杉原愛子 Part2
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具志堅監督はメンタルトレーニングの必要性を強調する。 体操の代表合宿には6月以降、3人が交代で毎日通い詰める。 演技前には選手の横に座り、リラックスできる呼吸法を伝授。 初めて体操選手と接した時、浮世さんは彼らの手がマメでぼこぼこになっているのを見た。 「こんなになるまで練習しているのに、試合で緊張や焦りを制御できないと無駄になる。 勝ちたいと思って演技するのは、あまり意味がない気がします」 調子が上がってこない自分に対するいら立ちのようにも聞こえる。 エースとして4種目に出場、日本に銀メダルをもたらした。 だが、4大会連続メダルがかかった翌日の個人総合決勝ではあん馬、鉄棒で落下。 同学年の水鳥寿思(徳洲会)が銅メダルを掲げるのを横目に、12位に沈んだ。 「10点満点」が廃止され、演技価値点(難度点)は青天井に。 難しい技をふんだんに盛り込まないと、勝つのが難しくなった。 「学生のころに比べると、さすがに疲れは取れにくくなった」。 惨敗だったにもかかわらず、世界選手権では「最も美しい体操をした選手」に贈られる賞を手にした。 10月の全日本では圧倒的な強さで個人総合4連覇を達成した。 「北京のために演技しているわけじゃないし、ライバルもいない。 自分自身がどういう練習をしていくべきかを考えるだけです」 四つのメダルをとった世界選手権(ドイツ)が終わって、10日ほどたちました。 練習をすると体に試合の名残を感じるのですが、頭の中ではもう昔のことのようです。 日本を出発する前から考えると、夢のような結果と思う人もいるかもしれません。 代表選考のNHK杯で5位になり、元々は補欠でしたから。 正直、自分の存在、強さに自信が持てなくなった時もありました。 北京五輪代表に入れるのだろうかと不安にもなりました。 『何で』と聞かれると、単純に負けず嫌いというのがあります。 兄弟も体操をやっていて、先に結果を出したのはお兄ちゃんや弟でした。 小さいころから自分を見てほしいという気持ちが強かったんです。 世界選手権の代わりに選ばれた8月のユニバーシアードで存在をアピールしてやる、と。 世界選手権はタケ(鹿島丈博)がけがをして補欠から繰り上がったんですが、その前から出られるかなと期待していました。 いい動きもしていたし、最後まで分からないという心境だった。 でもタケの代わりに出るんだから、彼の分以上に日本を底上げしないと意味がないという思いがあった。 だから最後まで踏ん張れて、満足のいく演技ができたと思うんです。 テネ五輪が終わった直後は、個人種目で出場することが目標でした。 アテネでは団体総合で金メダルをとりましたが、主力メンバーではありませんでした。 満足感もありましたが、出られなかった個人戦を観戦していたら、悔しさの方が膨らんできたんです。 その思いを原動力にやってきて、個人総合でも活躍できるようになりました。 だから今は、団体総合、個人総合、種目別の鉄棒の金メダルが目標です。 北京五輪1次選考会を兼ねた重要な大会ですが、残念ながら出場できなくなりました。 15日の練習中、左手小指を骨折してしまったのです。 パキッという音がして、瞬間、「あっ、やってしまった」と思いました。 手術も終え、指を固定しながら出来る練習は再開しています。 8月のユニバーシアード(タイ)、9月の世界選手権(ドイツ)と海外での連戦で好成績を残せた。 個人総合3連覇がかかっていた9月下旬の全日本社会人選手権では10位。 体にまったく力が入らず、棄権しようと思ったぐらいでした。 体が動くようになってから本格的な練習を再開しようと考えていたのですが、全日本選手権まで2週間を切っても戻らなかった。 「そろそろやらないと間に合わないな」と思って、6種目を通す練習を始めたのが15日でした。 あん馬、つり輪、跳馬と失敗が続き、4種目めが平行棒。 やはり体が思うように動かず、「あとの種目は翌日に回そうか」とも考えていました。 そんな中途半端な気持ちで平行棒に臨んだ矢先のけがでした。 世界選手権でメダルを四つ取れ、今年最大の目標をクリアしていた。 連戦続きで疲れがたまっていたのも事実ですが、心のどこかにスキがあったのだと思います。 このけがが、北京五輪の直前だったらと思うと、ぞっとします。 1次選考会には出場できなくなりましたが、2次選考会(来年4月)へは日本協会の推薦枠がある。 焦らず、自分の出来る練習に集中して、それにかけたいと思います。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。