国鉄の急行列車・準急列車を語る
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今は準急全滅
急行も指で数えられるほどにまで減ってしまった
そんな急行・準急について語るスレを試しに立ててみる >>206
呉海軍工厰発
三菱長崎造船所行
つまり、大和発武蔵行だね 平成4年頃だったかな、学校帰りの品川駅ホームに急行東海が停まってて、よくよく見たら、隆三杉関が乗ってたよ。 平成4年ごろだったかな、大和西大寺駅の階段を上っていると、目の上に朝潮関の尻があったよ。
特急の指定、2席いるな、と思った >>207
「立木大和」と「日立武蔵」の関係を思い出した。 立木大和のモデルは日立佐和でしょ?そしてレインボーがニチボウ、
のちのユニチカ(今は?) >>194
居るよ確かクハ86だったが豊橋で0系「こだま」に乗り換えてやっと
人心地がついた。
昭和9年 神戸市内の病院 実家は東舞子 誕生日が過ぎた頃に歌敷山
昭和20年 舞子国民学校 四年生3学期まで歌敷山
四年生修了で加古郡 九ケ月 戦後2年弱京都
22年秋から阪急神戸線沿線
関学「交通論」専攻
上司の紹介で見合い結婚したが大失敗でノイローゼ寸前
入院してから「禁酒」1週間に2度は「コロッケ」
膀胱に砂状の石がぷかぷか浮いている 204様
遅くなりましたが、203です。
親不知付近や、敦賀の前後は旧線だったはずですが、既に日没後であり、
はっきり覚えていませ。ただ、中の郷で下りの日本海と交換したことが思
いだされます。
牽引機ですが、青森を出たときは、青森区のC61、途中新津で見たときは、
直江津区のC57だったかと。
機関車の交換は秋田、新津、直江津、金沢は覚えています。そほかにも今
庄でもあったはずですし、敦賀でもあったかと思います。
客車は三等車はスハ43、食堂車にスハシ38が入っていました。
なにしろ古いことなので、この程度しか思い出せません。
>>214様
204です。サンクスです。
今から50年以上前で断片的にせよ、見たままは興味津々ですね。
現在ではEF81のロングランですが当時の機関車交換劇や北陸旧線の中の郷
が出てきたり、新車の頃のスハ43など隔世を感じます。
手元にS29.2の時刻表ありますが「日本海」の交換は直接見られた中の郷
と坂町でした。
ちなみに私はS34生まれです。 小学1年の時「出島」に乗ったことあるよ。前日に母と徳山駅に切符買いに行った。
キハ58だったと思うが、早岐まで乗って疲れた記憶が残っている。
DC急行あさぎりの現役時代は二重名称だったね。御殿場のと九州ので。
御殿場線の方の指定席は小田急のシステムだし、九州のは全席自由だから
問題無かったのだろうけど。
上の方で出ているはんだ・日田はキハ66・67時代になってもキハ55系が良く
代走していた。日祝日は4両に増結していたからキハ55系の確率が高くなって
いたと思う。
直方には元キロ25がいたのだけど、これは北九州側には滅多に来なかった。
博多口の臨時急行の指定席車に入る事が多くて、増発の急行いなさ(出島)に
入る事が多くて、直方配置のキハ58系修学旅行車に挟まれて運用に就いて
いる事が多かった。元キロだけあって結構大事に使っていたみたい。
臨時のいなさで乗ったことあるけど、かなりキレイにして使ってあった。 赤城駅を通らない急行あかぎと、
両毛線を通らないが赤城行きの急行りょうもう
ってのはダメですねそうですね。
急行じゃないけど、グリーンライナーやマリンライナー、
平仮名表記を含めれば各地にあった、安直なネーミングの代表例。
スレ汚しスマソ >>217
もともとは日田彦山線の「あさぎり」が「先輩」格。
小田急線直通のほうはDC準急時代は「朝霧」「長尾」「銀嶺」「芙蓉」だったな。
「松前」 道内でキハ22の急行には結構慣れていたが、キハ21には意表を衝かれた。
「しらはま」 名古屋行きはあるが名古屋発はない、紀勢線の急行はややこしかった。
「大社」 3回も方向が変わり、7線区を経由。松江→名古屋を乗り通したら天橋立から満員に、席を立つのも不自由で、初めて汽車に乗って腰が痛くなった。
「赤倉」 新潟の58系気動車堂々の10連だったが、S53の大雨による信越線妙高高原付近不通で、名古屋−松本と新潟−関山に分離運転。
名古屋方はナコ・ミオの予備車をキハ55までかき集めて6両に短縮して運転したが、朝夕の間合い運用の中央線普通列車は超満員で連日遅延だった。
ひとりごとスマソ。
そういえば豊肥線の「火の山」も一時期一部区間の不通で
大分〜豊後竹田と熊本〜阿蘇(?)に分離されていましたね >217
くろしおは3重名(千葉・和歌山・四国)だっけ?
和歌山は戦前以来の名門なので別格だったが。 山陰本線西端部が土砂災害で長期に渡って不通になった時の迂回の急行さんべに
乗車した事があります。
下関でEF81からDD51へ機関車交換と思って見ていたら、やってきたのは何とEF65!
真冬だったけど12系+20系化後なのでスユニ以外は暖房の問題は無いのですけどね。
小郡(新山口)までの短い区間でしたけど、さんべとは思えないくらい飛ばす事飛ばす事w
小郡でやっとDD51牽引に変わりましたが、益田には早着してました。
山陽線上では一種の臨時列車ですからスジがキツかったのかもしれませんね。 >>223
スジもきついでしょうし、刈りだされた機関車や乗務員の運用も余裕がなかったかもしれませんね。 >>221
豊肥線はちょっと前、何度か長期運休があったな。
阿蘇外輪山の大規模な土砂崩れの後、豊後竹田の大水害やらで 急行たざわも一時期、盛岡でスジが分割されてなかったっけ? 遅レス
>>126
いまでも「きたぐに」の発車前は「食堂車の設備はございません」って放送が入る。 >>228
昭和47年11月より、って言わないとこが… 我々はまだ、食堂車という車両を理解できる時代にいるのだねw
(職導捨の時代ですが)
後年…
「ショクドウシャ」って何?
「食道者」って昔いたんだって。
究極の何とかメニューばかり食べてる、飽食時代のアレ?(ry
とかになってたりする?w 東京スカイツリーの立地は最強だ!
★東武伊勢崎線 押上駅 直結
★都営浅草線 押上駅 直結
★東京メトロ半蔵門線 押上駅 直結
★京成押上線 押上駅 直結
★東武伊勢崎線 業平橋駅 直結
上記「5路線が集結する」スーパークロスジャンクションの真上にそびえ建つ。
この立地の素晴らしさは、新宿駅や池袋駅に直結する百貨店に匹敵する。
今の東京タワーよりもはるかに立地は良い。
古くからの江戸市街地にもごく至近だ。
国際観光都市、浅草からもわすか1km!徒歩15分以内で散歩がてらで行ける。
★東武伊勢崎線 浅草駅 徒歩
★東京メトロ銀座線 浅草駅 徒歩
★都営地下鉄浅草線 浅草駅 徒歩
こんなスーパー凄い立地に建てられるのに、なぜか辺鄙なところだと思われているのが不思議だ。
★JR総武快速線錦糸町駅 徒歩
★JR総武緩行線錦糸町駅 徒歩
★東京メトロ半蔵門線錦糸町駅 徒歩
半蔵門線で錦糸町からも一駅。歩いても1.4km徒歩20分だ。
三越前や大手町・渋谷からも乗り換えなし!
都営浅草線なら日本橋や東京駅(宝町)や銀座や新橋や浜松町(大門)からも
一本で行ける。
想像を絶する観光名所になるのは間違いない。
>>230
「ブッフェスタイルの・・・」というホテルのレストランの案内文を読むにつけ
急行ビュッフェを思い出します。 昭和50年夏 友人3人と北海道旅行(非鉄)
→:普通列車、…:徒歩orヒッチハイク、=船
7月12日
広島→岡山→姫路→大阪(きたぐに)【車中泊】
7月13日
青森=函館(すずらん4号)【車中泊】
7月14日
札幌(天北)稚内【稚内公園幕営】
7月15日
稚内=鴛泊【鴛泊キャンプ場幕営】
7月16日
利尻岳登山…鴛泊=稚内(利尻)【車中泊and旭川駅ネ】
7月17日
旭川(大雪1号)原生花園→網走【呼人キャンプ場幕営】
7月18日
網走→斜里(しれとこ3号)網走(大雪5号)【車中泊and旭川駅ネ】
7月19日
旭川…大雪山縦走…旭川【旭川駅ネ】
7月20日
旭川(かむい1号)札幌(ニセコ1号)森→銚子口【幕営】
7月21日
銚子口→函館=【船内泊】
7月22日
青森(しらゆき・きたかみ4号・白馬)金沢【金沢駅ネand車中泊】
7月23日
(きたぐに)大阪(みささ1号・みまさか1号)姫路→岡山→広島
昭和54年冬 北海道旅行(単独、鉄)
→:普通列車、…:徒歩orヒッチハイク、=船
※乗車記録紛失のため詳細が不明の部分あり
3月15日
広島→岡山→姫路→大阪(きたぐに)【車中泊】
3月16日
青森=函館(すずらん)【車中泊】
3月17日
苫小牧→様似…襟裳岬…様似(えりも・ちとせ)札幌(狩勝)【車中泊】
3月18日
釧路(ノサップ)根室…納沙布岬…根室→厚床→中標津→標茶(しれとこ)網走(大雪)上川(大雪)【車中泊】
3月19日
網走→中湧別→興部→雄武…北見枝幸→浜頓別→稚内(利尻)【車中泊and旭川駅ネ】
3月20日
旭川(礼文)名寄→朱鞠内→深川(宗谷)札幌→【車中泊】
3月21日
函館→五稜郭→函館→松前(松前)函館=【船内泊】
3月22日
青森(しらゆき・きたかみ・白馬)金沢【金沢駅ネand車中泊】
3月23日
(きたぐに)大阪(みささ1号・みまさか1号)姫路→岡山→広島
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
同じ車両が急行>普通>準急って
急行券?準急券?それともそれぞれ購入? 日光行き準急「だいや」。
てっきりダイヤモンドか鉄道ダイヤからつけられた愛称だと思っていた。
大谷川が列車名の由来だったと知ったのは、列車が消滅してから随分後のことだった。 平仮名だとわかりにくいときあるね
特急だけど「みどり」は緑でなく水鳥だしね(そうだよね?) mjsk?
だってトレインマークは緑樹をデザイン化したものだと思うし、
そもそも俺のATOK氏は「みどり」で「水鳥」には変換しないですお? >>235
俺も同じ時期に旅行(夜行&YHを使っての半鉄、半観光だが)札幌と旭川で
ニアミスしているな。
3/17
川湯(大雪)札幌(利尻)車中泊
3/18
稚内ー浜頓別YH泊
3/19
浜頓別ー稚内ー名寄(天北)YH泊
3/20
旭川(大雪)川湯YH泊
3/18に釧網本線経由で上川まで移動しているようでこの年は寒の戻りで流氷
が網走あたりはこの時期もガッツリ接岸していて見応えあったな。
乗った列車はいずれも廃止されてしまった。 . ..--──l l──--..
....-´───´`───`─....
..┌'''" (○) _[l.急 行.l]_ (○) "'''┐
|二二二二::-゙ii=======ii゙-::二二二二|
| | .| ||.|| ̄ ̄||.|| |. | | =@=/
| | |l .゙| ||.|| ||.|| | l| .| ||´・ω・)
|┴──/゙-´ ||.|゙──゙|.||..`.─\─┴| とノ
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l.l.|- ̄ ̄|.l.l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|( )
| .- ||.| .|.|| -. | ヽ@)) ┃
|. - ||.| .|.|| - .| ..┗━┫
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....| @ ─_||.|┌-┐|.||_─ @ | ┃
新幹線開通前の時刻表で東海道急行の「いこま」って列車…
…奈良を通らないのに無理してると思うとワロタ。「やましろ」「よど」「せっつ」までは行き先が推測でくる…「六甲」は微妙かな。
もっとも新幹線の無味乾燥な数字の羅列よりは風情あるけど。 新幹線の本数で全部固有列車名を考えろと言われたらきっと担当者発狂するなw
固有名は特別な列車の証しというべきか、特別な列車だから固有名で対応できたというか。 上野−盛岡を常磐線経由で82年10月末まで走った急行「もりおか」。
時刻表の編成図には、1〜7号車が上野−盛岡。8〜11号車は上野−勝田。
そうなっていたが、実際には、もりおか2号と3号は上野−盛岡の全区間を
11両編成で走ってた。
ただ一度だけ、もりおか4号に乗車して仙台に停車した時、仙台で8〜11号車を
増結したことがあった。1号と4号は上野−勝田から増結では?と、その時は不思議に
思ったのを思い出す。 247より文章訂正
上野−勝田から増結では?→×
勝田から増結では?→○
に、訂正させていただきます。 >>246
担当者「新幹線の列車名を固有名詞にせよ…か。江戸、相模、箱根、伊豆、駿河、遠江、三河…前半は小田急からクレームつくな」
「よし、お買い物列車にビジネス特急ってのは…何?国鉄末期の増収対策列車っぽくてイメージが悪いか」「これならどうだ。東海道昼特急!運行区画を語る上でこれ以上のネーミングはあるまい!」
数十年後、国鉄から分離したJR高速バスの東阪間直通便が「のぞみ」になりましたとさ… 急行なんだけど末端で快速・普通化っていう列車は、
全国でどれくらいあったんでしょ? 俺は、茨城交通湊線直通のディーゼル急行『あじがうら』が一番印象に残ってるな。
勝田〜阿字ヶ浦間は、湊線のダイヤを使用してた為、その区間は国鉄のギハ58型3両に、湊線のギハ20型が1または2両併結されて走ってた。 >>249
関係ないけど国鉄高速バスには「エコー」号とかがありましたね。 寝台急行って乗った事あるかね?
銀河 天の川 新星 >>239-240
大阪〜長野の急行『ちくま』の愛称の由来が千曲川だと思っている若い鉄ヲタが
意外に多いのは、やはり平仮名のせいだろうね。 >>260 259ですが、何で羨ましいのですか?
20系が古くなった晩年の頃に乗ったので、あまり綺麗じゃなかったし、狭苦しい寝台でしたよ。 運転本数で「ときわ」は10往復以上と急行列車では最多ではなかったかと思う。
>>258
筑摩ね。
ただし240のみどり=水鳥はないだろう
絵幕でも木のみどりがデザインされていた JRのリバイバル急行で
南十字星と最南端とかいう急行が走るようだが
いつ頃どこを走ってたんだろう? 特急ときと
急行ときわって
誤乗する人いなかったのかな? >>252
準急のことはじい様しか覚えてないんだよ >>268
子供の時に伊吹って準急に乗ってます
只、記憶にない… 幼稚園の時、準急ときわに乗ってるけど
あの頃は準急という認識がなかった 犬吠・鹿島・内房・外房にして値下げすれば人気出ると思ふ >房総特急 >>271
はるか昔183系登場時から言われとるがな。
急行料金でなら優秀だけど、特急としては最低だって。<暴走特急 距離が100`ちょっとしか無いから、
到達時間も10分くらいしか違わなかったしなw リバイバル運転時にようやく利用価値が出た >暴走急行
ほぼ特急のスジで運停も最小限だった
写真厨は時間が無くて可哀相だったがw
183や485、初代N'EXで1本くらい設定ヨロ かつて、「○○1号」という呼び方と「第1○○」という呼び方が混在していましたが、どういう使い分けがあったのでしょうか?
準急、急行、指定あり、なし、定期、臨時は関係なかったように思います。 >>275
原則は「第1○○」は特急、急行で「○○1号」は準急だったと思う。(多少の例外あり)
東海道新幹線の開業でこの垣根が一気に崩れ、「第1○○」は消滅への道を辿ったような。 >>277
「なにわ」や「よど」には「第2」が設定された当初から自由席があったはずだが。 ぜんぜん、急行列車らしからぬ、ふさわしくない名前ですな。
劇急加速、急減速、カーブ路線に100キロで突っ込んでいくような危なっかしさが
ある名前で、運転士の気分で停車駅を決まる見たいな、乗ってみたかった列車ですな。 小学生の頃によく品川で見たのだが昭和44年頃まで走っていた全車指定の
「第1伊豆」「第2伊豆」は157系13両で1等車が4両入っていたのは圧巻。
それがいつのまにか157系特急「あまぎ」になっていたな。
伊豆に157系時代があったとは初めて知りました
豪華編成ですなぁ 信州系の急行169系妙高・信州にはビュッフェが連結されていたのに驚いた記憶がある。
上越線や東北線系統の165系急行、東北線系統の455系急行には
最早無かったので印象に残っている。
>>282
有名なそばビュッフェですか。
北陸本線大阪発着にもサハシがついてましたね。 >>277
しおじは第○しおじだったけど、当時8号車から11号車まで自由席だったよ。 ひたち海浜の準急色。あまり付けている期間が短かった、日光&ときわのHM。再現してくれんかな。 準急青葉号
戦前上野日光間を走っていた準急が5月5日から準急青葉号として復活
5月中の各休日に運転。
ダイヤは上野8時発、日光着10時50分、日光発16時5分
上野着18時50分で途中赤羽、大宮、宇都宮、今市しか止まらない。 471系の急行関門や鷲羽の写真って見たことない。
ヘッドマークは付いていたのだろうか。 鷲羽のヘッドマークは見たことある様な。
てか未だに読み方がよく分からない。
「わしゅう」なの?ガキの頃、「わしう」だと思ってた。 準急って
ラビットとかの今でいう快速みたいなものですか? >>289 ぜんぜん違います。
俺は上越線準急「ゆのさと」(上野〜水上)に良く乗ったなあ。
あとは東海道線の準急「はまな」
準急は便利だった。 国鉄の準急は、速達が第一使命だったから、車両のグレードは二の次だったと聞いている。
だから、80系とか、キハ20系とかが使われていた。
このコンセプトこそ、現代で見直されるべき。
距離に関わらず1乗車300円の料金。
ただし、青春18等での乗車不可。
タダ乗りを極力防ぐため、とにかく2ドア車を集中投入し、停車駅は厳選。
117系、115系3000番台、213系、キハ66・67、キハ110など、
洗面所がなくて急行用としてはイマイチでも、速い、座れるというニーズを吸収できる車両はたくさんある。 そういえばキハ66/67ってどうして全国的に配備されなかったんだろうねえ。 >>291
準急と言うと一般的にはキハ25/55だと思うのだが…
ちなみに、準急全盛期の頃は、急行が拠点都市間連絡列車で
それを補完したりローカル〜地方都市の連絡列車が準急だった。
(現在の快速列車とは意味合いがかなり違う)
ちなみに、特急は文字どおり特別な列車。東京(および大阪)と
全国の地方中核都市とを結ぶものだった。
>>292
キハ66/67をベースとした急行型も計画されたようだが、優等列車
の特急化および亜幹線区間の電化が予想以上に進んだため、
キャンセルされたらしい。
あと、キハ66/67は2両1ユニットで機器の分散をしたにもかかわらず
自重が重く、非電化線に多い丙線規格に入線ができなかったのも
全国配備されなかった理由。
(筑豊は石炭輸送の関係で当初より乙線規格で敷設されていた) ピクの遜色急行特集で見た準急「京葉」はキハ25だった。しかも全てキハ25で組成(キハ20が混ざらない)。
急行の持ち場の都市間輸送も、短距離は準急の受け持ちだったようだ。 >>297
〜100`、101`〜200`、201`以上の三段階でなかった?
高千穂で東京〜西鹿児島乗っても浜松までと同じ。 ごめん、昭和22年のことなんだ。
次は1200kmが区切りだったような。 輸送力不足の当時としては、中距離未満の客をふるいに掛けて
準急や普通列車に振り分ける手段だったとも言える 私鉄の有料特急は昔の国鉄で言えば準急に相当した。
だが車両は私鉄の有料特急が回転座席やリクライニングシートで、
当時既に冷房付きだったのに対して、対抗する国鉄の準急は良くて153系や
キハ55・58系で、当時は当然冷房もなかった。
あのデラックス準急日光でさえ当初は非冷房だった。
だから、名阪間や東京−日光・小田原間では国鉄の準急は私鉄の特急に歯が立たなかった。
うちの会社の出張旅費の決まりでは、100Kmを超えたら「急行料金」がもらえるそうだ
しかし、乗るべき「急行」が壊滅状態・・・・ 急行は特急に読み替えだな。
そのくらい会社で面倒みてやれよ。 快速と準急どっちが速いの? と云うか、より優等なのは?
すまん スレチだった・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています