【流電】飯田線の旧国時代【EF10】
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>>162
たしか入ってなかったと思う。豊橋17:49発の水窪行きで、水窪停泊後、翌朝
豊橋へ戻る行路に限定運用だった。(その後豊橋〜新城・豊川の運用に入って
いたかどうかは覚えていない)しかし、後続の165系が車両故障を起こした時に
急遽代用され、たしか岡谷あたりまで入ったことが雑誌に書かれていたのを
記憶している。それが正しければ、北部への入線は一回限りだったな。
ちなみに、それより以前はR窓のオール初期車の3連が入っていたことがある。
また、501M〜562Mに113系初期車が充てられ、空転トラブルのため一回だけで
中止になったことがあるけど、ここまで来ると話題が新し過ぎるね。
119系がワンマン改造された頃の話だから・・・
確か10年位前クモハ12系単行で天竜峡ー飯田間を営業運転で走ったな!
ゴールデンウイークだったがお客は全員乗れたのかな?
クモヤ90を増結していれば良かったな。あの三段窓を車内から見てみたいね。 クモハ12が伊那松島にボロボロになっていたがもしかして解体されちゃうんかな? あのクモハ12は、惜しくはあるけど、歴史的価値となるとイマイチ
といったら失礼か… クモハ52編成の片側先頭がクモハ54ってありましたよね?4連のラインナップ教えて下さい。 >>168
流電末期の編成は概ねこんな感じだったような気がする。
52001+48021+48024+52002
52003+87001+75101+52005
54123+75103+48034+52004
54121+75102+75106+42009
手元に記録が無いので、とりあえず記憶だけで書いてみたけど、
今度しっかり探してみます。検査の時には42011+68416や54007+47114と
入れ替わっていたと思う。 同じ80系でも「天竜」の切妻クハが印象的だったね。 でも、80系の「天竜」は飯田線への乗り入れはなかったよね? 中央線から乗り入れ急行「こまがね」は、キハ58系でしたっけ?
中学生時代の記憶なので自信ありませんが。 「こまがね」は最初から165系だったような気がする。
「天竜」が当初は(昭和46年頃)キハ58系だったと思う。 こまがね、天竜
昭和50年3月9日まで キハ58系
同 3月10日から 165系 急行こまがね+天竜号は5両編成。キハ58+65系で編成組んでた。
利用客多いいこまがねのが2両でお盆時期はメチャクチャ混んでた。
あの編成は新宿到着後は折り返し八ヶ岳号になったのかな?
そのころの飯田線には貨物にはED18もあったし楽しかったよ。 そう思っていろいろ歴史を調べてみたので、参考にしてみてください。
昭和31.4.15 名古屋〜中部天竜に臨時快速「天竜」運転開始
同 36.10.1 名古屋〜辰野に準急「伊那」
同年 10.1 天竜峡〜長野・新宿間にディーゼル準急「天竜」
同 38. 6.1 飯田〜新宿にディーゼル準急「赤石」
同 41.3.25 同線の準急がすべて急行に
同 42.10.1 新宿〜駒ヶ根に不定期急行「こまがね」
同 43.10.1 同線急行列車の名称整理を実施
同 44.2.20 大垣〜飯田間に不定期急行「伊那路」
同 47.3.15 「伊那」165系化
とありました。保存版・飯田線の60年参照
「急行天竜80系」について
昭和48年7月10日のダイヤ改正で下り4本上り3本が設定され、
松本発長野行「天竜1号」のみが80系4連になり昭和53年5月24日に115系に置き換えられた。
鉄道ピクトリアル2004年3月号特集80系湘南電車61ページより 一往復は急行天竜号は確かに気動車だ。急行アルプスの糸魚川編成や八ヶ岳号と共通運用してるからだろう。
80系使用の天竜は中央西線の運用だね。飯田線の80系急行はS47.3改正まで伊那号で使われていたのが最後だろう。 駒ヶ根の萱野高原にあった国民宿舎からは、伊那谷が見下ろせた。
夜には、飯田線の4両編成の旧型国電の、白熱灯色の光の帯が
カーブを描いてゆっくりと動いて行くのが見え、幻想的だった。
私の中では今も最高の夜景の記憶だ… >>182
萱野高原は「駒ヶ根」じゃなくて「箕輪」だろ 伊那の80系は47.3改正より少し前倒しで置き換え完了した。身延線の富士川も。
山陽新幹線岡山開業で姫路―岡山の普通列車増発用の車両を転属させるためらしい。 モーター取り替えといえばクモハ42011だか013だったかがMT40に変えたとか 水窪とか佐久間の入場券、交換や待避待ちのたびに駅改札で買った。
今は無人駅になってしまったが、当時は駅員配備の駅が多かった。
>>185
へぇ〜、クモハ42でMT40に取り替えたのもあったんだぁ・・・知らなかった。
クモハ52001と002がMT30だったのは知ってるけどね。
>>186
かつては、交換可能な駅には全て駅員がいて、切符を売っていた。
水窪駅は以前みどりの窓口もあったのにね。
ところで湯谷温泉駅って、マルスがあってもみどりの窓口ではないんだね。
以前はクレジットカードも使えたけど、現在は現金しか使えないし・・・
トクトクきっぷも買えなければ払い戻しも出来ないみたい。
>>187
そのMT40が台車ごと豊橋鉄道に流れてだな(ry 富士市の0系21形が置いてある公園の隅っこに、DT12?が飾ってある。
場所柄、身延線のものだとは思うが説明文いっさい無し。 >>187
倒壊交通事業委託駅は仕方ないね。昔は降りて硬券買ったりスタンプ押したり色んな楽しみあったね。
ワンマン化や無人化は風情が無いよね。 1人勤務の駅で交換待ちの間の入場券購入はちょっと気がひけたけどな。
>>193
まつたく関係ないけど、津軽鉄道の金木が一人でタブレットから切符から
と切り盛りしてた。今は知らぬ。 更にスレ違いを引っ張って申し訳ないが、銚子電鉄の笠上黒生は今でも
そんな感じ。かつては信号も腕木だったが、今は灯火式。
そのくせあの駅にはLED式運行情報表示器がある。(笑) 旧国の映像を見ていると
その時に行きたくなるけど
よく考えたら非冷房だから
夏の本当にクソ暑い時期は
地獄だっただろうと思う。
だけど窓が開けられるのはうらやましい
今の飯田線で窓の下側を開けられるのって
束所属の115系だけだもんね。
それも冷房完備だからあけるのには勇気がいる。
>>198
確かに暑かったが、元々冷房なんて特急かデパートかパチンコ屋くらいしかなかったので、
耐性があってそうでもない。
今から戻って、タイムスリップするというのなら辛いけど。 >>199
僕は非冷房車に余り乗車した経験が無く
高校生で電車通学をする頃には
地元の某大手私鉄は本線系の冷房化率100%でした。
でも非冷房車も乗ったことありますが
走っているときはいいけど停車中は地獄ですね。
やっぱり当時にタイムスリップしたいです。
暑くて耐えられないなら急行伊那という手もありましたね。
当時の165系急行には冷房はついていたのかな?
流電や80系などに乗ってみたかったです。 非冷房車が厳しいのは、雨の日だよ。
暑くても窓が開けられん。 >>201
それは気がつきませんでした。
たしかに雨でも暑い日は暑いですからね。
夏以外を狙ってタイムスリップすれば一瞬で解決する話だろ。
旧国現役当時はヒートアイランドがなかっただけマシ。そもそも冷房無しは承知の上だったから気にならなかった >>205
高度成長期の旧国は夏は蒸し風呂、冬は冷蔵庫と言うのが一般評価だったのをご存知ない? 真夏に背広脱がないで通勤してるのなんていなかったものね。 古い映像を見ていると
旧国や80系で4両や6両で走っている
のをよく見るけど、昔は飯田線の乗客数が多かった
んだと言うのを感じます。
特に中央道が開通する前は
長距離の乗客、地元の乗客、貨物輸送で
今言われている「スロートラベル」なんて
余裕は無かったのも想像できます。 飯田線の80系の場合は4両で1組成だったから、
それより短く出来なかったんですよ
そういう物理的な問題はおいておいて、
昔の組成が長めだったのは事実で、
それには理由があったみたいだけど、
どういう理由だったか忘れちゃったなぁ 飯田線の80系化時代は、わずかな時間でしたので貴重と言えば貴重なんでしょう。
デッキ付きでしたので豊橋口のラッシュ時間帯は難儀されたそうですが、冬場の北部は暖房が効果が高まり
好評だったようです。
クハ8100+モハ80300の増結編成は名物でしたね。欲を言えば格下げ車のクハ85300だったらもっと
良かったのですが。
流電がやはり人気NO1だったみたいですが、個人的には平妻、狭窓が好きでした。
クモハ42、クモハ43、クモハ53、クハ47(32系)など。
別格としてはクモハ53007、クハ47(合の子)、茶のクモハユニ64です。
サハ75100は、乗るには抜群の車両でした。 >>210
クハ85100は最末期に豊川折り返し以外にも進出したよ。写真は撮ってないけど。 >>208>>209
昔は辰野行のような長距離列車は込むから、中部天竜や水窪行を選んで乗った
ものだが、今では行き先などあまり関係ないね。それに急行=込む=座れない
という印象もあったものだ。
豊橋17:15発の80系6連の中部天竜行が、119系化の際辰野行となり、いきなり
2連+荷電に置き換えられた時にはさすがにびっくりした。
119系も当初は4〜5連が存在したが、現在の最長は通常だと3連かな?
>>221
最末期は付属編成が廃止された結果、4連に組み込まれたからね。
でも、付属の時にも水窪、中部天竜までは入っていたよ。それぞれの駅で
停泊する運用だったから、日中に新城以北で見ることは難しかったけどね。
>>212
中央道開通前の話ですね。
「急行=込む=座れない」という表現が新鮮に感じます。
唯一の交通機関だったから当然かもしれませんね。
今は「特急=空いている=いつでも座れる」
だから飯田線で混むといったら平日の朝ラッシュと
紅葉の時の天竜峡〜平岡のツアー客ぐらいですね。
自分のことだけを考えれば、当時の混んでいる
飯田線だったらわざわざ乗りに行かなかったと思う。
やっぱり今ののんびりした飯田線が好きです。 >>210
前のほうにも書いてあるけど80系時代は
一般のお客段にとっては大歓迎だったよ
300番台だけだったので内装は格段に綺麗だしね >>198
電車、気動車、客車はそれ程地獄だったことはないなあ
車内が広いせいか意外と涼しかった
昭和50年頃はマイカーの冷房もまれだったからね
あちらは想像できると思うが地獄 ( ゚Д゚)さあ、おまいらに今週のもぉにんぐ、ちばてつや賞受賞作品について語ってもらおうか。 >>216
読んだ。作者はかなりのマニアと見た。
鉄でなければ資料だけで書くので車種は一定になるが、飯田線らしく雑多な
車種が登場。山場となるシーンでは流電登場となれば一般人では無いだろ。
この先も飯田線を舞台に描いて欲しいところ 伊那松島はとてもよかった。まだ私鉄時代の雰囲気を十分にのこして、・・・
そんな中に、ED19やクモハ43系などがたむろしていた。
流電転入直前のころだした。
初めてここを訪れた時に驚いたのは、
電車なのにタブレットだという事だったね。
どうしてもあれは非電化路線のイメージだったからね。
東上〜野田城の大カーブで撮った流電や水窪のS字橋を思い出す。 >>220
165系にはタブレットキャッチャーがなかったから、車掌が腕を突き出して取って
いたな。痛そうだった・・・ >>221
身延線の「富士川」もそうだったな。
リアルで見たときは愕然とした。
工房のころ、長篠城の鉄橋よく撮影に行ったなあ。 タブレット授受の際は減速していたが、それでも一応直線側を通過していた。
CTC化によりタブレットが廃止されれば、駅の通過速度が向上すると思って
いたら、逆にそれ以上の速度制限ときてガッカリだった。
ちなみにオレンジボックスに直線側の通過要望を投書したら、「莫大な費用が
かかるから無理」的な回答だった。
牛久保って流電昼寝してること多かったのかなぁ、
>>82にも書かれているけど。
牛久保で流電の留置車見た記憶が無いんだ orz 昼寝してるのは、新幹線から良く見える豊橋の留置線だな。 >>224>>225>>226
時代によって違うのかも知れんが、俺が旧国に目覚めた77年頃は流電など4連貫通編成は
ラッシュが終わると牛久保に回送され昼寝していた。
流電5両のうち4両が留置されていることも多く、形式写真が思う存分撮れたな。
先日久しぶりに牛久保行ったら、留置線自体がなくなっていて時代の流れを感じたな。 >>227
私も知る限りでは、日中2本の流電編成が昼寝していた。
もしかすると、1225M辰野行が牛久保駅停車中には、同駅に5両全てのクモハ52
が集結するシーンがあったことと思う。
それと、夕のラッシュ前に1本だけ牛久保始発豊橋行きが設定されていた。
もちろん流電編成。
80系化直前にはクハユニ56012+クハ68068が長期疎開留置されていたのも印象に
残っている。
モーニング2009.01.01No.1にちばてつや賞 大賞受賞作品
「RAIL GIRL 三河の花」という作品が載ってる。
国鉄時代の飯田線の架空の駅を舞台にした作品だが、クハユニ67や
流電クモハ52等が出てきて旧国ファンには楽しい作品。 朝の6連 1976年
ttp://sylphys.ddo.jp/upld2nd/train/src/1230522284838.jpg 新車導入の発表があったが
飯田線には直接の新車投入は無いにしても
玉突きで入ってくる可能性は大きいです。
そのうち119系の頃の飯田線は
古きよき時代だったといわれるのかな? >>232
旧国に代わって119系が入ってきたときも、これも悪くないと思った。
特に当初のスカイブルーに白線という塗色は、沿線の緑とアルプスの景観に合って美しかったな。
後に改造とはいえ両運が出たというのも、どこか旧国のイメージを引きずっていた。
ステンレスに固定窓はさすがに萎えそうだ...orz 牛久保の流電の昼寝、懐かしい言葉です
4両は確か、31-32-33-34の4運用があり、32と34が牛久保昼寝状態
しかも31と33が豊橋入区のため昼間は可動ゼロ状態の時間が長かったから、撮影には困りました
夏には臨時快速(奥三河)が豊橋−中部天竜1往復してこれがあると凄く楽になりました
夕方の1225Mは水窪⇒辰野で乗りましたが、北部へはこれと夜の辰野⇒飯田しかなく、したがって昼間に52を北で撮れた事がないです
80系投入直前に臨時運用変更で一時的に田切や七久保などでの昼間の走行写真が撮れたようですが、ここでもそんな経験がある幸運?な方がいらっしゃいませんか? 佐久間レールパークには色々な資料写真も展示してあるが、その中にはたしか
クモニ83100と52が直接連結した物もあったと思う。どんな時の写真なんだろう。
でも、実際には回送も含めて私は一度も連結運転を見たことが無いばかりか、
パンタを下げて留置中の姿にもお目にかかったことはない。
サハやユニの限定運用は分かるけど、クモハ52はなぜ30台運用にしか就かなかっ
たのだろうか。かと言って、看板車両?として編成美にこだわった組成がされ
ていたとも思えないのだが・・・ >>234
一般利用者にとっては他の旧国はともかく80系の方は格段に評判良かったけどね >>237
そういえば119系化後ウテシが、ハチマルはまだ充分使えたとか言っていたな。
俺は、メーカーとの癒着があるのかと訊いたが、それには明確な返答はなかったが。 >>239
一介の運転師が、国鉄上層部とメーカーとの癒着など
知るよしもないと思われ。 旧国はもちろん電機も同じ形式なのに一両一両特徴が有って、
何が来るかワクワクドキドキだったな。
名鉄も面白かった。 オサーンも信州ワイドよくつかたよ
スカ色の旧国は(・∀・)イイ
62系は灰皿があった 流電で秘境区間をのんびりと・・・
願いがかなうならその時代に戻りたい
っていうか生まれていなかったりしますが・・・
でも体験したい。
119系でも充分にいい雰囲気だが
春ごろに窓を開けて流電で・・・
想像するだけでいい雰囲気です。 旧国時代先頭で前を見たい時に半室運転台が来ると嬉しかったね、 >>245
俺がのんびり乗ったときには、80系に変わりつつあった。
その119系も時間の問題だ。 >>247
119系の後に来るのは、もう窓は開かなくなるんでしょうね。
>>245
前の方の書き込みにもありますが、私の乗った70年代後半でも流電はほとんどが豊川
までの運用ばかりでしたね。当時確か早朝深夜の水窪が最北だったような気が。 >>248
31-32-33-34の4運用があり、水窪より北に行くのは
33の1225M(豊橋→辰野)と、その折り返し辰野→飯田
34運用の飯田→豊橋
のみ
ただし1225Mは午後豊橋発のため、水窪で16時過ぎで、辰野は夜、飯田は深夜
翌朝の一番で飯田から豊橋行き
したがって、水窪より北では特に飯田より北では明るいうちは無理でした
真夏の夕方、実際に1225Mで水窪から辰野まで秘境区間を乗りましたが、まさに半分夢の世界
水窪→大嵐間は、車掌さんの好意で最後尾の52003の運転席に座らせていただきました
(よくOKしていただいたと思い感謝です、いい時代でした)
本当に夢の世界でした >>249
フォローdクスです。
てっきり、秘境区間は2両ユニットかクハユニ付き3連しかないと思っていました。30年
の時を隔て後悔しきりです。
それにしてもうらやましい経験をされたようで。しかし後部とはいえ運転席に乗客を入れ
るなんて、今なら車掌は始末書程度ではすまされないでしょうね。
私は豊橋で発車前に運転室に入れてくれ、撮影させてもらったくらいです。
>>250
豊橋30番台運用は、4両固定のため豊橋付近の輸送力増強が主目的だったと考えるのが妥当なんでしょう
走行写真では、自分では朝ののぼりを天竜峡−千代間で朝飯前に宿をでて撮ったのが52では一番北です
辰野や駒ヶ根では、夜間のため当然駅でしか撮れませんでした
ですから、北部での52の走行写真は、自分の経験ではないため違和感と羨ましさが半々です
水窪停車中にも撮影して、発車後も最後部でトンネルに入るまで車内で撮っていたら、車掌さんと目があって…、と言う状況でした
さすがに公然と見られたらはまずいと思い、トンネルの中だけにして大嵐駅につく前にお礼を言って退散しました
実2-3分、トンネルの中だったのですが、生涯忘れられない出来事になりました
あとは52003の後ろ側の4人席を、天竜峡までは左側、それ以降は右側を占有して夢を見ていました
車内を見た限り、サハ75のほうが人気があったようです(一般の人から) 流電は小学生のときに廃車になったので、現役時代に見ることも乗ることも叶いませんでした。
そんな自分にとっては、53007、53008が最高の存在。しかしそう頻繁に行くこともできずクハユニと同じ向きの53007が先頭に立った走行写真は撮れませんでした。
でも静ママに入れていただいたときに撮れたのと、中間に挟まれながら田切から豊橋まで乗ったことは良い思い出です。車内が淡緑ペンキ塗りでも6時間程の53007乗車は忘れられません。
流電と比べると合の子は今でも扱いは地味ですね。 80系化が決定し流電の廃車が決まった時、脚光の浴びようと言ったらそれはスゴかった。
残して欲しいという声も相当上がったようであるが、ある新聞の記事には「これだけ残す
わけにはいかず・・・」と書いてあったのを記憶している。
しかし実際には、119系化まで戦前型の旧国は使用されたわけで・・・
クモハ43015や51029、51200が奇跡的に生き延びたことを考えると、52を一両だけでもい
いから、119系化まで残して欲しかったと、今さらながらに思ったよ。
逆にそれだけの人気者を廃車してしまった裏には、何かそれなりの理由があったのだろうか?
メンテに著しく手が掛かるとか老朽化が際立っていたとか、運転面で支障が多かったとか 流電は僕が生まれた頃に引退となったようですが
名鉄の3400系「いもむし」や850系「なまず」には
嫌ってほど乗っていたのでなんとなくイメージは沸きます。
やはり似たような雰囲気なのかな? >>253
私も53007乗りました。こいつだけ張り上げ屋根のまま残り流電に負けず洗練
されたデザインでした。1両も残らなかったのは惜しかったですね。
>>254
流電は4両貫通編成となっていたから、そのまま80系化されたということですが、
それならなぜ2両編成として使われなかったかですね。過去にはそういう使い方
もあったようですが。
やはり私鉄のキハ07が切妻改造されたように、視界がよくなかったせいでは?
>>255
当時豊橋では時々3400系も来ていました。残念ながらクモハ52とのツーショット
は見られなかったけど。 幼い頃から当たり前に乗っていた私や地元の友人にとって、流電は“カッコ悪い
電車”という評判でしかなかった。しかし全国にもココにしかない貴重な車両だ
とわかると、一転見方は変わっていったなぁ。 >>256
そうなんですよね。クハ47と2連が組まれて快速に使われている写真を見たこと
がありますが、私も知らないはるか過去の話のようです。
それにしても流電はトヨの30台運用限定で、イレギュラーにもユニ入り40台や
付属の50台に使われたという記憶はありません。
それどころか、考えてみれば他区(ママ・チウ)の所属車との併結運用も皆無
でしたね。だから6連になった時も、同じ編成中に流電52と合の子53が同時に組
み込まれるようなことは無かったと思います。
もし遊び心で編成を組めたのなら、合の子53もトヨの30台の仲間入りさせてほ
しかったと個人的には思います。 >>256
53007の洗練されたスタイルは、戦前製の電車とは思えない粋なものでしたね。
さよならに使われなかったのが残念でした。
53007、53008の夢の共演を期待したのですが。
あの編成のチョイスは、47009、47069のクロスシートの座席定員を優先したのかなあと、素人高校生なりに考えてました。
しかし、1983夏の旧国最期まで頑張ったママ車が一輛も現存していないのは寂しいですね。 >>258
クハには流線型の車がないので流電の2連はサマにならないですね。
30代運用には流電の代わりにクモハ54が入っていることがありました。豊橋の54の
運用に合の子が入っていたら面白かったのですが・・・
>>259
53007は窓をアルミにすれば、そのまま初期高性能車のデザインになりますね。
定員について手持ちの資料をみたところ、なるほど53007/8は他43/53とほぼ同じですが、
52はかなり少なく、座席で6人、立席で38〜42人も53より少ないようです。それなら2両運用
は避けるというのも合点がいきます。 >>260
あ、すみません。定員は、58年夏の「さよなら」運転のときのこ
とで、クロスシートの座席定員を確保するために、32系クハ47を
もった2セットが選ばれたのかなと思いまして。
あのさよなら運転に53008が入ったのは、嬉しかったのですが、
反対は、53007であって欲しかったなあと。
ただ、他にも43015、53000、53001と役者はまだまだ残っていた
ので、どれを選ぶかは悩みどころだったでしょうね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています