国鉄四国総局
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鉄模やってるけど
型式で検索して
四国以外の全国各地で使用されのフレーズを何度見た事か・・・orz
そんなかつての気動車王国、四国を大いに語りましょう。
四国といえば気動車急行ですかね
昔の日本はどこでもそうだったかもしれないけど、
中でも四国の道路事情はかなり悲惨で鉄道頼りの生活が
近年まで続いた気がなんとなくするんですが。 機関車といえばDF50というイメージが強烈
DD51っていたんでしたっけ?
いなかったとしたら、なんでDD51入れなかったんだろう?
(入線できないほど規格が低いとは思えないし)
四国といえばジョイフルトレインもDE10が牽引していたような...
いやぁ、四国にはDD51はいなかったでしょう。
昔は、やはり線路の規格が低い箇所があったのだろう。
知識として知ってるだけだが、9600も入らなかった。
でもD51は走った記録があるようだ。
今は予讃線にはEF65だって来るけどね。 瀬戸大橋開通前の荷重試験に、DD51が駆り出されたことがあったような。 wikiソースで悪いが、EF62も使われてたな、それ
営業用ではC56160やEF58150も走ったことあるし
走った車両のバリエーション意外に多いな、瀬戸大橋 >>6
意表をついて
381系とか485系もありましたね。
軸重が重過ぎるとかでEF66は入ってませんよね?
EF65や200と、EF66って運転整備重量ほぼ同じではなかったですっけ?
そこまでの牽引力が必要ないから入線しないだけでは。
新鶴見操車場のそばに親戚がいた俺には
伊予三島でみた[新]のEF65が、なんか不思議でしょうがなかった。 これが海底トンネルだったらどうなってたんだろうなぁ
当時の財政状況からして新型機関車は導入しないにしろ
直流版ED79がEF65あたりを元に作られてた可能性とかあったんだろうか?
ひょっとしたら勾配用機関車ということで、荷物運用のなくなったEF62が転用という
可能性もあったかも知れない(時間的余裕はなかったかも知れないけど) かなり前から、橋でいく、と決まってたはずかと。
関係ないけど青函トンネルは下北半島ルートも
検討されたことがあったらしい。 DD51やEF58なんて知らねぇ。
大体、瀬戸大橋開通はJR四国だ。 国鉄最末期、各県に配置されたキハ32のラインは
宇高連絡船(←MS-IME、一発変換しないぞ)の煙突の色と
あわせてあったっていうんだけどホント?
え? 四カマにはないって? と思ったら緑のキハ185があった。 当たり。
各県内で完結する運用のみ考えられていたため、当初は投入県内にちなんだカラ
ーだったのだが、使用している色は宇高連絡船の各隻に用いられているものと同。
でもそのままなら今頃だと広域運用に不都合だった可能性がある。
キハ54の松山?集中配置など当初は考えられていなかったからな。
思えば国鉄最末期の四国は明るさに満ちていたと思う。
電化に加えキハ185系の導入、県庁所在地付近での本数の増加など、ワクワク感
が漂っていたものだった。国鉄最終日に当時中学生で松山から謝恩フリーきっぷ
で四国4県を一周したのだが、高松駅で見た当時新型の121系電車を見た時の瞬
間が信じられない。
「あ、これが国鉄で一番新しい電車なんだ。本当に、
四国の国鉄にも電車が走るようになったんだな」と凄く感動したものだったよ。
今まで、電車と言えば伊予鉄、それ以外は遠い彼方のもののイメージがあっただ
けにそれが覆らされたな。一方で夜に覗いた高松築港駅で見た琴電の電車の古さ
も強烈な印象だったが。
あれから20年、JR四国の現状を見ると切なくなるなあ。 ≫7
営業運転以外なら瀬戸大橋の荷重試験でEF66が使われたけどね。 >>16
土讃線ならある
日本一の大杉が車窓からよく見えた
案内放送が入ることも多かった ご注意:
瀬戸大橋開通はJR四国であり、国鉄四国総局ではありません。
JR四国を語りたい方は総合版、懐かしむ方は別スレを立てて下さい。
JR四国発足も20年、初期の頃はあまり知られていないんだな。
>>1さんは落ちた模型版の >1さんですか? 片上鉄道のDD13の検査表記に「多度津工」と書いてあった。
俺は国鉄時代に四国に行ったのはいっぺんきり。
キハ28 5301(元キロハ)見たょ。5000台にも乗った。 国鉄時代は殆どの駅がボトーソ便所やったな。
民営化してからも阿南、御免などの市を代表する駅でもね。
あと阿波池田もボトーソのままかな? >>21
阿南も御免きれいになったよ。橋上駅化されて。
阿波池田は................... 大学受験で関西からT大学を志望し、帰路キロハ28 1を狙い帰郷しました。
ハ室のシートピッチの広いかったこと。足がとどかねえw。
合格後、何を思ったか夜行鷲羽、深夜の宇高連絡船、夜明け前の高徳線(キロハ入り)で再度四国に入った。
その後は宇高のうどん、船舶G室、高徳ノンストップ急行、特急落ち44系客車、ロングの41系、ゲテモノキユニ。
SLブームの去りしころ、離島でそれなりに遊んでおりました。
小松島区廃止後、ガレージ代わりのキハニ5000の廃車体を調べた思い出があります。
外板表記は消えてましたが、車内のペイントは往時のままで、記号なし5006の表記がありました。
付随化後ハニ5006なのか、キハニ5006なのか。
だれか知ってはりますやろか? 御免、阿南、阿波池田の情報ありがとうございます。
いまでもボトーソ便所多いかな? 急行の頭にキユニとかがくっついてるときって、キユニにもHMはついてたんですか? >>26
HMというくらいだから
そこに付けるしかないわけで・・・・。 >>26
2ちゃんに没頭するより、パソコン上手く使え!
検索すれば画像くらいいくらでも出てくるぞ。 キユニ 列車名でわんさか出てきましたorz
すいません。 それにしても、以外とキユ25が急行に連結される事が
少なかったんですよね。
夜行の「うわじま1号」くらいでしたか。 キユ25は「土佐」でしょ。
晩年なら「いよ」。
検索しましたか? >>31
素面に戻って思い出してみると、うわじま1号には
キニ56急行塗装が連結でしたな。失礼しました。
キニ56と言えば、2が朱5号塗装になって、キユニ28と共に国鉄末期まで走ってましたな。 「うわじま1号」といえばキニ56だよな。
昭和50年前半だと「いよ4号」も。
晩年は下り「土佐」の先頭にも立っていた。
「土佐2号」はキニ19からキユ・キユニ28まで色んな車両が付きましたね。 >>23
私も小松島さよならの日に撮影しました。
多方面において間違いの目立つウィキによれば、
ハニ5000形と書かれていますが私には確信が持てません。 四国の「普通列車」ってパターン性もなくいろいろ駅を通過したよな。
今でも覚えているのは土讃本線の入明と円行寺口。
この両駅に停車するのは上り1本のみで,残りのすべての列車は両方通過するか
どちらかの駅には停車するが片方は通過していた。
>>36
確かダイ改初日
円行寺口の踏切で下りの普通列車の通過待ちをしてたら
円行寺口に停まるようになったキハ47が思いっきり通過したので大爆笑
好きな子が乗ってたんだよねぇ
遂にキハ28・58の定期運用が…。
一つの時代が終わった予感がする。 昭和36年生まれです。宇和島で幼少時代を過ごしました。
松山に行くというのは大イベントで、そのための手段が急行「うわじま」でした。
八幡浜にアイススケートに行くのは普通列車。
特急用車両が初めて投入され「しおかぜ」が走り出したとき、
松山への修学旅行で乗りました。
ボックス席じゃなく、全席の背面にテーブルがあることに驚き、
急行とは違う車内の質感、静かさそしてスピードにも驚いたものです。
冷水器のペラペラの紙コップを記念品に戴きましたw >>39
「全席の背面」じゃなくて「前席の背面」です。 駅名看板の表示で通過列車の多い駅は()していたな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています