中学生の頃。
ただ、青井岳の鉄橋で写真撮るつもりが、
そこで知り合った大学生のお兄さんからなぜか「田野まで歩くぞ」と言われて拉致されて。
トンネルで「彗星」と遭遇して、待避所に隠れたりして、あの頃からすれば
マジで命懸けの冒険だった(そのことを後日作文に書いたら、生まれてはじめて賞状をもらった)。
楠ヶ丘と田野の間の俯瞰ポイントで「日南3号」を撮るために山に登って、
野生の猪に追いかけられそうになったりして、まあ、いい思い出なんだけど、
なんでそこまでやったかなあ、と今でも思う。
青井岳からでもそうなのに、なんと山之口から楠ヶ丘まで歩いた強者がいたとは!
>>176
172です。
駅、信号所の順序は、次の通りとなっています。
宮崎方−田野−門石−青井岳−楠ヶ丘−山之口−都城方
そして、田野と門石の間および楠ヶ丘と山之口の間にはトンネルはありません。
青井岳をはさむ両側には、それぞれかなり長いトンネルがあります。
このとき、貴兄はおそらく青井岳と門石の間をあるいたのではないかと。
ここには、貴兄がおっしゃるような下り列車をのぞむ絶好の俯瞰お立ち台
があったかと思い出されます。なお、この場所には宮崎からすぐ近くまで
行けるバスがありました。あとでわかったことだったのですが。
また、山之口からは楠ヶ丘へ行くのも、途中まで入るバスがあったのでした。
田野〜青井岳間を走る「富士」が掲載されている写真集あるよ。
その名も「特急列車」
撮影者は廣田尚敬氏
竜ヶ水〜鹿児島間を走る「はやぶさ」の写真を見てみたい。
大畑付近を走る「はやぶさ」の写真は見たことあるが、日豊線上のは見たこと無いので。
写真では矢岳越え仕様のD51重連だったが、山を降りた後の牽引機が気になって
仕方が無い。
吉松あたりの旅客機に付け変えたか、それともこんな所を「はやぶさ」が通ってる時点で
どうせダイヤはgdgdだから、と開き直ってそのままD51の本務機を使ったか。 久大線というと、天ヶ瀬温泉に汽車が見える露天風呂がありましたね。のんびり
とつかりながら、豊後森の86などがひく貨物列車などをみていると、そのあとの
撮影はまたということになったりして。
ということは、列車からも露天風呂がみえたわけ。 >>178
そうですね、門石と楠ヶ丘を取り違えていました。
青井岳から田野まで歩いたその年だったのか、あるいは別の年だったのか、
青井岳荘に泊まったら、夕方、原の東海大相模対定岡の鹿児島実の試合を
ロビーでテレビ中継していて、客は撮り鉄ばかりなのに、
なぜかみんなで興奮して観ていたことを思い出します。
今度子供連れて青井岳を再訪してみようかな…。 >>182
178です。
青井岳の国民宿舎、私も利用したこたがあります。なつかしいですね。
その時も、利用者のほとんどが撮り鉄でした。
このあとここが電化されたらこの宿舎は成り立つのだろうか。そんな
ことも考えたものでした。
>>181
いっしょにドライブしていた女友達と明け方の天ヶ瀬の露天風呂でいっしょにふざけていたら
いきなりおじいさま方の団体が入ってきてちょっと恥ずかしい思いをしたことがあります
夏とはいえ何もこんなに早く来なくても良いだろうにと思ったものです
4時半くらいだったと思いますよ
>>179
あの頃、「富士」は「日南3号」のすぐ前を走っていました。たいていの場合
DF50の「富士」は、そのあとに来るC57の「日南3号」のリハーサル列車でした。
小学校の窓から大分電車区と日豊線の線路が良く見えまして、
一時間目の授業中は「高千穂」三時間目はディーゼル特急「にちりん」
給食の時間は「富士」が通過 こんなんばっか気にしてたんで、小学校の成績はボロボロ
約35年前の光景でありました。 >>186
まさかもともとの「鹿児島本線」の八代〜鹿児島間が
現肥薩線日豊線経由だったの知らないのか?
>>188
昭和2年から肥薩線だから
はやぶさの設定時はすでに肥薩線だった訳だが…
実情は知らんが迂回運転のことじゃないのか? >>188,189
調べてみたら昭和40年(?)水害で鹿児島線が不通になり
肥薩線を迂回運転したようです。
写真は見つからなかったけど。
188はもう少し頑張りましょう。
>>187
津留小からは線路なんて見えないよね?
下郡小はその時代なかったはずだし…。どこ? >>178
門石〜青井岳の俯瞰ポジション。
10年位前に通った時、
築堤はそのままでしたが、手前の木が成長して、
おそらく築堤が見えない状態でしたね。
南国の木の成長は早いものだと思いました。 当時 津留小の3階から今はなき裏川はさんで障害物なしで
日豊線を鑑賞でけたんですよ そうなんだ。
時々、野球の試合とかで子供を津留小に送っていくけど、
当時の様子は想像もつかないな。
という俺は大道小。
銭湯に行く途中に大道の踏切手がいる踏切を通っていたけど、
富士を牽引してきたDF50が引き込み線に入るのに踏切を塞いで、
親たちはぶーぶーだったけど、俺はそこに行き当たるとめちゃくちゃうれしかった
覚えがある。 幸崎〜南宮崎の電化は49年だと記憶していますが、あの区間のポールに
くっついている架線以外の電線を支える支柱って、「への字型」で独特な感じがする。
南宮崎以南や、幸崎以北ではあの形の支柱は使われていないし長崎本線や鹿児島本線でも
見たことが無い。
ただ、全然違う場所の、羽越線の交流電化部分にも同じ支柱が使われているのが面白い。
電化された時期がほぼ同じくらいなので、あの時期にのみ採用された支柱なのかなあ?? 九州旅行の折、別府温泉から日田へ移動するのに急行「西九州」に乗りましたが
近くに座ったおばあさんからおにぎりを勧められ、いただいた憶えがあります
湯平で降りていかれました 昭和50年代半ばの大分市内中学校の修学旅行は長崎だった、12系客車6両の貸切で行きは大分駅から日豊本線で小倉経由で博多で、帰りが諌早から鳥栖そして久留米から久大本線で大分駅までの列車利用だった。 連書きすいません、牽引機関車は大分から小倉がED76(大)小倉から博多までがED73の1000番台(門)諌早から鳥栖がEF70(門)鳥栖から大分がDE10( 大)だった、旅行前の注意で、列車トイレは垂れ流しだから、停車は絶対使用禁止と厳しく言われた。 修学旅行中に駅の立ち食いそば食おうとして、先生に怒られるやつ、
必ずいたな。 >>199
高校の修学旅行で寝台特急富士利用で門司&下関の機関車交換見学&ジュースや駅弁買い出しでホームに出て下関発車後教師に叱られた思い出有りです。 大分駅の1番線東側の短いホームは昔何に使われていたのでしょうか? 宮崎から鹿児島に行くのに間違って急行フェニックスに乗ってしまい
そのまま乗り通して着く奴はよくいた。 >>202
さすがにそれはねーわww
でも西鹿児島発吉松廻り都城行に間違って乗ってそのまま乗り通して着いた香具師は
見たことがある。
漏れは敢えて乗ったんだがそいつ都城の改札で捕まってたw >>201
国鉄時代の昭和59年2月まで大分駅でも貨物取り扱いしていたのでその時の貨物用ホームかも? 大分から別府に行くのに間違って急行ひまわりに乗ってしまい
そのまま乗り通して着く奴はよくいた。 >>201 ワムとか着けて日通のおっちゃん達が手下ろしで作業してたかな? 30年前 ワムとか聞いて日通のおっちゃん達が手下ろして作業してたかな?
ワムとか被って日通のおっちゃん達が手下ろして作業してたかな? >201
確か荷物のホームだったと思う。他のホームへ荷物を送るリフトもあのへんに有ったよ。 始めて日豊本線に乗ったのは78年。
まだDCにちりんが残ってた。 小学生の頃、博多駅で西鹿児行きDC特急にちりん5号を撮っていたら
運転士の方が運転席に入れてくれ帽子をかぶせてくれて運転台に座らせてくれたことがあります
とても嬉しかったですね
小倉に行くのに「にちりん」はよく利用しました
同じく小倉に行くのに「かもめ・みどり」に乗ることもありましたが
「みどり」側の自由席のほうが空いていましたね、乗るときたいてい「みどり」に乗っていました 小学校の頃家族旅行で別府行ったなあ
高崎山にラクテンチに地獄めぐり
豊肥本線使ったよ
約30年振りに日豊本線の大分以南に乗りました。特急での移動はずいぶん便利になっても、沿線風景はそれほど大きくは変わっておらず、とても懐かしくなりました。
反面、佐伯から先、宗太郎越えの普通列車は日中全く走っておらず、朝1往復夕2往復のみ!時刻表も調べずに途中下車しようとしてびっくりして断念。いつからこんな超ローカル線に…。
昼下がりの客車鈍行に揺られた思い出の区間でしたが、駅もほとんど使われないまま時が止まったようになっていて寂しくなりました。 昭和60年3月ダイヤ改正で無くなったが、大分〜佐伯間に50系10両編成が有った駅によってはホームからはみ出しが有ったのかな? 門司港ー行橋で田川線直通併結なら10両くらいあったような 35年前以上の大昔20系寝台特急富士が大分で後ろ半分切り離されて、
ナハネフ23を最後尾にした姿を目にして、何か見てはならないものを見てしまったという記憶が…
貫通路、貫通ホロ丸出しでなんかエロかった。 正月休み久大本線の杉河内駅を車窓から見たが国鉄時代そのままだった(ワンマン運転用ミラーを除いて)待合室に隣接のトイレも汲み取りトイレがそのまま残っていた。 >>37
その当時住んでいたのが三重町手前の線路沿いで
三重町には転車台がなかったので
下り大分行きは後進で帰っていたのを思い出します
その当時小学生でした
>>113さんの言ってたのはこの「豊の国号」の事ですね
中学生の頃には「あそBoy」が大分まで走ったのを思い出します。
水害で架け直されましたが緒方−朝地間の鉄橋で写真を撮りました
>>134
キハ585000番台は間合いに豊肥線を走っていて
高校への汽車通学で乗る事がありました。
由布編成も朝夕の50系の代替で走ってました
>>216
「買い物切符」のような存在でしたね>別大きっぷ
券売機で売ってて特急の自由席に乗れたのを思い出します
>228
別大フリー切符でしたっけ?別府駅に自動の券売機がない時代は窓口で売って
ました。細長くて赤身がかった色でした。大人280円だった記憶が。 >>229
レスどうも
別大フリーきっぷでしたね
硬券で細長いのだと自由席特急券を思い出します 梅の屋の幕の内弁当とポリ容器に入ったお茶が懐かしい・・
昔の別大きっぷの硬券はとんでもないところで貰った。
廃止間際のJRバス九州佐賀関出札所 >>231
俺は子供の頃、入場券買って、ホームで梅の家の酒まんじゅうを食うのが大好きだった。
>>234
有りましたね!! 酒まんじゅう!!
冬は、売っているところから湯気がたっていた記憶がある・・・
あと、梅の屋と関係が有ったかどうか覚えてないけど、キオスクで網に入ったゆで卵を売っていて
子どもの頃、列車にのる時、良く買ってもらっていた。
おめーら懐かしいなあ、おい。
昭和55年ごろ大分を12時過ぎに出発する旧客の西鹿児島行きがあったなあ。
親戚の家に行くのによく乗ってたよ。
あれに乗って終着まで行くのが夢だったな。
その後、50系で久大本線を乗り通したけど余り感激はなかった。
今からするともったいないな。
>>62
超亀レスですが
>たった一駅区間のために客車を一両ぶら下げてわざわざ客扱いするとは、想像できません。
いや、1両つないでいたようです。
ttp://blogs.yahoo.co.jp/br1020er/7645176.html (写真あり) あとは、大分駅のうどんだな。あれがうまかったが、いつのまにかなくなった。
代わりに、小倉駅の鹿児島上りホームでうどんくってる。味はかなりにてる 子供のころ覚えた時刻って不思議と忘れないもんだな。
新幹線博多開業直前に宇佐までいったとき
東京615(ひかり1号)→岡山1040(みどり1号)→中津→車
だった。 >>238
一番ホームのうどん屋なくなったの?
上の方で誰かが書いてた酒まんじゅう売ってた店と
もう一つのうどん屋はだいぶ前になくなったね >>238
確かまだ大分駅の1番ホームには残っている>>立ち食いうどん
以前は4・5番ホームにも有ったけど、ずいぶん前になくなっちゃった
ですね・・・
新しい、高架の駅には、残るのだろうか?
>>241
>>240ですがそうだよね、
一番ホームの店がなくなったって話は聞いたことなかったから。
高架化開業で店は引き継ぐんだろうか。
何しろ梅乃家が業務縮小してるから微妙なところだ。
どっか他の業者が継ぐって話でもいいから
続けてほしい 大分で立ち食いうどん、と言えば、相当むかしに、移動式のうどん販売が有ったのを
見たこと有る・・おじさんが、うどんを作るカートみたいなのを押してホームで販売
していた。
一番ホームの現存しているうどん屋さん、かなり美味しいので残って欲しいな・・
でも、いまいち目立たない場所だと思うので、売り上げ良くない気もするけど・・
微妙にスレ違いだけど西鹿児島駅西口にあった日食の一階にうどん屋があったけど
看板に博多の味と書いてた記憶があるが博多とどう関係あったのだろう >>245
博多がうどん発祥の地だからじゃね?
個人的には博多のソフトな麺と甘みの有るブレンドの出汁、それに博多万能ネギの
組み合わせが一番旨いと思う。 大分・中津・別府・佐伯・延岡の各駅で駅弁を売っていた梅の家って
今は大分駅の一番ホームの立ち食いうどん屋をしているだけなのかな?
昭和55年7月の時刻表で当時の別府〜大分と大分〜佐伯、大分〜豊後竹田間で急行用編成での間合い運用の普通列車でグリーン車は自由席の普通グリーン料金を取っていた(100キロまでで700円) 三角線とか書くからデルタ線のことかと思ったじゃないか! >248
13時過ぎに別府から豊肥線に入る普通列車がない?
急行火の山の折り返しと思うんだけどね。僕は別府から
大分までその列車のグリーン車に何回か乗ったが、
グリーン料金は払わずに乗れたように記憶する。 急行間合い使用の場合グ開放とグ営業の2通りあったな。
あと九州の場合急行末期は急行として営業の場合もそれまでのロザはハザにしていたから
そのころの間合い使用はオールグ開放だったな。 >>252
急行の指定席車両にはキロ使ってましたね。 開放グリーンといえば、門司港発朝一の熊本行きは457系の間合いで
グリーン車はシートカバーが付いてなくて、料金なしで乗れた。
ちなみにそのすぐ後に発車するのが、日豊線始発の大分行きで、ED76が引く
旧客だった。 日豊線といえば特急富士とリニアモーターカーの組み合わせを思い出す 日曜日だったと思うが
富士廃止関連で合同新聞に特集が出ていた
日豊線を走った夜行列車の歴史とか載ってて面白かった 熊本まで火の山には良く乗ってたけど、当然普通車。
受験の時初めてグリーン車に乗ってみた。
今だと3列シートでゆったりしてるけど、
当時のはただリクライニングシートってだけで、
今のつばめの普通車と変わらなかった。
お役御免になったサハシ455は長い間、高城駅側線に放置されていたな。 >>258
多分大在駅だよ、高城駅はED74が留置されていたよ。 >>258のお兄さん。高城駅にも留置されていたんだよね。
時期的には使用廃止直後だったよ。それからの移動かもね。
50系もお役御免になってからは大在駅と高城駅に留置されていたよね。 大在の50系は色褪せが酷かった。
耐用年数考えると、駅を通る度にもったいないと思ったもんだ。 テレビニュース等に出た富士登場の時のDF50ディーゼル機関車牽引の20系寝台客車の富士が良かった。 小学校のころ、(78年ごろ)、友人と大分→久留米の、急行に乗ったが
タブレット交換をまだやってた。珍しくて先頭に張り付いて見てました。
運転助手がタブレット扱い。全駅に、受け渡しの駅員が2名ずつ。
今じゃ無人駅ばかりでつまんないこと。 どうやら、佐伯-延岡もワンマン運転になるらしいんだが・・・
考えてみりゃ、'70年代だって、1両オハの混合列車ばっかりで十分だったんじゃないかと・・・
>>266
国鉄当時は運転席後部の窓はすべてカーテンおろしていたよね。
たまたま開いていたとか。キハ55が先頭で仕切りなしのヤツだったとか?
最近まで783系の窓も運転士によっては閉めてたね。昼間でも。
久大線はCTC設置の59.2改正より南久留米〜光岡間9駅が短期間ですが全て
無人化されました。(既に無人だった筑後草野除く)
タブレットと腕木の時代が懐かしい。
湯布院ぐらいまで、目隠しがなかったように、記憶してます。
2人で、あんまり張り付いて見てたら、バシャッと閉められた。w そうでしたか。国鉄時代はほとんど前面閉ざされてましたもんね。
国鉄型は運転席に灰皿も付いていたし…。
DE10の機関士なんかメーターパネルの上に片足上げていたり。
でも駅にいくと「坊主乗るか?」と声掛けられたりで優しい人が多かった。
おかげで当時新鋭のヨ8000なんかも乗れたな。(停車中に) 亡くなったじーちゃんが豊肥線のSL運転してたらしい
今でもどこかで実物が見れますか? >>271
C58だったら
秩父鉄道
梅小路蒸気機関車館 動画移転しました〜
よければ閲覧してみてください。
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm6619945
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
揚げ
山越え路線が好きな私にとって肥薩は勿論、九大・豊肥も無視できない。
キハ52で越えたいな、立野と宮地―波野。 >>279
×九大○久大
国鉄時代の昭和60年夏に熊本から宮地乗り換えで普通列車利用でキハ52乗りました、冷房無しで開け放った窓から入る高原の風が良かったです。 >>279
その当時の豊肥本線のキハ52は熊クマの所属でした、確か他形式も混結で普通列車でも4両編成でした。 52といえば最近修復された志布志にある奴、
あれは最終はカコ所属だけどあちこち回ってたのかな? >>282
キハ52 130は生涯鹿児島。
今は鹿シシになってるけどw 国鉄からJRになったから寝台列車が。。。
せめて関西ー九州の間だけでも。。。 佐伯駅からリンクしていた興人佐伯工場線や
延岡のイヒの工場線って、
佐伯、延岡の各貨物駅からトラック輸送だったの?
それとも日豊線を貨物列車で北上していたのでしょうか?
鉄道輸送であれば輸送先ってどこまでだったのでしょうか?
詳しい方、ご教授くださりませ。。。 >>285
すみませんけど。。。私は当時の佐伯の事は判らないのですが・・
昔(昭和50年代)に大分駅から目立たない引き込み線が大道の
方にあった倉庫のほうに走っていたのをリアル餓鬼の頃、自転車
でウロウロしていたときに見つけたりたことが有った。
駅裏の道を横切る線路には、踏切も信号も無かったので大丈夫
なのか・・・・と当時少し疑問に思ったり・・・
昔は色々な所で貨物用の引き込み線が有ったのでしょうね・・・
昭和50年代津久見駅の手前(大分寄り)に小野田セメント(今は太平洋セメント)に延びる専用線も有った、一旦津久見駅の側線に運ばれ発送されていたようだ(行き先は残念ながら分かりませんでした) 何も知らずに親戚の家からちょこっと駅へ行くと交直流色!手持ちのインスタントカメラで激写しまくったのも懐かしいが、このスレでは新しい話題だな。
架線下なのにひたすらキハ58なんてのも懐かしに入ってしまったが… 「しいば」かね?電車化で日南、特急格上げでにちりんになった
別府始発の朝一番の下り優等列車 しいばはS53年10月で日南に統合されたが当時の南宮崎〜鹿児島間が非電化だったので気動車だった、車両はキロ組み込みの6両で大分所属だった確か久大線の由布と豊肥線経由の別府〜博多火の山と博多〜長崎の出島1往復と共通運用だった。 鹿児島に行った帰り、地元の駅は電化前で跨線橋がなく、
蒸気機関車の直前を横断して駅舎側に渡っていた。
子供のころで、機関車はすごく大きく迫力があって、
蒸気を吹いて怖かった想い出がある。 >>290
高鍋だと宝酒造ですな。
高鍋駅に近く、引き込み線跡らしきものもある。 >>294
別府始発の「にちりん1号」の運転開始日にたまたま乗りましたよ。
仕事で大分から延岡まで乗りました。 今は無き別府の五色弁当をもう一度食いたいな・・・・
別府のヤマベすしも食べたいな・・・・
日田の鮎寿司もなつかしい
梅の屋の幕の内も食いたいな 延岡か高鍋かよく覚えてないが、肥料だか化成品だかやたら街中が臭かった覚えがある
撮影旅行でどんな環境も気にしなかったが、釧路の魚市場の匂いの次に閉口した
匂いといえば、昔トンネルを列車のあいまを見計らって反対側にくぐりぬけるとき、蒸気機関車の
煙の匂いとまじってやたら湿っぽい空気の中に生臭い匂いが充満していたのも妙に印象に残っている。 豊肥線の水前寺駅もすっかり様変わりした 昔は駅舎も平屋で隣は日通の倉庫があったが今は駅ビルになり駅の上はマンションになり倉庫だった所はスーパーになってしまった >>302
俺は延岡の鮎の蒲焼弁当・・・
高千穂線に乗りに行った時食ったなあ
>>303
イヒ!の工場があるから延岡では?
富士と富士のスレ違いみたひといるかー?
廣田尚敬さん(だったと思う)の写真に萌えた時期あった。 >>306
写真では北延岡だけど
生で見たのは南宮崎富士末期、
高架になったばかりの宮崎駅だったなぁ。 たぶん25年くらい前に 柳ヶ浦行きの鈍行を小倉からよく乗ったなー
旧型で柳ヶ浦から50系で大分まで 4時間 かけてたかな
柳ヶ浦駅前の東京食堂でカツどん食ったっけな
未成線・廃線
縦断 高千穂(高千穂鉄道)ー杉安(妻線)ー都城(日豊線)
横断 宇土ー浜町−高千穂(熊延鉄道)
砥用(熊延鉄道)ー高千穂(高千穂鉄道)
杉安ー吉松(肥薩線)or八代(鹿児島本線)
日向市(日豊線)ー砥用(熊延鉄道)
延岡ー高千穂 (高千穂線 廃線)
高千穂ー高森(熊本)南阿蘇鉄道 (未開業線)
高千穂ー浜町(熊本県矢部町)−宇土(熊本)鹿児島本線
(未開業線)
佐土原ー杉安 (妻線 廃線)
杉安ー湯前(熊本)くま川鉄道湯前線 (未開業線)
宮崎ー小林(未開業線)
西都城ー志布志(鹿児島)(志布志線 廃線)
明治42年 鹿児島本線。大正12年 日豊本線。
平成7年 九州縦貫(西九州?)自動車道(428`)だから
東九州自動車道(436`)は鉄道同様に14年後の平成21年に
全線開通していないと変?
鹿児島本線 博多(福岡) 87`42往復 熊本 76`15往復 鹿児島
日豊本線 小倉(北九州) 94`36往復 大分 66`8往復 宮崎
九州新幹線 2010年(H22年)長崎新幹線 2019年(H31年) >>309
くささく、どこそこどこそこ同じ内容のくだらない書き込みをするのではない!! 俺が小学生の頃 30年ぐらい前だが水前寺駅で火の山が通過した時にタブレットの授受を見た事がある あの頃は豊肥線も通票閉塞だった 豊肥線 昭和58年CTC化
久大線 昭和59年同
当時はキハ52の単行で立野まで行ってたような記憶が。 豊肥線の竜田口までタンク車が走っていた JR発足後もしばらくは走っていた DE10が牽引していた 消防の時走ってた58+28+31の3連に萌えてたのが懐かしい 久大線野矢って一時期交換撤去して棒線だった覚えがあるがいつ復活したのだろうか?
あとスレチだが阿蘇も一時期交換撤去、棒線だった希ガスが。 >>316
野矢はゆふ森増発(3往復化)した時に復活だったかと
阿蘇はあそBOY運転開始時に専用ホームみたいな形だったか むかし水前寺駅の近くに住んでて豊肥本線によく乗っていた。
一度5時過ぎに大分行き?(別府行きだったか?)普通に乗ったが熊本から
は4両編成のうちキハ26の旧2等車格下げ車に乗り、豊後竹田で「火の山」
の間合い運用の4連を増結したのでグリーン車に乗り換えて大分へ行った
ことがあった。 8両編成で超満員だった記憶がある。
帰りは最終の急行「火の山」で帰ったけど行きのほうが快適だった。
以上昭和56年ごろの話・・・。懐かしいな。 大分駅にはJR発足直後まで、SLの給水塔があった。 別府発火の山号、熊本でほとんど降りて三角に着くころはガラガラで、子供ながら
物悲しかった S50年頃、引越しで家財道具をワム8に乗っけて豊後中村駅から南延岡駅まで
送ったことがある(正確には自分ではなく、国鉄職員だった父親が送ったのだが・・・)。
それ以来彼の地を訪れる機会を得ぬまま現在に至っている。当時私の家族は、
駅の近くにあった鉄道宿舎に住んでいた。そこは水洗トイレではなかったので、
母親はその中身を柄杓ですくっては、ちょっとした菜園として利用していた家の
脇の空き地にばら撒き、とうきび等の肥料にしていた。また、駅の近くには、
珪藻土の工場(そのおかげで貨物営業が残っていたのだと思う。)があって、
それが流出したためか、その周囲は雨が降ると異様にぬかるみ、ちょっと歩いた
だけで大量の土が靴底にくっつき歩くのに非常に難儀した。
>>321
向かいの家では裏の畑にその類の「肥料」を撒いていた。
「おぢさんその畑には何が植わっているの?」
「ラッキョウだよ」
それから20年以上ラッキョウを口に入れられなかった… >>322
化学肥料が一般に広く流通するまでは
「下肥」が普通だったしね・・・
時代を辿れば江戸時代には高貴な方のそれは高値で取引されたそうな
とスレタイ沿線在住の鉄ヲタ肥料屋が言ってみる
兵庫県の別府鉄道の親会社は肥料会社の多木化学が親会社だったな・・・
スレチスマソ
>>321
地方の鉄道宿舎ボロかったよなぁ。。なつかしす 豊後森の扇形庫
キハ07がずっと保存されていたが沿線民としては
キハ45-600や53、キユニ16or26なども静態保存してほしかった。
あとキハ55も。
気動車ばかりでスマソ。 雨ざらしで公園とかに展示されているSLを外観だけでも綺麗に補修して
豊後森の機関庫の中で展示する様にしたら、SL長持ちもするし、かつて
の機関庫の雰囲気も少しはでて一石二鳥だと思うけど・・・
・・完全な動態保存は無理としても、イベントの時だけDE10とかで機関庫
から引き出して、ターンテーブルに乗せたりするとかぐらいは出来るようにして
くれるともっとうれしいのですが・・・・難しいかな? >>327
どっかの新聞記事読んだけどでそういう計画はあるみたいだね>公園展示のSL移動
確か玖珠の三島公園のを持ってくるらしい
湯布院でみたデゴイチは無残な姿だった・・・orz
>>328
直方区に長く居た戦時型C11-270ですね。
数年前見た時は野晒しで状態は最悪でしたが… 子供の時、大分から亀川まで乗った旧客車が妙に記憶に残っています。
40年くらい前の事なので型式も覚えていませんけど。
>>312
ジャーナル別冊の「急行ジクザク日本縦断」の時、ちょうどその辺りの区間がCTCになるかならないかの時期だったんですよね。 59.2改正で貨物列車が消え、郵便、荷物車も消え
急行からはキロ28も消え、駅からは貨物設備、荷扱い窓口、
転徹小屋、腕木信号機、タブレット、駅員までも消え去った。
あとに残ったのは温もりのない自動信号機と遠隔操作のポイントマシン
無人化するため改札口に付いた集札箱と対向ホームへ渡る為の真新しい
コンクリート製の跨線橋だけだった。
久大線のとある駅の話でした。 65&58は…やっぱりあぼーんなのかな…(´・ω・`)
指宿でも来ればいいのに…。 鹿児島駅を地下化にして、磯庭園のところに地下駅を設置。
竜ヶ水との間に信号所を設置、竜ヶ水と帖佐の間にも信号所
を作る。加治木と隼人の中間に新駅、隼人駅立体交差、隼人と国分
の間に新駅(SONY国分付近)設置、隼人と日当山の間(京セラ隼人)付近に
新駅を設置。新駅はすべて行き違い可能駅とする。
国鉄時代には、いろんな列車に、旅情があった。
JRに変わって、それがなくなり単なる、移動手段になってしまった気がする。 南熊本駅、昔のヤードがそのまま公園になってるんだな
水前寺ももうすぐ有明が来なくなるし、寂しいものだ 豊肥線直通特急は数本残るという話もあったようだが。 歴史でめぐる鉄道全路線
豊肥本線・久大線あげ
表紙開いてすぐ家近くの水路橋の写真で嬉しかった
ここもお立ち台なんだな >>342
今中九州道の工事を近くでやっていて
橋のそばを通るようだ
どうなるんかな 鹿児島口の特急や急行は、西鹿児島を出たら鹿児島、隼人、霧島神宮しか
停まらず、優等列車という感じだった。 宮崎 佐土原 高鍋 日向市 南延岡 延岡 佐伯 津久見 臼杵 幸崎 鶴崎
大分 別府 亀川 杵築 宇佐 柳ヶ浦 中津 宇島 行橋 小倉
私が物心ついたときの「にちりん」停車駅 宮崎 日向市 延岡 佐伯 津久見 臼杵
大分 別府 中津 小倉
私が物心ついたときの「にちりん」停車駅
鹿児島 霧島神宮 都城 宮崎 日向市 延岡 佐伯
大分 別府 中津 門司
私が物心ついたときの「富士」停車駅
これだけ絞り込んでいるのに、山陽線では柳井なんかに停まっていたような。
大分以北が未電化だった時代は、「みずほ」→「富士」はDF50牽引だったんだろうけど、
立石越えはどうしてたのか、ご存知の方はいませんか?
特急以外は、柳ヶ浦か宇佐で補機を付けていたから問題なかったと思うけど…。
DF50は単機で立石越えしていたのか?
しかし、馬力は(補機が必要な)C57などとあまり変わらなかったんじゃ? なつかしい列車
しいば やたけ フェニックス おおよど・・・ 佐伯ー延岡間の普通列車は昔の方が今より本数が多くて便利でしたよね 幼い頃急行佐多で宮崎に行く途中、南宮崎に留置されていた
583系彗星がいまでも脳裏によぎってます たった一年で581系「みどり」が日豊線から消えて、
それから十数年後(?)に「彗星」としてよみがえったときには、
ホント、よく戻ってきてくれたよなあ、と思ったな。 昔の客車は連結機に遊びがあるからか、機関車からガクンというような
振動が次々に後方の車両に伝わって動き出すような感じだった。
機関車はDF50とかC57とかだったかな。 >>252>>253
なつかしい。ハザはキロの格下げを使っていたよね。
昭和60年の春、「火の山」のハザを取って熊本まで遊びに行った時に乗った。
(熊本電鉄に乗りに行った)
指定を取ったのは佐賀関の「駅」だった。 >>358
国鉄バスの「駅」ですね
臼三線譲渡&撤退で大分からは
国鉄〜JR系バスの拠点がなくなったので
過去の話になってしまいましたね >>359
そうです。国鉄バスの「駅」です。窓口のおばさんが券類を発行してくました。
臼三線、JRバス撤退ですか・・レッドライナーが。
野津「駅」も見たことがあります。
6年くらい前、確か、台風なんかで三重町ー清川間が長く不通だったときのことかと思います。
三重町ー清川間のトンネル、崖を出るといきなり鉄橋なのですね。 昔きるりんシーガイアとかいう列車走っていたよね?
あれはいつまではしっていたっけ? >>360
野津駅は確か委託駅だった記憶があります
今は大分バス系列の会社が共同運行してます
車両も引き継いでいます
豊肥線沿線に住んでますが
岩戸の鉄橋のガケ崩れは
当時連日の雨が多かった事による地盤の緩みが原因のようでした
ガケ崩れの少し前に列車が通過してたのは不幸中の幸いでした
もしズレていたら大事故に・・・
三重町から乗って百枝トンネルを抜けてすぐ右手に
発電所が見える風景は好きです
>>362
360です。レスありがとう。
あのトンネル百枝トンネルというのですね。
三重町、数年前までまだ駅前食堂が何軒か営業していました。
まだあるのでしょうね。
発電所、地図で確認しましたらありますね。
沈堕の滝脇の発電所跡かと思いました。(遠過ぎますね) さっきフジテレビのアンビリバボーで竜ヶ水8.6水害の事やってた。
土砂崩れに巻き込まれた停車中の上下列車はその後どうなったのかね?
オイラが訪れたS49.4月はのどかな駅で確かに山が海に向かって急傾斜してた。
C57やC55が健在で駅発車時は黒煙を吐いてくれた。桜島の煙もよく見えたな。 国鉄時代、廃車になった485系やキハ80系が谷山、隼人、京町、加久藤などの
駅構内の側線に留置されていた。 >>363
レスどうも
三重町の駅前食堂は確か二軒あって
今も営業してたと思います
沈堕の滝は確か列車からは見えなかった覚えがあります
現在の沈堕発電所は沈堕の滝すぐ上のダムから取水し
水路で送水して発電してます
沈堕発電所も元々は別大電車の電力供給のために
作られたものと聞いてます
>>366
こちらこそ。
三重町駅前からちょっと離れたところにJRバス九州の駐泊所(?)がありましたね。
今どうなっているのでしょう。
また、竹田の駅には、小さな貨物用のインクラインがあったのを覚えています。 >367
JRバスの車庫とかは無くなり、柵で囲まれて空き地になっていますが駐泊所?の小さい
白い2階建ての建物はまだ使われているみたい。列車の運転手さんが泊まるのに使って
いる様子です。たまに運転手の制服を着た方が出入りするのを見かけます。
食堂は二件ともまだ有りますが、駅前に有ったパン屋さん(サンドイッチは手作りで美味
しかったのだけど・・)は無くなってしまいました。
三重町駅も今年のダイヤ改正以降?は夜8時以降、無人に成りました。それまでは終着
過ぎまで駅員さんが常駐していたのですけど・・。
>>368
>>366ですが横レス失礼
Yショップなくなったんですか!
高校(三重高)の頃はあそこで
パンとかカップのジュースとか
買ってたんですが・・・
それと三重町が夜間無人とは・・・
今も直営ですよね? >>369
368ですが、三重町駅前のパン屋さん(Yショップ)お店をやめて、今では跡形もなく
駐車場にされてしまっているんですよ(/_;) あそこの手作りサンド、美味しかったのに
烈しく残念・・・
三重町駅、多分今も直営だとは思うんですけど・・・ちょっと自信がない・・・
仕事帰りとか夜中に寄って、指定席を取ったりするのに便利だったんだけど・・
夜8時以降無人になる前に切符の自動販売機が新しいのに変わって機能
が増えて、万札も使えるように成ったのは良いんだけど、相変わらず一台
しかないから、並んでいたり、前の人が買い方がすぐに判らなくてモタモタ
するとちょっと待たされる事があるのは、ちょっと・・・
>>370
レスどうもです
Yショップ残念ですねえ・・・
そう言えば駅のキオスクも
撤退して今は大野町の会社が入ってますね
大分駅で駅弁も売ってるようですが
最近列車使ってなかったので
知らなかったんですが
券売機も多機能型に更新したんですね
ああいうのって機械音痴の人とかは
大変なんでしょうね・・・
ちょっとメモ
ttp://jlab.tv2ch.net/3/s/130537.jpg 放屁線
包皮線
豊肥線って2ch的に改称されがちなネーミングだな
さよならキハ71系「ゆふいんの森T世」とキハ72系「ゆふいんの森U世」
東海道・山陽新幹線博多駅から久大本線を経由し、高原の温泉リゾートとして人気の由
布院を結ぶのが、キハ71系およびキハ72系気動車を使用した特急「ゆふいんの森」。平
成元年3月に登場した「ゆふいんの森T世」と平成11年3月に増備された「ゆふいんの森
U世」の2編成があり、いずれも4両編成の全車両がハイデッカー構造で車窓の眺めを堪
能できるのが特徴です。外観は森をイメージしたモスグリーン地に金色の帯を巻いた落
ち着いたデザインで、木材をふんだんに用い車内は温かみのある空間に演出されていま
す。大分駅発着の「3・4号」に使用される「T世」の2号車にビュッフェ、由布院駅発着
の「1・5・2・6号」に使用される「U世」の3号車にはカフェテリアがあり、軽食・喫茶類の
ワゴンサービスが行なわれるなど、国内屈指の温泉リゾートへのアクセスはお洒落で充
実したものになっています。キハ71系2号車のビュッフェ寄りに設置された4人用のボッ
クスシート。家族やグループ旅行の時にゆったりと利用できる。(運転区間 博多〜鹿
児島本線〜久留米〜久大本線〜大分) DE10+オハニ36+オハフ50+オハ50+オハフ50 キユニ26+キハ45+キハ55+キハ53+キハ58 鳥栖← DE10+レム5000+ワフ29500 →日田 昔の上り普通列車って夕方から南延岡⇒延岡間だけが異様に少なかったよね。
18時すぎが「最終」であとは全部南延岡どまり。延岡から上り方面もいまと
違ってまだ店仕舞いをしておらず,南延岡〜延岡間だけエアーポケットのように
スカスカになっていた。 久大本線の豊後中村駅はまだスプリングポイントを使用してるのかな? キハ200系や220系で急勾配もすいすい登坂するご時世だが国鉄型気動車の喘ぎ喘ぎの走行も懐かしいこの頃。 暴れん坊のキハ65を常に中間に組成していた国鉄時代の急行も懐かしい。
国鉄末期まで先頭に出ずパノラミックの窓がほとんど生かされず車販基地になってたね。
まだ由布院発の急行はんだが有った時キハ66&キハ67を期待してたら車両運用都合でキハ55の2両に変更になった事が有ったちなみに夏でした。 キハ65って冷房ありましたっけ?
いつぞやの夏に乗った時あまりの轟音に
車中で会話もまともに出来なかった記憶が。
しかも真冬を思わせるような極寒!
温度調節もできなかったのかな >>394
>キハ65って冷房ありましたっけ?
キハ65は、そもそもキハ58系編成の冷房化のために走行用エンジンを大馬力の
一台にして、車両の馬力を落とさずに発電機設置のスペースを作り、自車と編成の
他の車両に冷房用の電源を供給する目的で製作された車両なので、ほとんどが
冷房が有った筈。むしろ冷房があるが扇風機は付いていない車両も有った位。
なので、冷房が入っている時は常に発電用のエンジンの爆音がしていたよ。
というか、キハ65は壊れていなければ当初から全車冷房つき。 唐突ですが、豊肥本線や久大本線でキハ52+キハ45-600という編成は見られましたか?
一般型はいろんな系列がいたけど、編成を組めない組み合わせはあったんでしょうか? キハ31が配置された国鉄末期頃からキハ45系.47系.52系.58系.キハ65など組んで色々な編成があったよ。
トイレの関係で65と65の2両編成がない位であとは検査の都合からか日によって組み合わせも変わってた。
キハ200系と125しか居ない現在の久留米口はちと寂しい。
S50年代の記憶では
キハ30.35.58.55.53.55.45-600.キユニという8両編成もあったよ(前3両は門タケ車)。 昭和50年代はキハ20やキハ53のちにキハ40が単行で今は無き宮原線や豊後森〜日田間の区間列車の運用が有った。 >>398>>400
サンクスです。
自分の記憶だと大分のキハ45は58とペアを組むか、45+53+52の組み合わせの印象が強いです。
昭和50〜60年代です。
キハ55やキユニ25は記憶がない・・・これらの末期はタラコ色ですか? 81年頃まではキハユニ16もいました。
>大分
キハ55系列は最後まで急行色だったけど
キユニやキハ45系、20系はどんどん首都圏色になっていきました。
珍車の湘南窓キユニ16も末期は首都圏色化されました。
また客車列車が50系化されても荷物合造車のオハニ36(茶)だけは大分側に連結されて59-2改正まで活躍しました。
キハ55に混じりキロ25の普通車格下げの非リクライニング回転クロスシートのキハ26-400番台もいた。 キハ58-5000番台
スハフ12かいもん、日南用
久大線普通でグリーン座席に揺られて旅したあの頃、忘れないな。 子供の頃、竹田の婆ちゃん家に行く時。
三重町を出てトンネルから出たらいきなり水面まで高さのある鉄橋を渡っていて
その高さに恐怖を感じたけれど、以来その景色が好きになり大人になった今は
絶好の撮影ポイントになった。
今ではすっかり有名になった百枝トンネルはヲタ達の罵声が響く寂しいポイントに
なってしまった。 >>405
あそこで罵声が飛び交うのってどんな時?
きれいに実った田んぼに魅了されてつい先日(10/8・9)も訪れたけど、
いままで同業者に会ったことは一回しかないけど・・・ >>406
ブルトレや復活急行シリーズの時。
撮影ポイント探しをしていると、遠くから「コラー、どけよ」の罵声がした。
なので更にわざとうろちょろしてやった。
金子スイミングに通ってたときに、高城駅のED74がいっぱいいたことを思い出す。
上りの「富士」を見るのが楽しみだった。
大道小学校に転校したら、「富士」の付属編成の出し入れをよく見てたよ。
大道踏切と草場踏切で閉まってる時間が違ってた。
県病がまだ豊饒に移転する前、入院した。
自由時間に若草公園のC55の下に潜ったりして遊んだ。
C581の「豊の国号」、懐かしいですね。
天賞堂のC581やまぐち号タイプに、「大」の区名札が入ってましたよ。
国鉄マンだった祖父のいる門司へ、522列車で行ったことがある。 九州の国鉄近郊型電車は、運転室の前面貫通路は使っていませんでしたよね? >>410
使ってません、更にガムテープを貼ってですきま風を防いでいる編成も有りました。 大分駅のイベントで昔懐かしい列車写真等が展示されているみたい。 >>410
その思想を引き継いだ811系。
そのうちガムテ貼るよ。 811系の前に415系のステンレス車がガムテ貼りまくりでは? ガムテって強力そうに見えて風雪には弱いんだよね。
劣化して変色してはがれそうになってるのを見て悲しくなった記憶がある。 大道陸橋はどうなりましたか?もう線路つながってしまいましたか? >>417
ニ○デンの布製ガムテープが一番長持ちするんだよね。 昔の大分駅は地平ホームで
富士の入れ替えで、遮断機が降りてた 津久見に有った小野田セメント(太平洋セメント)の専用線 大分臨港線って5号地のあたりにヤードつくろうってしてたんだっけ? 昔の野矢駅の写真見ると構内に無蓋車がたくさん留置されてますが何を運んでいたのですか? >>428
やはり木材だったのですね。ありがとう御座います。
あと日田駅も国鉄時代は構内が広く貨車がたくさんいたのですね。 久大線南久留米からチキに戦車積んでいたって本当ですか さっき豊肥線復旧には数か月かかるらしい。
>>432
まだ決まってねーよ
こりゃあ来週の旅行にはとても間に合わないな>_<
そして産交の九州横断バスが激混みで積み残し…なんてことになるのだろうか。 20年位前の水害でも、
しばらく不通になってたな。 おおよど号、485系3両で南下中。最初の停車駅(ドアの開く)は宗太郎です。
津久見駅通過。 昔と今の混在スレww
530列車の頃の方が延岡ー佐伯間は本数が多かったorz. おおよど号、現在10分ほど遅れてます。
雨がかなり降ってきました。延岡到着。 >>438
混在スマソ。おおよど号、日向新富なう。
しかし確かに宗太郎越えの前後の現状は惨憺たる有り様で悲しくなりますな…。
直見−直川なんていう一駅だけの客レも走ってましたね。 筑後千足〜日田間災害運休の為、現在客車列車は筑後吉井・鳥栖間の折り返し運転を行っております。
なお気動車列車は一部を除き筑後千足まで運転しております。
急行由布号、西九州号は現在全区間にて運休しております。
酷鉄九州総局 >>441
JRは区間運転してるから
黒鉄でもしてた鴨 西九州号は日田〜大分〜小倉〜博多〜長崎・佐世保間を臨時ダイヤにて運行いたします。
由布号は日田〜別府間に運行区間を短縮の上、全車自由席で運行いたします。
門徹局 キハ185系・いさしん
普通運用してるのね。
昔のG車組み込み由布編成普通運用を思い出す。 豊肥線か久大線で、ディーゼル機関車が定期運行していますか? >>449
定期運用は無く団臨や工臨やマヤ34の牽引等の臨時運用で入線する位では? いまや、大分以南でもEF1が入線する時代になりますた。
DF50は遠くになりにけり 朝9時台に「寝台」特急が出発するときって
どんな案内放送していたのだろう? 昭和50年代の特急「にちりん」てなんであんな鈍足なんだ >>457
大分〜佐伯と延岡〜宮崎の
高速化がされていなかったのも一因かと。 子供の頃(S47年頃)の滝尾駅は貨物駅があり、貨物の引き込み線や貨物駅舎が有り
駅員が常駐していたうろ覚えな薄い記憶がある。
真相を確かめたいので知ってる人はヨロ。 匿名ロケtbc上野汽車汚染漢字マナー日暮里auノリ港ディラーもろこし台形シニア下空調ラボフィリピンマカオインド豪州低空素マン国画SIM関西農米素人コンビーフひまわりyudo本場豚骨タイピングニューヨーク交際帰国アイフォン頭打ちビタミンパチスロラーメン
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大分→(にちりん)→宮崎→(きりしま)→
鹿児島中央(泊)→(さくら)→新大阪→(のぞみ)→東京
と乗ってみた。
古国府駅で全部「普通車指定席」頼むと,鹿児島中央までは自由席で
充分ですよなんていう。正月だし,ささやかなご祝儀!といったら
喜んでいた。
さて,「にちりん」だが,佐伯までは多少人が乗っていたが,
佐伯〜延岡はオレ1人。しかも鈍足。例えが悪いけど,
昔乗った「つばさ51号」みたいな感じ(上野〜黒磯)だった。
こういうところでも1時間に1本ずつ走らせるってJR九州のある種の
意地なのだろう。
宮崎に到着して,延岡あたりからの他旅客とわたしと下車したのは10人もいない。
白昼午後2時ころの話。県庁所在地に終着特急が到着して10人いないって・・・。
1月とはいえなかなかの陽気で,宮崎市内ではコート脱いでワイシャツとベストだけで
歩けたが,平日の昼間なのに人も車もいなかった。大分駅前よりも閑散としている。
次に乗り継いだ「きりしま」はそれなりの需要はあるのだろうと思っていたら,
これがすごい。宮崎〜鹿児島中央を全部乗りとおしたのはグリーン車の夫婦2人と
自由席の5人とオレだけ(車掌さんから聞いた)。悲しいくらい人がいない。
車内販売のお姉さんが熱心に売りにくるから酒を買う。鹿児島行の特急だけあって
ちゃんと芋焼酎の水割まで用意している。「田苑」という銘柄で気に入った。
鹿児島ではホテルウェルビュー(客室の窓から桜島が目の前に見える)に泊まり,
天文館にくりだし本場のさつま揚げをつまみながら「田苑」を1本空けた。
鹿児島はどこかヨーロッパの都市のような落ち着いた街で,こちらはそれなりの
賑わいがあっていい夜だった。 昔,下り急行「あさぎり」が由布院着1605で,
すぐ上り急行「ひこさん」として由布院を1610に発車したわけだが
どういうあわただしいことしていたのだろうと想像してしまう。 ED7681〜ED7686
大分機関区にあって長崎本線・佐世保線電化増備であった。 そういや、豊肥線の「火の山」は、普通にキハ20系を連結していたな。
今でいうところの遜色急行になるのか。
しかし、ガキの俺はキハ58よりもキハ20に乗りたがっていた。
運転室に入れてもらったこともある。 大分機関区と言えば、ED74たった6両しかいなかった。
乗務員の評価は貨物列車は空転が多く運転がしにくい。高圧タッフ゜制御のせいか。
ED7681〜ED7686は長崎本線・佐世保線電化要員であるが、肝心のどちらかが電化完成が遅れた。両数的にも、ED74と同一なので、ED74置き換え要員になった。 日豊本線の電化は宮崎までは付け足し電化が多い。宮崎までの場合、南宮崎、則ち日南線の接続の絡みは理解できる。
行橋の場合は新田原まで、これは普通電車の為にあった、則ち行橋から小倉・門司方面は下り線から上り線に入るのは運転保安上実に危険である。
また、田川線方面の貨物列車、大分方面の特急列車、当時は行橋通過、行橋は準急、急行しか停車しない、
それらのダイヤ(スジ)を痛めない様にしていた。
大分の場合は幸崎まで、則ち貨物列車の為であった。途中の鶴崎、幸崎は当時石油・ガソリン・化学薬品・プロパンガスの貨物取り扱いがあった。
大分ー幸崎を電化していないとわざわざその区間の為にDF50やD51を使うと言う不経済な事をするを防止。幸崎までは電気機関車で貨物列車を使うためにあった。 宮崎電化後の後も、幸崎発着の電車がやたら多かった気がするが、
今はすっかり少なくなったな。 日豊本線の北部には信号場が二つもあった。
即ち、大川司・下郡 昭和55年10月で廃止(快速に格下げ)の急行日田の日田湯布院間が下りの急行由布の後部に連結されて湯布院駅で切り離して一番線から三番線に構内入れ換え三番線に到着している上り急行由布の後部に連結されて日田駅で切り離ししていた 。 ≫470の下り急行日田は急行はんだの間違いでしたすいません。 豊肥本線は大分〜下郡信号場迄は、架線が張ってあった。但し普通電車・急行電車・特急電車の出入りしか出来ない。
ED76・ED74は日豊本線経由であった。 豊肥線という響きがどうも好きになれんかったね
まあ乗った事はないのだけれど 豊後中村駅に久大本線で最後のスプリングポイントがまだ健在だった。 貨車移動機が居た久大線南久留米、筑後吉井
黒貨車が多くワム8は少なかった。 久大本線名物
DE10+50系+オハニ36
キハ45-600
キユニ16・26
キロ28-2001 キハ58非冷房の2両編成に車内販売が居た国鉄久大本線普通列車。由布の間合い乗務だったのか? >>479
なんでそんなに食い下がるんだ?
スルーしろよ 小学生の頃、正月に九州内の特急、急行の自由席が乗り放題のお年玉切符?を使って九州内を回ってたな
1日を一杯に使うために、下り夜行日南から始めてた >>481
今は新幹線が使えたりしますが
時間の有効活用ならやっぱり夜行ですよね。
ちなみに今も元旦一日で九州一周出来るかな? >>482
当時は下り日南で始めて、最後も下り日南で終わってたから...
今は在来線だけだと無理な気がするね
柳ヶ浦から乗ったけど、ほぼ満席だった
活気があって良かったな このスレでも散々既出だが湘南顔のキユニ16を日田で目撃した時の衝撃は忘れられない
まだ鉄道雑誌に触れる機会も少なく、地方に行ってみて珍車に初めて出会う面白さがあった。 廃車間近にタラコ化されて可哀想だった。
キユニ16 https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費定義)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ピク底ファンド
頭皮成分不透明ベンチスタートドナルドストラテジエイトパクリスホテル(40代マジコン弥勒ソフト質問ある? 現在の親父の住居の最寄り駅古国府。
ついに完全無人化になり悲しい。
かつてはここで,鹿児島中央,九州〜山陽〜東海道新幹線経由
東京都区内ゆきの乗車券や各種特急券などを購入して,
三拝九拝されたものだが。
そういや同時に特急列車のオネーサンもいなくなったな。 >>470-471
2年前のカキコにマジレスだが…
由布4号から日田駅で切り離したあとは、急行日田単独で、小倉経由で直方へ向かった…でおk? 日代、浅海井停車って昭和50年代後半まであったけど
あれって何のためだったんかな 夜行客車急行が昼間の電車急行が通過する駅に停車してた理由はおそらく荷物車に積み込まれていた朝刊新聞の積み卸しの為だと思います、昭和50年代半ば頃からはトラック輸送に代わり下り夜行日南の日代浅海井は通過となった。 久大本線豊後中村駅のスプリングポイントが電動ポイントに交換されてましたこれで久大本線そして大分県内の鉄道ポイントからスプリングポイントが消滅しました。 >>491
客車列車でドア開放だから、単線の待ち合わせを停車扱いにしただけでは。
市棚や宗太郎も急行停車駅だったし。
九州はそういう停車が結構あった。 日田と言えば、久留米発大分行の12系客レが昼食タイムだった。
(夏の暑さは相当なものだな) (現)大分県国東市国見町伊美
(旧)大分県東国東郡国見町伊美
オレの生まれたころ(昭和50年)は
大阪刷の朝刊が前日の夕刊とあわせて午前11時頃配達された。
どんなルートだったのだろう。急行「くにさき」〜宇佐〜大分交通
だったのかなー? >>493
そこまで昔の話じゃなくて12系+寝台併結時代の話ね
行き違いとか関係ない夜中の停車 日田の夏の暑さは尋常ではないな、かって国鉄時代の久大本線の普通列車は気動車も客車も急行の間合い運用の気動車以外は殆ど非冷房で由布院や豊後森や日田で長時間停車の時は熱風をかき回す扇風機の風のみで暑かった思い出があった。 >>490
昭和47年までの夜行鈍行だった時代に、行商のおばさんが乗っていた名残り。 豊肥本線熊本〜水前寺間で国鉄最後の頃かJR発足の頃からかディーゼル機関車DE10が牽引して電源車に当初はスハフ12後に車掌車ヨ8000を改造して使用していた当初は485系で後に783系も入った確か列車は特急有明だった。 昭和50年代頃キハ20かキハ55の窓がバス窓の車両が有った叉キロ25の格下げのキハ26の400番台(窓がやや小さく座席が非リクライニングの回転クロスシート)の車両も有った。 日豊本線の旧型客車(昭和58年頃)の客車形式はスハフ42やオハ46が主にナハ10系の軽量客車もあった列車によっては下り鹿児島よりに荷物車や郵便車も連結していた所蔵は門司港と鹿児島が主でした。 延岡方面の普通列車の終列車の異常に早い南延岡駅(昭和50年3月)
0544(普通 大分)、0736(日南1 小倉)、0754(普通 大分)
1050(しいば 別府)、1158(普通 門司港)、1444(日南2 小倉)
1541(普通 門司港)、1747(普通 高千穂)、1928(日南3 別府)
0032(日南4 門司港)
朝、博多から天ヶ瀬まで普通列車として行き、門司港まで「あさぎり」として往復。
1605に由布院に着き、5分の折返しで「ひこさん」に化ける。
学校帰りの高校生がごった返す中で、サボの入換えやらなにやら
あわただしい折返しだったと推察できる。 昭和42年12月24日夜(夕)新大阪駅から急行夕月の1号車(オハネフ13-洗面所側が下り方向)
EF58一般色小窓が牽引、岡山迄は前にマニ60が付いており、岡山からはEF58の次位がオハネフ13、
関門ではオハネフ13洗面所側の貫通扉を開けてEF30〜ED76-0を間近で観察、大分では附属編成
切り離し、釜換えを知らずに暫くして、汽笛音が変(ピーッではなくホヒィーッの音)な
のに気付き、貫通扉を開けると、模型でしか見た事の無かったDF50(朱〜煤けていた)
を間近で観察。途中山間の駅でDF50牽引の富士に抜かれました。14時頃に宮崎に着いた
時には最後尾はスハフ43-0(青15号)でした。 昭和54年の夏由布院発キハ66と67の急行はんだに乗りたかったが車両トラブルの為非冷房準急型のキハ55がピンチヒッターで急行運用についていてがっかりの思い出が有ります。 今からすれば、宮原線を存続させていれば、
観光路線として成立していたかも? >>510
このまえ「ゆふいんの森」に乗ったら、
女性アテンダントが宮原線の話していたな。 宮原線で走っていた車両は単行気動車で末期は主にキハ40だった、当時は車掌乗務で乗客が少ない時は客室の座席に座っていた。 ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーンロンロンローーン
https://www.youtube.com/watch?v=uWLnfkOLmfk京都京野菜ぼったくり取引価格
ダイエットニュース (アリババダイエット40代偽装結婚プロ級世代(ヤフージャパンタイ資金洗浄(40代ブラックバラエティ道路公団談合)
違法改造大好き在日中国人報道中国車リコール発言台湾反日飛行機会社
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トランプジョーカー切り(放送大学消防庁コストカットアイドルマスターアップ株式会社テレビビジネス森友学園パチンコ必勝法オークション販売時代)
NHK中国人用トランプ大統領テレビニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京槍杉ギャンブル依存症顧問職員)
ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシアは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」(在日中国人3月決算)
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 SL時代の久大本線の写真で主に朝の由布院発大分行きの列車は由布院駅に転車台が無くD60がバック運転していた。 夜行日南で延岡から乗り込み俺を叩き起こして「津久見で起こしてくれや」と頼んできた酔っ払いのオッちゃん
目覚めた行橋駅では消えていたけど
まだ生きてるかな? 今は特急を含め全列車車内禁煙が当たり前ですが国鉄時代の大分地区の普通列車は昭和60年3月までは禁煙車は無く駅構内もホームや待合室やトイレまでもどこでもタバコ吸うのが当たり前だった、朝夕のラッシュ時でも禁煙タイムも無かったです。 C57の逆向き運転ってとこなんだろうか?
大分-幸崎の区間運転というのがあって、記憶にある時代は
ディゼルカーになっていたのだが、ダイヤを見る限り、
機関車運転の時代があるんだよね
このときの機関車はいったいなんだったのか?
大分機関区だと、C55あたりかあるいはタンクのC11か? C57の逆向きは小学校の時に宮崎-南宮崎大淀川で何度か見ただけだなぁ 今般の大雨で
日田ー光岡で橋梁崩壊で、久大本線は不通になった。
久大本線の蒸気機関車は、D60です。
大分機関区所属です。
60号〜65号と67号ですね。
鳥栖では直方機関区所属のD60があった。
直方機関区所属のは
26号〜29号、31号〜34号がいました。 真ん中の廃止が正式に決まった豊肥線の両都市圏残存区間は
「大熊線」「大竹線」に決まりました
めでたし、めでたし 日豊本線の蒸気機関車は
C55がいました。
大分機関区所属のは
C55の改造が北海道のC55より激しかった。
門デフ取り付けは、もちろん、テンダーをD51のを振り替えていました。 日豊本線の客車急行
『日南』『高千穂』臨時で『ぶんご』があった。
『ぶんご』は臨時とあって、グリーン車なし
蒸気機関車はC55とかC57と言った気の利いた物を使わず
あろう事かD51を使った。
余談になるが、豊肥本線で、熊本地震で被災した箇所は廃止が決定したのか? 大分機関区のED76で
74号がいました、パンタグラフが、デカパンとチビパンがあった。
小倉駅上では、門司寄りがデカパン、大分寄りがチビパンであった。 昭和49年
都城駅構内入れ換えのみの仕業となったパシフィックはDFの後位で日豊線を
もはや単独運転は志布志線だけと相成り青井岳・田野バンクを訪れる諸氏も激減しました 長期青井岳で泊まり込みで撮影したカメラマンの回想で
青井岳の国民宿舎は鯉とかの川魚だらけで
げんなりしたとか書いてたな 昔は今みたいに即日冷凍冷蔵配送で
肉や海の魚は来ないからねぇ・・
山の方は肉って言ったら猪か鹿しか食えなかったと言うし 久大本線の光岡ー日田で
橋梁崩壊が発生しました。
昔、大雨での橋梁崩壊は、豊肥本線でも発生しました。
豊後清川付近です。
今般の大雨での鉄道被害は、昭和47年、則ち1972年を思い出す。
7月、8月に熊本、高知、山口で大雨が原因の鉄道事故が発生した。
7月には
高知では、土讃本線の繁藤駅付近で大雨によって、土砂崩れが発生して、DF5045が川に転落しました。
熊本では、肥薩線大畑ループ線、大野築堤で大雨で地盤の緩んだ築堤をDD51758が通り、自重で築堤が崩れ、DD51758は脱線、築堤下に転落しました。
8月には
山口の美祢線、厚保ー松ヶ瀬信号場の奥畑集落で土砂崩れが発生して、D51529貨物列車が土砂に乗り上げて脱線事故が発生、乗務員二名が死傷しました。
それが原因で宇部興産道路なるものの建設ピッチが速くなった。
ひいては、美祢線の石灰石輸送貨物列車の全廃の発端になった。 久大本線の蒸気機関車は大分のD60以外に鳥栖〜豊後森間の豊後森の8620の運用もありました更に夜明〜日田間の日田彦山線列車では門司のC11タンク機関車もいました。 如何でしょう
激甚災害指定のどさくさ紛れに豊後森の扇形庫に九州各地の放置蒸機を集めて入場料に復興義援を含ませてみれば
とりあえず鹿児島からはD51714を贈りたい処ですが鉄屑になりました 豊後森から宮原線があった。
蒸気機関車はC11です。豊後森機関区所属ですか?
噂によると、後藤寺機関区所属のC11が担当したらしい? >>531
入場料をいくらにするか知らないが、集めたり補修したりするのに
かかる費用を回収するのに何年かかるんだ?
豊後森なんて久大線の「ゆふいんの森」がちょうどいい時間にすれ違うから
鉄ヲタが集まるわけだが、肝心の主役不在で人が集まるのか? どうせやるなら、「ゆふいんの森」がすれ違う時間帯に
向之原駅で列車撮影する者から「撮影料」1000円徴収するほうが
まだいい。焼石に水程度でしかないが。 撮り鉄の皆さん
たまには御布施(入場券購入)して日頃の垢を落としましょう 昭和最後のGWに豊肥線の急行に乗ってトイレに行ったら垂れ流し式で流れ行く枕木が見れた 国鉄時代は線路に糞やペーパーが落ちてるのが風物詩でしたね、たまに線路際でカメラを構えていると尿の雨に打たれたりしました JRになったばかりの昭和末期の九州の気動車のトイレは急行普通問わず垂れ流しだった、今は汚物タンクの付いているキハ40とキハ47とキハ66も当時は全て垂れ流しだった。 大分地区の普通列車トイレは電車気動車客車問わず平成になってもしばらくは垂れ流しのままだった、平成6年春に大分電車区に汚物処理装置の抜き取り設備が出来たが普通列車トイレはその後もしばらくは垂れ流しのままだった。 夏の列車旅で窓を全開にするのが躊躇われる様になったのは何時からか? >>543
90年代かな。209系とかの固定窓台頭、本州じゃ115とか165とか下段固定されて開かなくなって
強制的に上だけ少し開ける感じ、まだ日豊線の475は冷房効き過ぎ時は開けても
顰蹙は買わなかったが・・ 実際に101や103の窓を全開にしていると子供が落ちる危険性があったからな。
冷暖房完備を当たり前として窓は開けないものというのが普通になってきた。 しかし
かつてのローカル線DC列車
夏場の停車時は暑かったね >531
現在いる29612は志免で放置されていた車両やね かっての旧型客車のブレーキに鋳鉄制輪子を使用していた為夏場に窓を開けていると見えない細かい鉄粉は服に付き赤茶色のシミになり鉄臭さが染み付いていた。 昔、別府から長崎迄走る、
急行『西九州』号があった。
久大本線経由で。
長崎本線に最後まで急行電車が入らなかった。
長崎本線の電化が遅かったせいもあろう、
急行電車化が期待されたかも知れない
急行『出島』『弓張』も
急行『出島』号の諫早での作業ダイヤが最後まで急行電車の進出を阻んだ。
則ち、『出島』号の諫早での島原鉄道車両の増解決作業があった。 >>549
「西九州」は、別府から佐世保が主編成で、長崎のほうは「ついで」。
「西九州」が設定されたころは、まだ佐世保の青い目をした人たちは
頻繁に国鉄を利用していた。
なお、昭和40年頃だと、長崎と佐世保では、特急や急行の乗り入れ本数、
乗り入れる列車の一等車両や食堂車の優先具合で比べると、佐世保のほうが若干高め。 別府-佐世保というのは瀬戸内の神戸等からの船を受けてのルートか >>550
さくらには長崎編成しかA寝台と食堂車が14系なった当初は付いていなかったな
後に連結されたから最初からあの編成だったら編成的にも同一編成で予備車も少なくて済んだかもしれない >>551
佐世保の駐留米軍が別府に慰安等で出かけるための列車。
>>552
かつて、雲仙・阿蘇を経由する「九州国際観光バス」が
やまなみハイウェイを経由して(三角〜島原間はバスごとフェリー)運転されており、
その時代の復活をってことだと思う。このバスの経路は断続的には今でも残っている。
>>553
ところがその「さくら」も、登場当初は、長崎編成は、一等B寝台、二等寝台のみで食堂車無、
佐世保編成は、一等A寝台(個室)、一等B寝台、二等寝台と食堂車連結。 >>554
さくら 食堂車佐世保編成
1965-10だね 家に時刻表があった。 JR化後の話だけどあかつきの長崎編成にシングルデラックスとシングルツインとツイン
佐世保編成にソロが連結されたころの編成は
関西発着の九州ブルトレとしては豪華だよな >>572
1954の肥後小国まで開通時点で豊後森区にC11191が配置
以降'70/10まで同機が豊後森区で担当
その後、熊本区にC11運用が集約されて同機も熊本区に転出
ただし、同線よほど貨物がないとみえてほとんど運休
'71/2に大分運転所にC11270が転入
同機を臨貨用に充当し、同年春まで使用
宮原線の貨物スジ廃止は'71/10だが、実質的には5月頃に終了 わずか一駅間だけの
直川発直見行きは混4592レという番号で
前後の関係は
南延岡発直川行き地域貨物4592レ
これが直川着16:43
問題の混合4592レ 直川発16:44→直見着16:52
すぐさま
直見発16:53
これが門司操行き地域貨物4592レとなる
客車を離合する余裕はありえない時間なので、
肥薩線などで見られたように列車後部にオハフかスハフ一両くっつけてこの区間だけ営業扱いしたと思われる
直見地区に小中学校がなかったための直川小・中学校からの下校用の可能性が高い
南延岡→普通貨物1598レ→延岡→混合1598レ→佐伯→普通貨物1598レ→大分ってのも接続時間はかなり間合いがあるが、客車運用からすると当初から大分までくっついてると思われる
(下りの混レがないのは、下り編成を上りでは小分けして別列車に仕立てている可能性が高い) 急行『西九州』号は、佐世保からの駐留米軍の別府へ向かう列車であったという。
日豊本線は、沿線に軍用地が多かった。
則ち、南小倉は、山田弾薬庫があった。
城野は、キャンプジョーノと言う米軍施設
築城は、キャンプツイキ、現・航空自衛隊築城基地があった。
鹿児島本線は、竹下駅
板付ベースキャンプ、現・福岡空港があった。
春日公園、大野城の両駅は、春日ベースキャンプがあった。 >>561
急行西九州の開業は1964年
高度成長期で日本人観光向けだと思うよ。
1946〜1956辺りの進駐軍列車でも、専用列車はおろか、急行すらないし… そうかなあ?
別府から長崎、雲仙方面
長崎から別府方面の流れか。
日本人であれ駐留米軍であれ。 別府から長崎への流れもあったね。 両親の1965年時アルバムに神戸から別府の
関西汽船むらさき丸船内、別府泊、長崎・雲仙観光して阿蘇・宮崎と回って宮崎空港から
伊丹に帰ってた。当時このコース新婚さん向けだと思うけど
自分も生まれる前年で兄や姉は小さいのに預けられたのだろうかw 大分はハネムーン列車
急行ことぶき走らせてたし
別府→阿蘇→長崎
大分→宮崎→鹿児島→熊本→長崎
→佐賀→福岡〜飛行機
旅行にお金をかけたりと、暮らしが豊かになった時代 準急西九州設定は日本人観光客の国内旅行需要をあてにしたもの
駐留軍なんて全く関係ないよ
当時の佐世保の米軍関係者が別府の温泉に行くなんて嫁や恋人が日本人とかのレアケース、当時の米軍は温泉なんぞ興味ない
休日は車でつるんで博多や長崎の歓楽街に繰り出すのが大多数 昔の日豊本線は輝いていた。
急行『錦江』号は、グリーン車を2両も連結したり、また、急行『高千穂』号は、東京からの急行列車だから
C55は、テンダーをD51のと付け替えた。
別府、宮崎は新婚旅行のメッカであった。
話は変わるが、別府や宮崎が輝いた頃は
観光バスが多かった、観光バスと言えば、バスガイド
今では、貴重品になった、亀の井バス、宮崎交通のバスガイドの冬服。昔ながらの『これぞバスガイド』がある。 東京だと、戦争で新婚旅行どころではない→箱根熱海→別府宮崎→ハワイサイパングアム→欧米全般→アフリカ南米→国内回帰→新婚旅行そのものが陳腐化 「雲仙から阿蘇」「阿蘇から雲仙」は観光の定番だったのは間違いない。
国語の教科書にもその紀行文が採用されたくらいでして。 ・・・今調べたら、「雲仙から阿蘇へ」の執筆者(片桐大自氏)は、学校図書の編集者だったんですな。
当時の教科書を入手する以外にもう読めないかもねえ。 70年代にはもう豊肥線の優等列車は地盤沈下してるでしょ。観光道路走るバスに客取られているから。
昭和30年代ほどではないにせよ、指宿、宮崎も観光客呼びこんでまっせ。宮崎シーガイアは何とか復活できてるし。
ただ、ツアーバスやマイカーの客が増えて列車利用する客が少なくなっただけ。 80年代前半、国鉄末期の久大線、豊肥線のやる気なさそうなダイヤ、優等列車が懐かしい。
特急はなく、コチコチのボックスシートの気動車急行だけ。これでは観光地まで直行する観光バスに対抗できない。 >>575
その頃だと、従来のグリーン車を普通車指定席として営業していたが。 >>576 自由席は従来のボックスシートだったわけだろ。これで急行料金取る。値段の面でも観光バスに対抗できないわな。 せめて、自由席もキハ66のような転換式クロスに変えてほしいと思ってだけどね。リクライニングまでは望まないが。 60年代はまだ自家用車どころか観光バスも国鉄に対抗できなかった
まともな完全舗装片側2車線の国道が珍しい時代
70年代中盤のオイルショックで出鼻くじかれたが、貨物同様に80年代には完全にレジャーや帰省に鉄道を頼る時代は終わった
飛行機とバスと自家用車が当たり前となり、それまで60年代から多数設定された盆暮れ正月やスキーや海水浴の臨時列車も本数が激減した やまなみハイウェイができたのが1964年、70年代には九州横断バスが豊肥線の急行から客を奪っていた。山の上まで乗り換えなしで行けるというのは、列車にはできない強みだね >>580
そんな九州横断バスですら、時代の趨勢に伴う乗客ニーズの変化に抗う事も出来なかった。
そして今は観光要素を廃して、実質的に乗合バスと化した虫の息状態。 >>581 高齢者でも利用しやすいツアーバスの時代だからね それに価値観多様化して、お決まりのコース見学では物足りない、選択の多様性と利便性、それに長距離運転が苦痛で風景眺めていたいという人にとっては、ツアーバスが最適ってわけで 「やまなみハイウェイ」を経由する九州国際観光バスは、
最も長距離を走るもので長崎〜別府でしたな。島原〜三角間は
バスごとフェリーに載せました。
このバスは観光バスながら、途中乗降地を選べるもので、
ガイドさんは三角表を片手に乗車券も売っていました。
能登半島の国鉄バスにも同じようなものがありましたな。
これとは別に瀬ノ本で10分停車するだけの一般路線バスタイプのものも
ありました。 確か大分管理局持ちの急行由布と火の山は昭和60年3月のダイヤ改正から指定席にグリーン車用のシートを使用した車両を導入した由布はキロ28の格下げ車火の山はキハ58の改造車だった、JRになって平成始めの頃自由席にもリクライニングシートを導入した。 書き忘れでしたが確か昭和57年の秋のダイヤ改正で急行由布火の山のグリーン車の利用客が少ないので編成から外したようです、ちなみに平成4年の特急格上げ後これらのリクライニングシート車は長崎に移動して快速シーサイドライナーに使用された。 >>586
一部はえびのとかにも担当されていたはず >>586-587
平成3-4くらいだと旧九州色(上白・下ベージュで赤黒帯)のリクライニングか
485のロマンスシート車が火の山・由布とえびの・くまがわにも充当だったね。
長崎行ったやつ以外に熊本所属のは平成5-6にかけてシーガイアオープン合わせて青のカメマーク入りに。
58がグリーンのリクライニング、65が485リニュ車や783タイプのシートだった。
四国から買った65はボックスで見劣りだったな。 急行由布は59-2改正までキロ28連結してたよ。
空気輸送でしたが車掌さんはいつもキロ28の車掌室に居ました。 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
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なんとなく諦めムードがあったな JR九州になったばかりの頃帰省シーズンに小倉大分間にも715系のぼったくり臨時急行ふるさとライナーが運行されたのかな? ぼったくり急行と言えば昭和40年代前半博多大分間の急行ゆのかに急行型電車の475系が当時は関西方面の急行運用があり車両不足で421系や423系の急行運用が有った。 小倉駅で日田彦山線運用の本チクのキハ140-2041を見かけたがこの車両は元キハ40-2041で昭和54年に大分運転所に新製配置されて豊肥本線や久大本線そして今は無き宮原線の運用についていました。 ぼったされてる感覚もなかったけど
今はとかくシワい >>597
どっちもどっちよ
ぼったでも開き直ってるし 普通列車の竜ヶ水駅通過はいつから始まったのですか。 何年かおきに鉄橋を流され、復旧しては流され、キツいと思う
それでも復旧に取り組むのは使命感
昼寝してても売り上げが転がり込んでくる都会の事業者は見習うべし 災害がなくても、耐用年数の問題は残る
和歌山市の水道管破断事故じゃないが、法定年数到来前でも橋梁隧道築堤の強度劣化による崩落倒壊は起こりうる覚悟は要る >>612
421はしょうがない、他から持ってこれる中古車がないのだから 高森線と高千穂線が繋がっていたら線名はどうなったのだろうか?
熊本と宮崎・延岡を結ぶから熊延(ゆうえん)本線とか? JR豊肥本線グモキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
滝尾お肉キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
大分県大分市内のカラスちゃん🐦⬛の遅い夕ご飯キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! JR久大本線グモキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
豊後森お肉キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
大分県玖珠郡玖珠町内のカラスちゃん🐦⬛の朝ご飯キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! まあでも昔はよかったよな
昭和時代は
列車内で普通にタバコ吸えたし
優先席は「お年寄り、体の不自由な方専用」だったし
今は禁煙
そして妊婦に席を譲らないと周囲から白い目で見られる世の中 >>614
熊延鉄道のおかげで「熊」の音読みを知ることができた
ありがとう!熊延鉄道! 熊延は完成できなかったが東西連絡軸があと1、2本あれば中部九州の交通事情も少しは変わって良い効果が出ていたのではないかなと >>621
山地を横断しなきゃならないのにどんなルートがあるんだ?