自動車線と航路を語るスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
今では自動車線は分社化され、残る航路は宮島航路のみ。
そんな自動車線と航路の思い出を語るスレです。 >>13
酷道バスとしては福島〜船引のバスがあったな。
狭隘未舗装急勾配路をずんずん進んでいったな。
今となっては素敵な3ケタ国道にかわっているけどね。
松山高知急行線のなんごく号で松山から高知まで行ったことがあるよ。
松山駅から伊予鉄及び伊予鉄バスは駅前広場から出た通りに乗り場があったのに対して、国鉄バスだけは降りてすぐの所に乗り場があったな。
国鉄バスの駅スタンプがあるところって観光地を中心にけっこうあったよね。
DISCOBER→JAPANのスタンプ帳で細線に○がしてあったっけ。 >>3
四国ワイドで、広島にも寄ってから四国にわたった時に使いました
東京からだと経由に山陽・呉線とあり竹原/呉どちらからでもいけたようで、広島海田市間往復を別途払えば可でした
仁方は夕方呉線からおりてあまり広くない道を、案内によって適当に数分歩いたら港と言った感じ
ガラガラで、確か座敷を占領に近い状態
堀江は夜ではっきり覚えていないですが、少し民家の軒道を上がったような記憶
いずれにしろ、とてもメインの連絡船と駅とはとても思えず、不思議に思いました
赤字ローカル線の、フェリー版のような印象でした 国鉄バスっていったら十和田湖駅がかなり大きなターミナルだったね
バスも観光バスタイプだったし 漏れが鉄道の代行路線で知ってるのは郡山辺りを走ってるバス専道があるやつくらいだな。
20代の若造なもんで…。 仁堀航路を利用してた香具師けっこういたんだな
国鉄下関航路まで遡るとさすがにいないと思うが >>19
観光地のバス駅としては、国鉄時代からみどりの窓口が存在した草津温泉駅も有名。
民営化や分社を乗り越え、現在も地域の拠点として親しまれている。
本題から外れるが、北関東を走っていた東武バスにも国鉄チックなバス駅が
いくつか存在したようだ。 仁堀航路に乗船したら、やはりほとんど貸切に近い状況でしたね。
鉄道から乗り継いでいる人など全くいなかった…。
ちなみにこの時堀江まで乗った予讃本線の客レには、スハフ43が連結されていました。古びた回転クロスシートに歴史を感じました…。 ↑ 仁堀はあるけど大島は無いなぁ、なくなったのも早いし 仁堀航路といえば、時刻表には航海距離が74キロ(だったと思う)と出ていたな。
それなのに航海時間は約2時間半。
宇高航路が18キロで1時間だったからエライ快速船だと思ったもんだ。
実際の仁堀航路の航海距離は35キロ程度だったのらしいのだが、なぜ時刻表上にはそんなに長大な距離が載せてあったのかは不明。 >>29
平行してる民間航路との運賃格差是正のため、と宮脇先生の“最長片道切符の旅”に書いてたな>仁堀航路
ちなみに宇高航路は紫雲丸事件の後で下りルートが変わってるとの事 >>26-28
まあ戦後のどさくさに、山口県から押しつけられた航路だからね。>大島
カーフェリー化以降は広島局の稼ぎ頭になったけど、
1975年に大畠大橋の開通で終航。昨年、JRバスも撤退してしまった。
>>30
事故以前は、上下便が中間でクロスする、
今から見れば無謀なルートだった。>宇高 大島航路といえば、周防丸ですね。小さな船で、細長く狭い船室が特徴でした。
晩年に就航した大島丸は、冷房つきの船室で、短い乗船時間ながら快適な船旅を
楽しめましたが、個人的には、周防丸の方が好きでした。
小松港で船を降りると国鉄バスの乗り場があり、船から降りた客で満員となった
久賀方面と安下庄方面のバスが、いつも同時に発車していました。何度か、満員
で乗車出来ず、次のバスまで1時間ほど、駅前の食堂で時間を潰した事を覚えて
います。
小松港の乗船口と駅舎は、昭和51年の航路廃止後も、昭和60年頃まではそのまま
残っていて、当時の名残を留めてましたが、今では営業所も撤去されて、当時の
賑わい振りを偲ぶ事が出来なくなりました・・・
ちなみに、終航は1976年ですね。 >>25
たしかにガラガラ。
たった一度だけなので、何ともいえないですが、連絡線のイメージには遠いです。
四国の目的の一つが私もスハフ43。
しかし、当時はほとんど高松−琴平/川之江(か豊浜)の限定運用で、しかも朝の上り/夕方下りだけ(途中併結)
冬では朝は暗いし夕方も暗く、撮影には厳しい条件ばかり。
車内は向かい合わせの固定でした。
やっぱり航路に思い入れが多い人が多いのかな?
俺はJR化以後だけど、JRバス一般路線の乗り潰しをやってた。
1日0.5往復しかない路線、現地で泊まらないと乗れない路線などいろいろあったと思いますが、
苦労の思い出があるのってどこだろう。
・温水プール前(歩いてもたいした距離ではないけど)
・わらびが丘(冬に片道タクシーを飛ばしました…)
・ハイジ牧場(意地でも中には入らず、猛暑の中数時間…)
・千平経由(一泊)
・浅内(岩泉線に乗り換えた)
・1日で全部乗れない?久慈市内(久慈海岸線もいい!)
割と俺は東北・北海道の思い出が多いです。
国鉄バスの乗りつぶしとは初耳ながら恐れ入りました…
民間バスの回数券を収集しようとして挫折しました。 時刻表にない路線あったしなー。
それに休日休校日運休なんていう朝の便のると
スクールバスに紛れ込んだ感じで恥ずかしかった
スクール便で最後までよくわからなかったのが、小浜から海岸2方向へいくやつだったなあ。
今でもあるの? >>35
もう更新が止まってしまいましたが、昭和30年代から平成まで、全国の国鉄バスの営業所や車両
の写真を紹介していたブログがありました。
乗り潰しとは違いますが、今から50年ほど前に"撮り潰し"をしていた人が居たとは、非常な驚き
でした。 >>37
私も昭和52年頃に乗車した記憶があります。たぶん小浜の営業所の路線だったのでしょう。世組見だか食見だかの
半島のあたりのバス停から上中方向だったような気がします。 似たような路線で
広尾線大樹駅からのローカル路線乗りました。
駅前に国鉄バスを見て思わずおりてしまい・・・
その後の予定がgdgdに・・・
>>16
去年、「四国再発見切符」で落出までいったら、久万は全く面影がないけど、
落出には、当時混みあったであろう、男性小用のやたら巨大な壁に放出する、
トイレがあったよ。
>>40
浜大樹と旭浜でつな。
昭和40年頃の時刻表には、北海道の池田駅周辺とか、妙な所に国鉄バスが
走っていた。漏れは厚岸=標茶位しか乗ってないけど。
漏れも厚岸−標茶は乗ったよ。
個人的には、国鉄明知線を乗りつぶしたときに、明知駅でバス
の時間を見たら、ちょうど柿野温泉、瀬戸記念橋経由名古屋駅
行きのいい時間のがあったので、名古屋駅まで乗り倒したこと
を思い出した。これが漏れの純粋な一般路線の国鉄バスの乗り
換えなしの長時間直通運転の最長体験でした。名金線は残念な
がら名鉄バスの方でしか乗ったことがなかったです。
高知−松山のなんごく号や青森−十和田湖のみずうみ号も乗っ
たことがあるが、高速バスや観光バスみたいで一般路線とは少
し違う感じでしたね。
国鉄バスを途中経路とするマニアックな片道乗車券で乗ったときの
係員の反応というのが結構面白かったりした。
昔の福島駅はバス乗り場に小さな「改札口」があり,俺の見せた切符に
「うわーすごい」!と一言
出札の同僚を呼んでワイワイ騒いでいたら
なんだなんだ?と運転士さんや車掌さんも合流・・・・ ひゅいーん
ひゅいーん
こくてつばすこまがね から
こくてつばすとうきょう23 どうぞ
こくてつばすこまがね から
こくてつばすとうきょう23 どうぞ
ひゅいーん
ひゅいーん おかてつおかやまから
おかてつ13へ、
とか、だったかな?コールサイン忘れた。ホーバークラフトの宇高急行便。
乗り心地は、波頭を蹴立てる感じがクルマで舗装がくたびれた
継ぎ目のある高速道路の橋を渡っているふう。
マルス券と硬券は持っている。宇野の岸壁で売っていた
当日券を買わなかったことを今でも悔やんでいる。 >>45
そうそう。ホーバーの宇高急行便、普通の連絡船は上下で通るルートが
違う島の間を通るんだけれど、ホーバーはそれとも違っていた気がして
はじめて乗ったときはびっくりしたなぁ。
でも、確かにスピードは速いんだけれど、宇野も高松も結局、出発が遅
いだけで接続列車は同じというダイヤが多かった気がするなぁ。 国鉄ハイウェイバス東名高速線(東→名)、たぶん生まれて初めて乗った高速バスだが、若者(こっちもそのその一人だったが)が
多く、自分にとっては雰囲気が悪かった。高速バスが一発で嫌になったもんだった。しかし当時のハイウェイバスは国鉄専用形式らしく、
すさまじくパワフルで感心した。途中のバス停では立ち客も出た。
ローカル路線では奈良〜信楽なんて乗ったがこれは鉄道計画がもともとあったルートのようだ。 広浜線を乗り通した。もうJRになっていただろうか。切符は硬券だった。
別ルートを並行する民間バスがあることを知らなかった。
あとで時刻表を見たら、そちらより1時間余計にかかっていた。
その後のこの路線については変遷があるかと思うが詳しくはわからない。 均一(ワイド)周遊券の記載事項の「雲芸南線」というのいつも気になっていた。
国鉄バスの路線名というのも聞き慣れてないものは新鮮に感じましたね。 京都は高雄方面に行くバスがあるね。
あれが近畿で最後まで残るJRバスなのだろう。 どうせなら高尾まで路線バスとして走らせて欲しいな。 宮島航路宮島駅には硬券入場券があったなあ
買ったのは「連絡船内に立ち入ることはできません。」って書いてあったけど
いろいろ変遷があったみたい
国鉄バスの運転士(〜後管理職)のOBの人で知り合いいる。
小倉→大島→東京と異動したそうだ。
なんでも東名の運転士は「エリート」だったそうで。
>>55
91年に買った硬券乗車券持ってるわ>宮島駅 >>48
JRバス関東が静岡・愛知に重点的に独自路線を作り、
JR東海バスが京王や山梨交通とかと組んで首都圏進出を
はかるようになるとは考えも付かなかった。
そのうち、中央ライナーはJR東海バス&京王連合によって解消し、
JRバス関東は名鉄や東濃鉄道と組んで独自路線を作るんじゃないかと
予想してる。 NHマルスから吐き出されたドリーム号の券には「1号車」と書かれていた。
なんの意味が?と思ってたが、それは八重洲口に4台連ねてやってきた。
前席の女の子たちは、ホワイトソックスの足を2本とも天井に向け
逆L字の姿勢で寝ていた。狭い座席への対抗策だったのだろう。
屋根の両サイドの無意味なジェットエンジン風の装飾も懐かしい。 昔、瀬戸記念橋を中心に岡多線のバスがネットワークを保っていた頃。
刈谷駅から瀬戸へ行く系統があったのよ。自分が知ったときは一日一往復。
通っている小学校の南に面した道路に国鉄バスのバス停があることは知っていたんだけど、バスを見たことが無かったのね。
バス停まで寄り道して時刻を調べたら、午前10時代の瀬戸行き一本しか記載されてなかった。
運よく窓際の席になった折に窓の外を眺め続けてその1本を遂に確認できた。
乗りたかったが、帰ってこれないでしょw
その後すぐにバス停は無くなってしまった。 漏れも、瀬戸記念橋駅はよく利用したよ。多治見→瀬戸と乗ったり、
瀬戸→森林公園→大曽根と乗ったりしたな。
クルマの免許を取って、自分で運転するようになって、多治見方向か
ら国道を走ってくるとそのまま瀬戸記念橋駅に突っ込んでいきそうに
なったことがあった。今は瀬戸記念橋駅がなくなって交差点が改良さ
れてしまったね。 能登半島にガイド付きの路線バスが運転されてたことがあったけど、あのバスガイドさんも国鉄職員だったのかな?
自分が乗った時のガイドさんはめちゃ可愛いかったよ。 >>50
三次=出雲市の路線。乗った事があるが、整理券番号が100番まであった。 >>63
能登半島尖端周遊してたとき、国鉄バスがツーマンでした。
昔の映画に出てくるような美人の車掌さん!
びっくりした。
昭和52年ごろ。 昔JAF見たいのがなくて、東名高速上で祖父の車が故障し、どこかで乗り捨て、東名バス経由、東名横浜バスストップ経由で家に帰ってきたことがあった。
車は後日ピックアップしたとのことだが。 >>66
東名、名神、津山までの中国道の高速バスは、各停留所に止まって
くれるからできる話ですよね。
最近の高速バスはクローズドアで乗降ゾーンが決まっているから、
途中では乗せてもらえないですよね。やはり、汽車の伝統というこ
とですね。 地元住民の利便をはかるために、
クローズドアが緩和された例もある。草津行きの上州湯めぐり号とか。
予約不可だが途中利用が可能。公式サイトと時刻表には記載なし。
房総なのはなも館山市ほかが途中利用を要望してるらしい。
高速バスで国鉄(〜JR)でなく
しかも予約までできる非クローズドアといえば
東北急行バスだな。
昔からあるせいか東京駅〜新越谷駅でも利用できる。
>>60
刈谷といえば昔、国鉄バスで
刈谷駅〜刈谷駅南口〜安城駅
と言う面白い路線があったよ 仙台駅前で買った、国鉄自動車線急行券50円って硬券持ってる。 漏れは、龍泉洞→盛岡の国鉄バスで急行料金を払った記憶がある。 3連休で実家に帰った時に宝箱wを覗いたら羊蹄丸2便発行の白樺号
の補充券がにあった
連絡船といえば戦時中に出来て運航時刻が秘密扱い(関門と瀬戸内海航路以外は
省略)だった、博多‐釜山間の時刻をご存知の方教えてください。
徳寿丸クラスが使用されたらしいが-----。 >>74
JTB復刻時刻表シリーズにあったような。
>>75
その時刻表に「時刻ハ省略」とあったのさ。
昔は首都圏だけでも国鉄バスは色々路線があったね、
佐原駅→土浦駅
土浦駅→下妻→古河駅
茂木駅→烏山駅
烏山駅→常陸大子駅
一様これが私の乗った乗り換え無しの経路
信州ワイド範囲の国鉄バス結構乗ったな。
国鉄駅に接続しない浅間温泉〜美ヶ原高原という不思議な路線もあった。
茂木に祖母の実家があったので、ディーゼル時代の準急「つくばね」(下館で水戸方面から来た列車と併結)や、
宇都宮から国鉄バスで茂木まで乗ったことがある。ただ、この頃の路線はその先、水戸まで走っていたような
記憶があるんだが…。
周遊券を使って旅を始めるようになってから全国の国鉄バス路線も結構乗ったが、
初めて山陰に行った時は広島駅から浜田駅行きの半夜行のバスで入った。
もちろん、山陰均一周遊券の経路だったからだが、確か浜田駅に3時過ぎに到着したと思う。
満席で出発し、深夜の大朝で大勢降りていったのに驚いた。 5年前、岡山の両備線(岡山駅前ー倉敷駅前)と茶屋町線(倉敷駅前ー茶屋町駅前)が
廃止になる時、ビデオを撮りまくった。
切符も唯一の硬券の往復券と柔券の補充券で倉敷駅前、茶屋町経由植松があったので
買っておいた。
バスは以前は切符のみ集めていたが、バス全般に目覚めたのはその時。 国鉄バスの宣伝映画に「名金線」が出てきて、「こきりこ節」がバックに
流れていたのがあったな。モノクロだったが。バスはボンネット形だと
記憶するが:--
白棚線に磐城棚倉から乗った。
南湖公園でちょっとワケアリの女と待ち合わせしていた。
何を思ったか間違えて南湖病院前で下車してしまった。
次のバスは1時間くらいなくて,しょうがないから歩こうと
一緒に下車した人に道順を聞いてみたら
訪問先まで一緒に連れて行ってもらって
そこで車を出してもらって送ってもらった。
親切な人たちだった。
国鉄バスの「駅」って、今も現役のところどれくらいあるのでしょうか。
ご存知のかたいらっしゃいましたら、ご教示下さい。 >>83
九州の出補は、事由が1から4まである奴(いわゆる新在往復対応)で、裏面の「特定都区市内」の注意書きの「福岡市内」に含まれない駅に九大学研都市駅が入ってる奴なんだが、表の「再掲」欄は「自動車運賃」と「連社運賃計」が印刷されてました。
ちなみに19年7月31日竜田口駅発行です >>85
(自)高松の様に移転して現在も高速専門で営業(発券)しているところもあれば、
閉鎖して放置プレイ。跡地はまったく活用されていないところも。
(自)札幌、(自)新札幌は継続しているが、元の場所から移動しているし、
様似は本来(自)駅じゃないから。
北海道の場合、JHB移行後、常備乗車券は1駅3口座だけ残った。
これも何時まで残るか?らしい。5年前の話だけどね。
えりも対応は(自)様似駅発行、日赤(東町)対応はJHB様似発行
日赤対応券は一度返納して、需要があるため復活させた経緯がある。
そのため、(自)発行ではなく、JHB発行券となった。
東京スカイツリーの立地は最強だ!
★東武伊勢崎線 押上駅 直結
★都営浅草線 押上駅 直結
★東京メトロ半蔵門線 押上駅 直結
★京成押上線 押上駅 直結
★東武伊勢崎線 業平橋駅 直結
上記「5路線が集結する」スーパークロスジャンクションの真上にそびえ建つ。
この立地の素晴らしさは、新宿駅や池袋駅に直結する百貨店に匹敵する。
今の東京タワーよりもはるかに立地は良い。
古くからの江戸市街地にもごく至近だ。
国際観光都市、浅草からもわすか1km!徒歩15分以内で散歩がてらで行ける。
★東武伊勢崎線 浅草駅 徒歩
★東京メトロ銀座線 浅草駅 徒歩
★都営地下鉄浅草線 浅草駅 徒歩
こんなスーパー凄い立地に建てられるのに、なぜか辺鄙なところだと思われているのが不思議だ。
★JR総武快速線錦糸町駅 徒歩
★JR総武緩行線錦糸町駅 徒歩
★東京メトロ半蔵門線錦糸町駅 徒歩
半蔵門線で錦糸町からも一駅。歩いても1.4km徒歩20分だ。
三越前や大手町・渋谷からも乗り換えなし!
都営浅草線なら日本橋や東京駅(宝町)や銀座や新橋や浜松町(大門)からも
一本で行ける。
想像を絶する観光名所になるのは間違いない。
先日、十数年ぶりに大畠を通りました。大島航路の当時の待合室の建物が残っているのが車窓から見え、嬉しく懐かしくなりました。 稚泊航路
関釜航路
国鉄時代は営業休止中(1985年に確認)だったけど
JRになってからはどうなったのかなあ? >稚泊航路
あれの宗谷って、砕氷船ではあるけれど、南極観測船とは別物なんですね。
鉄博には亜庭丸(と関釜航路の金剛丸)の模型がたいした説明もなく
置いてありました。 とりあえずageついでに
最近、高速バスを含めてもJRバスに乗ってないなぁ。 南極行きに、宗谷丸と宗谷どっちを使おうかって検討で、宗谷丸の方がベターだったんだけど
諸事情で砕氷能力の弱い宗谷を使わざるを得なかったらしい >>16
いすゞの小型バス時代に乗ったっちゅう猛者、おられんかのう・・・ >>91
「営業休止中」だったのは
関釜航路と博釜航路じゃなかった?
稚泊航路はなかったと思うけど。
(種村直樹著「鈍行列車の旅」の巻末資料より)
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
宮島航路が切り離されてしまって国鉄〜JRからついに航路が無くなり寂しいですね。みせん丸、みやじま丸たちは元気でしょうか。
しかし18切符で乗れる私鉄(?)初のケース。 すると株が完全に放出されていない社は3セク?自治体の資本はないしな。
地形図の凡例には「旅客鉄道」とか書いてあったような。
それだけではスレ違いなので…ガキの頃、小さな全国地図で
会社線、として小豆島に線が引いてあったので
すわ、鉄道か?!とヌカ喜びしたのも懐かしい。 旧仁堀航路に使用されていた船舶は何隻ぐらいあったのだろう? >>105
せっかくなのでヰキペデア見てみました…
・長水丸(元関門)1946〜1951年
・水島丸(元宇高)1947〜1953年
・映海丸(元旧海軍砲艇型強力曳船)1946〜1948年(殆ど実用されず?)
・五十鈴丸(元旧海軍魚雷運搬船→大島航路)1951〜1964年
・安芸丸(元大島航路の大島丸)1964〜1975年
・瀬戸丸(唯一の新造船)1975〜1982年航路廃止まで…
船には詳しくないけど、ドック入りに備えた予備の船ってなくて
平気だったのですかね?その間休航?それとも他の航路から借用? 追伸、痛ちがいですが…
呉の阿賀港と、堀江港を結ぶ呉・松山フェリーが
6月いっぱいで廃止になるとか。一説にETC割引が決定的打撃と… >>106
他の航路からの借用です。広島地区の3航路には、共通的な予備船として山陽丸という船がいて、普段は大島航路や
宮島航路を中心に使用されていましたが、この船が仁堀航路にも入っっていたと思います。
大島航路で何度かこの船に乗りましたが、客室部分の窓が大きくて、明るい印象のある船でした。
終航は昭和50年代前半(先代の宮島丸・弥山丸が就航したころ)ですので、その後は、大島丸から改名した安芸丸(国鉄
分割民営化直前まで残っていた方)が予備船的な使用をされたと聞いた事があります。 >>108 どうも。
今は一人ぼっちになってしまった宮島航路ですが
3隻あれば予備船の心配はありませんね…
20年くらい前、宮島口の桟橋に通行止の道路標識があって
その下に「この先海」と書いてあったwのも懐かしい…
面白いので写真を撮らねばと去年行ったらどこにも無かった >>107
呉市が新ターミナル作ったのに、すぐ廃止とな…
安芸あが駅から旧ターミナルまでは二枚立て札があるが、
普通の漁港の路地で道が合ってるか不安になるんだよな。
堀江側も似たようなもんだがこっちはわかりやすい。
予讃線が行ってしまっても市内直行の伊予鉄バスが出てるから待ちぼうけはないし。 近江八幡ー三雲ー亀山
京都ー鶴ケ岡 周山ー上黒田・井戸
園部ー福知山 そんなに利用率悪くなかったのだが、東京〜神戸線のドリーム号は
名神路線の神戸撤退と共に姿消したね。確か神戸駅前にバス駐車場が
あったはずなのだが。 鉄道の営業キロだけじゃなくて航路・自動車の営業キロを含めた
国鉄線の営業キロが最長になったのはいつなんだろうか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています