東京〜九州のブルトレは1980年代になってもそれなりに利用する旅客がいたんですよ。
「みずほ」のような補完列車がしぶとく残っていたのがその象徴です。
東海道新幹線の開業以降、最速手段では決してなりえなくなったこれらの列車は、
所要時間の短さを求めるのではなく、乗換なしでマターリと一夜を過ごす客層、
それも相当数の客層で支えられていたのです。
だから、新幹線や航空機が便利になっても、かなりあとまでしぶとく存続していたのだと思います。

それに対し関西〜九州のブルトレは、新幹線との乗り継ぎ客で支えられていた時代があったのですが、
最盛期は1970年代でした。
まあこの当時の客層はビジネス客が多かったのだと思います。
(そうでなければ>>25>>34のような列車設定本数にはならない。)
料金も新幹線の特急料金と在来線特急料金(乗継割引適用)と在来線寝台料金がかかったわけで、
東京〜九州のブルトレに比べて高くつく上に、
新大阪などでの乗換が必要だったわけで、
それでも多数の人に利用されていたというのは、当時としは便利な移動手段だったからに他なりません。

新幹線博多開業後も関西〜九州の夜行列車の需要はそれほど減らなかったのですが、
その後5年くらい経ってから激減(>>34を参照)する様を見ると、
新幹線の影響より航空機の影響のほうが大きいのかなと。
この頃になると各地の空港が整備され、日本航空も全日空もB747をはじめとする大型機を就航させるなど、
着々と輸送力を上げてゆきます。
成田空港の開港で羽田からの国内線の増便ができるようになったのもこの頃ですし。

フェリーについてはこれはもう明治の時代から競争で、
むしろ1970年台の頃は棲み分けがあるていどできていたのではないでしょうか。

まあ、いずれにしても新幹線は方開業の頃がピークで、
その後一気に凋落していった関西〜九州のブルトレ群には、
一抹の寂しさを感じてしまいますね。

ちなみに>>34の1975年3月の本数ですが、「明星」「あかつき」のうち2往復は併結運転をしていました。
で、併結していた「明星」のうち1往復が筑豊経由でした。
筑豊経由の列車が設定されていたのも「時代」ですね。