国鉄の急行列車・準急列車を語る
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
今は準急全滅
急行も指で数えられるほどにまで減ってしまった
そんな急行・準急について語るスレを試しに立ててみる 俺にとっての急行といえば、架線下DC急行「赤倉」しかないな。
母の田舎へ行くときはいつも利用した。
キロ2両を含む堂々10両編成(12両の時もあったな)は圧巻だった。
しかし電車化後は一度も乗ることが無かった・・・。 >>116
確かに。
今みたいに若造が気軽に乗るような雰囲気じゃなさそうだなw むかし、「アルプス」や「信州」の一部列車には「ビュッフェ」があったよなぁ〜
時刻表にコーヒーカップの印のついた列車がなつかしい〜 >>119ビュフェと言えば東海道の急行のビュフェ
で一度寿司が食べたかったな
二、三歳の頃に準急伊吹に乗ったのが唯一の
寿司ビュフェ
年齢的に記憶はない
その後急行になった比叡に乗った時
ビュフェがあったが寿司コーナーはやってなかった
気がする >>120
「アルプス」はビュフェ営業休止後も長いことサハシを連結していましたなぁ。
そういえば営業している食堂車の経験といえば「北斗星」しかないな・・・orz 新潟と仙台を結んでいた急行あさひ。
大体4〜5両編成でハザが一両付いてた。
ハザはキハ58系列が多いんだがキロ25格下げのキハ26-400が入ることがあった。
確かにシートは転換クロスでいいんだが、車体幅が狭くて子供心に古い車としか映らない。
編成美もキハ26が乱しているみたいに見えて嫌いな車両だった。
今なら間違いなくソイツに乗るだろうけどねw 昔、東京とか上野に向かうとき品川を出て客車区の脇を通る時
167系が止まってるのを見るのが好きだった。 お客様にお知らせ申し上げます。
この列車にはビュッフェが連結されております。
当日本食堂では、サンドイッチなどの軽いお食事物や
お飲み物をご用意して皆様のお越しをお待ちしております。 >>124
思わず「とうじつ ほんしょくどうでは…」と読んでしまった。
旅のレストラン・日本食堂は遠くになかりけり。
名古屋出発後の急行「大社」
この列車は4両の短い編成でございます
なお食堂車・ビュッフェ車は連結いたしておりません
そんなことわざわざ言わんでも判るがなって当時思った 長丁場の列車だと付いてるのが当たり前という見方もあったからな おれはどっちかというと駅弁派だったなー。
食堂車って移動が面倒な上に込んでいたからな。
竹箱の弁当箱をあけると駅弁ならではの
なんともいえない香ばしさが食欲を誘った。
営業休止からずいぶん経って荒れ果てたサハシ165しか乗ったことがない…orz
>>128
駅弁も好きだけど食堂車がついている列車があるときは必ず利用したな
でも急行の営業ビュッフェには乗ったことが無い
「アルプス」と「かいもん」で非営業車両に乗ったのみ 急行 八甲田と、急行 ニセコに、乗ったことあり。
すごく、12系客車とか、懐かしく感じられる。 12系だと十和田とかいもん
14系だと銀河51号、八甲田、津軽くらいかな?
乗ったの?
JRになってからははまなすもあるけど…
鈍行ならはやたまの12系
夜汽車に揺られるのも今のうちなのかな… 快速「海峡」の14系12系
そして一ノ関〜盛岡間の普通列車に使われていた12系に乗ったよ。
あのJR初期の頃はよかったなー。
利用した切符はEEきっぷ+中小国以北の普通乗車券
>>132
14系津軽は、上りだと山形県内では座れないイメージがあった。
秋田からの乗客が座席を回してボックスにして寝てしまってるんで、どこに座っていいのか分からなくなるから。
おまけに通路歩いてて足が触れたら、寝てる客が蹴り入れてきたりして
「ガラの悪い」列車だなぁ、ってイメージがあったよ。 印象深い急行
大阪駅のコンコースで4時間並んできたぐに乗車。
青森までは長かった。
夜10時前仙台留置中の20系新星で爆睡、
目が覚めたら上野停車中で疑似列車ホテル体験だった。 583彗星に1両だけつないでた指定席で
大阪から広島まで行き、夜行ちどりに乗り換えて
松江に行こうとした、がハザがとれず新幹線乗車。
念のため横川から乗車すると、通勤列車以上に
超満員のちどりは広島で積み残しまで出て
最悪の夜行列車となった。
って2年前に同じことを下りきたぐにの京都駅でも経験した。 「ぬまさい」って語呂の悪い急行もあったよね。
「せなた」とか「ばほろ」も懐かしい。 >>137
>「ぬまさい」って語呂の悪い急行もあったよね
それ「ぬさまい」(幣舞橋より命名)だから ネタだったのか…、後の「せなた」「ばほろ」はちゃんと書いてあると思ったらこれもネタだった
マジレスしちまった orz 「はぼろ」だがS52,53の3月頃に札幌ー小平間を何度か乗車したが編成が
(1)ハ(指定)+(2)ハ(自由)+(3)ハ(自由)で(3)が留萌切り離し。
そのため(2)の自由席が多くの立ち客が出るほどの混雑だった。
ちなみに俺は当時小平にあるYHで長期間滞在した事あるのでそこを
中心として札幌、旭川に出かけていた。まるで地元民もどきであった
がいずれにせよ「はぼろ」は便利な列車で小平駅でも地元利用者でも
20名近い乗降はあった記憶。
今は廃線となった羽幌線だが当時はそんな事が想像出来ぬほど盛況だ
った。 上野発盛岡行きの夜行急行「いわて51号」は手加減知らずの冷房で、
上着を持ってる乗客はみんな羽織ってて、持ってないやつは肌を泡立たせて眠ってたな。
関西に遊びに行って九州へ帰るとき熊本行きの夜行急行に乗ったはずなのに
朝目が覚めてうとうとしていると「次は中津」などという放送が流れていて驚いたことがあります
放送を聞いているとこの列車は大分行きだと
何がなんだかわからないままに中津で降りて上り列車で博多に帰った憶えがあります
私が乗っていたのは「くにさき」という列車で熊本行きの「阿蘇」と前後ろでつながっていたのだとあとで知りました >>52
「西九州」は別府温泉と基地を往復する米海軍ご用達の側面があったんですね
久大線の上り一番列車でしたから大分から日田に行くときはたいていこれでした
急行の思い出といえば従兄弟が大学受験で佐賀に行ったときに「出島」に乗るのを博多駅で見送りました
あと私が赤ん坊の頃、熊本県南部の小さな町から筑豊へ帰省するのに
「フェニックス」という列車によく乗っているようです
母はそれこそ「実家に帰らせてもらいます」という感じで何度か私を連れてこの列車に乗ったそうです 高校1年の夏。大阪行きの銀河51号乗ったが、牽引機が何とゴハチの61号機!
臨時ならではのサプライズだった。今では銀河そのものが過去のものに・・・
『くにさき』懐かしいね。
大学が大分だったので、何回か乗った。
14系の座席車だった。
大学を受けた時も帰りは『くにさき』だった。
試験の翌日、不動産屋に行って、
アパートの手付金をうとうとしたら、
合格発表があってからでいいですからと
受け取って貰えなかった。
頭悪そうに見えたのかな。 >>126四両以前に気動車急行で
食堂車、ビュフェがあり得ん まぁ、鉄男の間隔じゃ常識でも、
一般乗客には説明しないと通用しなかったんだろうねw >>126
事実を伝えてるだけだから何の問題もないと思うが。
車内放送は鉄のためにあるんじゃなくて、お客さん全員のためにあるんですよ。
急行じゃないけど
地味な存在だった
特急「あおば」特急「あすか」特急「おおよど」
「あおば」の停車駅
仙台・塩釜・小牛田・一ノ関・北上・陸中川尻(現ほっとゆだ)・横手・大曲・秋田
「あすか」の停車駅
名古屋・四日市・亀山・伊賀上野・柘植・奈良・堺市・東和歌山(現和歌山)
「おおよど」の停車駅
博多・鳥栖・久留米・羽犬塚・大牟田・熊本・八代・人吉・吉松・京町(現京町温泉)・小林・都城・宮崎
小学生の頃博多駅で写真を撮っていたら感じの良い老夫妻に
「すみませぬが、人吉行きはどこですか?」と聞かれたことがあります
ちょうど583系の有明3号を撮った後でした
いっしょに「おおよど」の出るホームに行った憶えがあります
おじいさんが杖をついてゆっくり階段を上がってこられるのを見て
エスカレーターがあるといいのにと思いましたね
写真を撮ってほしいと頼まれ、ホームにいた「おおよど」の前で老夫妻を撮り
後日写真を送ると非常に達筆な文字での礼状と湯前温泉のキーホルダーが届きました
古賀の方でしたね 人吉〜吉松間を特急が走った・・・
懐かしネタはやっぱ萌える・・・ あさひ
新潟から仙台まで乗り通した。
上野ー長岡(夜行鈍行)、長岡ー新潟(鈍行)、新潟ー仙台(あさひ)
仙台ー相馬(鈍行)、相馬ー上野(ときわ)
仙台、山形(?)ミニ周遊券利用だったけど、仙台で乗り継ぎ時間が
ほとんどなかったので、山形で停車中に改札まで走り、往路の券を渡し
周遊・復路の券に入鋏してもらった。
長岡ー新潟間では一番前に座り運転士とおしゃべりした。
今では考えられない。あの運転士さんもそろそろ引退かな。
米坂線より仙山線の景色の方が印象に残ってる。
特に山寺と仙山トンネル付近が。
>>153
仙山線で思い出したが、奥新川の変電所跡地が
こないだの秋のお彼岸のときに見たら解体の真っ最中だった。
1)私が乗った頃には14系になっていた、「雲仙」「西海」。
座席に座ってると、2列ほど前のカップルが車内でいちゃいちゃし始める。
この車両には私とそのカップルの他客は居なかった。
普通にいちゃいちゃする分には別に構わなかったんだけど・・・
濃厚なキスとか女性の声が聞こえてきたりして、トイレ行くのにも困って
固まってた。
2)初めて乗った開放A寝台
当時の東北方面の夜行急行って、線によって列車番号が分かれてて
東北本線の八甲田は101レ,常磐線の十和田は201レとかだった。
401レと一ランク落ちる形だったが津軽1号で初めてA寝台乗りました。
A寝台ってこんな形なんだ〜って思いました。 子どもの頃(S55年くらい)に読んだ子ども向け鉄道図鑑みたいな奴に、
「A寝台は線路と平行、B寝台は線路と垂直にベッドが〜」って書いてあったもんだから、
「どうしてベッドの向きで優劣が生じるんだろう?」って疑問だった。
ベッド幅も一緒だったんだよね、その頃は。
スレ違いっぽい独り言でスマソ >>108-110
窓口も今や臨職の時代だからねえ… 鉄道に限らず計算能力ない人は現金業務は基本的に無理だったから
否応なしに頭使っていたわけだよね。
電卓?そんなものなかったよな。
私が出札業務に入った頃には電卓使用もOKだったけど
使っていたのは私だけ。
他のベテランさんたちはみんな算盤でした。 先日都内某駅で東京〜(新幹線)〜西明石〜(山陽本線)〜大阪〜
天王寺〜(阪和線・紀勢本線)〜(伊勢鉄道)〜(関西本線)〜名古屋
の乗車券を買おうとしたら西明石で分断した連続乗車券を発行された。
一枚になるはずですって言って作り直させたら無事一枚で発券されたが、
昔はこんなことはなかったように思う。
で、昔の急行ね。「日南4号」の20系寝台、上野発夜行電車「ばんだい」、
北海道の「利尻」「狩勝7号」「大雪5号」は10系寝台、あれ夜行ばっかりだな。
昼間のはあんまり記憶にないぞ。まあいいや。10系20系の狭い寝台が懐かしい。
よく利用したのはお助け急行「鷲羽」だな
姫路方面最終が出た後にはこれが残ってた。
大阪出たら車内検札が始まり、同じような残業族が大勢いて
乗車券と急行券が良く売れること・・・
下り鷲羽で夜中の2時、3時に連絡船に乗り換えるのは
つらかった。 朝の大阪駅で上り鷲羽を撮影するのも難しかったな
一度ムコに入ってから折り返しミハに向かう途中
大阪に戻ったのを撮っていた。
モハユニットにブルーライナー色が多かったように思う。
>>162
早朝の高松駅で四国の列車が迎えてくれるわけですね。 臨時準急時代の「ゆのくに」
オハ31からスハ44迄種々雑多の編成で面白かった。中ヒロのオロ36に
乗れた時は嬉しかった(夏だったので)。運が悪いとオロ31の汚いのに
当たったり、スハ32Wに乗せられたりで幸いオハ31には当たらなかった。
何時も満員だった-- 「まぼろしの邪馬台国」で名高い宮崎康平氏が
宮崎から延岡まで「第2高千穂」という急行列車に乗ったときの話を読んだことがあります
乗客が少なく4、5人の一行の貸切みたいだと喜んでいたらそれもそのはず
下り列車との交換で各駅停車のように停まり、なおかつ延岡には30分遅れでその後の計画が滅茶苦茶になってしまった、と
延岡からバスで高千穂に向かったようですが宮崎の女性は本当に素朴で素晴らしいとも書かれてあります 「第2高千穂」はダイヤのクソっぷりからして臨時かね。
戦後の島鉄のお召し列車運行の頃に宮崎氏は失明されてたから、
純粋に会話の印象で土地の女性の純朴さを感じ取ったんだろうね。
既に名古屋発着で臨時に成り下がった高千穂が出ている時刻表を持っているが、
宗太郎停車を見たときはかなり燃えた 準急は懐かしい:
何処まで乗っても3等が@¥100-均一だった頃は良かった。
PC「ゆのくに」、「ゆあみ」、「ゆのか」、「ゆけむり」の温泉列車シリーズや
北見‐札幌間(小樽だったか??)夜行区間だけのインチキ準急(故吉谷和典氏
の"すかたん列車”)、室蘭‐札幌の「エルム」(オロ31x2組み込み)、
C56の「ちどり」-----臨時「清津」枚挙の暇が無いぐらい。 準急「ゆのくに」は臨時、不定期時代下りが速かった。京都‐米原間で「はと」
より1分遅いだけ。昭和31-11-19の東海道電化完成の余波で601-602レが福井
‐上野に短縮され、大阪‐富山におんぼろ鈍足急行「503-504レ立山」が出来た
時に大阪‐金沢間で所要時分差が少ないのに急行料金ボッタくりだと「暮らしの
手帖」にまで批判された。31-12号時刻表では、大阪‐金沢間で:
準急「ゆのくに」6時間9分。
急行「立山」6時間1分。(以前の601レ「北陸」よりも大阪発が早くて時間的効率
悪化。特ロがスロ51から「つばめ」のお古のスロ60になって、並ロがスロ34
からオロ40と並ロが悪化。
出張の時は専ら「ゆのくに」愛用だった。
九州島内を走る急行・準急に掲げられていた
絵入りヘッドマークはカラフルで楽しかったですね 大阪駅の廃品市で「準急」、「快速」、「かんなべ」、「黒姫」、「伯耆」(裏が「第二さんべ」)
等々のホーロー小サボを買って大切に保管しているが、「準急」、「かんなべ」が値打ち物かな? 「長州」かこええ・・
時刻表読んでも殆ど「レ」(通過の意味ね) >>174
山陽本線を右腕突き上げながら
大音量のパワーホールと共にばく進してた訳ですね。
わかります。 そそ、さらに付属編成に「谷津」と「斎藤」を併桔してたわけよ・・w
さらに脱線して磐越西線で走らせたら石をなげられそうw 「長州」は修学旅行臨のスジを団体がない時開放して走らせた特殊な急行ですね。
時刻表に載ってるけど、いつ運転なのかも、はっきりしない。
やたら通過するけど、そんなに速くない。
観光モデル号も急行扱いで時刻表に載ってたけど、いつ乗れるのやら、また通過だらけ。
そういえば一時期、急行の出島・弓張に島原鉄道に直通する車両がつなげられていたように思いますが
あれは島鉄の急行だったのでしょうか、愛称などはなかったのでしょうか >>182
>あれは島鉄の急行だったのでしょうか?
→国鉄線内は「国鉄の急行」で島鉄線内は「島鉄の急行」でしょうね。
愛称は島原鉄道に直通する編成に別途愛称はついていなかったんじゃないかな。
島鉄には愛称は無かったな。直通急行みたいな呼び名だったかも。
時刻表の出島の編成表には増号車みたいな表記だったような。
南海の「きのくに」はどうだっけ? 国鉄線内は「A号車B号車」だから、国鉄急行扱いだったと思う。<きのくに
南海線内は「特急」。 5501系「きのくに」はある意味快適だったなあw
つうのは昭和50年代で南海線内や紀勢線は殆ど優等列車はほぼ冷房100%。
その中で特に夏場とか窓全開で景色を楽しめたし。 >>187
そういうマニアばかりなら良かったんだろうけどね…… >>187
28、58にそろった冷房つき国鉄編成に、55が1両や2両ついてても、乗らんでしょう。
窓全開で景色って、保護棒あったのお忘れで?
>>190
健介とか、マサさんとか、
乗った人はいるにはいるけど、乗りつぶしたって人はいないんじゃないかな?
まぁ石井ちゃんとか、その辺はまだ乗ってる気もする。
列車名も「リキプロ」になると思うけど。 長崎‐広島準急「ふたば」ってのがあったな。
下関‐宮島口間オロ40の汚いのに乗せられた。 まぁ、それは不謹慎だろうが、こういう列車こそ
「平和」にでもすれば良いじゃないかとは思った。 「平和」は長続きしない列車名だったのが不思議。
国鉄幹部に軍国主義の残党が多かったのか、与党の圧力か不思議な現象。
「平和」----「つばめ」に復帰。九州行ブルトレの前身(”みずほ”になった?
か”さちかぜ”?か-----
、広島行DC特急(キハ82系)いずれも列車愛称としては短命。
九州行と広島行は撮影して居るが「つばめ」になったのは大阪駅と京都駅で
見ている。展望車の前のオロフ33の窓ガラスが真中に「桟」が入っていたので
当時1,300mmガラスが入手難だったのだろう。 オロ36一統の極広幅ガラス窓は、「重くて開閉が大変」という問題が作ってから明白化した。
やはり開閉できる窓の実用の上限は3等車で普及した1000mm幅がいいところだったって事か。 >>201
1200mm窓の車は戦後も作ってるけどね
オロ40 スロネ30 マイネ41 急行 日本海
高校の修学旅行で、青森から京都までのった。青森は朝0600頃、翌日の早朝京都
についた。そういえば、その時京都駅で上りをひいてやってきたC59をはじめて
みてその大きさに驚いたものだった。1953年秋のこと。 >>203
今と違い寝台でないので当時は堅い椅子なので腰も痛く体力勝負だったのでは
と思います。
テツ的には当時は煙の旅路で景勝地も線路付け替えされていないのでどういう
旅路だったか、機関車や客車にも興味津々です。 >>200
呉発長崎行きの出島があったが、
これに「へいわ」という愛称を付けても良かったと思う。
ただ、特急に使った愛称を急行に使うのは
国鉄的に許せなかったんだろうな。 >>206
呉海軍工厰発
三菱長崎造船所行
つまり、大和発武蔵行だね 平成4年頃だったかな、学校帰りの品川駅ホームに急行東海が停まってて、よくよく見たら、隆三杉関が乗ってたよ。 平成4年ごろだったかな、大和西大寺駅の階段を上っていると、目の上に朝潮関の尻があったよ。
特急の指定、2席いるな、と思った >>207
「立木大和」と「日立武蔵」の関係を思い出した。 立木大和のモデルは日立佐和でしょ?そしてレインボーがニチボウ、
のちのユニチカ(今は?) >>194
居るよ確かクハ86だったが豊橋で0系「こだま」に乗り換えてやっと
人心地がついた。
昭和9年 神戸市内の病院 実家は東舞子 誕生日が過ぎた頃に歌敷山
昭和20年 舞子国民学校 四年生3学期まで歌敷山
四年生修了で加古郡 九ケ月 戦後2年弱京都
22年秋から阪急神戸線沿線
関学「交通論」専攻
上司の紹介で見合い結婚したが大失敗でノイローゼ寸前
入院してから「禁酒」1週間に2度は「コロッケ」
膀胱に砂状の石がぷかぷか浮いている 204様
遅くなりましたが、203です。
親不知付近や、敦賀の前後は旧線だったはずですが、既に日没後であり、
はっきり覚えていませ。ただ、中の郷で下りの日本海と交換したことが思
いだされます。
牽引機ですが、青森を出たときは、青森区のC61、途中新津で見たときは、
直江津区のC57だったかと。
機関車の交換は秋田、新津、直江津、金沢は覚えています。そほかにも今
庄でもあったはずですし、敦賀でもあったかと思います。
客車は三等車はスハ43、食堂車にスハシ38が入っていました。
なにしろ古いことなので、この程度しか思い出せません。
>>214様
204です。サンクスです。
今から50年以上前で断片的にせよ、見たままは興味津々ですね。
現在ではEF81のロングランですが当時の機関車交換劇や北陸旧線の中の郷
が出てきたり、新車の頃のスハ43など隔世を感じます。
手元にS29.2の時刻表ありますが「日本海」の交換は直接見られた中の郷
と坂町でした。
ちなみに私はS34生まれです。 小学1年の時「出島」に乗ったことあるよ。前日に母と徳山駅に切符買いに行った。
キハ58だったと思うが、早岐まで乗って疲れた記憶が残っている。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています