明星なは彗星あかつきの時代
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2008年ついに消滅してしまったこれらブルートレインを中心とする
関西発の九州方面夜行列車の話題をしてみませんか?
呉線経由下関行安芸とか雲仙西海、霧島などの急行夜行の話題も可で
現役のML九州に話題ついては板違いですのでほどほどに
(でも頑張れ、板違いにならない日が遠い将来でありますように)
関連スレ
さくらはやぶさみずほ富士あさかぜ瀬戸出雲の時代
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220165746/l50 篠栗線を走る特急「かいおう」の前面には赤地に「ARIAKE」の文字が刻まれていたように思いますが いつぞや乗った「なすの」にも、側面には「つばさ」って書いてあったw >>241
九州名物「白いソニック」と「白いかもめ」の日常的な交換のことかーーー!!
あれ、走行距離を調整するためらしいが、それをやるんだったら
ロゴを替えろっつーの。重に高齢者が迷う姿をよく見かける ・・・数年前にTSUBAMEロゴ入りの787系有明に乗った覚えが >>10
あれは特急安芸になっちゃったんじゃなかったっけ?
しかも急行音戸だった当時は機関車がC59だったような。
>>43
かっこいい^^
>>96
いい話じゃのう・・・。 マイネ40形7〜オヤ41形1から復元、飯田線中部天竜駅構内にある佐久間レールパークに保存。
マイネ40形11〜オヤ41形2から復元、碓氷峠鉄道文化むらに保存。
それをさらに、マロネ40形にまで復元して、初の寝台急行「海星」を走らせてくれ。
牽引機なんなんだろ?
昭和42年3月31日、大ミハのマロネ40 4が、狩勝実験線用試験車マヤ40 1に改造されました。
配置は釧オロ(帯広)です。
同じく大ミハのマロネ40 7,11は、42-10改正時に静ヌマ(沼津)に転属した後、昭和43年3月30日に三島操機区工事車オヤ41 1,2に改造されました。
廃車されていたはずのマロネ40 5が、釧路鉄道管理局保健車スヤ42 1に改造されました。
配置は釧クシ(釧路)です。
引用〜ttp://cu1.web.infoseek.co.jp/kumoi103/inerone4.htm
北海道のマロネはもうないの? 沼津通過時、オロネ40らしき車両を確認後、りゅうがもりでオシ17ハケン。 マイテ49は交通科学館から復帰
ED18は佐久間レールパークから復帰
C62は北海道鉄道記念館から復帰
やる気になればどこに保管されていても復活は可能でしょう! 「なはつき」って姫路〜大阪間の時間帯が上りは朝のVIP出勤、下りは
一杯ひっかけた後のラクラク退勤にピッタリのダイヤだったが、レガートシート
の愛用者って結構いたのかなあ??首都圏だったら絶対使う奴いそうだけど・・・ 客車時代末期の「だいせん」ってそういう使われ方されてませんでした? >>253
20系+12系?
帰りの下りは時刻が遅かったので、遅くまで飲んだサラリーマンが仕方なく使う場面はあったでしょうが、
上りを通勤ライナー代わりに使う意味はなかったでしょう。 上野〜高崎あたりの下り「能登」も割りとサラリーマンが乗っていますね
>>254
「だいせん」は14系+12系。
下りは篠山口やら福知山で下車する人が結構多かった。
これは気動車になってもそんなに変わらなかったです。
スレチ >>254
下りにしても大阪はまだ20時台だぜ。
新快速が23時過ぎてもあるし、姫路へのラクラク退勤なら新幹線だ。 レガートシートの切符を短距離で買われたら、
本当に必要な人が乗れなくなってしまいますね。 >>259
廃止が取り沙汰される前、空気輸送の「なはつき」はレガートシートもガラガラでしたが、
31レの博多←小倉は、結構乗車人数がありましたね。
小倉駅では、10号車のドア位置付近に5〜10名程度の人が待っていて、
スーツケースやキャリーバッグを持って、乗り込んでくるのをよく見ました。
博多で下車するまで、例のミニロビーで時間をつぶす人が結構多かったですよ。
見るからに「なはつき」に乗りそうにない客層、若い女性等がメインでした。
北九から海外へ行く人たちだと思います。
博多5:52着でしたから、朝早い飛行機に乗る人には、なかなか便利な列車だったようです。
>>252
関西は貧困ですから、特急料金を払って通勤することなど
有り得ないのでは?
>>257氏は、>>254のレスにあるアンカーもろくに読めないようです。
まるでシナ人か関西人並の低い日本語力ですね。 >>260
>>252
関西は貧困ですから、特急料金を払って通勤することなど
有り得ないのでは?
>>257氏は、>>254のレスにあるアンカーもろくに読めないようです。
まるでシナ人か関西人並の低い日本語力ですね。
こんなことをわざわざ書くからまったりしているこの板も荒れるんだ。 >>260 なるほど。あかつき号のレガートシートには、そういう需要もあったんだね。
しかし、客室には入らずに車端のロビーに乗ってたということは、
指定席特急券は持ってない乗客だったのかな?
自由席特急券を持っていれば、Q管内限定で黙認? 上りながらの半デッキには明らかに指定持ってないサラリーマンが多数乗車してたからなぁ 「なは」は博多発が0時をまわっていたから、ライブやナイター帰りの人が乗り込むことがよくあった。 彗星は飛行機より高かったから1994年辺りで廃止されても仕方が無かったね。 263>
といより、私も「あかつき彗星」時代のレガートに早朝の岡山から大阪まで
乗ったことありますが、真っ暗な室内に、数人がフルリクライニング状態で
いびきかいて寝ており、正直、指定券持っていてもなんか入りづらい雰囲気でした。
そういう中でおとなしく座っているより、ロビーでおしゃべりしていた方が
快適だと判断したのでは??? なはには昔よく乗ったな…
熊本在住で東京に行くときは、いつもなはで岡山まで行ってそこから
新幹線でビーフシチューを食べるのがお決まりだった >>267
安カプセルホテルに、夜中に入ると、そんな感じだなぁ・・・・
ロッカーやアコーデオンカーテンの開閉さえはばかれる雰囲気だったwww。
てか、レガートシートやB寝台やノビノビ座席に、貴重品ロッカー設置しないの?
ピッキングとかで盗まれたときにJRが責任とわれるとやだから、個人で管理させちゃえば本人の責任になるから設置したくないってことだろうか・・・。 >>263
>自由席特急券を持っていれば、Q管内限定で黙認?
以前、上りあかつきのレガートシートに乗っているとき、
(指定券を持たない)飛び込みの香具師が指定席分の額で
徴収を受けているのを見かけますた。(博多→小倉間)
>>266
「彗星」と直接競合関係にあったのは大阪―別府や宮崎のフェリーだった
わけだが 彗星とあかつきは小倉に止まらないから使えない
使えるのは明星と急行の日南
と親に言われてた
俺は1972〜1975年の3月まで関西在住、両親は北九州の小倉北区出身だった 客車特急は機関車の付け替えの関係で下関と門司に停車
バランスを取るため、電車特急は小倉に停車
両方停まる下関が一番得してた
ふくめし、ふく天うどんは今と比べ物にならないくらい売れたろうな >>260,>>263,>>270
まだ「なは」号が単独運転していた頃の話。
福岡市内⇔熊本(武蔵塚)の2枚きっぷで熊本へ行った友人が、
帰るとき、最終「つばめ」号に乗り遅れた。
そのとき熊本駅の職員に、まだ新大阪行「なは」号があるから
それのレガートに乗るよう指示されたそうだ。
対熊本の2枚きっぷは自由席のバージョンだが、特に指定料金はとられなかったそうだ。
>>269
スレチだけど、東北新幹線200系の二階建て車にロッカーが備えられていた
ような気がするが、使われていなかったみたいだった。
日本の列車内でロッカーを見たのはその時だけ。 >274
それ、部内で黙認だったんだろうな。「なは」レガートに博多から乗ろうとしたら
数人の客が降りてきたのにびっくりしたことがある。
その中に熊本県出身・福岡在住某タレントがいたからなおさらびっくり。
(いきなり降りてきたから鉢合わせになったよw) 「なは」が熊本打ち切り以後も、しばらくは単独運転が続いたが、熊本打ち切りの単独時代の乗車率って
想像しただけでも悲惨だっただろうなって思ていた。
まちがいなく廃止され、関西ブルトレ最後の1本が「あかつき彗星」になると思っていた。
「彗星」が先に廃止され、「あかつき」の相棒として「なは」が生き残ったのは意外だった。 (中学生の頃)昭和50年、大阪駅では安芸〜急行鷲羽〜583系明星〜58牽引あかつき〜…81系まつかぜ、381系しなのが撮影パターンでしたね。
今からは考えられませんが、当時は、あかつき、彗星、明星、が何本も走っていました。
赤帽さんもホームにおられ、お客様もそこそこ乗車されていました。 うおー、懐かしい!
ブルトレブームの頃、写真を撮っては友人達と見せ合っていました。
ある日、明星が20系の電源車を繋いでいてびっくりしたことを思い出したよ。 カニ22の改造車のカニ25ですな。予備車として明星や大分行きの彗星に使われてましたね。時々見かけましたが、20系全盛時代を思い出させてくれる車両でした。 改造された当初の背景は似たようなものだけど、
20系用のマヤ20とちがって、カニ25は電源車の
本務機(と言うと語弊があるが)にもついていたんだよなぁ。 >>281
カニ24が故障した時の代替車として役割も有った。 ttp://hokuso.com/date/jpeg-date-25-2.jpg KTNスピークで長崎市内の高架を走るあかつきの映像喜多━━⊂⌒~⊃。Д。)⊃━━!!! 6〜7年前にどうしてもブルトレに乗りたくなって
「彗星」で宮崎〜 快速など乗り継いで西鹿児島
「つばめ」で博多と、九州を一回りした。
都城で乗り換えの待ち時間があったのだが、
ホームから見える荒れ果てた留置線が痛々しかった。
なんか「兵どもが夢のあと」と云うか・・・
切ない気持ちになった。 都城はねえ・・・
かつて長距離列車が発着してたとは思えない有様 >>286
駄菓子菓子、九州新幹線全通でフカーツしそうなヨカーン >>288
九州新幹線全通で有明787モノクラスは宮崎落ち?
リレー車も短編成化して持っていくのかな?鹿児島中央にリンクする「きりしま」はともかく「にちりん」も置き換えできるほど余剰なのかな? >>237
亀だけど、「明星・あかつき」はいいと思ったがなあ
むしろ、その三つの方がダサいと思った
特に「なは・あかつき」と「彗星・あかつき」は >>290
概ね同意。
単純な配色決めというよりも、ブレンドのうまさを感じるかな。w 昭和47年5月15日午前0時、本土復帰のサイレンが那覇市内で鳴り響いた。
本土復帰の最初の朝、なはの車内はどんな雰囲気だったでしょうか。
最初の車内放送では、「本土復帰おめでとうございます。」と流れたのかな? >>276
う〜ん…それはたぶん西の車掌が「二枚きっぷ」を指定席回数券と思い込んでたのでは…
普通は収受します。
新幹線開業前つばめ末期の頃
西鹿児島20時代発ができたら少なくとなりましたが、最終が19時10分西鹿児島発の28Mの頃は熊本21:45に出れば次は「なは」しか無いので熊本乗車は割と多くありました。
博多以北も同様に小倉までの利用が多くありました。
ちなみに博多〜西鹿児島間ですが、B個室ソロの利用が結構ありました。
グリーンよりは高いけど
西鹿児島到着が1Mより早い(下り)
28Mもあるけど疲れたからのんびり帰りたい(上り)
そんなお客さん、ビジネスの方が割とありました。
特に下りは熊本〜西鹿児島を立席特急券でヒルネ利用ではなく、あえてソロに乗る方も…
一度そんなお客様とお話する機会があり、つばめのグリーン個室をおすすめしてみたら
「グリーン個室は広くていいけど、つばめレディさんが来るし横になりにくい。1人じゃなんか広すぎて落ち着かないからね」
と。
彗星の九州区間でも、そういうビジネス利用はあったようです。
あかつきに乗務したことがありますが、下りに鳥栖〜長崎でシングルDXに乗ってこられた方がいました。「長崎で大事な用事があるから1人で景色を見ながら色々と考えながら行くのもいいんだよ」と聞きました。
そんなに1人で仕事のことを色々考えるなんて車掌は乗務員室があるからわからないけど、寝台は夜中に寝るだけのものではないと実感しました。 >>294
帰宅したら何しよ〜かな〜
朝飯ど〜しよ〜かな〜
です。
東京からの帰りは到着が遅いので東京駅で弁当調達してました >>278
その「安芸」を撮影しようと東京から夜行でいった場合
東京→(いなば・ハザ)→京都→(立山)→新大阪だった。
京都発の初電各停だと間に合わない。 >>295
昔、東京に住んでいた頃東京駅で九州の車掌さんを見かけると
「おお!こんな所に九州の車掌さんが!やはり線路は繋がっているんだな」
と当たり前な事に感動した記憶がありました。
今や東京駅で九州の車掌さんを見かける事は無くなって久しいし、
九州を結んでいたブルトレももうすぐ無くなりますね・・・・・。
>>277
熊本は寝台特急のターミナルとしては優遇されてたね
東京行きも関西行きも最後の最後まで生き残っていたし。
熊本自体が政令市になれるくらい都市規模が大きいこともさながら、
やはり鹿児島本線という九州最大の幹線だからというのもあったのかな。 昔風の考え方で、九州新幹線が部分開通したときにも、とうぜん
はやぶさは八代までは走らせるのだろうと思っていたから意外だった。
しかも九州新幹線全通を待たずに廃止とは… >>293>>295
おお、九州の車掌さんですか。
さくらorあかつきでお世話になったことがあるかもしれません。
諫早市民として崎サキ表記の車輌が上京したり、
九州の車掌さんが上京・上洛するのに萌えたことがありますよ。
路車板の九州ブルトレのずっと前のスレで西の車掌さんが
九州遠征ができなくなったことを口惜しがってましたが、
九州の車掌さんもお仕事で上京・上洛できなくなったことを
口惜しがってるんでしょうね・・・ やはり、こういう長距離夜行って
「このレールは東京や大阪まで繋がっているんだ」と認識させるものであったよな。
九州基準の目線だと下関を跨いで本州へ入っていく旅客列車が全滅するのはちょっとさびしいね。
(新幹線は除く) やっぱり、東京行きは、ステイタスですかねぇ・・・。
宮崎県の東知事ががんばって高千穂復活・・・・いえ、なんでもないです。 >>303
ええ、さくらはステイタスだったと思います。
私は2004年3月にさくらで京都に行き、さくら乗車はそれが最初で最後でした。
さくらもあかつきも同じ車種であり、さくらの車輌の一部(15の0番台)は
あかつきの転用であることは存じてましたが、それでもさくらには
かもめやあかつきにはない貫禄があると思ったものでした。
さくらに1回しか乗ったことがなかったので、先月24〜25日にかけて
博多から名古屋まではやぶさ葬式乗車した時、スハネフ14-5、
つまり、さくらの14系化後から廃止まで、さくらにほぼ一貫して使われた
車輌に当たった時は感動ものでしたよ。 昨日、テレビで屋久島のことやってて15年ぶりに行ってみたくなったけど、
もう鹿児島まで寝台車で行けないんだよな・・・
そう考えたら行く気が半減した。 >>304
その「さくら」が 鹿児島⇔新大阪 の新幹線愛称になるとはね 時代は変わり続ける >>309
1972年5月なら日向と併結のディーゼル特急だね。 >>305
ニーズが高ければ廃止されて無いと思うけど? >>311
昨今の夜行激減は単にニーズの有無だけではない感じがする ニーズはあるだろ、夜行バスがあれだけ走ってるわけだし
ロングシートに毛の生えたような席に布団敷いて寝るのが
新幹線+ビジネスホテルより高けりゃそりゃ誰も乗りたくねーわ
寝台車走らせるより座席車にした方が、まだ客入るわ
もはや、つやまどころじゃねぇぼったくり特急のオンパレードだろ、寝台列車は。 >>313
だから、そこなんだよな。
結局の所、夜通しの移動が金のかかる
交通機関でやるべきじゃないって所に来てるわけで。
走るところは自前で整備して安全要員も配置しないと行けないような
金のかかる交通機関の一つにすぎない鉄道は
夜通しの移動から撤退しないと行けないところに来ていると。 適正価格は、仮に東京−大阪なら
運賃+在来特急料金指定=B寝台
ひかり指定=B寝台ソロ A寝台
のぞみ指定=A寝台個室
のぞみG=ロイヤル
これが適正だろう、銀河B寝台で15000円とかありえない(かった)
企業だって朝1時間くらいの差で夜行使わせるよりは、朝一番の
新幹線や飛行機で行かせるわ。東京九州ブルトレとかなおさらだし やはりB開放寝台6300円追加は大きいよな。
カシオペアやサンライズみたいな新車ならまだしも、車齢40年近い車両なんだから、
寝台料金を値引くか思い切って廃止してもよかったのかもな(つまりゴロンとシート)。
ふとんとかいらないけど、横になれるだけでも違うから高速バスとも違った需要はあったかも。
あと、九州側からなら寝台往復切符があって、
片道あたり15000円〜17000円程度で東京まで行けたんだけど
いかんせん誰もそう言う切符があるのを知らない。というかPRもしてこなかったが。 たしかに。とっくに車両の減価償却おわってるんだろうしなんというか。
設備に対する金か、専有面積に対する金か、微妙なところだが、同じ専有面積のゴロンとが指定だけの値段なのだから。
スリッパとまくらと布団とシーツの値段=6300(−510(ゴロンととの差額))円なのだろう。
本州ではないけど「まりも」の寝台料金を季節によって半額?にした
ことがあったような。もともとの利用者数の違いはあるかもしれないが
その後それらの列車がどうなったかはご存知のとおり。 うん、まりもは閑散期三千円だったっけ?安くていいよね。
寝台は下段が埋まるくらいだったなぁ・・・。
座席車も含めた全体の乗車率であぼ〜んしたんじゃないかな。
たぶん。 >寝台は下段が埋まるくらいだったなぁ・・・。
それ、寝台も振るわなかったな、って言ってるのと同じだから。 でも東京−大阪は別にして、夜行バスの客が全部鉄道に流れたとしても
1列車全部埋まるはずもないよな、どの便も学校休み除けばバス1台だしな その分瀬戸内航路が絶好調になるのですね、分かります だからこそフェリーは余力を風呂や食堂に回せるのですね。 >>323-324
そうか、そういうことか。
じゃあ、寝台列車にも、トレーラーのシャーシーを連結して・・とはいかないから、ISOコンテナかなんかを連結して、その輸送費も収入の足しにしたらどうよ。
で、ドライバー様専用のドライバールームとか、食堂とか風呂とか連結するの。
JRFは激らいばる出現で困るかもしれないけどさ。 積み下ろし設備の負担増やら編成重量増大で圧縮引き出しによる乗り心地最悪化とか、
デメリットのが多いような気もするけどな。 >>325
列車に乗せようとすると燃料抜けって言われるんじゃなかったっけ?
ていうか「カートレイン」ってあったじゃないっすか。 >>325
ユーロトンネルで走ってる列車みたいにしないと無理。 83年の時刻表眺めてて思ったけど、
先発する彗星1号(583系)が宮崎止まりで、
後発の彗星3号(24系)が都城行きというのは何か不思議だ 南宮崎以南が電化されたのは1979年だったからその名残なのと、
583系をにちりんに投入する都合なのかもね。 >>329
まだ夜行需要の絶対数が多かった時代だからそれでも十分やっていけたの
>>330
それそれ。
結局宮崎以南で583系の定期運用はないまま終わったよね、確か >>315
それが適正価格だからこそ、
JRは廃止したんだって。 >>332
あっ。ここは懐かしスレだった。
こんな議論は総合版ですべきだった…スマソ
>>329
彗星3号の付属編成は大分回転していなかった?
ピンクのページの編成表をご確認ください。
で、それであれば、あながち矛盾は感じないと思いますが。
そういえば、14系や24系が2段寝台化改造されてゆくとき、
583系もやればいいのに、と思った少年時代…。
ただ、583系を2段寝台化するには、
オロネ14とオロネ24は個室化改造が条件だなと思っていました。
で、実際には583系についてはサロネ581を除いて2段寝台化されず、
変な近郊型電車への改造が実施されてしまったのがorz >>333
>彗星3号の付属編成は大分回転していなかった?
>ピンクのページの編成表をご確認ください。
>で、それであれば、あながち矛盾は感じないと思いますが。
ごめん、意味がわからん。
後から出る列車の方が遠くまで行くのって変だなあって思ったんだけど、
それがなぜ大分切り離しと関係するの? >>335
富士は宮崎行きの編成より1.5倍ほど回っていたが、
彗星は都城まで行った相方が戻ってきて
そのままつながっていったからな。 >>337
あ・・・そういう車両運用ももう解説が必要な時代になったのね・・・orz 確かに遠くまで行く列車の方が、関西を早く出発していたが、それほど厳密ではなかったようです。
事実51年頃は熊本、長崎行きの「明星、あかつき」の後を西鹿児島行きの583系「なは」が追っかけていた。
東京発もトップバッターは西鹿児島行きではなく、長崎行きだったし・・・・ >>334
当時の「彗星」の旅客の流れは、下り列車でいえば、
大分までで過半の旅客が下車し、さらに佐伯、延岡、宮崎等で下車が続き、
宮崎より先、都城まで足を延ばす旅客は、ごく限られていたと思われます。
また、大分以北で下車する旅客は、どちらかといえば、
1号よりも3号、5号を利用されていたと思われます。
(その当時だと「5号…大分行」は既に設定されていない?)
その手前(行橋、中津など)で下車をするには早すぎるからです。
私の手元にはもう既に資料がないのでわからないのですが、
おそらく1号の大分到着時刻は相当に早かったような記憶があります。
一方、使用する車両ですが、
かたや583系電車で切り離しのできない編成でしたが、
かたや24系25形客車で途中駅で切り離しが可能な編成です。
ということは、
〇583系は、切り離しができないので、できるだけ早い時間帯の列車に充当する。
○25形は、切り離しができるので、都城まで足を延ばす列車に充当する。
そして、その付属編成は大分で切り離す。
としたほうが自然な流れと考えることができます。
終着駅での到着時刻が遅くなりすぎないよう配慮することも重要ですが、
どうやら中途で下車する旅客の流れも含めて考えられたのではないかと。
なお、私自身日豊本線の利用経験は1回しかないし、
関係者やヘビーユーザーから聞いた話でもないので、
できれば詳しい方のご解説を頂けると助かります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています