ディーゼル機関車スレッド鉄懐版
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凸=33 ドドッ チャチャ ドドッ
凸=33 ダダダッ ダダン
>>89
DD54の増備はなにか政治的な駆け引きがあったように邪推してしまうな。
1〜4号機の試作で、ダメなところがあるのは判ったはずなのに。
DE10は試作機が落成してからしばらくの間、量産型は作られなかったと思う。
ゴーヨンもしばらく試用してみれば、量産するかどうか見極めが出来たはず。
そのあたり不透明な部分を感じる。
>>90
試作は1〜3ね
でも確かにいろいろ問題があって量産に移ったのは2年後だったはずで
すぐというわけではないよ
試用して完全には払拭されないまま、なんとかなると見切り発車したんだと思うな
DD54も性能的に安定してたら○○番台(寒地向け)、△△番台(重連型)、□□番台(SGなし)
なんてバリエーションが存在してたのかな?まあ所詮夢物語だけど…。
DD51では輸送力過剰になる線区向けであったはずなのに、結果的にはそのDD51に置き換え
られてるあたりに、当時の国鉄の車輌増備自体の計画性の無さを感じる。
おそらく予算要求すれば、たいした査定も無く予算化されてたんだろうな。
DD51やDE10が過剰増備だったことは昭和50年代後半に露呈する訳で…。
いずれにしても昭和40年代という蒸気の淘汰が急務という時代の中で生まれ得た仇花的存在
だったんだろうな。 >>90-91
さらにDD54試作機の前にDD91というマイバッハエンジン+メキドロ変速機の試作機があるから…
まあメーカーの癒着疑惑は古くから言われてる(確かDD54の生産は国会でも非難された)のでアレだが。
>>92
貨物激減、路線廃止の嵐が凄まじかったとはいえ至る所に凸の廃車体が転がる事態になってしまったね… メキドロ変速機のメカニズムがイマイチイメージ出来ないんだけど判りやすい図解とかあるサイト無い?
ホイト(フォイト?)式は何となく判るんだけど
ググってみても漠然と「爪クラッチを同調させて変速する」程度の解説しか見つからないんだけど DD54の疑惑について、当時、赤旗の日曜版に書かれていたな。 >>96
自動車のオートマと同じ構造なら判るよ、でも同じ構造なのか?トルクコンバーターの基本原理は車も鉄道車両も同じだろうけど
自動車のはプラネタリーギアのサンギア、キャリア、プラネタリーギアのどこを固定するかでギヤ比を変えているんだろ?
メキドロ変速機に関する記述でプラネタリーギア(遊星歯車)という記述は全く見た事ないが あぁそうだね。ギア部分違うか。
変速は普通のオートマで、ギア部分はマニュアル車だな。
メインとカウンターシャフトがあって、歯車は常時噛み合い式。変速はドッククラッチでセレクトしてる。 >>98
と、いうことは昔のホンダマチック(☆レンジがあった頃)をイメージすればいいってこと? よく思いつくなw
ギア配列はそんな感じ。で、ギア選択が多板クラッチじゃなくてドグクラッチ(ドグじゃないと検索ひっかからないのな)。
当時の調速機でシンクロ無しのドグクラッチ。そりゃいろんなとこが壊れるよな。 >>94
ホイト式(DW2)は速度に応じて3個のトルクコンバーターを切り替える構造だが
メキドロ式(DW5)はトルクコンバーターは1個、歯車変速機(4段)で変速を行う。
で、この歯車切り替え自体は自動で行われる構造なんだけど
クラッチ点でタービン羽根(出力軸)をコンバーター回路から
一旦外す→繋ぐ構造だからこの際に凄い衝撃が加わるわけ。。。 あ、歯車変速機自体の構造はID:zd30H+FM氏の解説を参照してください… >>103
あれもチト計画からして微妙な存在だったよな。遥か昔に岡山で雨曝しになってるのを見た。
本当はDE50こそがDF50やDD54の後継機という位置づけだったんだろうね。
オイルショックが要因となって亜幹線も電化が進んだらしいけど、そうでもなけりゃ今だ
非電化だったかもしれない路線が結構あったかもしれないということか?
DE50がそもそもどういう線区に投入され、DD51とどのように棲み分けがなされていたのかも
気になることではある。まあいずれにせよ華々しい活躍ができたのは10年程度のものだった
んだろうけどな。それがDLの宿命。今日に至るDD51のお達者ぶりはむしろ異常にすら思える。
>>104
DE50は一応北上・釜石・高山・伯備といった勾配が連続、
それでいて貨物輸送量の多かった路線を想定して計画されたと云われてはいる。
SG無し、下り勾配での抑速用にコンバーターブレーキを搭載している辺りそれらしい気もするが… DD54追っかけて播但線に行ったなあ。
京都から山陰で鳥取折り返しで。
北近畿周遊券利用でね。
臨時急行の牽引は期待ハズレのDE10だった。
もう35年前。 >>105
そうだね
SG非搭載なので当時まだたくさんあった旧客は牽くことはなかったかも
量産になったとしても用途と線区が限られているから100両も作られたら御の字だろうと思う
しかし、その後の貨物大合理化でおそらくはすべて廃車かも >>108
的を得たご判断だな。所詮DLは繋ぎ役でしかないんだよな。
>しかし、その後の貨物大合理化でおそらくはすべて廃車かも
DF50とDD13を延命・更新させながらあと数年使えば、貨物合理化や旧客の全廃時まで
までなんとか乗り切れたハズなのでは?
こういう所にも当時の国鉄の長期計画の杜撰さが垣間見れると思うのだが。 DE50ならNHK今週月曜日のお昼の中継で見た。
津山で扇形車庫とターンテーブルを産業遺産として
観光の目玉にする中で、DE50もきっちり紹介されてたよ。 貨物合理化が昭和59年初頭。
この時にDE10も大量に余剰になった。
DF50をあと1年検査期限を延ばせばよかったのに・・・。
無駄があるから国鉄(官営)のアジがあるって感じだけどね。
納税者視点から見ると大激怒だけど。 そういえば、DD51のエンジンを1個だけにした入換機のDD20も現場の
評判が悪く、量産されませんでしたが、何か理由があったのでしょうか。
DD51のエンジンは量産されており、そのまま使えると思うのですが。 >>113
DD20は単純にDD51の半分という方向で作られたので、テストすると粘着力・制動力に不満があった。
4動軸で乙線仕様ではDD13から発展がないし、重入れ替え機としてのブレーキ力が不足する。SGも積めない。
で、DE10・11で異例の5動軸にチャレンジして成功。
エンジンもちょっとチューンし、13t軸重仕様でSG可としたので便利な汎用機になった。 >>114
DE11はDE10の車体構造を利用した重入換機なので軸重は14tだね >>116
いえね、DD16はDD51のエンジン1台を出力を落として搭載した、
簡易線適合機だという意味のこと何かで読んだ気がするので
DD20の発展的解消かと思ったもので。
でもDD16もめっきり減りましたね。 >>118
DD16は、有り物のパーツで上手く作った簡易線貨物無煙化用の軽軸重機だろう。
エンジンはDD51初期形の1000PS型DML61を換装で捻出したうえでデチューン、台車はDD13後期と同じ。
成り立ちが面白いし、外見もコンパクトで好ましいんだけど、もうJR線上に残ってるのは除雪用ぐらいか? >>118
DD20は重入換機として作ったんだけど粘着性能がよくなかったので量産されなかったみたいだね
簡易線用としては軸重が重いので元から考慮して作られていない
DD20の後継といったらDE11がそれにあたると思う
でも二次型の形態はDD16に引き継がれたのは間違いないけど >>119
とりあえず、今残ってるのは11、301〜304
民営化のころは10両程あった。 >>119
10/11に松本駅で展示されるみたい。
ラッセル・・・とあるから300代だろうね。
ソース>JR東日本 長野支社 工場等での車両移動機みたいな役割で残ってなかったかな?それも全廃か? >>114他
レスありがとうございます。DD20は粘着力や制動力はいまひとつだった
とのことですが、それならなぜDD13の量産が続けられたのでしょうか。
DD13と違って1エンジンなら保守も楽だし、エンジンもDD51と同じだ
から、部品の互換性もあってよかったと思うのですが。
何か設計上の問題があったとか。 >>124
国鉄ではDD13の量産はほどなく終わるタイミング、、既に実績ある500馬力×2の後期形の増備も進展している時期だった
代役は汎用型DE10と入れ替え特化DE11の二本立てで行けた
>>123
大宮にDD51のコヒ色みたいなDD16がいたはずだけど
まだあるのかな? >>125
早速レスありがとうございます。なるほどです。 >>126
大宮駅のホームでぼんやりしてたら電車を引いて出てくる
DD16をよく見かけたよね。
確か2両のうちの片方は台湾に渡ったはず。
もう片方もずいぶん長く見ないから既にリタイヤでは。 貨車引いてるのを見たければ飯山・小海線の工臨か鹿児島の灰落し列車だな。
あと熊谷タの入換機になったのと青海のデンカセメント払下機はまだ残ってるのかなぁ。
C56・C12の後継として作ったつもりが、B20に近い役回りになってるな。 >>131
鹿児島のは廃車になったのでは?
あと、高崎運輸のや青海のデンカセメントのは自家発注機ですね 宮古のラサ工業のアトガマのDD52(DD16同格)はどこへ… >>134
現役みたい。
「ラサ工業 岩国」でぐぐるといくつか出てくる。 ラサ工業はカマもさることながらC10運行の時にも使ってた控車が気になる。
自社線内用の素性の怪しい代物なんだよなぁ。 DF50は出力やコストの面での課題を残しつつも、亜幹線用としては手頃なカマだった
んでしょうね。
DLの真打ちとなるはずだったDD51も、本命の「幹線」での活躍は意外と短くて本領
を発揮できてたのは北海道を除くと電化前のごく一時期の東北本線や鹿児島本線くらい
だったように思えます。
その他の線区は本来ならばDF50やDD54、さらには量産されてればDE50で間に合い
そうな感じだったし。
小学生の頃、夏休みに親父の田舎(山陰本線の園部)に行ったけど、DD54やDF50の牽く列車が当たり前のように走ってた。機関車のすぐ後ろの客車って、ものすごく暑かったのを今でもよく覚えてる。 DF50の電動機出力は100kw×6のつりかけだったからねぇ
600×1.3=おおむね780馬力
貨物が縮小されずDC余剰となる地方交通線の整理もなく
時代が進んでいれば
DE50量産型や電動機を換装したDF50とか見られた? ズルツァーはともかくマンは船舶用では2000psを超えるものもある
冷却系の強化ができればエンジンそのままでパワーうpはできた
もしくはDML61ZB1350ps換装のDF50ー1000なんてのもあり?
DFのモーターはMT46ベースだと言われてるから
MT54ベースの120kwx6=720kw(930ps)
なんてのもありえた
>>149
景気が上向きだったのでムリして国産化に走った
ようにも思える ようは「国産」のブランドが欲しかったとか・・・
産業保護のためとか・・・
電化の進展を考えればライセンスの不利をガマンしても
DF50で間にあったのかもしれん
曲線の多いローカル線じゃDD51の俊足は生かしきれない
DF50の最後発グループは、DD51の増備の遅れを受けて性能の遅れを承知で急遽
追加製造されたと聞いた。
なんとなく「隼」と「疾風」の関係みたいだな。
>>142
EF66の最終ロットも似たような感じじゃないかな。EF200が間に合わなくて
とりあえず。 EF200もDD51も後になってみれば
そこまで必要だったのかいな?
というオーバースペックな部分は似てるような
北海道のDD51重連はそのうち懐かしくなってしまうでしょうか。
今はまだ、寝台特急があるけど… 今月のRM、DF50の写真募集してた頃から期待はしてたんだけど…。
まあ、あんなもんなんすかねえ…(チョッと落胆)。 >>146
期待できなかったのが期待通り。w
もはや投稿する人物はいないんじゃね?
DF50という機関車は一過性でしか撮影されてはいないからねぇ〜。 DF50晩年は相当たくさんの人が撮影していたから
未発表写真はごまんとありそうだけどな 有名撮影地で撮るからみんな同じような写真
なんでもないところで撮ったやつのほうがかえって新鮮だな >>144
DD51は北海道で重連してるから
あまりオーバースペックな気がしない
EF200は・・・変電所壊しちゃダメだろw >>152
だよな
DD51なんてD51の置き換えで作ったんだから最低コレくらいの
出力がないとダメなんじゃない、それほどハイパワーでもないし >>152-153
北海道や山岳路線では重連を多用、一方山陰辺りでは過剰出力ともとれる辺りどこか微妙な気もしなくはない。 >DD51 まあ、D51の後継機になる汎用機関車としては当時こんなもんだったんだろう。
大量に作った事による量産効果もあったのかもしれん。
全国規模の国鉄だから各区に転配するにも都合がよかった。
過剰出力だって余裕分だと思えば良い。
鉄ヲタの大先輩たちは
「国鉄はどこへ行ってもD51とC58ばかりだ」
と言っていた。
そのままDD51とDE10に当てはまる。 >>154
山陰本線あたりは各停でも10両とかがあったから
DD51位の出力が最低でもいると思う
マンのDF50 500あたりではパワー不足だったし
関西線名古屋口では4〜6両だったが
これはこれでかなりの速度を出していたし
貨物も共用することを考えれば汎用としてのDD51の出力は適度なんじゃない >>154
中途半端さはDLの宿命。ていうかその線区自体、輸送力が大きければDD51の出力
云々以前にとっとと電化するんだろうし。
非電化のまま残っているということは、所詮それなりの輸送力しか求められていない
訳で、DD51としたらそのものの微妙さとかをとやかく言われる筋合いじゃないと
思ってるはず…。 何にしてもDD54とDE50が使い物にならんかったからDD51の天下だったよな
D50やD51の後継釜としての地位でのね D51ではなく、D52が全国に普及していたら、
代替DLももっと出力を増やすべく努力したのかな。 D52は戦時輸送のための急造粗悪品だったし。
旧鉄道省としては、重量貨物が走る線区は電化を考えていたのでは。
だから終戦後、電化の延伸に伴ってEF15が量産された。
EF15が増産されていた頃はディーゼル機関車はまだ試作段階だったし、大出力機関などまだ作れなかったと思う。
しかし90番台試作DLは面白いなあ。
興味深いし、こんなのが走ってたと思うとけっこう萌える。
>>160
出力云々より煤煙吐く機関車を、当時は早く抹殺したかったんだろう。 >>160
線路の規格を上げなきゃならんから
資材不足の折、そんなことは出来なかったろう >>160
その場合煤煙対策で旅客のみDL化→一気に電化となった可能性も…
>>161
昭和10〜15年頃既にD52・D62相当の大型機関車が計画されていたので
必ずしも電化一辺倒ではないと思われ >>164
計画番号KD54とかだったかな? >D52・D62相当の計画機関車 鉄道省時代には、軍事的に脆弱な幹線鉄道電化はなるべくやらない方針
だったというのは定説だと思っていたが誤謬? >>167
当たらずも遠からずかと(既に山岳線やトンネル区間中心の電化は実施されてたわけだし)
>>164 >>166
計画のみだがC型機もKC54〜56といったC62以上の代物が存在したからね…
直径1.85m動輪や軌道強化前提とかもはや無謀の領域だが。 >>166
計画だけで潰れたのなら、そのKD54も
54の呪いだな >>169
その呪いは、モハ54、スロ54、キハ54にはかかっていない
ということは
床上にお客を乗せれば54の呪いは解けるんだよ! 痛違いだけどコヒもDF200作って鴨と融通しあえばいいのにね。
新幹線札幌開業まで持たせる気かな?
DEの代替でハイブリッドのDD開発中なんでしょ? もしDFを寝台牽引に使いたければ、コヒはカネだけ出して鷲別に整備委託・貨物列車と共通運用にすればいいんだろうが、
敢えてそこまでするなら手持ちの51使い伸ばす方がいいと踏んでいるんだろうな。 >>164
四国なんか真っ先に煤煙カットしたが、電化はかなり遅い。
土讃なんて永久に無理だろな。 土讃線の貨物もだいぶ前に無くなったしね。
関係ないが紫雲丸という名前からディーゼルが吐き出す煙を連想する。 コヒのDDは新幹線開業までなんとか使ってアボンでしょう。
カシオとトワイは残るだろうから鴨からDFを借りるか?
どっちも毎日じゃないから1両借りれば済むし。 誰かが、トワイも残らないのでは?と書いていたが俺もそう思う… DE50は惜しかったよな-遅すぎた。
第2エンドががら空きだから、SG4BS型と油,水タンクを積んで
寒冷地の亜幹線に使用出来ただろうと想う。実現して居たら宗谷本線の
最果てドン行や根室本線のPCもスピードアップして運行可能だったろう。
DF50のSurzerは「腰抜け機関車」とか言われ、高速性能C12なんてくさされ
たが、北陸本線のDD50の真中に挟める改造をしたら、SG付だし、
DD50+DF50+DD50で「急行列車」用に使用出来て「立山」など15分はスピード
アップ(大阪‐金沢間)出来たのではなかろうか? DE50の第2エンドががら空きってなに言ってるんだ。でっかい
ラジエターが入ってるじゃないか。 >>178
遅すぎないよ、「技術が未熟だったのに無理して落成、『早すぎた』」。
もちろん受け入れ側の体制がアレだったのは否定しないが、
機関的には背伸びしていたというのが定説。
で、DD50+DF50+DF50、当時の金額で計2億かけて15分短縮・・・
キハ17なり55なり量産したほうがいいじゃん。
過去の妄想にしても、もうちょいとつじつまを。 DE50は、当時の「国鉄の」技術水準からすると出現を焦りすぎ、
当時の「国鉄の車両需給事情」からすると出現が遅すぎた、と言うべきかと思われ。
また70tの5軸は軸重14tにぴたり合わせた設定で、そのままでは亜幹線の旧客運用可能な車両としてのSG搭載は不可能。
一部の交流電機やEF81は、本来軸重16tが妥当な甲線規格に与えられた僅かなマージンで軸重16.8tまで使い切ったけど、
甲線と違って、乙線だとマージンまで使うのはちょっとリスキーだろ。
あれは貨物輸送需要の継続を見込んで設計したんだろうけど、信頼性が確立されてない大型エンジンやDD54問題の波及もあって
量産のチャンスを逸した試作機でしかないんでは。
タイミングが悪すぎたよ。 >>178
当時の国鉄がそんな七面倒な改造や運用をしてまで客の利便性を追求するわけがない。 >>178
そのあたりの線路規格では尚且つ重くなったDE10が入線できるとは思えない >>179
DE50の図面Bエンドのデイフェレンシャルの上?に丸が2つあるのがラジエーター
か?運転台の前のタンク様なのは冷却水?何しろ現物見て居ないのでスマソ
それならSG無理だな。
>>180
まだ503-504レも杉津越えの時代で敦賀‐今庄間後ろにD51つけてもノロノロ
だったし、平地部分ものそのそ運転だったから、間にSGつけたDF501-を入れたら、
冬に暖房車無しで,おまけに馬力が少しでも増えて15分ぐらいスピードアップ
出来ないかと当時想ったのだが。何しろ503と505(準急ゆのくに)の大阪-金沢
間の所要が8分差ぐらいだったから、おんぼろ急行「立山」だの「越中強盗急行」
だと言われて居たし,「暮らしの手帖」にまで書かれたぐらいだったから。
後に503-504レがスピードアップした時も速くなったのは大阪‐米原間で北陸
本線区間は余り変化が無かった。俺は殆ど「ゆのくに」で金沢からは長岡行の
各停に乗換えたり、米原まで快速電車‐準急「こがね」利用だった。夏はDD50
の「ゆのくに」使用が多かったが「遅れが常識」の北陸本線で略「定時運転」
の記憶がある。
>>184
スマソDE50は第2エンドです。
退屈でつまらなかったら「スルー」してください。出張の時間の関係で
「立山」に乗車の度に「遅れたら遅れっ放し」だったので:- 戦後進駐軍が持ち込んだ(DD12になった)DEL、あれ簡単な運転台
だけれど性能が良かったのだね。名古屋鉄道にも払い下げが行ったが。
昭和45年にハワイで再会したが、Oahu鉄道の残存貨物線(港とDOLEパイナップル
工場)間に使用中で車庫へ行って写させてもらった。 >>187
DD13に劣るのでまともな入れ替えには使用できなかったんですけど・・・
DD50といいDE50といい、いい加減にしてくれ。 DD12は軍用で1,000mmでも1067mm区間でも使える長軸の万能機で当時は重宝
されていた。総括制御だったしそりゃDD131号機が日本復興頂点期の昭和33年
製だから、10年以上差があればより良いDLを日本も造れたが、敗戦直後はあれで
十分使えた。鶴見辺りで10両ぐらいの貨物列車を牽引して相当な速度で走って
いたのを大阪からの夜行急行列車の窓から見ている。進駐軍は日本の機関車が
爆撃で大量パアになっていたらもっと持ち込んで3重連ででも使うつもりだった
が、案外やられて居なかったので少数に留めたのだ。総括制御で台車を前後
連結してあったなどの「通路,運搬具,動力」の交通の3大要素を全て考慮した
DELだったので案外優秀だったと想う。
貴方は北陸本線の常連客だったのか?DD50がどれだけ蒸気時代の乗客には
有難かったか経験しているのか?米原や金沢で発車時に「クラリオン汽笛」
が聞こえたら嬉しかったぞ。回復運転もそこそこ実現して居たし,初期故障
はあるものだから不細工(渾名=海坊主)は別にして常連客には「いい加減」
どころかDD50様様?だったのが事実。以上「経験者」の観点から述べたのだが
退屈な皆さんにはご免なさい。
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