究極の精神統一法を目指す【最強のMindfulness】
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弥勒の半跏思惟像は、いかに普通の人が簡単に悟りを開ける方法はないかと考えています。
半分足を崩しているのは、どれだけ楽な方法で悟りを開けるか、ということを表しています。
過去の悟りの行を見ていると、たとえば安楽の法門と言われる座禅でも、長時間足を組んだり、きつい作務(労働)や、厳しい作法があります。
また、易行道と言われる念仏でも、暇なく念仏の言葉を唱えなければならなく、欲望と感情にまみれた状態とハッキリと切り話されているとは言えず、修行者は煩悩を捨てて念仏をするのが正しいと認識してしまいます。
煩悩そのままで悟りを開くというのは、理趣経に示されていますが、未だその意味をハッキリと修行概念に結び付ける教えはありません。
ここでは、将来弥勒が出すであろう、煩悩そのままで悟りを目指す、究極の手法にアプローチします。 ここではMindfulnessという言葉を日本語で書くのは忌避します。
なぜなら、あらゆる板にMindfulness関連のスレが立ち、「自分が一番知っている」という人達が
誤った理屈や、自己中心的な主張を繰り返して、まがい物的なスレが形成されてしまっているので、
そのような人たちの参入を避けるために、あえてストレートな言い方はせず、Mindfulness、
または、マイフルと略するような言い方にします。 理趣経
ここに、世尊なる金剛手、
一切諸仏の現証たる
マンダラ中に住み給う
持金剛手の最勝なり。
この世の悪を調伏げ、
余す方なく一切の義
なべて成し給う。
この金剛手大菩薩
「世の欲すべて清らなり」、
この教えをば示さんと、
お顔やわらげ微笑みて、
「金剛印」の印結び、
右手に五鈷杵動かして、
進む勢い示したり。
大なる楽は金剛の
不壊なる上に空ならず、
この境地をば示さんと、
聖音「フーン」と唱えたり。 理趣経 (関連文章)
業の平等さとるべし。
大なる菩提は捉われず、分別動作はそのままに、
仏の所に至るなり。
かくて世尊は、この世なる調い難きものどもを、なべてなびかす釈迦牟尼の、
姿となりて、ものすべて、その本質は平等きを、示す教えを説き給う。
かかる教えに従えば、善悪超えてわれらみな、最勝し境地に赴かん。
これぞ仏智の理趣ならん。
その説法は左の如し。
くさぐさ欲は表われど、その本質は一つにて、善悪いずれに偏らず。
欲が一つであるごとく、瞋りもそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。
善悪超えたるものなれば、おろかしきもそのもと一つにて、善悪いずれに偏らず。
貪り、瞋りまたくらさ、いずれもそのもと一つにて、区別・表れなしとせば、
すべてのものは一つなり。
すべてのものは一つにて、区別・表れなしとせば、知恵の理趣また、これ一つ。
「悪にその性なし」という、かかる教えを説きてのち、世尊は呼びぬ、「金剛手。」
「もしそなたがこの理趣を、聴きたるのちに身を受持ち、日々夜々にとなえなば、
たとえこの世の生類を、余すなく殺すとも、悪の報いは受くるなし。
ただ受けざるに止まらず、悪を調けし報いにて、さとり得ること遠からず。」
かくて金剛手大菩薩、重ねてこの理趣示さんと、手に降三世の印結び、
蓮の御顔微笑みて、しかも怒りのさまを出し、眉をひそめて歯を出す。
そも御姿は「降伏」にて、この理趣示す聖なる音、「フーン」を唱えまつるなり。 Mindfulnessの話をするには、まず、仏教とスピリチュアルの話に触れないといけない。
Mindfulnessとはスピリチュアル的境地を目指すものであり、その境地こそ、
仏教の悟りと同義語であるからだ。
マイフルを語る仏教指導者でも、スピリチュアルを信じてない人が多い。
いわく、あの世は無い、霊は無い、
もしもマイフルや悟りがこの世だけのものなら、そんなものやらない方がいいだろ。
出来るだけ楽しんで、楽して、もしも苦しみが極まるなら、自殺してしまった方がいいということになる。
あの世が無いのに、何も無や空の境地を目指さなくてもいいわけだ。
ところがマイフルこそ、スピリチュアル抜きでは語れないものであり、
それは仏教の悟りも同じだ。
マイフルを語りながら霊的世界を否定するものは、どんなに立派なことを語ろうが、
どんなに難しい経典を語ろうが、まったくマイフルについて
何も分かっていないということになる。
また逆に、マイフルをオカルトチックに考え、超越的な境地をオカルト的な興味から求める人もいる。
こういう人は、不思議な感覚などが出てくると、それに拘り、あたかも自分が神秘的なものを得たと錯覚し
魔境に落ちていってしまう。
究極のマイフルとは幸せの境地を目指すものであり、それはこの世でも実現されるものである。
その過程において、神秘力も出てくるかもしれないが、それをオカルトチックな欲求の
対象としてはならない。 Mindfulnessとは何かというと、マインドを満たす
何に?
それは「今に」、ということ。
大抵の人間は、「今」に心を満たしていない。
たとえば、夜自分の部屋からトイレに行くとして、
立ち上がり、
一歩一歩歩き、
トイレのドアのぶを握り
ドアを開け、ドアを閉め、・・・・
ということを、意識していない
大抵は無意識にやっている
その間に考え事をしていたり、ボーっとしているわけだ
つまり、人間の「想い」というものは、1日24時間の大部分を、「今」から
外れていると言ってもいい。
これの何が問題なのかというと、これこそ、「苦」の原因になっている、
ということである。
我々の真実の世界とは、どういうものだろうか・・?
過去・現在・未来があるものだろうか?
よくよく考えてみれば、真実の世界とは、「今」しか存在していない。
逆に、我々が日常で認識している世界とは、
時間の幅を持った世界だ。
つまり、偽の世界だ。
映画のマトリックスのように、我々は「想い」によって構築された、
偽の世界に住んでいる
仏教ではこれを幻(マーヤー)と言っているし、聖徳太子は、「世間虚仮、唯仏是真」
と言っている。 「諸法無我」と「諸行無常」という言葉を押さえておこう。
「諸法無我」というのは、この世界に生起するものは無い、ということ。
個別に見ている、あれ、それ、これ、私、あなた、 善、悪、 苦、楽 といった相対的な両極、
これら生起しているように見えるものは、実は存在しないということ。
後の大乗仏教ではこれを、「無自性空」という。
世界に生起しているものは無く、空であると・・・。
「諸行無常」というのは、何ものも存在するものが、
0.1秒も継続することは出来ないということ。
われわれは、あなたも私も、それもこれも、継続的に見ている。
つまり、過去の記憶を元に、未来への予測も含めて、個別の存在が
時間的に継続すると考えている。
我々は、私もあなたも含めて、継続するような実体を持っていない。
10歳の自分は10歳で完結している。
20歳の時は20歳だ。
それをあたかも、10歳の自分が20歳の自分になったと、継続的に見ている。
もし10歳の自分が20歳になったというのなら、20歳の中に10歳の自分が隠れていることになる。
10歳の自分と20歳の自分、二つの自分が重なっていることになる。
実際は、5秒前の自分と今の自分は、継続もしないし、同じものとも言えない。
それを継続的に見てしまっている。
これを「執着」という。 よく、「無我になる」、ということが言われるが、この中の「我」というのは、
「エゴ」のこと。
「エゴ」とは、「欲」だったり、人間の「想い」のことだったりする
我慾、我想念というのがエゴのことで、人間の思考そのものが
エゴとも言っていい。
このエゴを克服することこそが、「悟り」ということになる。
上で述べたように、自分が一瞬も継続しないとなれば、じゃあ、自分が全く何も無くなっちゃうじゃないか、
と思うかもしれないが、
人間というのは、二種類の流れがあると考えなくてはいけない。
一つは、カルマの流れ。
エゴ自体がカルマの形成物ととらえてもいいかもしれない。
たとえば、人間の行動、思考というものは、自分で考え、行動しているように思えるが、
実は、すべてはカルマで記録されたものが出て来てるだけ。
過去世で作られた因縁が、だんだん熟成して、今ここに出て来ている。
過去世のものも、そのまた過去に因縁が作られたもの。
それがグルグル回ってる。
このグルグル回ってるものから抜け出さない限り、人間としての苦から
脱することは出来ない。
また、幻想の世界ではなくて、真実の世界も垣間見ることは出来ない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています