【常打】 森巣博 【賭人】
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カジノが正業、作家は兼業の「森巣博」について語りましょう。
ファン、アンチは問いません。
アサヒ芸能で連載中の「賭ける故に我あり」によると、ここ20年間
は、毎年1千万程度はカジノで稼いでるとの事です。 つまり、後でどう取り返していくかのロードマップこそが
最終的な平均配当率をプラスに持ち込む上で
最重要なのが分かるだろう
丁半博打はその場その場の勝負は大事には違いないが
持続的に勝っていくためには
ビッグピクチャーで勝つことが目標であるから
やはりある局面ゾーンで勝ち
そこを落とした場合は次の手で、どのように落としていくかの
連続なのである
ゆえに、1手1手の結果に一喜一憂しても意味がないのである
しかしながら、その一喜一憂こそが
丁半博打という単調なゲームを飽きさせずに長く楽しませる要素なのは確かだ
だから
ビッグピクチャーで勝つという基本戦略では
丁半博打は我慢と忍耐が求められ
どうにもスカッとしない憂鬱なゲーム展開を受容しなければならない
ピクチャーを描き切れなければ勝てないのだから
勝ち終えてやっと安堵
快哉を叫ぶ瞬間は皆無に等しい
また、そのようなギャンブルを否定する人もいるだろう
森巣氏がプロギャンブラーに否定的なのは
絶対に勝つことに集中すると
そのような陰気な
丁半博打というゲームはその本来の楽しさをスポイルし
カジノ人気の妨げとなることを知っているからだろう 賭けるゆえに我ありの作中で
白人の若い女性ギャンブラーが
ルックを繰り返してコツコツと稼いだ少なくないチップを
一気に1手勝負にオールインするシーンがある
これは何を意味するのか
なぜそれだけ勝てたなら
そのお金を持ってバカラテーブルから去らないのか
それこそが森巣氏自身の葛藤が込められていると言えるだろう
しみじみと利益を積み重ねて金を持ち帰るいじましさ
ギャンブルの華やかさとは
自身の資金力では賭けられない大玉を
コツコツと稼いだ金でオールインする
その興奮や快哉や名誉から
ギャンブラーは決して逃れられないのである
それは正しくも
生き残れない道であることは
その白人美女のギャンブラーが最後に
手痛い敗北を喫して
あるいはその気高さを捨てて
娼婦にまで落ちぶれるかもしれぬという瀬戸際を描いている こつこつと辛気臭い小便博打を打って
平均配当率を上げて
バンクロールの1割をもぎとるという方法は
森巣氏の言葉を借りれば
便所裏にしみじみと咲く月見草
となる
そして、100ドルのカジノチップ1枚に込められた価値は
外に持ち出せば、やはりそれなりの値打ちのあるものだ
森巣氏は資本主義から贅肉をすべて取り除いたものが
カジノギャンブルであると言う
それは、カジノがモノを生産するわけではないから正しくはないが
1個人が資本主義という制度を用いて
金を稼ごうと試みた時に
まさしく、カジノゲームは一切の無駄を省いたビジネスそのものだ
リスクと手腕に資本が投下されて結果が瞬時に出る
寺山修司は競馬は人生に生き写しであると言った
カジノゲームは、誰の人生にとっても、似たものであるはずはないが
どのように賭けるかは、その人の価値観の影響を大きく受けるのは間違いない
逃げるのを良しとせず、立ち向かい切れない人は
カジノゲームへの取り組み方はおのずとあるスタイルに限定されることになる
そのような賭け方をするギャンブラーの存在は
カジノの存続にとっても生命線と言えるのだろう 賭けるゆえに我ありのAmazonのレビュー評価は高いね 森巣博は地元のオーストラリアに立派なカジノがあるのに
なぜマカオなんかにわざわざ遠征するんだろう? 森巣博(もりすひろし)氏をご存知でしょうか?
ギャンブラーとして日本人でもっとも有名な一人であり、ご存命ながらすでに伝説と言われています。
作家、ギャンブラーという肩書を持つ森巣氏ですが、どんな人生を送ってこられたのか迫ってみたいと思います。 1948年、森巣博、本名鈴木博は石川県金沢市に生まれます。
1966年都立豊多摩高校卒業後は、雑誌編集者や記者の仕事をしていました。
1971年、ヒッピーに憧れを抱き競輪で稼いだの資金を元に渡米します。
1973年に帰国しますが、イギリス人の妻テッサと結婚し、1975年にまた日本を離れ渡英しました。
渡英後は、ロンドンよりカジノ賭博の「常人」を目指すようになります。
妻テッサがイギリスの大学に在学中は、主夫として息子パトリックの子育てをしながらカジノで稼ぐ日々を送りました。
しかし、息子パトリックへのいじめや、当時のサッチャー政権に嫌気がさしてしまい、相談した結果オーストラリアへの移住を決意します。 移住後は、大学へ赴任した妻を支えるために家事全般をこなしていました。
その甲斐あってか、息子パトリックは15歳で大学へ入学し、19歳でケンブリッジ大学大学院に進学する天才児となり、現在はヘッジファンドにスカウトされて働いているようです。
森巣氏は現在、オーストラリアを拠点に世界を股にかけるギャンブラーとして活動しています。
ここ20年ほどは、年間1000万超の利益をカジノで稼いでいることが知られています。 森巣氏が主にプレイするのは牌九(パイガオ)、バカラです。
1994年度全豪牌九選手権で優勝しています。
しかし、ポーカーやブラックジャックなどのゲームと違い、パイガオやバカラは理論上勝てないゲームです。
長い時間と試行回数を重ねれば必ずプレイヤー側が負け、カジノ側が勝ちというような仕組みになっています。
それなのに、20年以上安定して勝ちを積み重ねることが出来るというのは本当にすごいことですし、伝説と言われる所以でしょう。 ギャンブラーとして数々の伝説を持つ森巣氏ですが、
数々のギャンブルに関する名言を残しています。
「博奕は波である。流れである」
賭けるゆえに我ありの一節。
勝ち逃げが出来ることが大事だという項目の中で登場した言葉です。
はっきりとギャンブルにおける流れのようなものについて肯定しています。
では、波はどのようにすれば読めるのか?
それは経験による「形の記憶」だと。
言い換えれば経験による感覚。
確かにオカルトと言われるようなものの代表なんでしょうが、
これは実際に森巣氏がパイガオやバカラを好んでプレイすることからも、
彼のギャンブル哲学の真理はここにあると言っても過言ではないのかもしれませんね。 何を言っているんだ?カジノで勝つには理論的にカードカウンティング一択だろ?
と言いたい方もいるでしょう。
森巣氏は今までプレイヤーを見てきた経験と、人間は必ず間違えるという将棋の故大山康晴先生の名言から、そうもうまく行かないと指摘しています。
どこかで、躓(つまず)く。そして、いったん躓くと、もう制御が利かなくなって、そのまま一直線に落ちた。いつもそうである。
これは森巣氏のばくち打ちという本の一節です。
どこかで小さな間違いをした結果、その負けを取り戻そうとして理論が崩れ、結果的に負けてしまう。
こんな経験はギャンブルに限らず、身近なところでも数多くみられるのではないでしょうか?
本の内容とは反れますが将棋つながりで羽生善治先生のライバル、森内俊之先生はこんな名言を残しています。 勝負では2回目のミスが致命傷になる。
多くの人がなるほど。と納得する真理であり、勝負事の世界で勝つことは共通点が多いと感じます。
結論としてギャンブルでは流れを経験則によって読み取り、ミスを重ねる前に勝ち逃げをするということが大事ということですね。 博奕・三箇条の御誓文!
無境界の人という本の中で、森巣氏はギャンブルにおける必ず守らなければいけない3つのことを書いています。
一、ゲームのルールをよく覚えなさい
これはもう当然ですね。
ビギナーズラックと呼ばれるものはもちろんあると思うのですが、ルールがしっかりわからないと本当のそのゲームの楽しみが理解できないうえに、してはいけない賭け方や、辞め時の判断もできなくなってしまうでしょう。
また、悪質なカジノやディーラーの場合は、ルールを知らないのをいいことに配当をちょろまかしてくることは実際にあります。
自分の身を守る意味でも、ルールはしっかり頭に入れておきましょう。 二、負けるときは少額の、そして勝つときは多額の賭金をはりなさい
投資の世界でよく言われる損小利大という言葉と似ています。
流れを読み、勝つ確信が持てる時は大きく張る。
基本的に自分にとって理論上は不利な勝負を挑んでしまっている以上、しっかり大きなヤマは落とさないようにしていくことが大事なんですね。 三、運(ツキ)が去ったと思ったら、すぐに席を立ちなさい。酒でも飲んで寝なさい
流れを読むことを大事にする森巣氏ならではの理論ですね。
ツキが去ったと思った段階で、そこから続行するのは、判断が間違っているということになるんでしょう。
これが経験則によって身につくんだと思います。 森巣氏の著作
森巣氏は作家としても有名です。
自身のギャンブラーとしての経験が生かされたリアルな著作の数々は、一度読めば間違いなく次も読みたくなるような物だと思います。
現状日本にはカジノについて知ることが出来るリアルな文章があまり無いので、そういった意味でも一度読んでみる価値は大いにあることでしょう。 カジノ解体新書
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ジゴクラク (カッパ・ノベルス)
’90年代初頭、博奕を生業とする「わたし」は、赤坂の非合法賭場で、
バカラの魔力に嵌まり込んだ不思議な美少女、舞ちゃんと知り合う。
毎日十万円ずつを勝負卓上で溶かし続ける少女の負けは、一千万円にも達した。
逆張りで稼ぐ「わたし」に、少女は最後の勝負への協力を依頼する。
―今晩だけ、今晩だけで結構です。わたしに逆張りを仕掛けないで下さい。
その最後の勝負で少女が見せた放恣の乱舞打ちは、見ている者の息を詰まらせた。
冬休みを利用して、少女はオーストラリアにやって来た。
少女が願うまま、「わたし」は賭博とセックスの集中講義を施す。
そして、赤坂での怨恨を引きずる芸能プロ代表との大バカラ勝負が始まった。
美少女は、また舞うのだろうか。 その他、代表作
博打の人間学
神はダイスを遊ばない
越境者たち
怪人モリス極楽カジノ旅 バイインした資金の10%勝ったら抜けるという
1割戻しは正しい
ただ、イマイチよく分からないのは
昔、マーチンゲールやっていて、ジミーともマーチンゲールやってた
だけど、マーチンは駄目だとも言ってるし
10ドルのベットで100連敗しても1000ドルベット取れればいいとか言っとるし
バカラは独立試行と本人が言ってるのに
1000ドルの太いベットを落とした時のフォローの仕方にまったく触れないのが分からん
落とした1000ドルは10ドルのベットに戻って取り戻すのか
それともダブルアップして、2000ドル、4000ドルでフォローアップするのか
そういう村本みたいな大玉のダブルアップは自殺行為と言っていたから
やはり小玉で大玉の負けを取り戻すしかないけど
そんな大きな玉を落として、小玉で取り返せる実力があるなら
そもそも大玉を打つ必要があるのだろうか
バカラ打ちの若い白人の女が
コツコツ稼いだ金をオールインする理由も分からない
それだけ稼げるなら、オールインなどせずに、いったん引き上げて
また同じ方法で1割戻しやった方が合理的だと思うが
そういう賭け方じゃ駄目だという教訓と
1割戻しの推奨を、作者の分身であるこの白人の女性に演じさせているのだろうか
それはチト雑な気がするが
やはり、見栄とか快哉とか、そういうものがバカラテーブルにはあるのかね 朝日新聞デジタル
勝利のための「打たれ越し」という思想
森巣 博 兼業作家・ギャンブラー
カジノを含む統合型リゾート(IR)施設のための法整備が遅れている。
先進国(0ECD加盟国)のなかで、ゲーム賭博が合法化されていないのは、
アイルランドと日本のみ。
ただしノルウエイには、いかなる種類のゲーム賭博も合法だが、
それを商業施設で開帳してはならない、とするちょっと特殊な禁止法がある。
なぜアイルランドと日本では、ゲーム賭博が非合法とされているのか?
アイルランドの場合は、競馬産業保護のため、という国民的合意が成立している。
旧宗主国の英国を、高額賞金の懸った競馬レースで打ち負かすのだ。
アイルランド国民が持つ植民地時代の歴史的怨念が、
カジノを合法化することを妨げているのかもしれない。
現在、国連加盟約200か国のうち130か国以上で、
ゲーム賭博は合法化されている。
ところが、日本では、ゲーム賭博の場すなわちカジノは、刑法で厳しく取り締まられる。
再び、なぜか?日本国民はバカだからか。
昨今の政治的経済的、そして社会的状況を鑑みれば、それもあながち否定できない説だけれど(笑)。
いやいやわたしは、そう思わない。ええ、思いませんとも。
カジノを合法化している約130か国の国民たちと同程度には、
日本国には頭のいい人も悪い人もいる、と考える。
であるなら、日本でカジノが合法化されてこなかったのは、
他になんらかの理由があったからではなかろうか?
当稿は、カジノとは何か、それを禁止する、あるいは解禁するとはどういうことなのか、いや、そもそも賭博とは何か、
をきわめて私的・体験的に検証しようとする試みである。 ジゴクラクを生き残る
資本主義の本質はギャンブルであるとわたしは考える。
現在有する資本を、あるかどうか不明な未来の収益に対して投資する。
当たり前の話で恐縮だが、投資・投機のない資本主義は存在し得ない。
そもそも、資本主義制度の根幹部である証券取引所の成立は、
17世紀のロンドンにあった非合法の賭場を起源としているそうだ。
わたしの理解によれば、ギャンブルすなわち賭博とは、
「不可測な未来を可測化しようとする試み」である。
資本主義に付随した脂肪や贅肉をすべてさっぱり削ぎ落とし、
そのエッセンスだけをぎゅっと凝縮し濃厚に濃密に裸形の姿にさせたのが、
どうやら日本でもそのうちに公認されるかもしれないカジノと呼ばれる場だ。
「社交の場」などと勘違いしている方たちも一部にはいらっしゃるようだが、
簡潔に直截に申し上げれば、カジノでおこなわれているのは、カネの殺し合いである。
わたしの言葉では、「暴力を介在させない合意の略奪闘争」の場となる。
暴力を介在させないながらも、略奪の闘争であることに変わりはない。
剥き出しとなった人間の欲と欲とがぶつかり合って、火花を散らす。
刺さなければ、刺される。殺さなければ、殺される。勝てば、中空に舞い上がる。
勝利が連続すると、可測化できないはずの未来を可測してしまったのであるから、
神をも凌駕したかのような全能感を味わえる。現世に突如出現した極楽だ。
一方、負ければ、堕(お)ちる。無明の闇を絶望と共に彷徨(さまよ)う。
敗北が続けば、地獄の釜でたっぷりと茹でられる。 そういったジゴクラク
(地獄と極楽が背中合わせに存在する状態を意味するわたしの造語)
を生業の場とし、もう四十余年。
いろいろな人たちを観察してきた。
残念ながら、多くの人たちは、刀折れ矢尽きて、
「合意の略奪闘争」の場から消えていった。死屍累々(ししるいるい)。
嫌になるほど死屍累々。
破産や逃散、家族離散はもとより、塀の中でしゃがんでいる人
(たとえば、井川意高(もとたか)・大王製紙前会長など)、
自殺した人(これは多数)、殺されちゃった人
(たとえば、川口湖畔の通称バカラ御殿で全身十数箇所を、刺され抉(えぐ)られちょん切られた惨殺体となって発見された「サムライ・カシワギ」こと柏木昭男など
拙著『越境者たち』集英社文庫参照)まで居る。
ところがどっこい、無数に散らかる屍(しかばね)に囲まれながら、
まだしぶとく生き残っている奴らも、きわめて少数とはいえまた居るのである。
その違いは、どこからくるのか。
他人(ひと)のことは、わからない。
でもわたしが、わたしの個的体験を語るのは、許されるだろう。 すべての人間は敗者(ルーザー)である
カジノでおこなわれるのは、ゲーム賭博だ。ギャンブルなのだから、
勝ったり負けたりするのは当然である。
もしあなたがゲーム賭博で勝ち続けているのなら、
恐悦至極。わたしが口を差し挟む余地はあるまい。
博奕(ばくち)の世界で生き残るには、負けないことだ。
これにつきる。
笑わないでいただきたい。わたしは大真面目なのである。
しかし、人は負ける。
いつかどこかで必ず負ける。
どんな成功者であろうとも、すべての人間はある時点では敗者(ルーザー)だった。
わたしの理解で、博奕における真実はただひとつ。
――勝てば幸運、負ければ実力。
これだけだ。 したがって博奕では負けるのが必定。
ただし、負けを恐れてはならない。
どう負けるか、が博奕ではきわめて重要なのである。
その負けをいかにして軽傷のまま「打たれ越し」生き残るか。
ひとつの敗北を契機とし、一直線に滅亡に向け崩落してはならない。
打たれ、打たれ続けるのを、ミニマム・ベットで耐え忍ぶ。
これが、「打たれ越し」だ。
じっと我慢していれば、チャンスは必ず訪れる。
忍苦の末に訪れた一縷の光明を手掛かりとして、一本の勝負手に勝利すれば、
それで博奕の帳尻は合う。多分、人生の辻褄も合う。
ところがほとんどの人たちは、
「暴力を介在させない合意の略奪闘争」の場たるカジノで、この我慢ができない。
普段は、嫌な職場の上司や、
不細工な夫・妻あるいはアホな息子・娘たちをじっと我慢しているくせに。
なぜ我慢できないかについて、いろいろな理由が考えられるのだが、
それは本論から外れるので、ひとまず措(お)いておこう。
勝っている時は、誰にだってそれなりの芸を見せられる。
人間の器量は、負けている時にこそ示される。
――転がるのはよい。立ち上がらないのがいけない。
いや正確には、立ち上がるのは困難だ、と思えるような転がり方をしてはいけないのである。
負け方を知る。受け身を学ぶ。徹底的に学習する。 勝てば幸運、負ければ実力?
博打は勝つか負けるかの二択で中間はない
ということは、負けない=勝つことだから、勝つことは運と実力ということになる
博打は運だけでも実力だけでも持続的に勝てないということか
運とは確率的に起こる顕著な偏在であるから
運が及ぼす影響を長期的なスパンで見たらフラットになるか期待値の不利分だけ負ける
つまり「十二分の長期的かつ持続的な試行回数」を経て収支プラスを継続できているとしたら
実力があるという以外に説明はつかない
運次第とよく言われるが、それはしょせん、確率の一現象でしかないから
運のみに任せてベットすれば長期的には100%の確率で期待値の劣位分だけ負けるのだ
ここで重要なのは
平均配当率がプラスになろうとマイナスになろうと
例えば1万回以上の十分な試行回数をこなせば
ほぼ全員の平均勝率は40%台後半から50%前半の偏差に収まり
収支のプラスマイナスは平均勝率とはまったく関連はない ドラゴンカジノは参加者のゲーム試行回数と平均勝率と収支を見れる
それを見れば
以上のことが事実であることをその目で確認することができるだろう
十分な試行回数をこなせば
ほとんどのゲーム参加者が勝てないことは
ドラゴンカジノで1万回以上のゲーム回数をこなしている参加者の実に9割以上が負けていることで
検証が可能である
カジノではギャンブラーが長期的にはほぼ負け続ける理由は
客が期待値の不利通りに負けるからであり
胴元は客の損失がイコール儲けになるために
「客が期待値の不利と資金切れで脱落していく」限り
カジノは利益が確定されていくのである だが
1万回10万回100万回という十分な試行回数をこなしても尚
確率的(運とは一時的な確率偏差でもあることはすでに説明した)な必然に抗い
平均配当率をプラスにできる人が
10%以下の比率で現実に存在するのである
それは決して運ではない
負け手に小さく賭けて、勝ち手に大きく賭けたから?
と思うかもしれないが
十分な試行回数をこなせば
小さく賭けた時の平均勝率も大きく賭けた時の平均勝率もイコールになるから
それは理由にはならない ではなぜ平均配当率に違いが出るのか?
負けて止めるからである
ハウスが常に勝つのは期待値が有利なのに加えて
負けても負けても勝つまで止めないからである
ギャンブラーは、資金がパンクして止めるから平均配当率がマイナスになる
バカラで300億円以上稼いだと言われる和田史久の本のタイトルが
「勝つまで止めるな」
カジノゲームは負けて止めた者が損をする
だから絶対に資金を切らしてはならない
胴元は客を相手に博打を打っているから
バンクロールが1兆円を超えるMGMやサンズでさえ
客のマキシマムベットをバンクロールの0.005~0.01%以下に設定している
その比率を上げてしまって破産してしまったカジノは過去に存在するので
マネーマネジメントはカジノ経営の基本である
これは個人のギャンブラーにとっても事情は同じであり
資金を切らさないためには
バンクロールに対して絶対に破産しないベットサイズ内で賭け続けないといけない
5万ドルのバンクロールなら
5ドルから500ドルのレンジで打たなければ
「勝つまで止めるな」を実行できないということになる
それができないからギャンブラーは負けるのである 去年発売された叢書大三弾の「日本のハイローラー」はなかなか面白かった 賭けるゆえに我ありの書評は割れているが
この本は丁半博打のことを理解していない人には全く役に立たない本だ
森巣が「バカラは独立事象」と言っているのは引っ掛けだからね
1手1手の確率は常に約1/2でしかないが
博打の全体像が個々ハンドの約1/2という確率の集大成なんて思ってたら100%負ける
バカラのマニュアルブックがあって、その通りに賭ければ勝てるとか
そんなものは存在しない
しかし、そんなマニュアルブックがなければ勝てないようではバカラの才覚はない
スポーツは教則を読むだけは強くなれない
バカラも同じで、バカラは必ずしも知的なゲームではない
バカラは知識は必要だが、結構なフィジカルライクなゲームではないのである この局面はこう打つというのは、理屈ではないのである
知識と知能抜きでは無理だし、バカラは誰も教えてくれないから
自分で知識を発掘するしかない。その知識の発掘によりやっと8合目に達する
その道のりが長い。8合目までは、誰か教えてくれればいいのにと思うだろうが
自分が掘り起こした知識は金そのものだから誰も教えたりはしない
そして、その知識だけで勝つこともできない
8合目からの登頂に必要なのは
知識ではなく、フィジカルライクな慣れであるから
訓練に訓練しなければ勝てるわけがないのである
知識で勝てると勘違いしたら8合目止まりだし
知識を否定すれば8合目にすら辿りつけない
バカラの達人への道は終わりのないマイニングとトレーニングしかない
その十分な準備なしに本勝負に挑んでしまうと金がかかってるから
「今持っているやり方」のみにすがって博打を打ち続けることになる
知らないうちに手が縮こまっていて、守りに回って攻め込まれ
その守りさえも捨てて無謀に立ち向かえば勝算という「武器」がないのだから
当然、長期的には大敗を喫することになる そういえばプロギャンブラーのぶきも
カジノギャンブルは「準備」と言っていたな
その場でどちらに賭けるか迷っているうちは勝てない
迷うということは完全なランダムに賭けるマシーンのようなもので
ランダムのマシーンは
その人自身が、まさしく純粋なランダム発生器だから
ランダム自体は確率によって
長期的には期待値通りの結果に収束する
そして、期待値はハウスが有利だから
たとえばヨーロピアンルーレットの期待値は96%だから
ターンオーバーの4%だけ
長くやればやるほど確実に負けていくということだ
だから、自分が乱数発生器であるギャンブラーは
1発勝負の短期勝ち逃げを目指すか
スロットで大当たりを狙うしか勝ち残る方法はないのである
ところが
ギャンブラーはそれではどうしても満足できないものだから
結局、何の効果的なベットもできずに
純粋に運に任せる勝負を長時間長期間やって乱数の轍をトレースするから
ランダムと期待値と大数の法則の罠にズッポリはまって
総掛金の96%%から98%%のペイアウト率となり
それを計算すると恐ろしい数字となるのである 確率の科学を信じるなら
テーブルゲームは長く打っては駄目
1回勝負の全額オールインが一番手数料が安い
ターンオーバーを増やしても結論から言うと不利になるだけ
それが出来ないなら
大当たりで1発逆転があるスロット一択となる 森巣博の「賭けるゆえに我あり」のレビュー評価は高いよ 私は博打における科学は信じないが
非科学はもっと信じない
森巣博 森巣さんの名言
「練習で勝てないのに本番で打っても博打は100%勝てない」というのは
本当にそうだと思うね。これは事実
この経験則を無視して損するギャンブラーが多いから
カジノは何兆円もの売上げを上げているのだった こう言うと腹を立てる人が多いが
博打はバカでは勝てない
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