相手は鏡だよ。
片方だけが未熟ということはあり得ない。
鏡に映った自分に向かって「右手をあげなさい」と怒るようなもんだよ。
自分の右手を上げれば、鏡中の人の右手もあがる。
相手が未熟に見える時こそ、自分の未熟さを省みる良い機会をもらったと考えるといつの間にか越えてる。
例えば先の例で言うと 「胎に名一杯エネルギー吸われてる」と感じて胎のせいにするか
「無償の愛を学んでいる最中」あるいは「自分のエネルギーの調整の仕方を学んでいる最中」と考えるかの違い。
そういうのが向かない人は、業胎の関係が向いてない。