国鉄の急行列車・準急列車を語る
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今は準急全滅
急行も指で数えられるほどにまで減ってしまった
そんな急行・準急について語るスレを試しに立ててみる 日光行き準急「だいや」。
てっきりダイヤモンドか鉄道ダイヤからつけられた愛称だと思っていた。
大谷川が列車名の由来だったと知ったのは、列車が消滅してから随分後のことだった。 平仮名だとわかりにくいときあるね
特急だけど「みどり」は緑でなく水鳥だしね(そうだよね?) mjsk?
だってトレインマークは緑樹をデザイン化したものだと思うし、
そもそも俺のATOK氏は「みどり」で「水鳥」には変換しないですお? >>235
俺も同じ時期に旅行(夜行&YHを使っての半鉄、半観光だが)札幌と旭川で
ニアミスしているな。
3/17
川湯(大雪)札幌(利尻)車中泊
3/18
稚内ー浜頓別YH泊
3/19
浜頓別ー稚内ー名寄(天北)YH泊
3/20
旭川(大雪)川湯YH泊
3/18に釧網本線経由で上川まで移動しているようでこの年は寒の戻りで流氷
が網走あたりはこの時期もガッツリ接岸していて見応えあったな。
乗った列車はいずれも廃止されてしまった。 . ..--──l l──--..
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新幹線開通前の時刻表で東海道急行の「いこま」って列車…
…奈良を通らないのに無理してると思うとワロタ。「やましろ」「よど」「せっつ」までは行き先が推測でくる…「六甲」は微妙かな。
もっとも新幹線の無味乾燥な数字の羅列よりは風情あるけど。 新幹線の本数で全部固有列車名を考えろと言われたらきっと担当者発狂するなw
固有名は特別な列車の証しというべきか、特別な列車だから固有名で対応できたというか。 上野−盛岡を常磐線経由で82年10月末まで走った急行「もりおか」。
時刻表の編成図には、1〜7号車が上野−盛岡。8〜11号車は上野−勝田。
そうなっていたが、実際には、もりおか2号と3号は上野−盛岡の全区間を
11両編成で走ってた。
ただ一度だけ、もりおか4号に乗車して仙台に停車した時、仙台で8〜11号車を
増結したことがあった。1号と4号は上野−勝田から増結では?と、その時は不思議に
思ったのを思い出す。 247より文章訂正
上野−勝田から増結では?→×
勝田から増結では?→○
に、訂正させていただきます。 >>246
担当者「新幹線の列車名を固有名詞にせよ…か。江戸、相模、箱根、伊豆、駿河、遠江、三河…前半は小田急からクレームつくな」
「よし、お買い物列車にビジネス特急ってのは…何?国鉄末期の増収対策列車っぽくてイメージが悪いか」「これならどうだ。東海道昼特急!運行区画を語る上でこれ以上のネーミングはあるまい!」
数十年後、国鉄から分離したJR高速バスの東阪間直通便が「のぞみ」になりましたとさ… 急行なんだけど末端で快速・普通化っていう列車は、
全国でどれくらいあったんでしょ? 俺は、茨城交通湊線直通のディーゼル急行『あじがうら』が一番印象に残ってるな。
勝田〜阿字ヶ浦間は、湊線のダイヤを使用してた為、その区間は国鉄のギハ58型3両に、湊線のギハ20型が1または2両併結されて走ってた。 >>249
関係ないけど国鉄高速バスには「エコー」号とかがありましたね。 寝台急行って乗った事あるかね?
銀河 天の川 新星 >>239-240
大阪〜長野の急行『ちくま』の愛称の由来が千曲川だと思っている若い鉄ヲタが
意外に多いのは、やはり平仮名のせいだろうね。 >>260 259ですが、何で羨ましいのですか?
20系が古くなった晩年の頃に乗ったので、あまり綺麗じゃなかったし、狭苦しい寝台でしたよ。 運転本数で「ときわ」は10往復以上と急行列車では最多ではなかったかと思う。
>>258
筑摩ね。
ただし240のみどり=水鳥はないだろう
絵幕でも木のみどりがデザインされていた JRのリバイバル急行で
南十字星と最南端とかいう急行が走るようだが
いつ頃どこを走ってたんだろう? 特急ときと
急行ときわって
誤乗する人いなかったのかな? >>252
準急のことはじい様しか覚えてないんだよ >>268
子供の時に伊吹って準急に乗ってます
只、記憶にない… 幼稚園の時、準急ときわに乗ってるけど
あの頃は準急という認識がなかった 犬吠・鹿島・内房・外房にして値下げすれば人気出ると思ふ >房総特急 >>271
はるか昔183系登場時から言われとるがな。
急行料金でなら優秀だけど、特急としては最低だって。<暴走特急 距離が100`ちょっとしか無いから、
到達時間も10分くらいしか違わなかったしなw リバイバル運転時にようやく利用価値が出た >暴走急行
ほぼ特急のスジで運停も最小限だった
写真厨は時間が無くて可哀相だったがw
183や485、初代N'EXで1本くらい設定ヨロ かつて、「○○1号」という呼び方と「第1○○」という呼び方が混在していましたが、どういう使い分けがあったのでしょうか?
準急、急行、指定あり、なし、定期、臨時は関係なかったように思います。 >>275
原則は「第1○○」は特急、急行で「○○1号」は準急だったと思う。(多少の例外あり)
東海道新幹線の開業でこの垣根が一気に崩れ、「第1○○」は消滅への道を辿ったような。 >>277
「なにわ」や「よど」には「第2」が設定された当初から自由席があったはずだが。 ぜんぜん、急行列車らしからぬ、ふさわしくない名前ですな。
劇急加速、急減速、カーブ路線に100キロで突っ込んでいくような危なっかしさが
ある名前で、運転士の気分で停車駅を決まる見たいな、乗ってみたかった列車ですな。 小学生の頃によく品川で見たのだが昭和44年頃まで走っていた全車指定の
「第1伊豆」「第2伊豆」は157系13両で1等車が4両入っていたのは圧巻。
それがいつのまにか157系特急「あまぎ」になっていたな。
伊豆に157系時代があったとは初めて知りました
豪華編成ですなぁ 信州系の急行169系妙高・信州にはビュッフェが連結されていたのに驚いた記憶がある。
上越線や東北線系統の165系急行、東北線系統の455系急行には
最早無かったので印象に残っている。
>>282
有名なそばビュッフェですか。
北陸本線大阪発着にもサハシがついてましたね。 >>277
しおじは第○しおじだったけど、当時8号車から11号車まで自由席だったよ。 ひたち海浜の準急色。あまり付けている期間が短かった、日光&ときわのHM。再現してくれんかな。 準急青葉号
戦前上野日光間を走っていた準急が5月5日から準急青葉号として復活
5月中の各休日に運転。
ダイヤは上野8時発、日光着10時50分、日光発16時5分
上野着18時50分で途中赤羽、大宮、宇都宮、今市しか止まらない。 471系の急行関門や鷲羽の写真って見たことない。
ヘッドマークは付いていたのだろうか。 鷲羽のヘッドマークは見たことある様な。
てか未だに読み方がよく分からない。
「わしゅう」なの?ガキの頃、「わしう」だと思ってた。 準急って
ラビットとかの今でいう快速みたいなものですか? >>289 ぜんぜん違います。
俺は上越線準急「ゆのさと」(上野〜水上)に良く乗ったなあ。
あとは東海道線の準急「はまな」
準急は便利だった。 国鉄の準急は、速達が第一使命だったから、車両のグレードは二の次だったと聞いている。
だから、80系とか、キハ20系とかが使われていた。
このコンセプトこそ、現代で見直されるべき。
距離に関わらず1乗車300円の料金。
ただし、青春18等での乗車不可。
タダ乗りを極力防ぐため、とにかく2ドア車を集中投入し、停車駅は厳選。
117系、115系3000番台、213系、キハ66・67、キハ110など、
洗面所がなくて急行用としてはイマイチでも、速い、座れるというニーズを吸収できる車両はたくさんある。 そういえばキハ66/67ってどうして全国的に配備されなかったんだろうねえ。 >>291
準急と言うと一般的にはキハ25/55だと思うのだが…
ちなみに、準急全盛期の頃は、急行が拠点都市間連絡列車で
それを補完したりローカル〜地方都市の連絡列車が準急だった。
(現在の快速列車とは意味合いがかなり違う)
ちなみに、特急は文字どおり特別な列車。東京(および大阪)と
全国の地方中核都市とを結ぶものだった。
>>292
キハ66/67をベースとした急行型も計画されたようだが、優等列車
の特急化および亜幹線区間の電化が予想以上に進んだため、
キャンセルされたらしい。
あと、キハ66/67は2両1ユニットで機器の分散をしたにもかかわらず
自重が重く、非電化線に多い丙線規格に入線ができなかったのも
全国配備されなかった理由。
(筑豊は石炭輸送の関係で当初より乙線規格で敷設されていた) ピクの遜色急行特集で見た準急「京葉」はキハ25だった。しかも全てキハ25で組成(キハ20が混ざらない)。
急行の持ち場の都市間輸送も、短距離は準急の受け持ちだったようだ。 >>297
〜100`、101`〜200`、201`以上の三段階でなかった?
高千穂で東京〜西鹿児島乗っても浜松までと同じ。 ごめん、昭和22年のことなんだ。
次は1200kmが区切りだったような。 輸送力不足の当時としては、中距離未満の客をふるいに掛けて
準急や普通列車に振り分ける手段だったとも言える 私鉄の有料特急は昔の国鉄で言えば準急に相当した。
だが車両は私鉄の有料特急が回転座席やリクライニングシートで、
当時既に冷房付きだったのに対して、対抗する国鉄の準急は良くて153系や
キハ55・58系で、当時は当然冷房もなかった。
あのデラックス準急日光でさえ当初は非冷房だった。
だから、名阪間や東京−日光・小田原間では国鉄の準急は私鉄の特急に歯が立たなかった。
うちの会社の出張旅費の決まりでは、100Kmを超えたら「急行料金」がもらえるそうだ
しかし、乗るべき「急行」が壊滅状態・・・・ 急行は特急に読み替えだな。
そのくらい会社で面倒みてやれよ。 快速と準急どっちが速いの? と云うか、より優等なのは?
すまん スレチだった・・・ >>306
速さは一概に論じられないが
料金が発生するということから、
準急(行)のほうが優等でしょ。 >>306
料金必要という点で、制度的には準急の方が格上。
しかし、料金徴収するライナーなんかも快速の仲間とみなせば、
準急との区別は曖昧になってくる。
まあ、現在の水準で国鉄の準急を論じるのが間違いなんだろうが。
そもそも、同じ準急でも157系の「日光」もあればキハ05の「らうす」もあって、
列車としての実質的な格はまちまち。
快速も、愛称付きに限定しても、「くびき野」のような実質特急同等のから、
103系の「うみかぜ」まであって、これまた一括りでは語れない。 >>307 >>308
ありがとう!
でも、東武なんかは快速のほうが準急より格上って感じだよね? わからないもんだ・・・ 西武も快速のほうが格上でしょう
国鉄の場合、準急全盛期には
快速は中央快速みたいの主流で
特急、快速、普通しかない時代の快速と
昔の準急を比べても意味ないかも。 >>247
ものすごい遅レスですいません。
もりおか1〜4号の全てが、所定だと上野勝田間で8−11号車を連結しますが、
多客期だと付属編成が仙台や盛岡まで顔を出してました。
1・4号についてはほぼ毎週末仙台まで連結してたと思います。
仙台発着のときわについても付属編成が仙台まで往復する場合もありました。 準急って
ラビットとかの今でいう快速みたいなものですか?
料金取るからライナーとかにあたるね
「おはようとちぎ」なんかも停車駅的に見て準急と言って差し支えなさそう
なんてネタにしてたら近々廃止されるのか
そのうち「おはようとちぎ」も懐かしスレで語られるようになるのだろうか 準急は便利で手軽に利用出来た、@¥100-乗り放題の時代があったが、北陸出張は
何時も「ゆのくに」だった。急行券ボッタクリ「立山」と余り所要時間が違わず
ハがスハ43系で同じ、ロがスロ43の台車TR23Hの違いだけ。中部循環準急「こがね」、
「しろがね」、関西本線の「かすが」、その他「但馬」、季節臨の「清津」(きよつ)上野-
新潟等は漢字表記がまるで北朝鮮の清津(チョンジンだったか)?みたいで小千谷→
新潟間乗車時に変な感じだった。
大阪駅前の廃品市で買った「準急」のサボを大切に持って居る。 昭和30年代後半の気動車ブーム?の頃は、急行より準急の方が先に気動車化された路線も多く、その点ではお得感もあったと思う。 「ひだ」が最初からDCだったが、最初ロがキロハ18の凸凹編成だった。一度名古屋から
富山まで乗ったが乗り心地はもう一つ。高岡延長(俗に「正力ダイヤ」)でも暫くキロハ18
だった。
「但馬」はキロハ25だったが、大阪から普通列車併結姫路から快速時代のオハフ30や
オロハ30時代から見たらキハ55,26、キロハ25は天国だつた。
>>317
実はキロハ18は自分にとって乗ってみたかった車両の筆頭。
キハ55に挟まれて無理して準急運用についているのが健気な感じがする。
2等室部分はキハ10系の3等よりはマシな程度の普通のクロスシートだったのか、
クッションなどの作り自体が上等なものだったのか、情報の少ない車両なのでよくわからない。
壁やモケットも赤系統だったら優等車らしく見えたかもしれないが、青系統だったんだろうな。
3等との違いは座席の白カバー(あったのか?)と空いていることぐらいか。 >318
キロハ18のロ室の座席は写真で見た限りサロ75やサロ85と同タイプの座席に見えました。
白黒写真だったのでモケットの色はわかりませんでしたが枕部分の白カバーはありました。 >>318
俺が乗った時はシートが濃紺の所謂2等(ロ)色で白い頭部分カバー付き、天井が扇風機の場所
だけ円く凹んでいたと記憶する。
その日は高山ぐらいまで90%ぐらいの乗車率だった。
後年庄川鉄橋で撮影したが、どうも凸凹編成丸出しだった。蛇足までに「飛騨」は高岡滞留中
城端線でアルバイトをしていたが、時刻表にロの表示が無く客扱いしなかったのか、開放して
居たのか?記憶に無い。 京都−博多.都城準急はロが博多編成がW屋根(オロ31→スロ34一桁)、都城が後年
オロ35で都城の方が良かった。最初の頃は都城編成の京都より先頭がマハフ??で
ロネかシの格下げだったのを見ている。台車がTR71? 東海道全線電化以前に名古屋−大阪間に運転されていた「準急」が何時も満員
だった。オロ41が連結されていたけれど機関車もC62かC59ダブルかC59+C62
だったと----。客車は名ナゴだった。 準急比叡、準急伊吹(これは全車指定席)
準急で全車指定席なんて余りなかったのではないか
その他、朕の文のコピペです
232 名前:回想774列車 :2010/12/20(月) 18:28:24 ID:oNfRwDyy
大聖寺、動橋(いぶりばし)
サクミという超ぼろ駅を改造して、加賀温泉にしてから、大聖寺、動橋は凋落の一途
233 名前:回想774列車 :2010/12/20(月) 18:40:32 ID:oNfRwDyy
ああ懐かしい!
6:41大阪発、普通列車の青森行き
米原まではEF58、米原−田村;蒸気機関車
田村−敦賀;交流用電気機関車(赤色)(此の間のみ交流試験電化)
敦賀−;DIESEL機関車(敦賀から、非電化、単線)
敦賀−今庄間は、蒸気機関車がお尻からぐいぐい後押しした。(北陸トンネル未だなし)
朕はまだ2歳、顔中真黒にして窓から顔を出していた。
夕方、大聖寺に着いた、今は亡きボロ電車で山代温泉へ到着した。
ちなみにこの6:41大阪発、普通列車の青森行きは、翌日の13:30頃に青森着。
同じ番号の列車が1日に2編成走っていたわけだ。
ああ懐かしい、国鉄時代!
234 名前:回想774列車 :2010/12/20(月) 18:53:29 ID:oNfRwDyy
当時の北陸本線は、最速列車(最優等列車)が急行!
それも急行立山と急行日本海しかなかった!
あと準急ゆのくに、と。
いまでは全く考えられないほど、北陸本線は田舎だった。
ちなみに最速の急行が当時泊まっていて、いまは凋落しているのは、大聖寺、動橋(いぶり橋)のほか、今庄、田村、石動(いするぎ)そして泊(とまり)
>>323
いい加減マルチ止めろよ
痛すぎ
と言うか馬鹿すぎ 郡山駅の3番線足元にうっすらと「まつしま」「いわて」とか書いてあったよ。まだ残ってたんだね。
急行じゃないけど他にも「あいづ」とか、福島駅には「はつかり」なんかもあったな。 >>318>>319>>320
亀レス すまん。
俺も気になって調べてみた。「100年の国鉄車両」No.3にキロハ18車内の
写真が出ているが、モノクロなので色がわからん。仕切りが無いのも微妙な雰囲気だね。
319氏の言うように確かにサロ87風のシートだね。320氏の言うように色は濃紺か。
サロ87は臙脂だったけれど。キロ25格下げのキハ26-400に九州で乗ったことがあるが
臙脂だったような気もするが。記憶違いかも。
キロ25のシートは二人がけ同じ向き(ロマンスシート?)で隣の座席の境界にシーム(?)付き
で、キロハ18のロザよりは豪華だよね。まあ、準急ようだから当たり前か。
320氏の言うように間合い運用でキロハが城端線に入っていたんだ。知らなかった。
子供のころの
エンドウのキハ17系シリーズでもキロハ18があったし、なじみが深いが実物は見たこと無い。
改造車の切り妻運転台の形状は好き。 キロハ18は後年四国へ渡っていたが、準急「屋島」に連結されていた。
キロハ25のシートは臙脂色、所謂特ロ色だった。準急「飛騨」の末期のキロ25も
同じだった。 「やしま」ってのは琴電にもなかったか?
まあ中小私鉄が国鉄と同じ愛称の電車を設定することは
よくあることだけど 「くろしお」は国鉄に複数あったね
ひらがなと漢字で使い分けてたか 「瀬戸」(東京-宇野 客車)と「せと」(高松-宇和島 気動車)も。 >>331
前者が急行で後者は準急であるところがミソ。 >330
くろしおは和歌山側も二私鉄同時運行していた時期があったりと複雑。 急行「あさぎり」は国鉄時代には2列車存在していたな。
小田急線から御殿場に乗り入れる列車と、九州の日田彦山線で走っていた列車があった。 日田彦山線の「あさぎり」は同線の「あきよし」
なんかと同様、準急からの格上げ組だよね。
物心ついた頃は冷房付き58系3連だったけど、
直方経由の「はんだ」「日田」は55系と非冷房
58系で、普段は乗せてもらえない急行を
待ってると、バス窓のキハ55と修学旅行用の
黄色のキハ58の2連が来てガッカリした覚えが。
66系が充当されると一気に改善されたはずが、
新機構満載の車の為に初期故障頻発で、
既出のように元の55系が代車に入る機会も
結構あったとか。
事実、こっちが冷房が効いた車内の軟らかい
転換クロスシートで快速の発車を待ってると、
向かいのホームにまたあのバス窓の「はんだ」が
飛込んで来て、恨めしげな急行客の視線がw。 >>329
「やしま」は高松‐松山間で屋島へ行かない「やしま」だった。
そんな列車名が多かったな‐東京‐米原‐金沢で「能登」とか、上野‐長岡-
金沢のECでも津幡で半島の根元近くをかすめるだけ
キハ66は小倉駅で停車中を撮影したが、故障はエンジン過熱の
火災だったか?DLM30HSCやHSFには問題が多かったな
かつての「能登」は輪島延長運転があったような
最たるものは「なは」だが >>337
関門海峡を渡らない「関門」
大阪始発終着のの「「六甲」「いこま」
宮島の見えない「宮島」
周防しか通らない「長州」
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