DD12は軍用で1,000mmでも1067mm区間でも使える長軸の万能機で当時は重宝
されていた。総括制御だったしそりゃDD131号機が日本復興頂点期の昭和33年
製だから、10年以上差があればより良いDLを日本も造れたが、敗戦直後はあれで
十分使えた。鶴見辺りで10両ぐらいの貨物列車を牽引して相当な速度で走って
いたのを大阪からの夜行急行列車の窓から見ている。進駐軍は日本の機関車が
爆撃で大量パアになっていたらもっと持ち込んで3重連ででも使うつもりだった
が、案外やられて居なかったので少数に留めたのだ。総括制御で台車を前後
連結してあったなどの「通路,運搬具,動力」の交通の3大要素を全て考慮した
DELだったので案外優秀だったと想う。
貴方は北陸本線の常連客だったのか?DD50がどれだけ蒸気時代の乗客には
有難かったか経験しているのか?米原や金沢で発車時に「クラリオン汽笛」
が聞こえたら嬉しかったぞ。回復運転もそこそこ実現して居たし,初期故障
はあるものだから不細工(渾名=海坊主)は別にして常連客には「いい加減」
どころかDD50様様?だったのが事実。以上「経験者」の観点から述べたのだが
退屈な皆さんにはご免なさい。