【流電】飯田線の旧国時代【EF10】
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中部天竜を昼頃通る266レはEF10の重連だった。しかし貨車の両数は本当に
少なく、車掌車だけの時も多かったなぁ。ED62が投入されると10+62の重
連も見られたけど、なぜかいつも先頭はEF10の方だった。
>>109>>110
丸味を帯びた20〜24号機やヒサシ付きの14号機、角ばった39、41号機、
同じ形でも正面窓上にヒサシのついた31号機ってとこかな?塗装はされていたけ
ど、24号機は元関門トンネル用のステンレス車体だったね。
まだあったとは思うけど、記憶にあるのはこのくらいかな・・・ >>113
中学の頃「鉄道ファン」誌を読んでいたら、指摘のような写真が何枚も掲載されていて
当時はびっくりしたものでスた。 >>109です。
国電も同じ形式なのに、
貫通・非貫通・全面塗り分け・切妻・前照等・尾灯・ドア・窓・車内・屋根・ベンチレーターなど、
言えば数えきれない位違いが多かった。
原因の一つには改造前の形式違いも有る。
飯田線に限らないが国鉄・私鉄・地下鉄とも何が来るか楽しみが有ったね。 当時の飯田線の車両なんかは、顔かたちを見ただけで形式の違いばかりでなく、
車号まで判ったよね。パンタがPS11だったり13だったり、正面窓がHゴム化され
ていたりいなかったり、塗り分けが微妙に異なったり、偶数向き奇数向き等・・・
窓配置やライトの位置などにまで目をやれば、意外なほど変形車や異端車が見つ
かった。クモハ54やクハ68等は割りと両数が多く見分けはつき難かったけども、
それでもペアを組む車両の特徴などから判別できたりもした。 人間だと十人十色と言うが百両百種と言う感じだったね。 >>106 >>112
クモハ61は結構クハニ67と編成を組んでいたと思う。
67の荷物輸送は北部限定運用(90台)だったらしいけど、たまに70〜80台の運用にも
充当され、47153+53000+67905+61005、或いは67+61+61+68と編成を組んだのを見たこ
とがあるよ。いずれも3両がロングシート車で、さすがに4両オールロングは見たこと
は無いですが・・・。
また、同じ両運車でもクモハ42の方は先に廃車されてしまいましたが、これはMT15装
備車だったことが要因でしょうか。(小野田線では見事に生き延びたけど) 飯田線旧国が全盛の頃、辰野駅は輝いていた。
今は氏んでる。
>>122
中央東線の岡谷〜塩尻間の短絡線(通称みどり湖線)が開通してから
余計に寂しくなったな。 鼎駅だったかな?今は棒駅になってしまったけど、列車交換設備がある頃は、
行き違いの際に限りスイッチバック??を行っていたね。 >>129
昭和56年10月1日発行のJRR・旧型国電ガイドに当時の
飯田線全線の線形が載っているが、鼎駅はスイッチ・バックが
出来る線形ではなく、通常の行き違い設備のみですね。 >>130
ゴメンナサイ。誤解を招いてしまうような書き方だったかな。
行き違い設備の有効長が短いため、客扱い後いったん安全側線に数メートル程度
引き上げ、反対列車をやり過ごしたあとで所定の位置までバックし、再び本線
に向けて出発していたと思います。
たしか4両編成の上り列車で経験しましたが、3両以下なら支障しなかったと思
います。
そもそも“スイッチバック”という言葉を使ったこと自体が誤りでした。
もう30回は観てるけどw、旧国の車内はやっぱりいいなぁ 「旧国」は「旧型国電」の略だと思う。
80系は湘南電車だから、「旧性能電車」ではあるが、「国電」には
含まれないと解釈している。
>>134
じゃ、横須賀線だった32(14)系や70系も「国電」じゃないのかな? 80系は旧国といえば旧国なんだけど、それ以前の旧国とは全然違うもんなぁ >>134
そもそも>>132の動画の中に80系は出て来てないと思うけど、
何処と関連付けたレスなのか? 飯田線旧国最期に国鉄自ら、ゲタ電と呼んだのには非常に違和感を感じた。
自分のなかでは、ゲタ電って、4扉の旧国ってイメージだったから。
因みに「80系が旧国」には違和感は、感じないな。 >>141
100レスくらい上に80系が旧国かという議論があったからそれを蒸し返してたんじゃない?
私としては旧国は先頭が貫通か切妻3枚窓が基本。湘南顔の70系80系は旧国に入れたく
ない。(あくまでも個人的な好みの話。)
ところで横須賀線は国電区間。(70系のいた時代もそうだったかは未確認だが)
111とか113もオレンジと緑に塗られていれば
世間は湘南電車と呼びますしね。
あの色の115ですら、すでに飯田線では見れないなんて
にわかには信じられない。 115系といえばワインレッドの115系が飯田線に走っていたね。
個人的には旧国亡き後の久しぶりに楽しい話題だったなぁ。
>>142
>飯田線旧国最期に国鉄自ら、ゲタ電と呼んだのには非常に違和感を感じた。
自分も「ゲタ電」という言葉自体になじみが無かったから違和感を感じましたよ。
更に違和感を感じさせたのが事業用車改造のクモハ12041「ゲタ電」でした。
「スカ色のボロでもスマートさを感じさせた旧国を潰しておいてこの車輌は無いわ」
と個人的には最後まで俗物としか見られなかったです >>146
「ゲタ電」というのは、下駄で乗れるような身近な、だったか、
下駄を履くように気軽に、というような意味で東京の山手線など
に与えられた名前だと、思っていたため、モハ63→73→101系→
103系と継承されてく名前(となるうちに103に受け継がれること
なく自然消滅)だと認識してたので、飯田線の旧国はちがうんじ
ゃないかと勝手に思ってましたね。 飯田線に限って言えば旧国末期に突然「ゲタ電」という言葉が登場したような気がしますよ。
それ以前の飯田線の旧国に「ゲタ電」なんていう人は国鉄マン・ファン共にいなかったと思います >>148
そだね
ゲタ電なんて旧国が山手線とかで使われていた頃しか呼ばれてなかっただろうな だいたい旧国末期のころにゲタ履きで電車に乗る人なんていたのかよ?と、突っ込みたいくらいw
大糸線も末期にはゲタ電としてメディア上で扱われていたな。 要するに「ボロかった」電車は「旧国」でいいんじゃない?
車両マニアの方は不満あるかもしれないが懐古スレなんだし・・・。
この頃はオレカなんか全然無かったから、下車駅で入場券集め。
佐久間とか水窪とか、今は無人駅となってしまった駅でも
当然のように駅員サソがいて切符を売っとった。
しかも今のダイヤよりも行き違い等での停車時分が多かったから、
楽に買えたもんだった。
♪ニスや油がしみこんだぁ〜 モハのにおいがやってくる ♪クハとおんなじあの鉄みつめて何想う
6番
♪新型電車が通りゆく あいつ程ではないにしろ
性能いいさと言いたげに 肩で風切って飛んでゆく
あぁあぁー友よ飯田線 今の電車にあきたら旧国で
夢をかかえて旅でもしないか あの頃へ
5番
♪古き時代と人が言う 今も昔と俺は言う
「釣り掛け」などと口走る 古き言葉と悔やみつつ
あぁああー鉄とよき車窓 時を憂いて乗りあかしたい
今も昔も電車に乗ればぁ 心地よし
145
確かに昭和63年ころ身延色の115系が飯田線に来てたな。なんで身延からきたんだっけ?
あれは長野行きの快速みすず号や上諏訪行きの運用にはいったかな? >>162
たしか入ってなかったと思う。豊橋17:49発の水窪行きで、水窪停泊後、翌朝
豊橋へ戻る行路に限定運用だった。(その後豊橋〜新城・豊川の運用に入って
いたかどうかは覚えていない)しかし、後続の165系が車両故障を起こした時に
急遽代用され、たしか岡谷あたりまで入ったことが雑誌に書かれていたのを
記憶している。それが正しければ、北部への入線は一回限りだったな。
ちなみに、それより以前はR窓のオール初期車の3連が入っていたことがある。
また、501M〜562Mに113系初期車が充てられ、空転トラブルのため一回だけで
中止になったことがあるけど、ここまで来ると話題が新し過ぎるね。
119系がワンマン改造された頃の話だから・・・
確か10年位前クモハ12系単行で天竜峡ー飯田間を営業運転で走ったな!
ゴールデンウイークだったがお客は全員乗れたのかな?
クモヤ90を増結していれば良かったな。あの三段窓を車内から見てみたいね。 クモハ12が伊那松島にボロボロになっていたがもしかして解体されちゃうんかな? あのクモハ12は、惜しくはあるけど、歴史的価値となるとイマイチ
といったら失礼か… クモハ52編成の片側先頭がクモハ54ってありましたよね?4連のラインナップ教えて下さい。 >>168
流電末期の編成は概ねこんな感じだったような気がする。
52001+48021+48024+52002
52003+87001+75101+52005
54123+75103+48034+52004
54121+75102+75106+42009
手元に記録が無いので、とりあえず記憶だけで書いてみたけど、
今度しっかり探してみます。検査の時には42011+68416や54007+47114と
入れ替わっていたと思う。 同じ80系でも「天竜」の切妻クハが印象的だったね。 でも、80系の「天竜」は飯田線への乗り入れはなかったよね? 中央線から乗り入れ急行「こまがね」は、キハ58系でしたっけ?
中学生時代の記憶なので自信ありませんが。 「こまがね」は最初から165系だったような気がする。
「天竜」が当初は(昭和46年頃)キハ58系だったと思う。 こまがね、天竜
昭和50年3月9日まで キハ58系
同 3月10日から 165系 急行こまがね+天竜号は5両編成。キハ58+65系で編成組んでた。
利用客多いいこまがねのが2両でお盆時期はメチャクチャ混んでた。
あの編成は新宿到着後は折り返し八ヶ岳号になったのかな?
そのころの飯田線には貨物にはED18もあったし楽しかったよ。 そう思っていろいろ歴史を調べてみたので、参考にしてみてください。
昭和31.4.15 名古屋〜中部天竜に臨時快速「天竜」運転開始
同 36.10.1 名古屋〜辰野に準急「伊那」
同年 10.1 天竜峡〜長野・新宿間にディーゼル準急「天竜」
同 38. 6.1 飯田〜新宿にディーゼル準急「赤石」
同 41.3.25 同線の準急がすべて急行に
同 42.10.1 新宿〜駒ヶ根に不定期急行「こまがね」
同 43.10.1 同線急行列車の名称整理を実施
同 44.2.20 大垣〜飯田間に不定期急行「伊那路」
同 47.3.15 「伊那」165系化
とありました。保存版・飯田線の60年参照
「急行天竜80系」について
昭和48年7月10日のダイヤ改正で下り4本上り3本が設定され、
松本発長野行「天竜1号」のみが80系4連になり昭和53年5月24日に115系に置き換えられた。
鉄道ピクトリアル2004年3月号特集80系湘南電車61ページより 一往復は急行天竜号は確かに気動車だ。急行アルプスの糸魚川編成や八ヶ岳号と共通運用してるからだろう。
80系使用の天竜は中央西線の運用だね。飯田線の80系急行はS47.3改正まで伊那号で使われていたのが最後だろう。 駒ヶ根の萱野高原にあった国民宿舎からは、伊那谷が見下ろせた。
夜には、飯田線の4両編成の旧型国電の、白熱灯色の光の帯が
カーブを描いてゆっくりと動いて行くのが見え、幻想的だった。
私の中では今も最高の夜景の記憶だ… >>182
萱野高原は「駒ヶ根」じゃなくて「箕輪」だろ 伊那の80系は47.3改正より少し前倒しで置き換え完了した。身延線の富士川も。
山陽新幹線岡山開業で姫路―岡山の普通列車増発用の車両を転属させるためらしい。 モーター取り替えといえばクモハ42011だか013だったかがMT40に変えたとか 水窪とか佐久間の入場券、交換や待避待ちのたびに駅改札で買った。
今は無人駅になってしまったが、当時は駅員配備の駅が多かった。
>>185
へぇ〜、クモハ42でMT40に取り替えたのもあったんだぁ・・・知らなかった。
クモハ52001と002がMT30だったのは知ってるけどね。
>>186
かつては、交換可能な駅には全て駅員がいて、切符を売っていた。
水窪駅は以前みどりの窓口もあったのにね。
ところで湯谷温泉駅って、マルスがあってもみどりの窓口ではないんだね。
以前はクレジットカードも使えたけど、現在は現金しか使えないし・・・
トクトクきっぷも買えなければ払い戻しも出来ないみたい。
>>187
そのMT40が台車ごと豊橋鉄道に流れてだな(ry 富士市の0系21形が置いてある公園の隅っこに、DT12?が飾ってある。
場所柄、身延線のものだとは思うが説明文いっさい無し。 >>187
倒壊交通事業委託駅は仕方ないね。昔は降りて硬券買ったりスタンプ押したり色んな楽しみあったね。
ワンマン化や無人化は風情が無いよね。 1人勤務の駅で交換待ちの間の入場券購入はちょっと気がひけたけどな。
>>193
まつたく関係ないけど、津軽鉄道の金木が一人でタブレットから切符から
と切り盛りしてた。今は知らぬ。 更にスレ違いを引っ張って申し訳ないが、銚子電鉄の笠上黒生は今でも
そんな感じ。かつては信号も腕木だったが、今は灯火式。
そのくせあの駅にはLED式運行情報表示器がある。(笑) 旧国の映像を見ていると
その時に行きたくなるけど
よく考えたら非冷房だから
夏の本当にクソ暑い時期は
地獄だっただろうと思う。
だけど窓が開けられるのはうらやましい
今の飯田線で窓の下側を開けられるのって
束所属の115系だけだもんね。
それも冷房完備だからあけるのには勇気がいる。
>>198
確かに暑かったが、元々冷房なんて特急かデパートかパチンコ屋くらいしかなかったので、
耐性があってそうでもない。
今から戻って、タイムスリップするというのなら辛いけど。 >>199
僕は非冷房車に余り乗車した経験が無く
高校生で電車通学をする頃には
地元の某大手私鉄は本線系の冷房化率100%でした。
でも非冷房車も乗ったことありますが
走っているときはいいけど停車中は地獄ですね。
やっぱり当時にタイムスリップしたいです。
暑くて耐えられないなら急行伊那という手もありましたね。
当時の165系急行には冷房はついていたのかな?
流電や80系などに乗ってみたかったです。 非冷房車が厳しいのは、雨の日だよ。
暑くても窓が開けられん。 >>201
それは気がつきませんでした。
たしかに雨でも暑い日は暑いですからね。
夏以外を狙ってタイムスリップすれば一瞬で解決する話だろ。
旧国現役当時はヒートアイランドがなかっただけマシ。そもそも冷房無しは承知の上だったから気にならなかった >>205
高度成長期の旧国は夏は蒸し風呂、冬は冷蔵庫と言うのが一般評価だったのをご存知ない? 真夏に背広脱がないで通勤してるのなんていなかったものね。 古い映像を見ていると
旧国や80系で4両や6両で走っている
のをよく見るけど、昔は飯田線の乗客数が多かった
んだと言うのを感じます。
特に中央道が開通する前は
長距離の乗客、地元の乗客、貨物輸送で
今言われている「スロートラベル」なんて
余裕は無かったのも想像できます。 飯田線の80系の場合は4両で1組成だったから、
それより短く出来なかったんですよ
そういう物理的な問題はおいておいて、
昔の組成が長めだったのは事実で、
それには理由があったみたいだけど、
どういう理由だったか忘れちゃったなぁ 飯田線の80系化時代は、わずかな時間でしたので貴重と言えば貴重なんでしょう。
デッキ付きでしたので豊橋口のラッシュ時間帯は難儀されたそうですが、冬場の北部は暖房が効果が高まり
好評だったようです。
クハ8100+モハ80300の増結編成は名物でしたね。欲を言えば格下げ車のクハ85300だったらもっと
良かったのですが。
流電がやはり人気NO1だったみたいですが、個人的には平妻、狭窓が好きでした。
クモハ42、クモハ43、クモハ53、クハ47(32系)など。
別格としてはクモハ53007、クハ47(合の子)、茶のクモハユニ64です。
サハ75100は、乗るには抜群の車両でした。 >>210
クハ85100は最末期に豊川折り返し以外にも進出したよ。写真は撮ってないけど。 >>208>>209
昔は辰野行のような長距離列車は込むから、中部天竜や水窪行を選んで乗った
ものだが、今では行き先などあまり関係ないね。それに急行=込む=座れない
という印象もあったものだ。
豊橋17:15発の80系6連の中部天竜行が、119系化の際辰野行となり、いきなり
2連+荷電に置き換えられた時にはさすがにびっくりした。
119系も当初は4〜5連が存在したが、現在の最長は通常だと3連かな?
>>221
最末期は付属編成が廃止された結果、4連に組み込まれたからね。
でも、付属の時にも水窪、中部天竜までは入っていたよ。それぞれの駅で
停泊する運用だったから、日中に新城以北で見ることは難しかったけどね。
>>212
中央道開通前の話ですね。
「急行=込む=座れない」という表現が新鮮に感じます。
唯一の交通機関だったから当然かもしれませんね。
今は「特急=空いている=いつでも座れる」
だから飯田線で混むといったら平日の朝ラッシュと
紅葉の時の天竜峡〜平岡のツアー客ぐらいですね。
自分のことだけを考えれば、当時の混んでいる
飯田線だったらわざわざ乗りに行かなかったと思う。
やっぱり今ののんびりした飯田線が好きです。 >>210
前のほうにも書いてあるけど80系時代は
一般のお客段にとっては大歓迎だったよ
300番台だけだったので内装は格段に綺麗だしね >>198
電車、気動車、客車はそれ程地獄だったことはないなあ
車内が広いせいか意外と涼しかった
昭和50年頃はマイカーの冷房もまれだったからね
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