国鉄の急行列車・準急列車を語る
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今は準急全滅
急行も指で数えられるほどにまで減ってしまった
そんな急行・準急について語るスレを試しに立ててみる ピクの遜色急行特集で見た準急「京葉」はキハ25だった。しかも全てキハ25で組成(キハ20が混ざらない)。
急行の持ち場の都市間輸送も、短距離は準急の受け持ちだったようだ。 >>297
〜100`、101`〜200`、201`以上の三段階でなかった?
高千穂で東京〜西鹿児島乗っても浜松までと同じ。 ごめん、昭和22年のことなんだ。
次は1200kmが区切りだったような。 輸送力不足の当時としては、中距離未満の客をふるいに掛けて
準急や普通列車に振り分ける手段だったとも言える 私鉄の有料特急は昔の国鉄で言えば準急に相当した。
だが車両は私鉄の有料特急が回転座席やリクライニングシートで、
当時既に冷房付きだったのに対して、対抗する国鉄の準急は良くて153系や
キハ55・58系で、当時は当然冷房もなかった。
あのデラックス準急日光でさえ当初は非冷房だった。
だから、名阪間や東京−日光・小田原間では国鉄の準急は私鉄の特急に歯が立たなかった。
うちの会社の出張旅費の決まりでは、100Kmを超えたら「急行料金」がもらえるそうだ
しかし、乗るべき「急行」が壊滅状態・・・・ 急行は特急に読み替えだな。
そのくらい会社で面倒みてやれよ。 快速と準急どっちが速いの? と云うか、より優等なのは?
すまん スレチだった・・・ >>306
速さは一概に論じられないが
料金が発生するということから、
準急(行)のほうが優等でしょ。 >>306
料金必要という点で、制度的には準急の方が格上。
しかし、料金徴収するライナーなんかも快速の仲間とみなせば、
準急との区別は曖昧になってくる。
まあ、現在の水準で国鉄の準急を論じるのが間違いなんだろうが。
そもそも、同じ準急でも157系の「日光」もあればキハ05の「らうす」もあって、
列車としての実質的な格はまちまち。
快速も、愛称付きに限定しても、「くびき野」のような実質特急同等のから、
103系の「うみかぜ」まであって、これまた一括りでは語れない。 >>307 >>308
ありがとう!
でも、東武なんかは快速のほうが準急より格上って感じだよね? わからないもんだ・・・ 西武も快速のほうが格上でしょう
国鉄の場合、準急全盛期には
快速は中央快速みたいの主流で
特急、快速、普通しかない時代の快速と
昔の準急を比べても意味ないかも。 >>247
ものすごい遅レスですいません。
もりおか1〜4号の全てが、所定だと上野勝田間で8−11号車を連結しますが、
多客期だと付属編成が仙台や盛岡まで顔を出してました。
1・4号についてはほぼ毎週末仙台まで連結してたと思います。
仙台発着のときわについても付属編成が仙台まで往復する場合もありました。 準急って
ラビットとかの今でいう快速みたいなものですか?
料金取るからライナーとかにあたるね
「おはようとちぎ」なんかも停車駅的に見て準急と言って差し支えなさそう
なんてネタにしてたら近々廃止されるのか
そのうち「おはようとちぎ」も懐かしスレで語られるようになるのだろうか 準急は便利で手軽に利用出来た、@¥100-乗り放題の時代があったが、北陸出張は
何時も「ゆのくに」だった。急行券ボッタクリ「立山」と余り所要時間が違わず
ハがスハ43系で同じ、ロがスロ43の台車TR23Hの違いだけ。中部循環準急「こがね」、
「しろがね」、関西本線の「かすが」、その他「但馬」、季節臨の「清津」(きよつ)上野-
新潟等は漢字表記がまるで北朝鮮の清津(チョンジンだったか)?みたいで小千谷→
新潟間乗車時に変な感じだった。
大阪駅前の廃品市で買った「準急」のサボを大切に持って居る。 昭和30年代後半の気動車ブーム?の頃は、急行より準急の方が先に気動車化された路線も多く、その点ではお得感もあったと思う。 「ひだ」が最初からDCだったが、最初ロがキロハ18の凸凹編成だった。一度名古屋から
富山まで乗ったが乗り心地はもう一つ。高岡延長(俗に「正力ダイヤ」)でも暫くキロハ18
だった。
「但馬」はキロハ25だったが、大阪から普通列車併結姫路から快速時代のオハフ30や
オロハ30時代から見たらキハ55,26、キロハ25は天国だつた。
>>317
実はキロハ18は自分にとって乗ってみたかった車両の筆頭。
キハ55に挟まれて無理して準急運用についているのが健気な感じがする。
2等室部分はキハ10系の3等よりはマシな程度の普通のクロスシートだったのか、
クッションなどの作り自体が上等なものだったのか、情報の少ない車両なのでよくわからない。
壁やモケットも赤系統だったら優等車らしく見えたかもしれないが、青系統だったんだろうな。
3等との違いは座席の白カバー(あったのか?)と空いていることぐらいか。 >318
キロハ18のロ室の座席は写真で見た限りサロ75やサロ85と同タイプの座席に見えました。
白黒写真だったのでモケットの色はわかりませんでしたが枕部分の白カバーはありました。 >>318
俺が乗った時はシートが濃紺の所謂2等(ロ)色で白い頭部分カバー付き、天井が扇風機の場所
だけ円く凹んでいたと記憶する。
その日は高山ぐらいまで90%ぐらいの乗車率だった。
後年庄川鉄橋で撮影したが、どうも凸凹編成丸出しだった。蛇足までに「飛騨」は高岡滞留中
城端線でアルバイトをしていたが、時刻表にロの表示が無く客扱いしなかったのか、開放して
居たのか?記憶に無い。 京都−博多.都城準急はロが博多編成がW屋根(オロ31→スロ34一桁)、都城が後年
オロ35で都城の方が良かった。最初の頃は都城編成の京都より先頭がマハフ??で
ロネかシの格下げだったのを見ている。台車がTR71? 東海道全線電化以前に名古屋−大阪間に運転されていた「準急」が何時も満員
だった。オロ41が連結されていたけれど機関車もC62かC59ダブルかC59+C62
だったと----。客車は名ナゴだった。 準急比叡、準急伊吹(これは全車指定席)
準急で全車指定席なんて余りなかったのではないか
その他、朕の文のコピペです
232 名前:回想774列車 :2010/12/20(月) 18:28:24 ID:oNfRwDyy
大聖寺、動橋(いぶりばし)
サクミという超ぼろ駅を改造して、加賀温泉にしてから、大聖寺、動橋は凋落の一途
233 名前:回想774列車 :2010/12/20(月) 18:40:32 ID:oNfRwDyy
ああ懐かしい!
6:41大阪発、普通列車の青森行き
米原まではEF58、米原−田村;蒸気機関車
田村−敦賀;交流用電気機関車(赤色)(此の間のみ交流試験電化)
敦賀−;DIESEL機関車(敦賀から、非電化、単線)
敦賀−今庄間は、蒸気機関車がお尻からぐいぐい後押しした。(北陸トンネル未だなし)
朕はまだ2歳、顔中真黒にして窓から顔を出していた。
夕方、大聖寺に着いた、今は亡きボロ電車で山代温泉へ到着した。
ちなみにこの6:41大阪発、普通列車の青森行きは、翌日の13:30頃に青森着。
同じ番号の列車が1日に2編成走っていたわけだ。
ああ懐かしい、国鉄時代!
234 名前:回想774列車 :2010/12/20(月) 18:53:29 ID:oNfRwDyy
当時の北陸本線は、最速列車(最優等列車)が急行!
それも急行立山と急行日本海しかなかった!
あと準急ゆのくに、と。
いまでは全く考えられないほど、北陸本線は田舎だった。
ちなみに最速の急行が当時泊まっていて、いまは凋落しているのは、大聖寺、動橋(いぶり橋)のほか、今庄、田村、石動(いするぎ)そして泊(とまり)
>>323
いい加減マルチ止めろよ
痛すぎ
と言うか馬鹿すぎ 郡山駅の3番線足元にうっすらと「まつしま」「いわて」とか書いてあったよ。まだ残ってたんだね。
急行じゃないけど他にも「あいづ」とか、福島駅には「はつかり」なんかもあったな。 >>318>>319>>320
亀レス すまん。
俺も気になって調べてみた。「100年の国鉄車両」No.3にキロハ18車内の
写真が出ているが、モノクロなので色がわからん。仕切りが無いのも微妙な雰囲気だね。
319氏の言うように確かにサロ87風のシートだね。320氏の言うように色は濃紺か。
サロ87は臙脂だったけれど。キロ25格下げのキハ26-400に九州で乗ったことがあるが
臙脂だったような気もするが。記憶違いかも。
キロ25のシートは二人がけ同じ向き(ロマンスシート?)で隣の座席の境界にシーム(?)付き
で、キロハ18のロザよりは豪華だよね。まあ、準急ようだから当たり前か。
320氏の言うように間合い運用でキロハが城端線に入っていたんだ。知らなかった。
子供のころの
エンドウのキハ17系シリーズでもキロハ18があったし、なじみが深いが実物は見たこと無い。
改造車の切り妻運転台の形状は好き。 キロハ18は後年四国へ渡っていたが、準急「屋島」に連結されていた。
キロハ25のシートは臙脂色、所謂特ロ色だった。準急「飛騨」の末期のキロ25も
同じだった。 「やしま」ってのは琴電にもなかったか?
まあ中小私鉄が国鉄と同じ愛称の電車を設定することは
よくあることだけど 「くろしお」は国鉄に複数あったね
ひらがなと漢字で使い分けてたか 「瀬戸」(東京-宇野 客車)と「せと」(高松-宇和島 気動車)も。 >>331
前者が急行で後者は準急であるところがミソ。 >330
くろしおは和歌山側も二私鉄同時運行していた時期があったりと複雑。 急行「あさぎり」は国鉄時代には2列車存在していたな。
小田急線から御殿場に乗り入れる列車と、九州の日田彦山線で走っていた列車があった。 日田彦山線の「あさぎり」は同線の「あきよし」
なんかと同様、準急からの格上げ組だよね。
物心ついた頃は冷房付き58系3連だったけど、
直方経由の「はんだ」「日田」は55系と非冷房
58系で、普段は乗せてもらえない急行を
待ってると、バス窓のキハ55と修学旅行用の
黄色のキハ58の2連が来てガッカリした覚えが。
66系が充当されると一気に改善されたはずが、
新機構満載の車の為に初期故障頻発で、
既出のように元の55系が代車に入る機会も
結構あったとか。
事実、こっちが冷房が効いた車内の軟らかい
転換クロスシートで快速の発車を待ってると、
向かいのホームにまたあのバス窓の「はんだ」が
飛込んで来て、恨めしげな急行客の視線がw。 >>329
「やしま」は高松‐松山間で屋島へ行かない「やしま」だった。
そんな列車名が多かったな‐東京‐米原‐金沢で「能登」とか、上野‐長岡-
金沢のECでも津幡で半島の根元近くをかすめるだけ
キハ66は小倉駅で停車中を撮影したが、故障はエンジン過熱の
火災だったか?DLM30HSCやHSFには問題が多かったな
かつての「能登」は輪島延長運転があったような
最たるものは「なは」だが >>337
関門海峡を渡らない「関門」
大阪始発終着のの「「六甲」「いこま」
宮島の見えない「宮島」
周防しか通らない「長州」
まあ島の名前の大半はそこまで行かないよな
礼文、利尻、佐渡、おき、くなしり、宮島、屋久島とか 「紀伊」に行かない寝台急行「紀伊」の奈良・王寺編成。
「大和」のころは和歌山市行き車輌を抱えていたのにね。 「大社」の運転区間短縮後。
のち「はしだて」に改称されてしまったが。 「つくばね」何で小山でスイッチバックにしないで短絡線経由にしたんだろう?
上野〜小山で利用する客ってあまり居なかったのかね? >>343
小山まであえて急行乗るってあまりいなかったと思う 他にいくらでも急行あったしな。小山いくなら他の乗るだろ、なすのとか 設定当初はその先まで行く列車と併結だったから小山までの客に関して何の問題もなかった
単独運転になった時点で小山通せばよかった感はある >>344-346
有難う。
上野から小山は、80キロあまりだから、それなりには急行利用者はあったはず。
末期以外は併結だったし、他にも急行があったので、無理に小山通す必要は
なかった訳ですね。 >>339
ちょ、
東京〜下関に設定されていた急行長州
下関は周防ではなく、まさしく長門(長州)なんだが…? つくばねは勝田所属
小山でバックすると編成が逆になる
上下とも、折り返しときわの運用があったからね 当時の東京(上野、新宿)発の中距離以下の列車で途中から「逆編成」になるのは日光線くらいしかなかったからなあ。
あとはいわゆる季節運転だった新宿発八高線経由の準急「奥利根」くらいか。
長距離では佐世保行きの「さくら」が早岐から逆編成というのがあったが。
これが名古屋発になると様相が一変する。
東海道線を上下する分にはいいが、北陸線は米原、高山線は岐阜、中央線は塩尻、紀勢線は亀山、飯田線は豊橋と直通列車は途中で向きが変わるのが当たり前。
奥利根の時代なら
大網と1963年までの千葉は旧駅 >>350
奥利根は毎日運転の定期列車
不定期化(週末運転)してからは三国
あと長距離なら東京、上野から北陸本線方面はみんなそうだろう
今も北海道方面は逆編成だな >>337
東京-宇野間を走破するだけ、
つまり本州側だけを走るにとどまる列車だというのに急行「讃岐」という名称の列車なんかだって有ったんだから。 地球の中だけを走ってるだけでも、
「金星」だの「彗星」だのあったしな。 >>355
銀河、すばる、天の川、カシオペア、新星、北斗、北斗星、明星、夕月と天体ものは多いな
でも地球から見えてるんだから良いじゃん 結論。
列車名に名乗っている地名の所にいかない列車は、沢山ある。 >>339
生駒山は大阪府と奈良県の県境の山だから「いこま」は大阪始終着でも問題
ないだろう。 >>358
同じ府内ならおkっていうのも変な気がするなあ >>358
生駒山の頂上は奈良県、とつまらぬアゲアシトリ( ゚∀゚) >>359
「まつしま」だって松島には行かなかったが、特に文句は出てないぞ。 >>361
文句言ってるのはそもそも>>354だけだし >>358
やましろ、せっつ、なにわ、はりまには到達する。
よど(川)も越える。
いこまと六甲は沿線のどこかから見えるんじゃないかな? >>363
いこまは高槻〜大阪間で、六甲は吹田〜大阪間で、それぞれ見えるんじゃね?
そういや昔の東海道急行って、(大阪行きは)関西の地名ばかりだったんだよな
半分は首都圏の地名でもよかったと思うがな(私鉄特急みたいになるが、“むさし”とか“さがみ”とか) >>361
そういや当時の国鉄は、上野仙台間系統の急行の中から
ちゃんと現地に到達する「みやぎの」「青葉」を蹴って
「まつしま」に統合したんだよな。 >>364
東京〜大阪の電車列車は
特急は田町、急行は宮原と
担当が別れていたから
急行は関西の影響が強かったんじゃないか? と言うか普通に下り側の地名付けるのがデフォだったんだろ 特急「おき」や「なは」も現地にまでは到達しないし
急行「佐渡」「利尻」「礼文」等々、島の名前を冠した列車なんかだって到達しない。
(島の名前を冠した列車名だけで、今まで一体いくつぐらいあったんだ?)
ちなみに南海電鉄に「四国」という特急列車が存在することを知ったとき、
当時は新幹線岡山開業よりも以前のことだったので、非常に違和感があったもので。 いつまでこのネタ続けんの?
いや続くのは構わないんだけど、既出のネタをひけらかしのつもりで書き始めたし >>368
関西から和歌山経由で徳島に渡るルートが
理解できれば違和感ないんだけどな 南海には急行淡路もあったよ。
阪急でもない、山陽電鉄でもない。
昭和48年の夏。阪神電車で淡路島連絡特急「うずしお号」を見た。阪神の終点
である元町に近いポートタワーのある中突堤から出ていた、共同汽船との連絡
だったと思われる。 >>375
深日港から徳島港行き徳島フェリーも出ていました。
南海汽船が和歌山港から出ていたので冷遇され、「四国号」は和歌山港連絡を指していました。
徳島市へは早くつけたのですが、南海汽船は四国側にも鉄道連絡があった強みですね。
小松島線、徳島フェリーが廃止になり、結局南海フェリーが徳島港を発着するようになりました。
>>366
>>367
ただそれだと、大阪側から東京行きの急行に乗るときに
“なにわ”だとか“せっつ”なんて愛称はどうなのかな?って思わないのかしらん?
(首都圏の利用者にしたらどこへ行くか一発で判るけどw) >>377
長野から東京行きの新幹線に乗るときに
あさまって愛称はどうなのかなと思わないだろ? >>377
それ言い出すときりがない
東京や大阪中心に列車名つけてるからね 江戸・むさし・東京・銀座・うえの・すみだ川・多摩なんていう愛称は国鉄やJRで過去に使われたことがないよね。 >>341
東京行のハネがどの列車も取れず仕方なく王寺で「大和」併結の和歌山市発
スハネフ30に乗車。頭に連結されたので加太のトンネルで煙たくてイガラッポクて
閉口したことがあった。殆どの乗客がゴホンゴホン。
>>380
「大和」があって「武蔵」が無かったな。 「ムーンライト東京」は、下りに乗ろうと思うと
どこ行くのか分からない列車だったなぁ。 準急ちよだ…。
地域ネタも入れれば快速メルヘン立川、朝夕の通勤ライナー系も入れれば新宿、高尾、青梅モナーw >>385
だから下りのみムーンライト東京からムーンライト仙台になったんだろ >>392
イクスピアリは臨時だったし、今はもうない。
(わくわく舞浜・東京号に改称の後、快速へ格下げ)
定期列車はきたぐに、はまなすの2本のみ。 >>388
補遺すれば国鉄では
準急料金の収受はs21.10から全廃されるs43.10まで。
函館から蘭越まで急行、そこから各停、倶知安から準急って・・・
札幌までどんな切符を買えばいいんだろう? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています