明星なは彗星あかつきの時代
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2008年ついに消滅してしまったこれらブルートレインを中心とする
関西発の九州方面夜行列車の話題をしてみませんか?
呉線経由下関行安芸とか雲仙西海、霧島などの急行夜行の話題も可で
現役のML九州に話題ついては板違いですのでほどほどに
(でも頑張れ、板違いにならない日が遠い将来でありますように)
関連スレ
さくらはやぶさみずほ富士あさかぜ瀬戸出雲の時代
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220165746/l50 >>109
あれは酷かった。
運命を共にした76の87号機は綺麗になってたし
HMも新調して放置宮崎にしては破格の扱いだったのに… 583系彗星の座席指定に、岡山から
大阪まで乗ったことがあったな。 大分で小学生をしていた頃
太平洋戦争で最後の特攻隊が宇佐から飛び立ったという話を年配の先生から聞きました
「飛行機の名前は彗星、大阪行きの汽車とおんなじじゃ」と 東京で小学生をしていた頃
太平洋戦争で最後の特攻隊が宇佐から飛び立ったという話を年配の先生から聞きました
「飛行機の名前は彗星、大阪行きの汽車とおんなじじゃ」と 彗星、大分から日向市まで乗った。
大分ー延岡は線形が悪く、駅に入いる度に減速してた。
明星は熊本ー新大阪に乗った。583系。 爆撃機「銀河」の開発に携わった方が0系新幹線の開発にも携わったそうですね
宇佐から彗星で飛び立った最後の特攻隊長中津留大尉は津久見の方ですが
初めて乗り組んだ艦の名が「暁(あかつき)」
「暁」は撃沈され大尉は十時間以上漂流しましたがこのときは助かりました
>>115>>117
50・3〜53・10の間くらいじゃなかったかな・・・。
寝台設置・解体要員削減という、何とも消極的な理由だったが
それ以上に利用率が低迷して、結局全車寝台に戻ったと。 昭和50年3月のダイヤ改正時
明星7往復,彗星3往復体制になったとき
明星も彗星も電車1往復はハザ4両あったはず。
後2両になって
さらに全車寝台になったんだっけかな。
もっともその間に本数自体の削減もあったけどな。
彗星末期の大淀川、上り狙いの撮り鉄連日すごかったな。 明星なは彗星あかつき
金星もまぜてやってほしいです 若戸大橋って夜でも見えたっけ?
尾道大橋とか明石大橋みたいな感じで。
最後に「なは」に乗ったときに、見ようと思ってて見逃した。
昔、見たような気もするし、ただの記憶違いのような気もするし。。。 >127
>2
>129
ながらはそのうち立つでしょうし、ここより東京ブルトレスレの方がスレとしてはあってるはず
ちくまは・・・ないのか?
昔(RJ誌でのS51年彗星号乗車記で)はモノクラス12〜3編成で寝台券完売だったのね。。。
バブル期(〜民営化〜平成3年頃)までは九州夜行特急は寝台はほぼ満杯だったのでしょうか? 微妙に違うけど、過疎ってるし、
ちくまは↓でいいんじゃないか?
【金星 きそ】名古屋発の夜行列車【のりくら 紀州】
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220854940/ >>129
混ぜんなw
本題に戻って・・・
あかつき七往復時代って、20系、14系、24系24型、24系25型
という、当時のブルトレ全系列を使用していたのもスゴイよね。 いつも向日町の端っこに停められていた
安芸は混ぜてあげてもいいと思う。 入りきらない583が野洲まで行ってたぐらいだからな・・・ >>133
「あかつき」7往復の時代って方向による名称統一がなかったからな。
>>119
「私兵特攻」ってやつだな。
隊長の宇垣中将は、終戦を知っていながら、特攻を命じた=兵を私物化したという。
裁判とかになっていたような。 >>138
「自決なら一人でやれ!」と宇垣の行為に激怒した最後の連合艦隊司令長官小沢治三郎は宮崎は高鍋の人
そのひとつ前の豊田連合艦隊司令長官は大分の杵築の人
日豊線沿線は大戦中の連合艦隊司令長官4人のうち2人を出しています
最後の連合艦隊旗艦は「大淀(おおよど)」と言いますし、今度就役する海自初の空母も「ひゅうが」と命名されました
小沢元司令官は急行「高千穂」をよく利用していたそうです
「高千穂」と聞くだけで懐かしい気分になる、とアル中になった後もおっしゃっていたそうですね
玉音放送を聞いてから特攻した兵士の話をNHKスペシャルでやってた
沖縄まで飛び米軍が戦勝パーティーをしてるすぐ近くに墜落
パイロットが意図的に外したのではないかといわれてる 熊本で末期の「なは」の方向幕が回るのを見てたら、
「つるぎ」、「ゆうづる」、「いなば」、「紀伊」、「安芸」・・・と次々に出てきた。
懐かしかったけど、
その中に「あさかぜ・宮崎」、「彗星・下関」っていう幕があった
あれは何だったんだろう 金星や月光も含めてこのスレタイ見ると、581・583をすぐ思い浮かべる。
付随して、有明、しらさぎ、雷鳥を思い出す。
実績無いと思うけど、加越の幕って入ってなかったんだろか。
ゆうづる、はくつる、も。
ゆうづるや明星は50年代半ばまで、アホみたいに沢山走ってたなあ。
昔は良かった。
そういや「きりしま」もあったな。
付随して思い出してもらえない、にちりんカワイソス。
富士ぶさ亡き後の最後のJR九州運行夜行になるかと思ったら、
ドリにちも廃止の噂があんのね。 >>141
「彗星・下関」は、昭50年3月改正まで大分行の付随編成に下関行が存在した。 >>144
にちりんを忘れてたな。さすがに、みどりや、つばめは知らない。
>>145
なんで下関回転?あさかぜと共通運用?
昔は超広域運用してたからなあ。
懐かし板は、AAやアラシがなくて平和だな。
やっぱり年齢層が高齢なんだろうな。
でも、これから50年後とかになると、よぼよぼのじいさんが、
AA貼ってるのだろうか。 にちりんはあんまし見たことないから、すぐでてこなかった。
やっぱり何度も乗った明星と一回だけ乗った金星だな。
はつかりも思い出した。
思い出すの遅すぎ。ボケてきたかな。
>そういや「きりしま」もあったな。
「きりしま」は、581系統で唯一、走行中に寝台解体していたらしいけど、
やっぱり運用の都合だったのか? それにしても、解体作業はどんな感じだったんだろうね?
下り「金星」も解体してました。
当時、寝台の使用時間は朝7時までと決まっていたため、7時から解体作業に入るのですが、大掛かりな作業のため一両にたっぷり一時間以上はかかっていた記憶があります。
上中段を収納するために網棚が通路側にクルリと半回転する仕組みや、大量のリネン類を放り込んだ中段を勢いよく持ち上げて畳む様子に感嘆しました。
係の方は汗びっしりになってましたが、これだけ頑張ってもらったのに座席として走る時間は一時間ちょっとで、まもなく終点の博多…申し訳ないようでした。 >>151
おれは小倉で降りた時もう9時回ってたな。
初めて乗った581が金星で、それまで10系20系の蚕棚しか乗ったことが無かったので広さに感動した。 >>149なんだが、いいかげんなこと書いてすまん。
調べてみたら、581系使用夜行列車で、終着が9時を回る運用は、
「きりしま」「金星」以外にもかなりあった。
これらはやっぱり寝台解体してたんだろうね。
その後の昼行運用の都合もあっただろうし、何よりも、目が覚めてから
上中段で過ごすのも辛いものがあるだろうし…。
俺は「明星」に一度乗ったことあるだけだけど、
上段の小窓は、ちょうど目の高さで実に具合がよかったなあ。
>>153
明星の西鹿児島は10:00代とかあったような。 「きりしま」があったS50.3直前の「明星」は、
熊本行き3本、博多行き1本 (ずべて電車) ですね。
西鹿児島着
「月光1号」7:52、「きりしま」9:58 (583系)
「あかつき1号」9:13 (20系) 「あかつき2号」9:38 (14系)
「あかつき4号」11:14(24系) 山陽新幹線博多開業直前のダイヤだと、寝台電車の9時以降の終着は、
【下り】
「明星4号」熊本9:57
「きりしま」西鹿児島9:58
「金星」博多10:11
【上り】
「明星3号」京都10:22
「明星4号」新大阪10:41
「きりしま」新大阪11:22
になっているな。
それにしても、昼近くまで走る寝台電車があったとは驚き。
乗ってみたかった…。
あと、スレ違いかもしれないが、寝台解体ということでいえば、
蒸気牽引で有名になった「日南3号」だが、都城到着は夕方だというのに、
写真を見ると、ハネは解体していないよう。設営された中段が確認できる写真もある。
「日南3号」の場合、自由席座席車があったから問題はないんだろうが、
夕方まで寝ていられる寝台車は…、ある意味極楽かも?
なるほどそう言われてみれば、日南3号の切り離し作業(ED76+ロネを切り離し、DF50+荷を連結)を大分で見かけたことがあったけれど、目の前のハネの中段がセットされたままの記憶映像…。
そう考えると寝台特急は実に律儀に解体してたのか。
20系彗星に乗った時、当然ナシ20も営業していて、解体作業中は食堂車で朝定食っていうのが一般的コースだったなあ。
調理場の横の通路に空席待ちの人がズラリと並ぶ朝の風物詩…。
まあ、夜の食堂車も同じくらい混んでたけれど。 昔は寝台解体してたんだよなあ。
今は寝台車解体だが。 もしかしたら、寝台解体は、人手不足が深度化したの40年代では、
特急だけの特権だったのかもね?
急行は、朝になればとっとと寝台車を切り離していたわけだし。
それにしても「日南3号」は、なんでハネ一両を都城まで連結していたのかなあ?
大分あたりでロネや他のハネと一緒に切り離していてもよさそうなものだったのに。
ロザ二両連結も謎だった。 >>160
日南3号の大分は900頃で、都城15時代だったかな?
確かに大分で解放しないのも伏木
昔の関西〜九州夜行の乗務員は九州の車掌区所ほぼすべてが関わっていたんだよね。
鳥栖車掌区はいつごろまであったのかな。 >>160-161
そのハネ一両は、確か都城持ちの車だったはず。 >>155
山陽本線はカーブが多いのでさすがに東北筋ほどの速度差は出なかったけれども、それでも「あかつき」と「きりしま」は出発地に比べるとかなりの接近ぶりだったんですよね。 昭和50年のガキの頃、九州方面行きの583系で
ボックス席→寝台へ転換作業を経験した事が有ったけど
何の列車だったか覚えていない。名古屋から乗ったような気がしたが・・・ >>167
博多へ名古屋から来る特別急行「金星」において
座席→寝台の転換作業なし。
寝台をセットした状態で始発駅の名古屋に入線してくる。
だから違うだろ。
>>168
たしか「しらさぎ」の583間合運用があったと思う >>166
>ボックス席→寝台へ転換作業を経験した事が有ったけど
これは、非常に興味深い話ですね。
このスレによる検証(?)で、寝台電車における寝台「解体」は数例あったことがわかっている(大げさだが)。
が、寝台「設営」は、まだ証言がなく、>>166が初めてのケース。
ただ、下り「金星」に限っては、通常ダイヤであればそれは絶対にない。
また他の寝台電車も、基本的には19時以降の発車だったし、18時台(上り「金星」のように)発車でも、
19時数分前で、当然、寝台はセットされていたはずだし…。
が、実は俺も、営業中の583系車内で寝台設営しているシーンの写真を、
RJ誌のトップアングルという昔あったフォトコンテストの入賞作として見たことがあるんだよなあ。
だから、>>166の記憶も、勘違いとは決め付けられない。
たぶん、583系だけの特殊事情で、間合い運用の昼行特急が遅れたりして、
寝台設営の時間が確保できず、それで車内設営となったケースが何度かあったのではないか。
そのレアケースに>>166もトップアングル入賞者も乗り合わせたのでは?
貴重な体験をしましたね。うらやましい。
考えてみりゃ、毛布や枕、浴衣などのリネンのセットもあるし、
営業運転中の寝台転換は確かに無理っぽい気がするな。 こんな最近のことなのにもう分からなくなるんだな。難しい。
客扱い中に寝台をセットするのは考えにくいなあ。
長距離急行ならあるかもしれんが。 >>170
ああ〜やっと確信に近いレスがキタ〜!ありがとうございます。
以前に路車板で何度かこの事例について聞いてみたんですが、
明確な回答が得られなくモヤモヤしてたんです。
きりしまか?臨時だったのか?とも考えたんですが、どちらも
該当しなかった。途中で乗り換えた記憶も無いし、時期的に
ビミョーだけど合わないし・・・。
当時(S50・4)東京の小学校入学後1週間で引越しで大分に行く時に
途中の名古屋の親戚宅に泊まってから夕方に乗って山口の美祢の
祖父宅に寄る行程で厚狭か小郡までの利用だったと思います。
現地着が05:00ぐらいだったかと記憶、でもこの時間帯に着く
列車なんか有ったかな〜?夕方に乗ったてのは記憶違いかもしれないし
謎だ!w
東京発のブルトレで早い時間帯に出る列車(さくら…)は
静岡あたりで寝台セットだったから、583系でも走行中に寝台セットは
当たり前のものだと思ってて、学生時代の鉄仲間にこの事を話したら
誰も信じてくれなくてオオカミ少年の心境でしたが、解決の糸口が
見えてきました。一番の解決策の親に聞けばいいは、親がもうボケてて
過去の記憶が無いのが何とも・・・(−− 父はかつて九州〜関西を夜行で何往復もしたそうですが
電車寝台のほうがよく眠れた、と言っています
客車のやつはよく眠れなかった、と、毎回広島を過ぎるまで眠れなかったそうです
弟が関東から帰省するときに一度「はやぶさ」に乗ったときも眠れなかった、と
進行方向に枕があるかどうかでそんなに違うものでしょうか
私は客車寝台にしか乗ったことがありませんが毎回快適に眠れたのですが >>174
下段の場合だが、そもそも客車3段式★は70cm
電車三段式★★だと106cmだからなあ。
電車の方が寝やすいな。 >>174
10系ハネならまだしも20系以降なら空気バネ台車だからロール方向の減衰はしっかり出来てたんじゃないかな
加減速で出るピッチング方向は車体の揺れはなくても線路と直角に寝ているとGで揺さぶられる影響は大きそうだし
レールと並行に寝ていればピッチング方向のGで体が揺さぶられる可能性は低いだろうし 20系だと更に52cm
更に横になる方向で寝やすさが違うというのもあるのかもしれない >>173 1975年3月改正
特急 金星 博多←名古屋
小郡 着 8:01 電車の場合ないが、客車の場合下手なウテシにあたると悲惨
発車のたんびにガターン!
特急では少なかったけど。 個人差が激しく、普通で静かな事もあれば、
特急でガックンガックンやってたこともあるなあ。 >>155
50・3までは「明星」の西鹿児島行きはなかったのですね。
勉強になりました。 583系の寝台について、S53.10の時刻表では、
下り「金星」 "小郡から寝台券なしで乗車できます。" (小郡8:03---10:11博多)
下り「なは」 "熊本から寝台券なしで乗車できます。" (熊本8:23---11:44西鹿児島)
の記述が見られます。ということは 寝台の何処か一角を座席に戻しているってことですよね。
>>184
全車両?それとも○○号車〜○○号車まで数両ですか? >>183
>>185
ヒルネって言葉知ってるか? >>185
>>183
S50,8に下り「金星」に乗車したが全車両です。
解体係員が1名で2両持ちだったかな?の受け持ちで7:00より始めていた。
車内放送でも案内があり、知らんぷりして寝ていたが、カーテンごしにたたき
起こされてしもうた。
解体完了する時刻を見計らってヒルネ扱いを始めていたようだね。
3段寝台を解体したら4人座席に3人座る、ということになるんだな、基本 そこにもう一人来ても文句言うな。
通路に立っても文句言うな。
それが本来のヒルネ。 >>188
う〜ん、今の御時世だとソロにヒルネ制度があれば、不満続出でしょうね。
時代は変わりましたな。
昔は、1等寝台車マイネ37130の個室や2等寝台車マロネ37480の特別室でさえ、
午後9時頃〜午前7時頃しか寝台利用ができず、
他の時間帯は区間乗車の乗客を乗せていましたから。
>>191
「夜になるまで、誰のものでもない!」@宮脇長吉ですね。 >193
そんなことを言ってるとまた
「黙れ長吉!」と言われるぞw 581・583系の走行中の寝台解体の件なんだが、
星晃氏の「寝台電車登場の頃」によれば、
寝台電車の寝台設営・解体は営業中に行わないことが前提としながらも、
「朝など簡便法として中段を途中まではねあげて下段を座席に使えるよう
仮セットのための吊り上げバンドは用意してある」とある。
その「中段をかりに持ち上げた」写真も出ているが、
寝具は中段と上段の間に収納され、上段を仮の網棚として使用できそうではある。
実際に、「金星」や「きりしま」で行われた寝台解体ってこの方法だったんだろうか? >>196
覚えてないなあ。乗ってるのに。
星さんの記事は、ピクかなにか? ほんの数十年前まで組織的にやってた作業の真偽が、もう不確かなものになってしまうんだな。 >>197
星氏の記事はRJ誌74年8月号掲載のものです。
それにしても、星氏の記事には必ずといっていいほど「特急列車には折戸が最適」という記述があり、
年代によって「(151系設計時は)さまざまな理由で実現できなかった」から「某幹部の強い反対で実現できなかった」
と表現が異なり、星氏の立場が変わっていったことが伺えておもしろい。
>>198
金星51号氏も前に言ってたけど、本当にそうだよね。
紙がなかった時代に庶民が何で尻を拭いていたか、本当のところはわからないというのと同じだな。
尻を拭くのは、新聞紙、縄とかかw
子供の頃は、汲み取り式が普通だったから、四角いちり紙。
生まれる前は新聞紙を使ってたとか。本当か?
新聞紙、リアルタイムで見ましたよ。よくもんでから使うんです。
鉄道とはまつたく関係がないけど。 ラーメンのCMに明星がでてきたことがあった
けど、あれは近鉄の駅だ… 日豊線南宮崎電化はS49年4月だが、直前の3月に「日南3号」に宮崎まで乗ったときは
すでに大分以南もED76が引いていた。途中ですれ違った上りの「日南」は
ED76とDF50の重連だった。 >>166-173
寝台の設営については、昭和51年10月までは車掌補の乗務があったので、
普通に設営していたと思いますよ。
14系15形や24系25形の固定ハネ導入は、乗客サービスの向上とあわせて、
人員合理化の一環で車掌補を廃止するための側面もあったわけですから。
ちなみに、禾重木寸氏の著書「鉄道旅行術」(JTB 1980.7改訂版)によれば、
「さくら」と「みずほ」で静岡・名古屋間で民間委託した業者作業員による
設営作業が見られるとあります。これらは確か3段ハネだったはずです。
上り「さくら」のA寝台に関しては、「はやぶさ」と一緒になりモノクラス編成
になる直前まで、静岡〜沼津間で寝台から座席への転換作業やっていましたよ。
ほとんど、無人の寝台を、年配の作業員が一人で淡々と作業を続ける光景は、
ブルトレ衰退を象徴するような寂しさがありました。 関西ブルトレは深夜から早朝にかけての時間帯だったため、小学生の頃は
名前は知っていても実物を見ることは皆無だった。
中学生の頃は、日曜日の朝の2時頃、自宅を抜け出して、これらの列車を
よく見に行った。すでに新幹線は博多まで開通していた時代だったが、
当時先頭に立つ機関車はまだEF58だった。
昼間の荷物列車ではあまり見かけない「宮原」や「米原」のゴハチがすごく新鮮に見えた。
広島のゴハチは、なぜかパンタが下枠交差のタイプを搭載していて特徴的だった。 ゴハチの関西ブルトレ牽引は、正確に言えば47.3からの「復活」だな。
増発に伴う夜間規格ダイヤの導入で、関西ブルトレが高速を必要としなくなり、
かつEF65を貨物と新生・瀬戸&出雲に使うために捻出する必要があり、
ゴハチ牽引のあかつき&彗星が「復活」した……、ことになっているけど、
あかつきも彗星も、新設から47.3まではずっとEF65牽引だよなあ。
てことは、「復活」ではなく「新規」だと思うのだが…。
>>208
東京ブルトレ含めて復活と言ってんじゃ・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています