四国急行黄金時代を語らないか
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予讃本線:うわじま・いよ
土讃本線:あしずり・土佐
高徳本線・牟岐線:むろと・阿波
徳島本線:よしの川
急行料金や指定料金が易く、停車駅は多め
指定席がグリーン車席になったりよかったよねー 松山から鈍行高松行きで高松まで行って(乗ったのはキハ40 2145だった)、
50系客車になる前の土讃線の夜行快速、731Dに乗ったら、
隣のボックスで、池田高校の蔦監督がぐうぐう寝てはったなぁ…。
夜半過ぎの高松では、急行「うわじま1号」にタラコ一色のキニ56 1がくっついてて
(いま出回っているオレンジカードとたぶん同じ図だ)、
夜の夜中に高揚しまくってた厨房の夏。
懐かしいねぇ。
今、キハ5865で必死になっているのはお子様達なんだよな。
国鉄時代は全国各地で走っていたから、よくぞここまで残っていたという感じだ。
でも、いまさら撮影なんてしたいとは思わないよな。 手元に1967年10月号の時刻表があるのだが・・・
土讃線の列車は、おもしろい併結列車があったみたいだね。
215D 足摺2号なんだけど、多度津で松山発の「予土」を
阿波池田で徳島からの「よしの川」繋いだり・・・3階建てとは。
何両で走っていたのだろう?
予讃の方も、松山3:24発急行いよ1号とかあるんだけど
発車時間がすごいな。お客さんは多かったのかね〜? >>68
連絡船継走はとんでもない時刻に出たりしますよね。
大阪から夜行の「鷲羽」で高松に着くと、3時代にどやどやとラッシュがおきてました。
徳島行きは、ホームにいて乗れましたが一時間後の出発。でも4時代。 宇高航路が生きてた時代は南海航路使ってたからなあ…高松の最盛期は知らん。
よしの川崩れは小松島港まで使ったことがある。 >>70
徳島駅では「こまつしま・みなと」と言って切符買う人が多かったです。
小松島から誘導係が乗ってきて、入れ換え扱いで港駅ホームに入ってました。
無人の踏み切りひとつ渡れば港駅。機回し線がある片面ホーム。
切符回収の駅員さんのわきに、ちくわのおばちゃん。すぐ左手が南海フェリー待合室でしたね。
>>68
予讃本線内
<ハ58+<ハ58+ロ28+ハ58>+ハ58>
1〜4「いよ3号」、5号車「予土」
土讃本線内
<ハ58+<ハ58+ロ28+ハ58>+ハ58>+<ハ28+ハ55>
1〜4号車:足摺、5号車:予土、6,7号車:よしの川
「予土」は1両なので(営業運転としては)単独では動かせなかったよう。
上りも「南風」−「よしの川」−「うわじま」にくっついてまるでコバン
ザメのようだ。
このユニークな列車もS43,10には廃止されている。 68です。
74さん詳しい解説ありがとう。古い時刻表が
あるのはいいのだが、四国内の編成表は掲載
されてなくて謎だったのです。
ホント、ユニークな列車ですねぇ。
69さんも懐かしい思い出話をありがとう。
深夜〜早朝にかけて、ホームでエンジンを
カラカラ言わせてるDC達・・・
最高ですねぇ。 >>68>>74
「予土」はキハ52だったと思いますよ。
RP41-11の四国特集に詳しく運用や編成が出てました。
夜に家に帰ったら見てみます。他の人のフォローもよろしくです。 キハ52急行予土の写真は確か、鉄ピクの遜色急行特集でも出てたような。 76です。
43.10直前はキハ58使用ですね。失礼しました。
キハ52使用の優等列車は、もう少し古い時代ですね。 74です。補遺させて下さい。
「予土」はS40,6に新設。
資料上では特急、急行、準急気動車列車編成順序表ではS40,10,S42,10ではキハ58。
受け持ちは高松です。
ヒゲの急行のミュージックホーンの、音源とまでは言わないが
音階が知りたいと思うのは俺だけ? >>80
ノシ
名列車伝(だったかな?)とか言う本に"ドミソミドソミソド"
と書いとったような
電子ホーン(ちがうんだろうな)だったら、回路図を見てみたい。 >>81
ありがとう。さっそく鍵盤で再現を試みてみます。 「やくし」「たいのはま」「あけぼの」「にしうみ」
臨時急行HM付サイコー。 列車名忘れたけれど高知から高松までドエライDC急行に乗車した覚えがある:
キハ55+キロ28+キハ55の3連
>>25
CV240は日東航空が持っていたかな?あれ与圧装置がついていたが
「大雪号」なんて北日本航空から来た機もあった。その後NORD262に変ったが、
小型で窮屈だったけれどエンジンの音が「カラカラカラ」--で面白いターボ
プロップだった。 70年代前半上りいよ5号は4両編成という短編成で運転していた。
しかも唯一堀江に停まっていた急行だ。 「いよ」 は臨時で松山以西も運転されていた時期があったな。 >>4
ありましたね。高知市内の高知県交通の要所堺町発で。カラーテレビ搭載
が売りだったような。子供のころ高松行きの列車が結構な本数あるのに
乗る人いるのかなと不思議に思った記憶がある。 昭和57年に急行いよに乗った。キハ65は走行中、気障りな振動をたてた。 車販なくなったのですね。10年ほど前には予讃線に残っていて
新居浜で折り返してたような。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
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〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
>>90 痛違いだけどまた試験的に乗せてるらしいじゃないですか >車販 準急「黒潮」なんてのが土讃本線を走ってたようだね(昭和39年現在)。
この列車、もしかしてキハ55系? 高知方面行き急行あしずり・土佐で阿波池田出て、右手の山の中腹に民家や畑が見えてきたら、だんだん高知に近づくなぁ、って思ったなぁ あのあたりは本当高い所まで人家や田畑があるねぇ。
車が入れる道路が付いたのはずいぶん後だったときく。
今はお年寄りだけかな。 >>98
宇野線、時間一本に幹線運用でグリーン車が要るからって、宮原のG付き7+4の11連で岡山運用にしてたね。
入れ替え用に大阪〜岡山の113系運用があった。
モノクラス化で、岡山の115系、8、12連に化けたけど。 >>63
>土讃線から予土線直通の列車ってなかったかな?
ありましたよ!
朝8時04分、高知始発で中村・宇和島行き。
後ろ2両が窪川で切り離されて、中村行きよりやや後れて予土線に入り快速として宇和島まで乗り入れてた。
>>80
>ヒゲの急行のミュージックホーン
これの音階、小田急ロマンスカー「はこね」と同一。
>>100
ヒゲの急行のMHにビクーリ。
懐かしくないけど匹の8000系の車内チャイムが
ヲタ急の20000と同じというのも奇縁っす。 30年前は松山ー八幡浜を特急でも2・3時間かかったのに、今では内子線経由で50分で行けるのだが、瀬戸内海見ながら弁当食べる事ができた昔の方が良かったなあ…
一日一本でいいから長浜経由に急行をとおして欲しい 最後のだけ見れた。うわぁ〜なつかしす。
小学生の時、一度だけ急行いよを乗ったことがある。この時便所のランプがずっと点いていてションベンが出来なかったなぁ。多分キセルしてたんだろう 銘柄入り急行券がなかった急行列車は「よしの川」のみ。
「むろと」「阿波」もなぜか数本ハザがあった。 ガキの時は徳島だったので予讃線・土讃線の各急行と比べると、
「阿波」「むろと」「よしの川」どうしても格下に思えた。
最大でも3両だし、グリーン車も半室で全列車付いてなかったしね。
高松の「阿波」が出る0番線と、「いよ」とかが出るホームも違いすぎ(笑)
向こうはホームに手押し車?ワゴン?の売店とかも出てたからね〜
ただ「よしの川」は南海四国ラインの一部だったからか、編成以外は意外に?華やかだった。
徳島以遠、高知とか行く乗客も多くて活気と言うか、ビジネスライクな「阿波」とは雰囲気違ってた。
小松島港〜徳島間は快速運転。県内の駅の運賃表に「なんば」も普通にあったし。
大阪から徳島に行くときは小松島経由が主流だったろうが、大阪〜高知だと高松経由とどっちが主流だったんだろう? 下手に遅い鉄道や一般道使うくらいなら、
車利用するしないに関係なく一晩寝てるだけで着くフェリーの方が安いし楽。
本当に急ぐ奴だけ航空利用。 >>116
新幹線岡山開業までは小松島経由のほうが分があった。 大阪高知特急フェリーの船酔いには泣かされた。YSの席は全日空から埋まり、東亜によく回されたなぁ >>120
今だったら修行僧で満杯だっただろうなw >>122
懐かしいなぁ、東亜のYS
自分が三・四歳頃に乗った事あるけど着陸時に凄い衝撃と急減速でシートベルトのところが痛かったのが印象に残ってる。
スレチスマソ 高松に着いた夜行急行は6時発のホーバー急行便に連絡、宇野から快速電車、岡山でひかりに乗り継ぐと、新大阪に8時30分に着き
御堂筋線に乗り換えれば梅田や本町9時の用事に間に合うのでビジネスマンや単身赴任族にも人気があった。
飛行機だと朝一の便でも伊丹空港からの道路が少し混んでいれば、大阪都心に9時に着くことができなかった。
瀬戸内夜行フェリーは今より船足が遅く、大阪弁天埠頭入港は9時、10時の便が多かった。
ただし神戸青木には良い時間についたので、ここから阪神電車という手もあった(フェリー発着時間帯は阪神急行が青木に停まった) >>112
ハザはキロハ25のハだろう。
一度夏に高松−徳島間に乗車したが満員だった。 「吉野川」(キハ55)から小松島港で神戸-大阪行阿摂航路乗り換えが呑気で
良かった時代が懐かしい。「ちくわ」を買って齧りながら昼飯は定番親子丼
か船に依っては和定食、のんびり昼寝出来た。
徳島−小松島港のチョン行キハ11が改造で内壁デコラ張り(マーブル調)で
扇風機取り付けだった。 >>126
ゆとり世代には絶対に無理そうですね、その乗継からの直での仕事は。 昔は寝台じゃない夜行列車で乗り込んでそのまま仕事は普通
長距離列車の始発終着駅のホームには洗面所が(便所とは別に)設置されていた時代 ホームの洗面所は殆ど見られなくなったが、あの丸い形が独特だったし、アルマイト
の嗽コップがよく盗まれて鎖だけのが多かった。
時刻表に丸の中に洗のマークがあった。徳島など後年探しても無いので不思議だった
けれど、公安官詰所だかの横にチョコンと一つあったのを見つた。 どこかで読んだことがあるのだが...
予讃(本)線の下り急行(「いよ」か?)に連結されたキユニ(15?)だかが、
上りは単独(当然片運)で帰っていくということがあったそうだが、どうなっていたんだろう。
最後方に反対向きにぶら下がっていたんだろうか。そうしなければ、転写台で方向転換
必要だし。
>上りは単独(当然片運)で帰っていく
そんなモンねぇよ。 多度津〜高松の検査明け試運転じゃないか?
キハ181単行でもやってたし、
今でもJR車両は1両でしょっちゅう走っているぜ。 >>136
俺も見たことがある。どこに書いてあったのだろう。
古いピクの巻末の「四国だより」かなあ?
尻切れトンボとか表現してあった様な気がする。 >>138
漏れもなんか鉄道雑誌で見た記憶有るなぁ。 RM Library No.20 「国鉄郵便・荷物気動車の歩み(上)」キニ15の項(P39)に
「時に方運車でありながら単行運転も行われた」とある。
残念ながら写真はないが。どこかで見た覚えがあるんだけれど。どこだったろう。 高徳線の下り始発と上り終車は、「阿波」の送り込みを兼ねてキロハ28 1込みの編成だった。
高松で「うわじま」や中村夜行と接続していたからよく利用したもんだ。
このキロハ28 1の普通席は、一般的なクロスシートだったが、
窓割に合わせたので、やたらシートピッチが広く、向かいの席に足を伸ばすのがしんどかったな。
たった1両の珍車にそれでも乗りたくて、あえてこの車両に乗っていたのを思い出した。 >>141
大阪発「鷲羽」の深夜連絡で5時前まで待たされた徳島行き始発だわ。
何度か世話になったけど、ロハの分離壁側ボックスが特に広くてね。
足が届かん。 >>135
ガキは黙ってろ。知らねえくせに口出すな。 鉄ピク93年4月号臨時増刊「四国の鉄道」P107に
端岡駅を通過する尻切れトンボのキニ152の写真がある 今月のRMに、尻切れトンボで試運転をするキハ47 2の写真がある >>145
ヨンサントオの編成表にも下りで継走するユニがあって、上りは見当たらなかったんです。
やっぱ単独帰還でしたね。
去年、祖母が亡くなってJRで高知駅まで乗った。新しい高知駅を見て怒りより大笑いしてしまった ディーゼル王国
それは四国でもありそして・・・千葉でもあったりした。 昭和45年8月時刻表
23:25着 急行「うわじま52号」宇和島発
23:43発 急行「うわじま52号」宇和島行
23:48着 急行「あしずり51号」須崎行
23:56着 急行「うわじま8号」宇和島発
24:00着 急行「あしずり7号」窪川発(窪川〜高知間普通列車)
00:22発 快速 土佐佐賀行
00:49着 急行「あしずり51号」土佐佐賀発
00:50発 急行「うわじま1号」宇和島行(一部車両、先発の土佐佐賀行に多度津から併結高知行)
02:22発 急行「いよ51号」宇和島行(松山〜宇和島間定期普通列車)
02:32発 急行「土佐51号」土佐佐賀行(高知〜土佐佐賀間臨時普通列車)
03:20着 急行「うわじま53号」八幡浜発
03:25着 急行「うわじま9号」八幡浜発
03:41発 快速 土佐佐賀発
03:46発 急行「いよ52号」宇和島行(松山〜宇和島間定期普通列車)
03:50発 急行「土佐52号」高知行
04:39発 急行「うわじま51号」宇和島行
04:55発 急行「あしずり1号」土佐佐賀行
05:00発 急行「うわじま1号」宇和島行
05:05発 急行「土佐53号」窪川行(高知〜窪川間定期普通列車)
昭和45年なら讃岐財田発の快速客レが興味深い。
讃岐財田着は無いのに。 四国の急行はおおむね「ゴトンゴトン」という音を立てながら走行するというのに、
本州側の、それも電化の複々線区間を走行する”汽車急行(おおむねキハ58系)”なんかはディーゼル音こそするものの
「ヒューンガラガラガラガラ…」という連続音ですれ違って走り去っていったのが、
本州旅行中の四国在住の者にとってはむしろ新鮮なイメージがあったりする。
連絡船で高松まで戻ったら、行き先表示版がカラフルに思えたりして、
二重にカルチャーショックを受けたりするw
色別で区分けされていた行き先表示版(国鉄四国総局時代・高松駅)
青 … 松山・宇和島方面
赤 … 高知・中村方面
緑 … 徳島・牟岐方面
矢山康夫さんって、ちょっとしたアイデアマンだったんだね? どの線も同じような姿かたちの車両が走ってたわけで、
誤乗を防ぐためにはそうするよりなかったのでしょうね。 >154
青…いよ・うわじま・よしの川
赤…土佐・あしずり
緑…阿波・むろと
さすがに徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
よしの川は阿波池田〜徳島・小松島だったっけ?徳島〜小松島間は快速だったかな? >>157
>よしの川は阿波池田〜徳島・小松島だったっけ?
※高知始発の「よしの川」が、昭和55年10月改正のときまで2往復存在していました。
(阿波池田始発は4往復で、55年10月からは6往復の体制)
>徳島〜小松島間は快速だったかな?
そうですね。 正式には小松島港(臨)まで。
>さすがに徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
黄色地に黒の文字盤表示にする案があったとやら無かったとやら…
もしくは黒地に白のくり抜き表示の案。 …坂出-高松間、もしくは三本松-高松間の、割に長距離ノンストップの時間を利用して
終点の高松に到着するまでの間に、検札がてら急行券(もしくは特急券)を回収しにくる”オレンジ作戦”も、
おおむね四国総局特有のやり方ではなかったか?
まあ、さすがに宇高連絡船の場合は青函連絡船の場合とは違って乗船名簿を乗客に配って回ることはしなかったが。
上りの急行(特急も含む)で高松駅のプラットホームに降り立って
マラソン大会よろしく駆け足で連絡船に乗船する光景は否応なしに旅情を掻き立たせたもんだったw
しかも高松駅は全プラットホームが行き止まり方式の「櫛形ホーム」でもあったのだから。
この独特な旅情は上野駅でも東京駅でも、もしくは門司港駅でも味わうことはなかった。
(函館駅が唯一の例外?) >徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
青やんけ。 四国で急行に乗車するときに、ホームでも車内でも「この列車は急行ですので、乗車券のほかに急行券が必要です」というアナウンスを耳にすることがあまり無かったのは、
それだけ四国では急行列車が地域に溶け込んでいて密着していたせいだろうか?
…昔、165系急行時代の「東海」に品川から終点の静岡まで乗車したときなんか
停車駅ごとに「この列車は急行ですので急行券が必要です。 急行券をお持ちでない方はご乗車出来ませんのでご注意してください」だなんて
相当のダミ声で車内アナウンスが行なわれていたがために鬱陶しさがあったもんなのに…
ただ急行「東海」の場合、清水を発車して終点が近づいてからも急行券を回収しに来なかったのには
四国で急行列車に乗り慣れている者にとっては、やはり違和感があった。
高知から坂出の父の実家に帰省するとき、いつもは車で国道32号線を通って帰っていたものだったが、父が仕事の都合で一緒に帰れなくなったので、オイラと母と妹が一足お先に急行あしずりに乗って帰省した。昭和61年8月、オイラが小学三年生の頃だった。
いつもは車で帰省していたので、列車に乗れるのが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
土讃線はトンネルが多い路線だと改めて思ったものだ。
翌年からは坂出の父の実家で暮らすこととなり、帰省の体験すらなくなった。
オイラにとっては国鉄急行最初で最後の乗車だった。 方面別色分けに、登場当初のキハ32の帯色は一致されてた? していない。
松山はオレンジ色
高知は濃い赤
徳島は藍色 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています