自動車線と航路を語るスレ
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今では自動車線は分社化され、残る航路は宮島航路のみ。
そんな自動車線と航路の思い出を語るスレです。 ワイド周遊券で「乗れる」「乗れない」と運転士車掌とモメたことが何回かあった。
思い出すのが東北ワイド。
自由周遊区間が新潟〜新津〜郡山〜平の鉄道線「以北」とあったもんで・・・
関東自動車局管内の小野新町〜宇津川間に乗ろうとしたら・・・・
車掌さん知らなかった。モメたわけじゃないけど
「こんな切符はじめてです」って感動されたな・・・。
ところでこの東北ワイドがJRバスが新会社になったころ
切符表面に「JRバス東北線」みたいに記載されるようになったんだな。
ということは「JRバス関東」はダメになったんだろうな。
国鉄仁堀航路のこと詳しく知ってる香具師いないかな・・
呉線の仁方と予讃線の堀江を結んでいたらしいが 自動車線の茶色いトラックを今の若いもんはしらんだろうなぁ 省営自動車発祥の地の一つ、
瀬戸地区からの撤退が決まったようだ… 八甲田丸の船舶事務係から買った切符は八甲田丸発行だ! 数年前佐賀関いった。
JR九州の出札があって
「硬券ありますかー?」と聞いたら
もう売ってないけど,これでよかったらあげるといってくれたのは
「佐賀関←→大分」の鉄道またぎの往復乗車券だった。
>>3
仁堀航路、知ってますよ。4回程乗ってます。
当時は1日3往復「瀬戸丸」という小さなフェリーが就航していました。
どちらも駅から徒歩で10分前後とそこそこ離れていて、列車との連絡も特別考慮されている訳ではなく、
駅に着いた時間で次の列車が“連絡列車”という感じでしたね。
桟橋へはふつうの港町の民家の間の路地を案内版に従って行くと桟橋に出ました。
とても「連絡船」という風情ではなく、その辺りの島へ往復するようなフェリーという感じでした。
晩年は「安芸丸」という若干大きくなったフェリーに変わり、1日2往復に減便されました。
なお、この「安芸丸」は後に宮島航路へ転用されていますね。
何でこの仁堀航路に乗ったかといえば、一応「国鉄全線完乗」ということもしていましたから、
当然鉄道ではなくても「国鉄」である以上無視はできなかった訳ですね。
あとは、いわゆる“一筆書き”のきっぷを作るに当って、四国をうまく回るには、
この仁堀航路を必然的に入れなくてはならなかった訳ですよ。
「西鹿児島→稚内」なんていうきっぷを作った時も、この航路は外せなかったですからね。
実際に乗らなくても、そういう都合でこの仁堀航路を利用した人は多かったと思います。 >>8
「本当に何もないのかな?」とか言いながら乗るのがお約束でしたw >>9
懐かしい板でイチャモンつけたくないが,
メインは最後まで瀬戸丸で
安芸丸は瀬戸丸ドック入りのときの代走だったんじゃなかった?
>>11
御指摘の通りですね。記憶で書いていた部分もあり、不備はお詫び致します。
改めて記録を調べたりしたところ、最初に乗船したのがまだこの航路に就航していた「安芸丸」で、
その後に新造された「瀬戸丸」に変わり、廃止後に宮島航路へ転用されました。
従って、9の安芸丸と瀬戸丸の記述は全く逆でしたね。
御指摘感謝です。 名金線って乗った事ある人いる?
当時ってやっぱ酷道が多かったと思うので
安定運行が相当大変だったのでは?
今じゃJR東海バスも在来線全面撤退だし涙 上田駅〜菅平高原のJRバス、菅平にスキーに行く時、シュプール信越から朝早く降りて
シュプールバスとして使いました。帰りのバスは上田交通のいすゞBUに乗客詰め込みでした。
いまでは上電バス単独運航ですが。 >>13
酷道バスとしては福島〜船引のバスがあったな。
狭隘未舗装急勾配路をずんずん進んでいったな。
今となっては素敵な3ケタ国道にかわっているけどね。
松山高知急行線のなんごく号で松山から高知まで行ったことがあるよ。
松山駅から伊予鉄及び伊予鉄バスは駅前広場から出た通りに乗り場があったのに対して、国鉄バスだけは降りてすぐの所に乗り場があったな。
国鉄バスの駅スタンプがあるところって観光地を中心にけっこうあったよね。
DISCOBER→JAPANのスタンプ帳で細線に○がしてあったっけ。 >>3
四国ワイドで、広島にも寄ってから四国にわたった時に使いました
東京からだと経由に山陽・呉線とあり竹原/呉どちらからでもいけたようで、広島海田市間往復を別途払えば可でした
仁方は夕方呉線からおりてあまり広くない道を、案内によって適当に数分歩いたら港と言った感じ
ガラガラで、確か座敷を占領に近い状態
堀江は夜ではっきり覚えていないですが、少し民家の軒道を上がったような記憶
いずれにしろ、とてもメインの連絡船と駅とはとても思えず、不思議に思いました
赤字ローカル線の、フェリー版のような印象でした 国鉄バスっていったら十和田湖駅がかなり大きなターミナルだったね
バスも観光バスタイプだったし 漏れが鉄道の代行路線で知ってるのは郡山辺りを走ってるバス専道があるやつくらいだな。
20代の若造なもんで…。 仁堀航路を利用してた香具師けっこういたんだな
国鉄下関航路まで遡るとさすがにいないと思うが >>19
観光地のバス駅としては、国鉄時代からみどりの窓口が存在した草津温泉駅も有名。
民営化や分社を乗り越え、現在も地域の拠点として親しまれている。
本題から外れるが、北関東を走っていた東武バスにも国鉄チックなバス駅が
いくつか存在したようだ。 仁堀航路に乗船したら、やはりほとんど貸切に近い状況でしたね。
鉄道から乗り継いでいる人など全くいなかった…。
ちなみにこの時堀江まで乗った予讃本線の客レには、スハフ43が連結されていました。古びた回転クロスシートに歴史を感じました…。 ↑ 仁堀はあるけど大島は無いなぁ、なくなったのも早いし 仁堀航路といえば、時刻表には航海距離が74キロ(だったと思う)と出ていたな。
それなのに航海時間は約2時間半。
宇高航路が18キロで1時間だったからエライ快速船だと思ったもんだ。
実際の仁堀航路の航海距離は35キロ程度だったのらしいのだが、なぜ時刻表上にはそんなに長大な距離が載せてあったのかは不明。 >>29
平行してる民間航路との運賃格差是正のため、と宮脇先生の“最長片道切符の旅”に書いてたな>仁堀航路
ちなみに宇高航路は紫雲丸事件の後で下りルートが変わってるとの事 >>26-28
まあ戦後のどさくさに、山口県から押しつけられた航路だからね。>大島
カーフェリー化以降は広島局の稼ぎ頭になったけど、
1975年に大畠大橋の開通で終航。昨年、JRバスも撤退してしまった。
>>30
事故以前は、上下便が中間でクロスする、
今から見れば無謀なルートだった。>宇高 大島航路といえば、周防丸ですね。小さな船で、細長く狭い船室が特徴でした。
晩年に就航した大島丸は、冷房つきの船室で、短い乗船時間ながら快適な船旅を
楽しめましたが、個人的には、周防丸の方が好きでした。
小松港で船を降りると国鉄バスの乗り場があり、船から降りた客で満員となった
久賀方面と安下庄方面のバスが、いつも同時に発車していました。何度か、満員
で乗車出来ず、次のバスまで1時間ほど、駅前の食堂で時間を潰した事を覚えて
います。
小松港の乗船口と駅舎は、昭和51年の航路廃止後も、昭和60年頃まではそのまま
残っていて、当時の名残を留めてましたが、今では営業所も撤去されて、当時の
賑わい振りを偲ぶ事が出来なくなりました・・・
ちなみに、終航は1976年ですね。 >>25
たしかにガラガラ。
たった一度だけなので、何ともいえないですが、連絡線のイメージには遠いです。
四国の目的の一つが私もスハフ43。
しかし、当時はほとんど高松−琴平/川之江(か豊浜)の限定運用で、しかも朝の上り/夕方下りだけ(途中併結)
冬では朝は暗いし夕方も暗く、撮影には厳しい条件ばかり。
車内は向かい合わせの固定でした。
やっぱり航路に思い入れが多い人が多いのかな?
俺はJR化以後だけど、JRバス一般路線の乗り潰しをやってた。
1日0.5往復しかない路線、現地で泊まらないと乗れない路線などいろいろあったと思いますが、
苦労の思い出があるのってどこだろう。
・温水プール前(歩いてもたいした距離ではないけど)
・わらびが丘(冬に片道タクシーを飛ばしました…)
・ハイジ牧場(意地でも中には入らず、猛暑の中数時間…)
・千平経由(一泊)
・浅内(岩泉線に乗り換えた)
・1日で全部乗れない?久慈市内(久慈海岸線もいい!)
割と俺は東北・北海道の思い出が多いです。
国鉄バスの乗りつぶしとは初耳ながら恐れ入りました…
民間バスの回数券を収集しようとして挫折しました。 時刻表にない路線あったしなー。
それに休日休校日運休なんていう朝の便のると
スクールバスに紛れ込んだ感じで恥ずかしかった
スクール便で最後までよくわからなかったのが、小浜から海岸2方向へいくやつだったなあ。
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