【F1】1987〜1993年のF1を語ろう 60laps
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あの頃のF1って良かったよね
・セナvsプロストvsピケvsマンセル
・ターボから自然吸気へ
・日本人ドライバーフルタイム参戦
あの頃の思い出に浸ろう。
議論は熱くならない程度で程々に
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最近目立ちますので、もう一度コレを見直してください。
∧_∧ ※このスレは1987〜1993年までを主に語るスレです。
(´・ω・) 他年について少々語るのは構いませんがあくまで程々に。
(__) スレ趣旨から脱線気味に語りたい場合は別スレにどうぞ
F1から離れた思い出話は節度をわきまえてください。
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【F1】1987〜1993年のF1を語ろう 59laps
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VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured 93のモナコはふざけすぎたな
石橋のやってもーたー!!とか、電波少年の企画に乗っかって松村の「バウバウ」を古舘がフォーメーションで叫んだり。 93年て日本のF1人気がピークを過ぎて何かしらテコ入れをしなきゃいけないと
フジが焦り始めてた時期だからな。
芸能人絡めるあたりいかにもフジらしい。 プロ野球ニュース内で、人気に陰りが見え始めたF1とまだまだ国民的スポーツだった野球を無理やり絡めようとしてたな
F1vs田尾安志とか意味の分からないコピーが当時あったのを思い出した プロストは周回遅れにされる時89モナコでアルヌーにされたようになかなか譲らずセナが右手でどけって怒ってたな どけどけアクションがセナはセナっぽく、アレジはアレジっぽいのが面白かった >>850
> でも実況席にF1関連以外の人が座ったのは、石橋が最初で最後かな?
今宮御大(現役) >< 平子理沙ちゃん、あの頃は可愛かったのに今ではコラーゲンのバケモノみたいになっちまったなぁ >>855
田尾と中野浩一が確かイギリスかなんかに来てたよねw >>855-856
90年のモナコのリバージュの登り坂でも、ミナルディに、右手でどいてくれをいうような仕草をしていた。
>>859
中継の冒頭に、ちょっとだけ映ってて、古舘も触れてたね。 片山右京とかいう山とか自転車の人もチョイチョイ来てたね 小室哲哉が来た時は、小室の知識が凄かった
番組で「F1しりとり」をやったんだが、川合ちゃん相手に見事勝った 92鈴鹿のプロモでいいともに来たセナにムツゴロウさんの真似をさせた松本って。 メッシにしょうもない質問をした明石家さんまとかね。
スポーツ選手につまんないウケ狙いやんなくていいよと思う。 セナは結構ノリノリだったよ。
ハマタになんどもちょっかい出して「大してウケてないやろ」と言われてた >>877
イモラで死なずに済んだら、今でも来日する度にテレビ番組に出ていたかも知れない。 残念ながら今の日本のF1の不人気っぷりでは需要が無いわなぁ >>853
Qさまに永井が出ていた
過去の有名人の顔写真を見せて名前を当てるクイズで
プロストの写真が出てきたのだが
永井「アラン、、、、、プロント!」 セナが事故死した時にオートスポーツに追悼記事書いた元編集の人が、
菅生にカートの世界選手権で来日した少年時代のセナを取材しつつ手伝いした時のことを
振り返ってたけど、それを見る限りでは中身はブラジル生まれの純朴な青年みたいだったからな。
マクラーレン時代にベルガーと組んだら思いのほかプライベートでは気が合って
ノリノリでイタズラし合ってたとか聞くと、死なずに引退してたら
セナ×ベルガー×マンセルで底抜け三バカ大将トリオが結成されていた可能性すら。
ベルガーは意外にも引退後にインディ/CARTシリーズに興味を示さなかったけど
セナは実際エマーソン・フィッティパルディの誘いで1回テストで乗ったこともあるし
F1辞めたらホントに出たかもしれないな。
存命中で現役復帰可能な年齢・体調のドライバーで「世界三大レース全制覇」にリーチ掛かってんのが
アロンソとモントーヤ、「F1チャンピオン・ルマン・インディ500」にリーチだと
多分ジャック・ヴィルヌーヴとマンセルしか居ない。 あ…いやマンセルはインディ勝ってないや。
むしろエマーソンの方が一応引退はしてるけどルマン勝てば
「F1チャンピオン・インディ500・ルマン」の3冠いけるのか。 >>834
ロータス絡みのCMも、ファンだった自分としては好きだったな。
塩野義製薬がCMでは目立ってたね。
スポンサーも日本企業が多かった。
田宮模型、日立、コマツ、イエローハット等々…
アクティブサスは、コマツ製だったかな。 >>880
間違いといえば、中学生だったとき、レイトンハウスを「ベネトンハウス」と覚えてた同級生が…
うちの嫁は、「高山右近」と「片山右京」がごっちゃになって「片山右近」って。 モナコGP・ルマン・インディ500‥
昔だったら難コースゆえの毎年のGP優勝者に送る
”リンクマイスター”ってのも有ったんだけどね。 >>885
ベントンハウスという店はサンフランシスコにあったよ
当時、日本にないデザインのTシャツを買った >>883
当時のガキ使のトークでまで言ってたからね。
>>885
ビートたけしが、右京のことを、「高山右近さん」ってボケる。 >>881
CARTのワールドワイド化に反発してIRLを設立してシリーズがスタート、両者の対立が本格化したのが1996年。
インディ500という切り札を持つIRLにチップガナッシが寝返ったのが2000年。
焦ったCART経営陣がIRLにすり寄ろうとして参加チームに無断でIRLと同じ車にしようとして
参加チームや自動車メーカーを怒らせた挙げ句
IRLに逃げられたのが2001年末。
仮にセナが生きていたとして、セナがF1を引退すると予想される時期とCART、IRLが対立してる時期がモロに被る。
とすると、セナは生きていたとしてもインディ500には出なかったんじゃないか?
組織同士の政治的対立を嫌がって。 そのときゃCART斜陽真っ逆さまなんで気にする事も無い時期。
セナかF-1引退後、実際出たかどうかは分からんけど‥大ニュースにはなったろうね。
※もともと後のCART仲間が、USACの古臭い方針(米人強い、一番。ぐるぐる回るのが大好き。)
にウンザリして「我ら袂を分かつ。」で 枝分かれしたのが最初なんよね。
モナコ優勝、インディ500優勝、ル・マン優勝 このうちの1つでも優勝すればそれなりに称賛されるからな。
佐藤琢磨もその1人か。 片山右京てお爺さんが片山左京だったっけ?
古舘がポールポジションかなんかで話してたような >>892
右京のおじさんだね。
右京が生まれた時に左京おじさんが来たから
「じゃあ右京にしようか」で決まったってw >>881
マンセルがセナとおふざけとかありえんわ セナはプライベイトの時間は他のドライバーとあまり接点が無かったからな。 >>889
しいて言うとCARTがUS500を引っ込めて日程が被らなくなって以降は
チップガナッシとかモー・ナンとかチームグリーンとか幾つかの有力チームは
(最初のうちはペンスキーも)掛け持ち出走してたでしょ。
その辺りの時期だとCART出ながらインディ500だけ出るって線はあったかと。
どちらかというとトヨタとホンダの機嫌を損ねる結果となったことで
両メーカーと繋がりの強いチームが順次完全移行を選ぶに至ったという面のが強いかと。
エンジンは何でも良いってチームはフォードワンメイク化以降も残ってたけど、
意外にもホンダエンジンチームだと思われてたフェルナンデスも2003年に至るまで
CARTの出走続けてたりするし。
トップチームと言って良いもんか分からないがコンクェスト・レーシング
(エリック・バシェラールが立ち上げたチーム。ザナルディの「最後の13周」用の車提供したところ)
に至っては、CART最後のシーズンまで掛け持ち続けてる。 >>896
ピケはセナの葬儀には一切出席していなかったよね。逆にピケらしいと思ったぜ。 現役選手に関しては、葬式に出る出ないはパンピーの常識を当て嵌めなくていいと思ってる。
片山敬済だか忘れたけど、死を身近に感じると自分のパフォーマンスが落ちるから葬式には一切出ない、みたいな発言を読んだこともあるし。 >>898
ピケは元々不仲だったが、名代として弟分のモレノは出席してた気が ザナルディはCARTで活躍したけど、「アレックス・ザナルディ」ってなってなかった?
NHKのBS1で当時録画放送されていたけど、アメリカではそう呼ばれてたのかなぁ。 そうよ。
アメリカではその通名でやってた。
JJレートみたいなもんじゃないの。 ツガーさんも、グランプリボーイズの中でナニーニのことをアレックスと表記してたような? >>901
アレクサンダー、アレクサンドロス系は英語圏での愛称はALEXだよ >>901
ギリシャのアレクサンドロス
アレッサンドロはイタリア語名
英語圏ではアレキサンダーAlexander
なんでアメリカではアレックスにしたんだろうね 〉チップガナッシとかモー・ナンとかチームグリーンとか幾つかの有力チームは
懐かしい名前でたなあ。
ガナシとグリーンはともかく、モー・ナンさんは今なにしてるんやろ‥。 カフィも87年の中継だとアレッサンドロカフィだったぞ
それがいつの間にかアレックスに変わってた
あと、ジョニーも愛称だしな アレクサンダー・ブルツもアレックスに。
マッシミリアーノ・パピスもマックス・パピスになった。 マンセルも石橋とカート対決してたんだな。抜きつ抜かれつ勝てると思わせて最終コーナーで抜くあたりはさすが。 >>911
セナ、マンセル、アレジ、亜久里が出たな。 生ダラは引退直後の中嶋悟が出たときに
「マッチとかのタレントレーサーについてどう思うか」という質問に対し、
「いやぼくもこうやってテレビ出てるからね)と答えてたのが印象的だった マッチはいろいろ言われるけど、富士のインターF3でも予選ヒートを勝ち上がってバリチェロやクルサードたちも居る決勝走ったりしてるんだよな。
真面目にやってたし、悲惨なほど遅いってこともなかった。
今やチームを持ってレース業界でそれなりの立場を手にしたのも、ずっと本気だったからだろ。 ttp://takagiri.jp/essay33.html
>その年、関谷正徳さんがテレビ解説だったので、相談してみたが、
>関谷さんと話し合いに入ると、機嫌が悪かった。
>「テレビ局がレースをすると、とんねるずのカート大会みたいなことを
>させられるんじゃないの?」というのが関谷さん最大の危惧だった。
>我々コアメンバーは「真摯にレースに取り組むこと。今まで伝えきれなかった
>レースの文化を伝えること」などを説明するうちに関谷さんも理解し、
関谷さんはカート対決がお嫌いだった模様 >>914
GTでもポルシェ962Cで勝ってるんだよな
この車で負けたらおかしいレベル差ではあったが >>914
才能無くとも長くじっくり我慢して続けてると、この位は走れるようになる‥の良い見本。
当時は才能あるのが若いうちにやめてしまう(とくに金の事で)‥なんて事が多かったから。
始めの頃はその特別待遇に、有力プライベータ―からも文句たらたら状態だったんだけどね。 レースやってれば妬みやっかみだらけだよ。
トップチーム+トップドライバーの組み合わせからはあまり出てこないけどね。 ↑いや、さすがに言われてもしょうがないレベル。
当時、車のCM絡みなんで会社の上からの指示も有ったんだろうと思うわ。
今では皆の笑い話だろうけど。
まあ、その位才能は無かった、本人も誰だったか対談で笑いながら喋ってたし。 別にマッチだけレギュレーション違反のクルマを使えた訳でもないだろ。グリッド上で最速を争う1台だったとは思うけどさ。
本人談の「俺は才能無いな」を額面通りに受け取ってどうすんの。
そりゃマッチがF1に乗るような才能があったとは思わんけど。 愚か者は明菜の金をレースにつぎこんでたんじゃなかったっけ? 優れた才能があるドライバーならば、運転技量に優れ、レース界や製造メーカーの上層部からも注目されて
各カテゴリーをとんとん拍子にステップアップしていくだろうな。 >>923
当時、1位中森明菜の難破船で2位が尾崎豊の核という
どん底のようなチャート週だったらしい マッチはドライバー辞めてからのチーム運営での、モータースポーツ界への貢献が半端ないと思う マッチというより近藤監督という呼び名の方がしっくりくる 人は持って生まれた才能があるからね。どんなに運転を練習しても遅いドライバーは遅い。 >>929
マッチがジャニーズに入らなければ
コンドーレーシングも近藤監督も誕生しなかったのだから皮肉なものだ。 スーパーフォーミュラでも、マッチのところのキャシディが勝ったな。 パトレーゼは当時最多出場の割に上手さや狡猾さや粘りといったものが感じられないドライバー
良い所でマシントラブルが発生するのも彼のドライビングスタイルが車に負担を強いるものだったとの裏付けである
にしても87年ブラバムのカラーリングと渾然一体となったヘルメットと斜めになったカーナンバー7が鈴鹿で一時6位に躍り出た瞬間から完全なファンになってしまったのだから仕方ない 91イタリアで鮮やかにセナをパスしたと思ったらスピンしたり、92ハンガリーも勝利を逃すし、所詮は空き巣狙い。 92年はマンセルは遥か彼方で見えないが
パトレーゼの後ろ姿は見えるという評価だったな 1992のホッケンハイムのパト。最終ラップではセナを抜きにかかりコースアウト。
現代F1では一か八かの追い抜きはほぼ皆無になったけど、当時はこんなシーンが観られたから
面白かったわ。 速いベネトンブランドルの後にパト乗って本当にガッカリした。で予想通り遅かった。 93年のパトは常に顎の後ろだったから気持ちが滅入ったわ。 そうは言っても得意のハンガリーではヒルさえ居なければ勝ててた訳で 93年のパトレーゼ、黄色いスーツが個人的に似合ってなかった気が…
青のイメージが強いんだよな。 パトは好きなドライバーの1人だったけど、93年は見る影もなかったな。 鰤子飼いのミハエルとウォーキンショー子飼いのブランドルで対等に競い合えた92年と違って、パトレーゼは完全なNo.2だったからな。ミハエルの横柄な態度に涙したエピソードも含めベネトンのパトレーゼは不憫で仕方なかった ハンガロリンクで2位になったけど、前が勝手に潰れただけだからな
フェラーリ勢やアンドレッティとペースがほぼほぼ一緒だった
いかんでしょ パトレーゼは、アクティブサスの挙動に慣れることができなかったそうだ。
確かに、91年はマンセルよりもポールの回数が多かったけれど、92年からは、予選からして、チームメートに大差を付けられていた。 この人は‥颯爽デビューした翌年から、結構辛いF-1ドライバー人生歩んだから‥。
90年代なんて完全下り坂、ピケと組んでたブラバムの頃がピークやね。 >>942
ブランドル切ったのを鰤が相当後悔したようで、今でもブランドルに数年おきに会う度に「あの時はスマンカッタ」と謝っているそうな でも、93年のブランドルも随所でいい走りを見せていたね
あのくそダルそうなマシンで13ptを獲得した走りは流石と思わせるには十分だった
ブランドルは一般社会でも見られがちな仕事は出来るけど出世には縁が無いタイプだったんだよ 92年のホッケンハイムで、顎とパトレーゼが延々とバトルしてたのが印象的だった。
アクティブが苦手ってのはあるだろうけど、それでもB193と争っちゃうほど戦闘力低くないだろうに…と。
なのにベネトンに移籍したら、こりゃボッコボコにされるだろうなと思ったら案の定。
どうして鰤はパトレーゼを取る気になったのやら。 >>948
直線の速さで圧倒的にルノーエンジンに分があるはずだったのに随分苦労してたね
抜き方も鮮やかなオーバーテイクではなくミハエルのブレーキロックの隙を突いてのものだったし
その後のセナには遊ばれていた感すらあった
単純にドライバーの腕にクローズアップをしたランク付けをしたら92年のパトレーゼはベンドリンガーやアルボレートより下だったと思う まあそのアルボレートも、
93オフのベネトンのテストでは、パトレーゼの出してたタイムよりはるかに遅かったし、
レートよりも2秒も遅くて結局シートは奪えなかったな レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。